桜桃の味


私の住居には包丁がない。自炊しない暮らしゆえ必要ない、とはいえ料理に開眼してから実家や所謂恋愛の相手のところでは嬉々としてカレーやら炒め物やら作っている。ひとりで包丁と向き合い刃物を見つめているとろくな記憶と質感が喚起されずまた厭な感覚が蘇る。冷汗がにじむ。刃物の存在する場所にひとりで暮らしたくはない、まったく安堵して過ごせず眠れないから。殺傷道具としてのそれに、忘れたい自分が呼ばれる。私にとって包丁とは今でも調理道具ではない。


実家に居た頃、私は自身のその諸悪の根源たる掌を出刃で刺し貫こうと幾度か試みて果たせなかった。誰かと同居することはそういうとき実際的な救いだ。利き腕なら不具になって構わなかった。それが自らのあるべき姿と思った。誰かが右腕を切り落とすと言ったら、差し出しただろう。少なくともそうすれば、刃物に脅かされることなく残る人生を生きていけるだろう。本気だった。


あいにく私はマゾヒストではなかったし、自殺を指向したことはない。自分なりに楽しく穏やかに生きていきたいと思った。刃物は他人を殺し、身内を殺し、そして自身を殺す。刃物がその持ち合わせる能力が意志が、呼び、殺す。若気の至りであったし、現実に薬中でもあったし気が狂っていた、と当時を記憶する縁者にたまに問いただされると公式見解として笑って答える。虎の縞は洗っても落ちないことを私は知っているし、むろん相手もわかっている。結局のところ、彼らは私を招かれざる客と見なさないことはないし、その日は来ない。


刃物は嫌いだ。刃物は恐ろしい。饅頭怖いではまったくない。『ボウリング・フォー・コロンバイン』を観た際、是非と実際は措き、作中にて説かれる銃社会における銃オブセッションについては、印象深かった。私のおそらく個人史的な恐怖は強迫観念の類ではあるだろう。刃物を目にすると、私は鋭利なそれを自身の身体に吸い込ませたくなる。刃物を突きつけられたとき、その感覚にとらわれて後でゾッとする。刃先に吸い込まれそうになる、吸い込まれたくなる。


真に欲するものを提示されて手招きしたくなる。その刃先に既視感を覚えて、いとおしい。幾人もの愛する人に刺されかけたことを私は懐かしく思い出す。殺意と愛が表裏である、奪う者はまた相応に奪われる。私はそう考えてしまう習性がある。自身の存在に対する個人的な意味了解の問題に過ぎない。しかしながら、私に言わせれば、オカルティックな表現を躊躇なく使うが、あらゆる刃物には念がこもっている。殺意の念が。肉体を傷付け人生を奪わんとする思いが。むろん私の頭がおかしい。


繰り返すが私はマゾヒストでも自殺志願でもない。死にたいとか思わない。世界は美しいものや感動する作品や感傷的な風景や尊敬すべき人や大笑いできることで満ちている。だからそういう自分自身が何より怖い。なので現在、私は刃物を身の回りから全力で遠ざけて生きているし、刃物それ自体から逃げまくって生きている。ナイフ専門店などもってのほか、まじで怖い。


刃物は刃物で、突きつけられた鋭利な先端には無用な力が張りつめた緊張感と共に込められていて、にもかかわらず、刹那、私はそれを出生の際自身から取り去られた臍の緒のように思う。それを身体で抱きしめ受け止めてやりたい衝動に駆られる。あるいは、単なる自傷衝動自己破壊衝動であったのかも知れない。現在、自身がこうしてそれなりに普通に生きていることを私はときおり不可思議に思う。誰の采配だろう。確かに私も自重してきた。殺人の一線は、かろうじて越えなかった。殺されることもなかった。フィジカルに傷付けられることは幾らもあったが、そのときは身体の不具合が自身のことを忘れさせてもくれたし、苦痛と暴力は心地よかった。10代の当時のことだ。


