半神(値札を付される身体)

「蔵田先生はどんな子が好みなんですか――――?」


「頭のいい女」


                      『プラスチック解体高校』

――Gackt丸尾長顕も同じことを言ったそうな。


はてなブックマーク - 結局、ヒロインに求めるのは処女性かよ。 - 海ノ藻屑

はてなブックマーク - 人間をモノ扱いして新品を要求する図々しい卑劣漢と、自分に都合の良い妄想に浸るキモいオタク - 消毒しましょ!


久しく会ってない知人が勧められて試しに見合いした。若くもなかったが「あとは若い人たちで」となって早々に先方は自身の仕事の社会的価値と成果をひとしきり語った後交際経験の有無について直截に訊いてきた。まぁ、と言葉を濁すと先方黙る。なにがしか了解したらしくそれは見当と相違したらしい。20代ではあるしそう思い込めないでもない雰囲気と履歴であるから先方申し込んだのだろう。こっちがどん引きだ、とは彼女の弁。それは見合いなのでと電話口で言ったら気を悪くされた。大昔、混乱していた頃の彼女と混乱した者同士よろしくやっていたひとりとしてはその男に申し訳なく思う(棒読み)。修飾された話だろうが、それを久方振りに電話してきてわざわざ私に愚痴る理由を考えるにもしかして俺は責められているのか。女は上書保存と言ったのは誰だ。


概念として。処女とは男を知らない女。自身の女たるを知らないか受け容れない女。処女性とは、自身が女であることの自覚なき女の別名。身体が女であることを主張しているにもかかわらずそのことを自覚しない存在のこと。『隠の王』の雷鳴がそれに該当することは言うまでもない。社会的取引たる見合いは知らず、趣味性としては問題ないと思う。つまり「萌え」としては。


現在手元に本がないので出口裕弘からの孫引きであるが、澁澤龍彦の処女作『撲滅の賦』のごとく「もともとひよわそうな娘で、遅ればせに整った女のかたちがアスパラガスのようにひょろひょろもやもやと伸び切ったのもつい先頃のこと、私がはじめて彼女の家の敷居を跨いだ時分などは、処女であろうと見当をつけたその乳房が薄いセーターの下で西洋人参のようにとんがっていたものですが、いま、その彼女がいっぱし生意気な小理屈を弄して私をからかうのです。これはちょっと面白くない」という事態。


むろん勝手な男の空想であるが、そして周知されている通り澁澤は勝手な男で、自分が勝手な男であることを貫いて、そのゆえに魅力的な男であったが、しかしながら趣味的に性対象に処女性を付託することはロリコンでも精神的未成熟でもない。というかロリコンと処女性は問題が違う。女が女になることを概念において成熟の問題としてしまってよいか。そういう話がある。男が男になることが成熟の問題かということと同様に。趣味性としての性的指向に対して対性の問題を問うても詮無い。「萌え」とは社会的現実の問題ではないから。


社会的現実と乖離した趣味性としての性的指向に傍から問題を問うこと自体が私はよくわからない。もっとも、趣味的に性対象として処女性を公言することが肯定される風潮に私は時々素で驚く。私が育まれた世界観においては、宮崎あおいが好きと公言することすら憚られるところがあるしそれが世間の前提とも考えていた。いまや人妻であるにもかかわらず。と現在未成年者と付き合っている私が言ってもあれであるが。宮崎あおい的なるものとはつまり小娘ですよと私は弁明する必要があるのだろう。そんなことまったく信じていないにもかかわらず。


男子に話しかけられた言葉と言ったら……

反響が思ったよりあって(無視されるか、せいぜいブクマが3つくらいつく..

