名前のない男


FREE TIBET』であれ何であれ。任意の正義に対する合意において個々人の合意動機を時に欺瞞として問うことに私は関心がない。むろん普遍問題であるがそれは文学の範疇で扱えば宜しいと思う。ダブスタ云々にまったく関心がない。散々記してきたことではあるが。他人の自己欺瞞を公的に問うことにそもそも関心がない。


日本で暴動起きてるんですけどしかしながらそれは西成、というネットの話題を目にした。なお平時の西成については東京でもときおり放送される。先日も、むろんこうなる以前のことだが、赤江の珠ちゃんのスーパーモーニングで特集していた。社会的にあらゆる意味において遺棄された西成の老人たちのため活動する地元医師らの特集だったと記憶する。


一般論として。物騒とされる地域がある。遺憾ながら歴史的に。物騒とされる地域においては警察も警察官もまた相応になる。遺憾ながら歴史的かつ世界的に。当たり前のことであるが、「ひとりの人間」であるとき警察官だって見ず知らずの犯罪者は怖い。「ひとりの人間」であるとき医師だって見ず知らずの他人の死が怖いように。殉職は彼らの非日常では必ずしもない。なお悪徳警官においてはその限りではない。魚心と水心もまた対応している。


加えて。原理的にも、警察は警察官は堅気の市民の生活のためにあるのであってならず者や無法者の横行のためにあるのではない。「活動家」はならず者無法者の範疇に含まれることは言うまでもありません。そして。住所なく社会関係なく共同体の外的規定なき者は堅気の市民であるはずがない。日本人の偏見においては暢気に移るだろう『かもめ食堂』でおなじみのフィンランドにおかれても。



――住所なく社会関係なく共同体の外的規定なく、社会的な固有性としての姓名すら失った、あるいは自ら捨てた、いずれにせよそれを名乗り証す術なくした、ホモ・サピエンスに類するに過ぎない、単にヒトの姿形と顔をしてかろうじて人間らしき言葉を話す劣化著しい生命体が、この狭い資源の限られた国土を生存以外の目的もなく食い扶持のみ求めて漂うならず者以外の何であるか。


余計者という言葉さえ勿体ない、「人間」として社会的に規定さるべくもない。そのような、社会的な所在はおろか生物としての所在すらなき劣化した生命体を、ヒトの姿形をしたホモ・サピエンスであるということだけで誰が人間と認めるか。


治安のための割れ窓理論というものがある。非日常としての行為を日常空間としての都市から片端から撤去することにより堅気の市民が多数暮らす都市を例外状態にさらさない方法論のこと。むろん、行為では足りない。非日常としての存在もまた日常空間としての都市から片端から撤去すべきではある。


住所なく社会関係なく共同体の外的規定なく、社会的な固有性としての姓名すら失った、あるいは自ら捨てた、いずれにせよそれを名乗り証す術なくした、ホモ・サピエンスに類するに過ぎない、単なるヒトの姿形と顔をしてかろうじて人間らしき言葉を話す劣化著しい生命体が、都市において堅気の市民の生活を例外状態にさらしかねない非日常としての存在以外の何であるか。


一般に、堅気の市民において負の感情を喚起しかねないホモ・サピエンスに類するヒトの姿形をした人間ならざる不安定な生命体を都市に多数配置することは、言うならば、地雷を撒くことと同じである。撤去しなければならない。


最悪な言辞とイカレた論理展開は措き問題は。なぜ、ホモ・サピエンスに類するヒトの姿形をした人間ならざる不安定な生命体が、一般に、堅気の市民において負の感情を喚起しかねないか。それを都市に多数配置することが、なぜ、堅気の市民の生活を例外状態にさらしかねないと見なされるか。「地雷を撒くことと同じ」ことになるか。すなわち――なぜ地雷たりうるか。


社会的に規定される人間とは、住所と社会関係と共同体の外的規定と、社会的な固有性としての姓名を持ち合わせ自らそれを名乗る存在のことを言う。類としてホモ・サピエンスであるか、肉体的にヒトの姿形をしているか、人間らしき言葉を話しうるか、オリバー君ではあるまいし、そんなことはまったく二義的な問題に過ぎない。