そうした経験と記憶は、あるいは生来の資質は、私にとってある種の、普段は忘れていたい泣き所である。というのは忘れられないからだ。こういうのは倒錯と言うのかPTSDと言うのかトラウマと言うのか、全部違う。そしてあの恐怖感は、刃物とそれにまつわる人間のあまりに人間的な感情に親しんでいた頃の自身に対する恐怖は、時に回帰する。たとえば、凄惨な刃傷沙汰を知ったとき。たぶん私は、刃物とそれにまつわる自身の感情に汚染されたがゆえに、他人の行為にそれを投影している。ヒューマン・ステイン。


私は、いつも、刃物よりも、それを持ち出す人の表情とテンションが興味深かった。そもそも私の個人的な感覚においては身体に致命的な損傷を与えうる解体道具としての刃物は興奮して扱うものではない。小学生の頃から、相手が緊張しテンションを上げるほど自身が冷めて緩んでいくのが私の体質であり悪癖であり、自尊心の欠如のその根源だった。他人の怒りに同調する性質がない。だから、直接的な身体的危害なきとき、売られた喧嘩を正面から買うという体にならず、それでよくなめられもしたが、それで命拾いしたことも、いま思えば幾らもあったのだろう。


誰のせいということでもない、私は自身の感情を自身から疎外することを物心付いた頃から選択していた。気が付けば感情は迷路の奥に押し込まれていた。自身の感情の真を信じることができなかった。ただ、奪い合い傷付け合うことにまつわる感情だけはリアルだった。スーパークリアだった。それだけが私にとって表象として存在するのでない生身の人間であり、人の手触りだった。そして私は、そのようにフォーカスされた人間とその感情と人間社会の風景に、溺れたあげく窒息しかけた。当時の私は、人間とその感情をそのようにしかフォーカスしなかった。結局、後述するが私は認識的な転機において転回した。


私の感情は、人間の肉体を奪い傷付け真なる感情を取引する愛としての暴力において、かろうじて現実として現れた。つまるところ私は、そのとき、痛い苦しい悲しい怖い恐ろしい、その感情をいとおしいものとして、官能として了解した。自分のものでも他人のものでもなく。キレるとか、感情の反応として何をどうすればそうなるのか私は未だにわからない。私は他人に対して明示的に腹を立てることに甚だ不得意で、まともな、必要に応じた他人との社会人的な喧嘩のやり方を覚えたのは近年のことである。


刃物は意志を持ち合わせる、ゆえに手にする者にもまた意志が必要とされる。そうでないまま出すと、次の一手は限定される、一線を踏み越えている。他人に対して取り出した刃物を取引の成果なきまま仕舞う人間はいない。取引が成功するかは当人の意志次第。必殺の道具であるがゆえに遊び半分で弄ぶと怪我をする。凶器を鞄に仕込んでおくことが紳士の嗜みという時代があった。少なくともそれは私の個人的なオブセッションを形成し、今はひたすらそれを遠ざけている。自身の胸に存する、忘れることのかなわない感情と感覚から、逃げまくっている。その未だ薄れることない鮮明ゆえに。


感情のインとアウトの激しい両親のもと刃傷沙汰が当たり前の家に育って、本当の殺し合いを避けるべく感情を外す阿吽を、家族ぐるみで、ことに私と親父は相互的に会得したらしい。御陰様で、刃物の殺傷における危険性と鈍器の殺傷程度と絞殺と気絶の閾値は、少年期既に愛情の付随と共に了解した。激情が凶器を付随して現れたとき感情を外して水をぶっかける阿吽も、そうした相手に対する扱い方も。厭な言葉であるが、刃物を介したコミュニケーションを。ただし私はそのネイチャーゆえに、自身の負の感情が基本的に内攻しあまつさえ内なる迷路に迷い込むことになった。結果的にも、それでよかったのだろう。