小・中と、男子からバイ菌あつかいされてきた私が通りますよっと

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/nitino/20080626

[書評]わたし、男子校出身です。(椿姫彩菜): 極東ブログ


放言すると。母親以来、女であることに自信満々な女に辟易していた時期があった。若い女であることそれ自体に存在価値があるかのごとき女であることに自信満々な女に矢鱈とコナかけられてうざかった昔があるということ。今にして思い返すとき、むろんそこには双方の市場価値がかかわっていたのだろう。都会のちゃらちゃらした進学校ドロップアウトでそれなりに長身で痩せて若いなりに女の子みたいなツラして茶髪金髪で人のたむろする場所に人間関係で出入りしていればそれは幾らも声は掛かる。むろん自分からナンパすることも幾らもあった。というかフィーリングの問題なので「ナンパ」と言って一般にイメージされるような話でもない。そしてフィーリングに疑問を持たないのが10代である。当時から独り好きで多弁な気分屋の変わり者ではあったが。


10代というのは自分がわからない季節である。自分がわからない者同士がすることにいかなる疑問もなかったし、それが私をそれなりに好いてくれた女に対する応答でもあった。むろん数度では相手は気が付かない、アレなことはしないかららしい。どのみち本当にやりたいことは論外なのだから気のないことになる。正直私は女の身体に触れることすら気分が悪かった。女の臭いは不愉快で最中の表情を視界に入れるたびこのまま首を切り落としたくなった。それが本当にやりたいことだった。喉を裂き絶命を待たず鮮血の中首を切り落として耳を鼻を唇を舌を噛み千切って嚥下し抉った眼球にその眼窩にキスすることを考えて射精していた。キスの際舌が入るたびそれを噛み切りそのまま顔の肉を喉を食いちぎりたい衝動に駆られた。チカティロも似たようなことを言っていたが、こういう人間にとってオーラルなどするのもさせるのもとんでもないことだった。上下する胸郭を切り開いて心臓を掴み出したいと幾度思ったか。私にとってはその心臓が女なのだ。そうしたことを考えないと勃ちもしない。なので当然のことながら常に気のないことになった。


なぜある種の悪質なサディストは乳房を性器を臀部を顔面を、すなわち女の女としての徴を死体に対してまで執拗に傷付け破壊するのか、性的な局面においてそうしたく思うのか、その問いは今に至るまで私の内において繰り返される。私は自身が性的指向において悪質なサディストであることを認めざるをえなかった。むろんそんな私は昔から何よりも刃物を嫌った。自分が手にすることを。「手を上げる」どころか触れることすら嫌っていたので関係においてDVの類とはまったく無縁だった。いや罵られたり殴られたり包丁突きつけられたりすることはあったが。


気のないことに相手はいずれ気付くが自分がわからない者は案外と自分の価値を知るくせに自分を安く売る。それなりに続いてやがてフェイドアウトする。付き合ってもいないのだから別れ話にもならない。酷薄さに嫌気が差すそうだ。私は私なりに好いてもいるのだが、私は関係性の持続に頓着しなかった。好いている相手を解体しようとしないと性的に機能しないというのは、当時はそれなりに落ち込みの種でもあった。それでも延々と繰り返したのは、つまるところ自傷行為であったのだろう。


一度刃物を手にしたばかりに自分の顔を自分で切り刻んだとき、後日会った男たちは傷跡を見てみな女に全力で引っ掛かれたのかと冗談交じりで言った。つまりそういう人物として認識されていたのだろう。むろんそういう話にしておいた。傷跡が失せるまで長くかかり、御陰様でその間は女と縁のない生活を送れた。国内の一人旅によく出ていたのもその頃だ。


私は現在に至るまで女嫌いである。女嫌いとは女性の女性性が嫌いな者のこと。つまるところ折口信夫が苦手な者のこと。私は自身の違和を確認し続けたいがためにいまなお女と恋愛しているのだろう。自分と相違する意見立場のブログ記事を好んで読むように。