未開の共同体ならざるこの社会におかれては、いかなる重度の「障碍者」であろうと、住所と社会関係と共同体の外的規定と社会的な固有性としての姓名を持ち合わせ自らそれを名乗る存在は人間に決まっており、私たち堅気の市民と同様の存在である。そう社会的に規定される。「聖なる領域」において「異形」として遺棄されるはずもなく、そうされるべきでない。


人間とは社会的に規定される概念であって、類としてホモ・サピエンスであるか、肉体的にヒトの姿形をしているか、人間らしき言葉を話しうるか、そのような条件において規定されるのではまったくなく、住所と社会関係と共同体の外的規定と社会的な固有性としての姓名とそれを名乗る意思の有無において規定される。


社会が共同体がその生命体としての存在を人間と外的に規定し認めるとき、加えて規定された存在がその規定を自ら認め主張するとき、任意の生命体は人間として確定する。そうした合意を、宗教を日常空間としての都市から片端から撤去した文明的なる人類社会、すなわち現代日本社会は持ち合わせている。


鯨がイルカが言葉を話さないから私たちはいまなお鯨をイルカを獲っていられる。むろん鯨イルカに限らない。信仰なき人間にとって胎児は人間ではない。脳死が死と社会的に規定されたのは、たとえば親族のような任意の共同体がその生命体としての存在を人間と外的に規定し認めたところで、規定された存在がその規定を自ら認め主張するべくもなく、またその見込みもないとされるがためのことである。


留保のない生の肯定とはあるいは悪い冗談であって、信仰なき私たちは人間をこそ留保なく肯定するが、ホモ・サピエンスに類しヒトの姿形を持ち合わせるに過ぎない人間でない生命体としての存在を留保なく肯定したためしはない、いままでも、これからも。ゆえに死刑が存置されているのだろう。


とはいえ。斯様な発想を貫徹し実践したとき人は気が狂いかねないらしいので、同情、とか、共感、とか、寛容、といったきわめて「人間的な」安全装置が存在するらしい。ディックの世界だな。繰り返すがヒトの姿形はなんら問題でない。ジョン・メリックをヴィクトリア朝の英国社会が人間と外的に規定し認めるとき、そしてメリックがその規定を自ら認め主張するとき、彼は人間として確定する。むろん、理念的な話であるが。


また。任意の国家におけるその政策的な貫徹の反省から、大戦後のヨーロッパにおいて「他者」「他者の尊重」概念が生じそれは西欧社会の思想的な前提ともなった。要諦は、自己を人間として規定する社会関係と共同体と社会的な固有性としての姓名とそれを名乗る意思において、そうでない、ホモ・サピエンスに類しヒトの姿形を持ち合わせるに過ぎない生命体としての存在を、人間として認めないことの禁止、すなわち、そのような存在もまた「他者」として人間として認めること。


ところで。「人間とは社会的に規定される概念であって、類としてホモサピエンスであるか、肉体的にヒトの姿形をしているか、人間らしき言葉を話しうるか、そのような条件において規定されるのではまったくなく、住所と社会関係と共同体の外的規定と社会的な固有性としての姓名とそれを名乗る意思の有無において規定される。社会が共同体がその生命体としての存在を人間と外的に規定し認めるとき、加えて規定された存在がその規定を自ら認め主張するとき、任意の生命体は人間として確定する。」とき、そのことに対するアンチとしての怒りの提示は、あるいはオルタナティブとしての人間規定の提示は、存在する。


たとえば、アキ・カウリスマキの映画を一貫して貫く主題がそうであるように。住所も社会関係も共同体の外的規定も姓名さえなくとも、その一切を名乗る意思なくとも、人間は人間であると。人間が人間であることは、その所以は、その営みは、住所にも社会関係にも共同体の外的規定にも姓名にもその一切を名乗る意思にも、かかわりないと。言うまでもなく単なる疎外論ではない。本質など私たちは端から欠損している。欠損者の営みが人間の人間たる所以である。


あるいは、オタール・イオセリアーニの近年の映画において示される暗黙なメッセージのように。住所も社会関係も共同体の外的規定も姓名さえなくとも、歴史存在としての人は文化的な連帯と抵抗において相互的に人間として規定しうるし、規定されると。言うまでもなく、知識人たる映画作家は作中においてもならず者を無法者を肯定しているのではない。「他者」として人間として認めているだけのことだ。カウリスマキも同様。そしてそれさえも現在のヨーロッパにおいて時に危うく、いわんや日本においてをや。