かくて私は傍からは過剰な意識とも映るだろうが住居から刃物を撤去するどころかひとりのときはひたすらそれを遠ざけて暮らしている。刃物なんぞ身近に置いておいたら自分が何するかわかったものではない。俺は大丈夫、という確信を私は現在でも持ち合わせていない。むろんハサミくらいはおっかなびっくり使う。冗談でなく爪切りさえ正直怖い。言うまでもなく規制論に賛成しているということではない。逆ボルボ西郷のごときアレな男のきわめて個人的な感慨に過ぎない。


事件を、私は当日の夜のニュースで知った。歩行者天国を狙ったか、画像と動画がネットにあふれたろう、加えて、また馬鹿が馬鹿をやらかしたか。それ以外の感想を持たなかった。付け加えるなら。未来ある年若い人があの場所でこのような形で命を落とすことは、たとえ見ず知らずの人であれ、悲しく無念なことだ。そう率直な実感として思うくらいに、私もまた生き延び結果年を取ったことを改めて確認して、驚いた。未来は現在の代替である。生き延び結果年を取ったことを知る者は、そうした自己認識を有する者は、充分に現在をいとおしむことができる。それが一切であり、それしかできないとも言えるけれども。


そして。犯人が救い難い馬鹿ではなかったらしきことを知るに及んで、幾らか感慨を覚えた。救い難い馬鹿ではなかった、というのは、悪い人間ではなかった、ということ。厳刑は免れないだろうから書くが、誰かにとっての「いいヤツ」になりえたかもしれない悪ならざる凡な人間が悲痛な言葉を残してこういうことをやり遠からず刑死するだろうことを、私は多少なりやりきれなく思う。私は、自身に変更し難い悪が内在すると思っているから、倫理問題に拘泥する。所謂「被害者意識」において、倫理問題は意識され難いものであるらしい。というのは私が自己憐憫というものを根本的に理解しないからだ。


ワイドショーを独占する夢が叶ってなによりであるが(「夢が叶った悪夢」とはさくらももこの言葉であったか)、そして労働問題に加えて任意の社会規範が犯行動機に影響していたようだが、しかしながら、人生とはワイドショーの問題ではないことを結局は確かめなかった25歳に、私は些か暗鬱とする。ワイドショーの問題とは、陳腐に人間化された情報の問題、ということ。


情報とは非人間的であるがゆえに、私たちはそれを人間化して顔を与えて処理する。時に過剰なまでに。共同体的/社会的存在としての人間の人類学的習性だ。その現代における最良にたとえば森達也のようなドキュメンタリストがウッドワードのようなジャーナリストが井田真木子のようなノンフィクションライターがある。非人間的な一次情報の配信者とは必ずしも夜空の星を星座として結ぶ人ではなく、役割にもない。そしてその役割の最悪、否、過剰化の好例に、概念としての「ワイドショー」的な情報の人間化がある。


情報しかない人というのがいる。それをして孤独と言うのかも知れない。少なくとも本人はそう認識していた。そしてことそのような人は非人間的な情報を人間化して顔を与えて処理せずにはおれない。その人間化があまりに任意の社会規範にネガとしてであれ規定され、陳腐であるとき、私は「淋しい」ということの本質を見る。非人間的な情報の一群を線で結び個人的な星座を描くのは貴方である。そして非人間的な情報の一群に人間の顔を見たがって仕方がない孤独な人を私は忖度し難く思う。その視界には人間の構成する社会しかないのか、と。


世界は美しいものや感傷的な風景に満ちている。私には、ことに身体を壊して以降、世界は、その投影としての道行く人は、草萌える生命とその病み崩れ崩壊せんとする力に抗する相としてしか映らない。ムンクが彼の目に映る世界を、ことに女性をどのように眺めていたか、その絵画に私は既視感を覚えると記すことは僭越だろうか。落語の『死神』ではないが、焔揺らめくロウソクの群れにしか見えない。それは美しく官能的でもある。死のネガであるがゆえに。