個人的な気違い話は措き、しかしながら、そのような私も交渉と付き合いの中で了解したことがある。そして現在ひとまわり下の年齢と付き合って改めて確認することには「若い女であることそれ自体に存在価値があるかのごとき女であることに自信満々な女」は、いない、翻って澁澤龍彦が描いたような処女性も存在しないように。むろん母親も含めて。母親は女であることに自信満々な女ではまったくなかった。誰かが言った通り、母とはひとりの不完全な女のことである。私は母に自身の不完全を自覚しない不完全な女をしか見なかったので女に(不完全な)母を求めたことがないし見出したこともない。


若い女であることに価値があることを知っている若い女は自意識において屈託を抱えることがあるらしく、自身の価値を利用しつつも自身の価値を信じない、斯様な世間的価値と別なる「私」を「私」として誰かに見てもらいたい、受容されたい、それが現在社会的な現象として言挙げされていることに私もまた心当たりがないでもない。時にケータイ小説的な、あるいは香山リカが一貫して取り上げる問題の系として。私は昔からどこか馬鹿にしつつも香山氏の読者であったが、最近になってようやく、氏が何を言っているか、何を問題としているか、その射程を察しうるようになった。自身の価値を利用しつつも自身の価値を信じない、若い女に高値を付ける世間的価値と別なる「私」を「私」として誰かに見てもらいたい、受容されたい、その拙速きわまる最悪解がSEXであることを30男は知っているが、事はそういう話でもない。


自身の世間的価値を内面化しているかのごとき言動と振舞いの女に私は昔辟易して、あまつさえかく振舞う当人が既に若くもなかったり体型崩れていたりして、内面化された自身の性的価値と「客観的」ないし市場的な性的価値が相違している場合――かつてナンシー関町山広美はそうした問題を系として逐一追求していたが――内心冷笑をもって迎えたし実際にぞんざいにも応対した。母親という自身の不完全を知らない不完全な女に対してそうしたように、


SEXが実存の問題となることは別に構わない。SEXが暫定的にも実存解たりうることも事実として認めないでもない。それが広義のSEXであるなら私にもその気配がある。ただ、SEXが実存の問題となるとき「誰かに唯一の存在として必要とされる自分」の話になることは意味がわからない。言わずもがなを付け加えるなら、男は少なくともSEXにおいては女をそのように見ていない。SEXにおいて女とは交換可能対比可能なものである。時に女にとって「誰かに抱かれる私」という概念においてそうでないことがありうるらしい。


世間的に付された自身の性的価値を信じる者が唯一の存在として他者から必要とされることを求める。そのこと自体は構わない、が、SEXを介してそれを求めるというのは何だろうと、女としての自身は世間的に付された性的価値の範疇にしかないのにと、10代の頃、何か勘違いされるたび思った。単に寝るだけのことが単に寝るだけにならない人がいた。誰とでも寝る女が特別な誰かと寝たいと欲していた女だったことには驚いた。誰とでも寝る女とはそういうものではない。


そして小学生の時分を思い出した。あの頃私たちは同輩でしかなかった。女子と始終喧嘩し友としていられることができた。男子にとって女子とはおっかないものだった。なぜ現在こうなっているのだろうとベッドの上で果たされぬ欲望と叶わぬ承認の大いなるすれ違いを演じている自分たちのことを考えた。気がないだけに頭が冷えている。


後に『たけくらべ』を読み樋口一葉を読み耽ったとき、私は男としてスタイリストを気取っていた自分の馬鹿を大いに反省した。女子は好き好んでそうなっていくのではない。思えば私がフェミニズムに多少なり関心を寄せたこともそうした経緯を契機とする。女、というか女性との付き合い方を考え直した。それは幾らかの嵐が丘なあるいは雨月物語な恋愛とその破綻と長らくの単性的生活を経て現在も考え中である。