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切断操作とは何か。任意の普遍問題を特定の固有性へと帰属させること。特定の固有性は所謂「属性」と限らない。西成の状況に特定の固有性が歴史的にも存することは言挙げるまでもない。ところで路上生活者や野宿者が暴力行為の対象とされることは現代日本社会の普遍問題としてある。彼の国においてチベット族が迫害の対象とされていることと同様の。


なお平等社会においては軽蔑は軽蔑をもって報いられるし、侮蔑は侮蔑をもって報いられる。差別的な視線は暴力をもって報いられる。むろん暴力による報いは差別的な視線を強化すること以外のいかなることも結果しない。加藤智大を肯定的に認知した人がどのくらいいるか私は知らない。同様のことは秋葉原についても言える。秋葉原の状況に特定の固有性が歴史的にも存することと任意の個人の無差別殺人は関係ない。秋葉原切断操作して済むことではまったくないし、そのようにして済ませている人がはたしてあるか私は知らない。


現代日本社会の普遍問題とは。ホモ・サピエンスに類しヒトの姿形を持ち合わせる任意の生命体としての存在を人間と外的に規定し認める社会関係と共同体なきとき、かつて社会関係と共同体において人間と外的に規定されていたその生命体としての存在は、人間としての自身が遺棄されたと思い、感じ、あまつさえ自身という生命体の存在を人間として規定させるべく外なる社会関係と共同体に対して、自身の人間たることの証明を示すべく、犯罪と社会的に規定されるアクションを、それが犯罪と規定されるがゆえに為しうること。都心部での公然における7名の殺害が大事でないなら、加藤智大はそれを決意しなかっただろう。


確かに。その意において、今回の無差別殺人は、「テロ」と知識人が表現しうるものでもあったろう。そして、西成の暴動も。たぶんに「テロ」とは、行為主体の思想的背景に拠るものと限らず、「対象」としての市民社会の自己規定と受容と了解の問題でもある。「西成ではよくあること」とする事実に即した了解は、最も容易で、最も安全弁たりうる。それが悪いとは私はまったく思わない。切断操作はいずれ復讐される、と思うだけのこと。


市民社会において「テロ」は「テロ」として、すなわち自身の属する市民社会に対する全面否定として真に受けるべきか、それとも任意の固有性において切断操作さるべきか。多く、ガチテロにおいては市民社会は真に受けると同時に切断操作するのだけれども。9.11後のアメリカのように。日本社会におかれては、また異なる相を示しもした。仔細は省く。


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記していた人があった通り、加藤智大を世間は社会はじき忘れる。彼は殺人者として凡庸に過ぎる。陳腐に過ぎる。退屈に過ぎる。読み解くべき内容さえない。村崎百郎の食指も動かないだろう。宮崎勤は死刑執行まで20年記憶され続けたが。ただし。


加藤智大にとっては幸いなるかな、彼を生涯記憶するだろう人たちが大勢いる。あの現場に居合わせた人たちはもとより。彼に殺された人々の、その多くの近しい者たち。そして彼に刺され一命を取りとめた人たち。彼ら彼女らは、生涯彼のことを、その姓名を記憶するだろう。


吊るされ、ホモ・サピエンスに類しヒトの姿形を持ち合わせるに過ぎない、国家と社会が人間と規定しない生命体が生命活動を停止してなお、彼ら彼女らは加藤智大という人殺しを忘れないだろう、他人に記憶されるという生涯の大望叶って、おめでとう、パチパチパチ。私には到底理解しえない望みであり、叶えられた祈りであるが。共感しようもない(というか、私が共感能力においてアレなことは改めて記すまでもない)。


それが、加藤智大にとって唯一の、人間の証明だった。自身の名を社会関係において共同体において規定させる術だった。然るに規定されたのは大量殺人者「加藤智大」という文字列に過ぎない。加藤智大という人間の人間たる所以は、社会関係において共同体において規定されることはない。


しかしながら、世界は残酷で平等で、誰しも自身という人間の人間たる所以は、社会関係において共同体において規定されることはない。社会関係において共同体において名が規定されることは、文字列の問題でしかない。形式において翻弄される不安定な恣意の問題に過ぎない。所以を問うて社会的外形は成立しない。共同体的外形もまた。それがカフカ的なる現代社会ということ。