人の生において死は遍在しそこに悪が胚胎する。それが村上春樹のテーゼではあるが。私は生命を身体の毀損崩壊とそれに抗する意志として捉えるがゆえに、そして奪わんとする外的な力と意志との拮抗においてそれが換え難き官能たりうると考えるがゆえに、そのテーゼにはあまり同意しない。生命の死は意志の敗北と消去において劇的なコントラストたりうる。中上健次の『岬』に、土方を職とする秋幸が、土は人間と違って綾がないから自分に向いている、と認識するくだりがある。しかしながら人間もまたある一定の閾を越えると、すなわち生命に近似するとき、綾がなくなる。――気違い話だな。


呉智英夫子は、大意、だらしのない自殺をその卑劣ゆえに自分は認めない、と再三記し発言している。飛び降り自殺に際して通行人を巻き添えにする者など、殴ってやりたくなると。むろん殴ろうにも相手はこの世にいない。このアポリアは困難であり厄介であると。対して宮崎哲弥はかつて応じた。それは社会の存続を前提する考え方であって、死ぬ者が社会の存続を前提するだろうかと。呉氏は、大意、答える。自身の死に際して以後の社会の存続を前提しないこと、それが本当の絶望だ、どうしようもない。社会とはすなわち他者であり、他者を指向する営みの集積である。それを肯定的なものたらんとすることを説くべく、夫子はカミュの思想を説く。


呉氏が説き戒めるだらしのなさとは卑劣とは、自身の認識とその途絶を一切として、自身の認識の対象としてのみ他者を把握しその終了において他者を遺棄し棄却する態度のことだ。すなわち無理心中など是認さるべくもない。所謂独我論的な態度とも言いうるし、カント的に言うなら、他者を目的としてではなく手段として扱う態度とも言えるだろう。私の言葉に拠るなら、情報としてのみ他者を了解する態度のこと。だから無差別殺人などということができる。あまつさえ。その情報としてのみ了解された他者に、任意の社会規範にネガとしてであれ規定された個人の観念に基づく陳腐な人間としての顔がお面のごとく付されていることが、今回のことに限らず連続であれ大量であれ不特定多数に対する殺人にはあまりに多い。それをして普通は身勝手と言う。


そして夫子は責任を問うている。責任とは今生のものでしかないと、宮崎氏は応じている。個体の死は今生において決裁される、個体の死に対して相応に報いるべく今生は存すると夫子は答えている。確かに、山本夏彦も言った通り、所詮この世は生きている人の世の中である。死んだ人の席はない。死を決定された犯罪者の席も。個体としての犯人の死を今生において決裁し、正しく世の摂理に則ってその生を存在を行為を言葉を一個の情報として、加えてワイドショー的に陳腐な人間的なお面を死顔に付して、処理するが理だろう。むろん私はそれを信じていない。


放談の王道

放談の王道


私には、人を殺すことそれ自体に意味があるという考え方がよくわからない。カント的に言うなら、殺人を手段としてではなく目的として扱う考え方が。他者を根本的に忌避するということではある。他者の存在を情報としてのみ了解しそれに勝手に付したお面に対する藁人形的な憎悪が付随すると、そういうことになるのだろう。私は殺人を性的に指向するが、それが私にとってのネイチャーに過ぎないことを私は知っている。


人は深く致命的に傷付ければ結果的に死ぬ。死とは手段でも目的でもなく結果論である。結果論に意味付けするのが太古の昔からの星空に星座を描く人間の営為ではある。犯人は行為において人間を把握したいと思ったかも知れないが、把握するのは自身の握るナイフの刃が人体に深く埋もれる感覚と、結果論だ。自身は痛みも覚えない。他人と向き合うことも目を合わせることもないままに、しかし自らが幾人もの背に振るったナイフは結果論として人を殺す。他者なく内実なき観念としての殺意は報われる。強い意志において贖われる。


だから。刃物は恐ろしいし、私はそれを殊更に忌避する。目的としての殺人が他者の実感なく行為の感覚と結果論としてのみ行為主体に把握されるとき、主体の認識は行為把握において終生分裂するし、斯様な把握を致命傷を容易に与えうる凶器とそれを用いた行為は常に前提する。むろん行為の責任は法的に決裁される。背後から刺したり撃ったりする行為が卑怯の極みであるのは、そういうことだ。無差別殺人を贖う強い意志は、しかし他者なきとき、自身の内部をさまよう宛先なき手紙に過ぎない。