唯一の存在として抱かれたいとも考えているにもかかわらず世間的に付された自身の性的価値を利用してアプローチしてくるのは何だろう、端的に矛盾ではないか、そもそも、男は唯一の存在として抱くということをしないし、私にとってはいずれもノーサンキュー。そう考えていた。若い女とは、世間的に付された自身の性的価値を知るがゆえに、否、「若い女」として世間的に自身が性的価値を付されてしまっているがゆえに、時に唯一の存在として他者に認知されたい、必要とされたい、時に欲されたい、と考えもするものらしい。「若い女」という自身の社会的登録から自由たらんとして離れるために。


斯様な発想はそもそも罠でしかなくかつ斯様な罠が世代を越えて普及しているとき、たとえば上野千鶴子が『おひとりさまの老後』まで一貫して提示し続けた世界観は要請さるべきだろう。唯一の存在として他者に認知され必要とされることを、あまつさえ性において求めることは、「女」という自身の社会的署名から離れる妥当解では必ずしもなく時に罠に嵌ることであり結果として罠を肯定することであると。にもかかわらずしかしながら、というのが性愛と孤独を論ずる上野氏の真髄であるが。


なぜこのようなことを改めて考えているかというと、先述の通り成り行きから「女子高生」という社会的登録に付されている個人といちおう恋愛しているからだが、そして過去の自分とそのかかわり合った相手を厭でも思い出すからだが、つまり私は彼女の向こうにそれを見ているのだが、そのことは今に始まったことでもない。世間的に付された性的価値をよく知ることに付随する自意識の厄介というのはあるなと改めて思うのである。すなわち、自身が「若い女」であることに自意識が付随してしまうことの厄介が。


少なくとも「若い男」としての私はそういうことは考えなかったし、思春期において自身の自意識をそのようには組み立てなかった。「若い男」はこと男社会において「ガキ」の謂いでしかない。私は女を唯一のそれとして求めることがなかったので一時にせよ私自身を唯一の男として求める女というのがよくわからなかった。女というのは男がいないと自身を女として定義できない生き物かと思った。見栄体面に尽きることなく性欲の捌け口という問題でもないらしかったことがかつての私には不可解だった。愚かな偏見であったことを付け加える必要もあるまい。男は女がなくとも自同律において自身を男として定義しうる。ただ男同士の関係において女は取引される。性的な暴言においてあるいは行為において女子を虐め貶める男たちがあることもその一環に過ぎない。それをしてホモソーシャルと言うのだったか。男の自同律を構成する。


思春期において「若い女」として自意識を組み立てざるをえないことをその過程において自ら自覚してしまうこと。知性というOSが社会的に価値規定された性的な身体に存することの不如意の妥当解を「若い女」は模索せざるをえないらしい。私の知る人は友人知人を増やし連中と遊ぶことと自身の趣味的な好奇心に没頭することにおいて妥当解を模索しているらしい。すなわち退屈で暴力的な現世において貪欲に自身の世界を広げて。私もその一貫なのか知らん。物みな新奇な季節なのだろう。根が高飛車で軽薄な人ゆえ過去の男と同じく私も珍しい生命体を見る目で見られているがお互い様でもあるしむろん私にとってはそれが具合よく都合よい。


改めてそのことを確認して私は樋口一葉のごとく世の不如意を思うのである。私の欲望は一貫して明後日の方向をしか向いていない。ところが相手は私のことを欲望しているのだった。筋肉が落ちて痩せこけた、劣化著しいうえ相も変わらず機能不全な30男の身体を欲しているらしかった。つまり、必ずしもそういう話ではない。バイアグラ飲め、と言われてそれが必ずしも冗談でないのだった。忘れかけていた諸々を私は思い出している。


端的に自身が恋する相手の身体を欲望する。そのごく当たり前のことが17歳の小娘にも存することを、今更ながら私は確認して、そしてそれこそが社会的に価値規定された性的な身体に埋め込まれた自我にとって癒しと自由の場所であることを改めて了解して、どこかホッとした気分になる。とことん勝手な話だが。むろん私が何かに許されているわけではない。