あるいは。自身という人間の人間たる所以を問い証明するものとして、家族に代表されるルーツ観念は、そして友情は恋愛はプライベートの人間関係は、存在する、と見なされ社会的にも前提されているのだろう。それはその通り、そして加藤智大は自身が強く感じていた通りに、自身の人間たる所以を証明する私的な人間関係から遺棄されていた(と思い込んでいた)のかも知れないし、あるいは加藤智大にとっての遺棄の感覚は労働形態や解雇の不安よりその点にこそ所在したのかも知れない。その明察の結果彼が出した解は、大量殺人犯「加藤智大」として無限回廊アーカイブにいずれ文字列として記録されることであった。


ヒトという生命体は、自身を人間と外的に規定させるべく、公的には市民社会にコミットし、私的には友を恋人をルーツ観念を求める社会的存在であるらしい。「俺は人間だ」とただひとりで叫ぶことはとうに無力であり無意味だ。だから人は連帯するし抵抗するし時に犯罪行為であるがゆえに自身という存在の社会的証明として人を殺し暴力行為に基づく市民社会の否定たる「テロ」にも走るのだろう。


友が恋人がルーツ観念が自身という人間の人間たる所以を証明するがゆえに、人は社会的に人間と規定されてなお友を恋人をルーツ観念を求める。始発点と終着点を仮構せんとして求める。社会的に規定される概念としての人間は、形式において翻弄される不安定な恣意の指向に過ぎないから。人類社会の存続する限り、常なる現在進行形のままに。


ゆえに人は、自身の人間たるを証明するべく、友を恋人を希求するのだろう。し続けるのだろう。自身の人間たる所以としての人間性に共感してくれる存在なら、言語を解さない犬猫でも、現実に存在しない二次元人でも、構わない、まして電気羊の夢を見るアンドロイドなら。比するとき、ホモ・サピエンスに類しヒトの姿形を持ち合わせるに過ぎない単なる生命体を、なぜ無前提かつ無条件にすべて人間として規定し尊重しなければならないだろう。――私たちは利己的な存在である。


所謂ネットカフェ難民に対して、なぜ難民同士でルームシェアしようとしないか、世界的に若年貧民はそうして住居を手に入れている、という指摘というかアドバイスがある。その通りではあるが、残念ながら、高度資本主義をかつて通過した日本社会における若年貧民はアカの他人と頼り合うことをそのままでは知らないくらいに「近代個人主義」的である。


むろん個人主義とはブルジョワジーの勃興を経た時代を前提とする残酷で酷薄な生き方である。換言するなら自身ひとりの生活のために結果的にも他から奪うことを躊躇しない生き方である。分際を弁えての自身ひとりの生活を一切に優先する至上善と考えるきわめて利己的なスタンスである。


私は性分においてそうとしか生きられないが、たとえば加藤智大のような、若年の心優しき貧民には必ずしも向いていない。私はひとりの食事をひとりの寝床を孤独と考えたことも感じたこともない、かつて一時期自身の因果から野郎ばかりで集団生活したことがあるので(それはそれで楽しくもあったが)、ひとりの食事がひとりの寝床が素晴らしいと考えること、これからも変わらないだろう。飾って言えば、洲之内徹のように。


私たちは、それほどまでに、自身を人間と外的に規定されたく考えるのだろう。現行の社会における不安定な恣意の指向する規定に即して、そう考え行動するのだろう。正の方向であれとびきりの負の方向であれ。


そして人は、人間として外的に規定されることのない生命体の社会的な無価値と私的な孤独を鏡として、自身の人間としての外的規定への指向を動機付けるのだろう。路上生活者を野宿者をネットカフェ難民を死刑囚を、人間と社会的に規定されるため、かくあってはならない範と見なして。概念的な人間が不安定な恣意の指向に過ぎないにもかかわらず、そしてそのことを承知のうえで、現在の恣意が指向する狭い場所へと着地せんと、不安定に翻弄され――。


それが、掛値なしに、人間の人間らしい生であり、一生である。柳を幽霊と見間違える人間存在の。なお、この人間は「男」と概念において一致する。改めて指摘した人があった通り、大量殺人者に男が多いことも、換言するなら概念的な「男」に自身の人間の証明を規定された生物学的な男(すなわち、所謂マッチョ)が多いことも、むべなるかな。マッチョな世界観に基づく「一発でかいことやったる病」が、男に固有の病としてある、女においてはそれはあまり窺えない。宅間守の事件に際してかつてそう言ったのは、中野翠だった。