私が癒しと自由の場所であるということではない、私とその身体に対する一方的な欲望が癒しと自由の場所であるということ。「やらないか」と誘われるたび私は先方のその欲望を延々と遅延させてきた。教育的配慮から(嘘)。生殖と欲望と承認の野合であるからこそ、コミュニケーション/ディスコミュニケーションとしてのSEXが殊更に説かれる。別の人間であることを何度でも肌において了解するために。SEXにおいて承認を求めるとか私はまったく意味がわからない。誰だって寝るなら相手を選ぶだろうしその権利もある。そのことを裏返して「選ばれた自分」という話には全然ならない。好みは好みでしかない。


時に欲望は人間の自由の源泉である。だから欲望とは非現実的であればあるほど宜しい。私の場合は知らんが。「萌え」がそうであるように。所謂「腐」がそうであるように。人は主体性を毀損し剥奪されているがゆえに他者を欲望する、それがフロイトラカンのテーゼであるが、しかしながら、時に欲望する主体としての主体性が人の自由の源泉たりうる。むろんその自由は常に現実と対立しそして敗北する。私の自由が前提において現実に敗北し続けるように。自由が現実に敗北する場所において、その認識において、カントは知らず、倫理が発すると私は考える。SEXを承認の問題として捉えることが私は昔からわからなかった。それは欲望の問題である。欲望の現実における困難の問題である。私は改めてそのことを思い出した。


私は人間の実存における抑圧と自由の話をしているのだろう。欲望を抑圧されることの悲劇を私は思う。私はまったく二次元者ではないが、表象において処女性に萌えることを精神の未成熟とすることはわからない。PCの話に私は関心がない。リンクした記事に改めて言及すると。私の原風景は『たけくらべ』なので世間的に価値規定された性的な身体に対して端的に世間的基準から直接云々することには一貫して関心ない。というかそれが個人の実存を毀損することは自明の前提と思っていた。だから故意というのがある。残念ながら幾らも。


育ちが悪いといえあいにく都会人なので、元増田に記されている類ほど程度の低い言動とはさしてかかわることなかったが、というか私が避けたが、その手の話は都会でもよく聞いて、無理矢理されたとかいきなり触られたとか拒んだらブスと罵られたとか挨拶代わりに豚と呼ばれたとかそういう私には理解不能な話を複数から聞かされた。私は甚だ鈍感で無神経で勝手だがそういうことはないと。そんだけハードル下げるなら世の大半の男は天使か聖者だろうとは思ったがそういう話でもないらしかった。自分の準じる規範に即した相手と交渉するとせいぜいが私になるのだろう。


まったくブスでも豚でもなかったし、そもそも私は所謂面食いでスレンダー好みであるし、返礼に怒鳴ったり酒ぶっかけたり殴ったりしていたそうだし、そして私は母親以来女に怒鳴られたり殴られたり殺されそうになると嬉しかったので、へぇ、としか応えようがなかった。『キャリー』の話をしても仕方あるまい。そして現在の恋愛相手やその友人から聞くに、いまなおその気風は健在であると。現実の痴漢や覚えなき性的な暴言がすさまじいのでネットの肉便器云々など笑って見ているらしい。確かにネットで肉便器と書いている人間は面と向かって言うことはないだろう。むろん一般論ではないしそのつもりもない。


個人を傷付けたいと考えたとき、その性的身体を社会的価値においてあげつらい毀損してみせることはことに女に対しては覿面で。「ビッチ」というのはそういうこと。その裏腹。なぜか。存在の一切を性的身体に還元することによって個人の個人たる尊厳を剥奪しうるから。悲しいかなこの素晴らしき日本社会において人間の実存は自身の性的身体からその社会的価値から自由でない。自由たらんとするとき、ブスと罵られ続けた元増田のごとき、あるいはナンシー関のごとき、自己の性的身体の滅却、あるいは自己の性的身体からの退却以外の道はない。レイプだってその欲望にも駆動される。性的身体において個人の尊厳を毀損する行為なの。そして性的身体とその社会的価値から自由でない人間の実存はそのことを社会的に勘定されてしまうの。一方的に、そういう女として。それをしてセカンドレイプと言うの。自身の個人としての尊厳をひいては実存を自身の性的身体とその社会的価値から別なる場所に規定するほど、改めて性的身体において社会的価値を勘定され時に烙印を押されたとき打撃は大きいの。「自分が女であることを知る」その因果了解として。長門萌える男が多いのも処女性に萌える男が多いのもそういうことなの。


――そんな話をしても仕方がない。そもそも柄でない。ナンシー関はとても女らしい人だったと故人を知る友人たちは言った。


放言を重ねると、戦後フランスにおいては正解だったろうが、しかしながらサルトルボーヴォワールは読み違えてもいた。少なくともこの素晴らしき日本社会におかれては、個人の実存は、自身の性的な身体と、それに付された社会的価値において規定されうる。時に決定的なものとして。烙印として。その意において、私はかつて河合隼雄が述べ笑われもした「たましいに悪い」という言葉に賛成する。実存的な混乱期において、自身の性的な身体と、それに付された社会的価値を直接に金銭において確認することがろくな結果をもたらさなかった事例を私は知る。長く公衆便所扱いされると人はおかしくなるとかつて売春について西原理恵子は言った。


ネット言説においては判り難いことなのだろうが、貴方の実存は貴方の性的な身体とそれに付された社会的価値とは関係がない、というのはある種の欺瞞だろう。知性というOSは若年においてそれをこそ真っ先に見抜き喝破してしまうから、にもかかわらず自身の性的な身体に付された社会的価値を変えるにはあまりに無力であるから、決まり文句を使うと、悲しい。


岡田斗司夫ドン・キホーテのごとく社会的価値という風車に戦いを挑み結局のところ敗北したように、すなわちダイエットに成功しその書籍のベストセラーにより人の無用な苦痛を軽減することにかつてなく貢献したことからこれまでにない喜びと達成感を得たように。むろんそれは逆説と言うよりは端的に正しいことである。しかしながら、自身の性的な身体に付された社会的価値において欲望さえ時に抑圧されることは悲しい。抑圧を規制として内面化することも。たとえば。価値なき性的身体を持ち合わせる者が他者の性的身体を欲望してはならない、すべきでないと。それをして「身の程を知る」と言う。


念押しすると。心の美醜と性的身体に付される任意の社会的価値はまったく別個の問題である。心が内面が考え方が文章が云々というのは少なくとも的外れなコメントではある。岡田斗司夫が頭がよく話が面白いこととデブが社会的かつ性的な価値において値引かれることが別の問題であるように。所謂ホニャララ専として定義されるその筋のマニアの存在もまた概念において社会的価値の反映としてある。


性的身体に付された社会的価値が容易に変え難いからこそ、自由のため欲望として完結しうる欲望は野放すべしと私は考える。もっと言うなら。野放された欲望が生身の人間が構成する社会的現実と、そして性的身体としての目の前の他者と、困難なトライアルを内的にあるいは関係性において繰り広げるところに現代の対性における倫理が生じる。


そして萩尾望都の『半神』とはあるいは『イグアナの娘』とは性別を問うことなく常なる切実な問題であるなと思った。私が望んで切り離し失った私は現在の私を影として規定する私である。影は幾度でも回帰する、私であるがゆえに。否定性において、そして否定性が規定する自己において。一切を呑んだ断念/諦念としての自己肯定において。嫌気が差していた私。反吐が込み上げた私。辟易する私。軽蔑すべき私。私の私自身に対する嫌気を反吐を辟易を軽蔑を反映して私の眼に歪んだフォーカスのもと女として映っていた女たち。

愛よりももっと深く愛していたよおまえを


憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよおまえを


わたしに重なる影――


わたしの神――


こんな夜は涙が止まらない


むろん涙などない。私はたぶん、再試行したく思って、そして再試行を今なお続けているのだろう。かつての私を、私という男を、年若い女との関係において改めて検分するために。親父と私が今なお親父にとっての『イグアナの娘』を上演中であるように。その上演が私が父となるか親父が死ぬ以外に幕を閉じないように。親父は現実にイグアナであった。自身のイグアナたるを知っていた。それを息子に見た。


根本的に自己肯定に懐疑なきナルシストの私は自分をイグアナと思ったためしがなかったが、近年になり改めて、親父が私にイグアナを見た正当から自身のイグアナたるを了解しもした。父とはナルシズムにおいて自己肯定しえないひとりの不完全な男であるからしてあらゆる父が父であることにおいてイグアナであるように私もまたイグアナなのだ。そのイグアナを私は恥じてもきたのだった。親父と同様に。生真面目で倫理的ながら甚だ柄の悪い親父を恥じもしたように。


他人を理解する必要なんてない。承認欲求どころかコミュニケーション欲求の極端に低い私は自分の内心を他人に理解されたいと思ったことがない。いわんや共感など。血族はいずれ血において了解するもの。だからこそ言葉は尽くすべきであるしコミュニケーションへの試行を断念するべきでない。というのが正論になる。ただ、私やあるいは元増田は知らず自己完結を結果的にもネイチャーとしない者にとっては、理解する必要のない話に付き合う対面の人間は必要かも知れない。対面において黙って話を聞くことが既にその人の存在を部分的にも受け容れていることである。結果論としても。かつてマリリン・マンソンが言ったように。「部分的にも」を誤解する人があることも事実である。しかしながら。他人を理解する必要は知らず受け容れる必要はあるだろう。人類社会の倫理において。


寝ることが相手の存在を「部分的にも」受け容れることであるという発想が私はよくわからない。まして全面的に受け容れるなど。欲望とその配慮の問題である以上寝ることと受け容れることは相違するのだが勘違いする人は多い。私は貴方の性的身体を欲望している、そして私の性的身体を受け容れないのか、と胸倉掴んで迫られても、いや文句無しの容姿と思うが、それは私の欲望ではない、だから礼儀の問題なのだろうが、流石に淫行条例で逃げることも説得力皆無となり、身体健常ならともかく機能不全に変わりはないうえ経験的にもやばい薬は嫌いなので性欲の処理は過去の男でも思い出してセルフないし他所でやってくださいとも露骨には言い難く、さてどうしたらよいものか。変なところで生真面目かつ律儀な人で困る。舌が入るとそれを食いちぎりたくなることもそれでも「振り」を続けることも変わらない。


私のような男におかれては、恋愛に性的身体の社会的価値はかかわりない。面食いではあるが、というかそれなくして「女」を求める意味がわからない。『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』は好きだが実存的動機に基づくカタワレ探し幻想にまったく関心がない。自己同一性を他者を介して規定することが愛するということだろう。他者を介することなくとも自己同一性を規定しうる人もある。それが他者性への断念と自己否定に基づく知性というOSの演算解としての結果論であるとき、値札を付された性的身体に装填されたOSの分岐の必然とその不可避を思う。分岐の契機とその不可避としてのプロセスを。分岐を不可避として要請する人類社会の歴史を。事実関係を右から左へとそのまま書いているわけではまったくないことを念の為お断りしておく。


ごく私的には。私は自分が好いている男すなわち友人連中は全員「イイ男」と思う。多少なり深く縁あった女性を全員魅力的と思う。「私が素晴らしいと思う君が素晴らしくないはずがない」「私が面白いと思う君が面白くないはずがない」「私が素敵と思う君が素敵でないはずがない」的な。いわんや自分自身については推して知るべし。そういう能天気なおめでたい人間であることを付記する。冒頭引用のごとく訊かれたときはいつも「面白けりゃなんでも」と政治的に正しくしかしながら嘘でもなく答える。

半神 (小学館文庫)

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