そして私は、宮崎氏が示した問いに対して、別の応え方をしてみたく思う。


桜桃の味 [DVD]

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桜桃の味』という映画がある。私は当時存命の淀川長治先生が絶賛していたので観た。キアロスタミという素晴らしいイランの映画作家を知り、ハマる契機となった。未見にして御存知ない方は、リンク先を是非拝読していただきたく思う。明瞭で素敵な文章だ。


映画評/キアロスタミ『桜桃の味』


犯人がその映画を観ていれば、とかまったく思わない。が。桜桃の味とは社会を構成する意味の謂ではない。世界の美しさのささやかなひとつの相の謂だ。そのとき、世界を舌で認知する人間の不可思議と桜桃の味の価値が、今生生きるに値する哉の解として、ごく控えめに示される。


世界を舌で認知することなく他者を肌で認知することない人間が、一切を現行の社会が生産する情報の集積として解するとき、桜桃の味を示すことは意志された死に抗するには覚束ない。むろん、キアロスタミが描く世界観には、イランという国に根付いた宗教がかかわる。イスラムの人たちの心が。


当時、淀長さんが映画『失楽園』を論外として断じると同時に『桜桃の味』を絶賛し言挙げたことには、主人公バディが、自身の自殺に際して以下の頼み事をするべく人を探す点が要諦としてかかわった。

「私は、夜に睡眠薬を飲んで穴の中に横たわる。そしたら君は次の朝に来て、穴の中の私を呼んでほしい。返事がなかったらそのまま埋めてほしい」


バディは、自身の死後の他者の存在を前提しているし、自身の死後の世界の存続を前提している。否、確信している、ごく当たり前のこととして。だからこそ、自身の死は自身という個体が世界から去ることに過ぎないとして、実際にそう処理するよう、知人でなく後腐れなき見ず知らずの他人に金銭と引き換えに自身の世界からの退場と消去への協力を依頼する。


自身が世界ではない。世界の恵みとしてある桜桃の味を感じる自身が自身として、一個の個体として、この世界に在る。たぶん、晩年の淀川さんは、桜桃の味として指し示されるものを自身にとっての「映画」として受け止めたのだろう。自身にとって、世界の恵みの代表として映画はあり、映画を生み出し映画を介する人間とその出会いがある。そして。自身が世界であり、自分たちの意志された盲目的な恋愛とその位相における認識を世界の一切とする『失楽園』の世界観を、唾棄すべきものとして明示的に却下した。自分たちの死後の他者や世界のことなど知ったことではない、とは何事か、と。


むろん、渡辺淳一は知らず、森田芳光は完全な確信犯であり、それは彼の映画作品の一切を貫く主題である。イランならざる現代日本社会に生きる私たちは、世界の恵みを身体でなく五感においてでもなく、情報としてのみ受け取り、結果自身の当事者性に基づく主体的でありながら盲目的でもある認識を世界の一切として、自身を取り巻く諸相を把握する。畸形的なまでに社会的に。


それは東海林さだお的な世界である。むろんそれは素晴らしくもあるし東海林さだおは自身の作家性と位置を承知し知り抜いている。偉大なる東海林さだおを擁する私たち日本国民は、ウディ・アレンのようには神の不在さえ意識することない。当事者性に基づく自身の認識が世界の一切である。必然的に。森田芳光の卓見の通りに。


ただ。物心付いた頃からひとりを好んだ私は、幾許か分別臭くもなった今なお桜桃の味において自身が生きていること、生かされていることを知っているし、世界の恵みとしてある桜桃の味を感じる自身が自身として、一個の個体として、この世界に在ることを、認識的な基盤ともする。今生が生きるに値することを、否、自身が世界に生かされていることを、私は桜桃の味において知ったし、現在もつね確認している。そうしないと見失うからだ。淀川先生が生涯を賭けて説いたように、映画もまた私にとって世界の恵みのひとつの相である。ささやかな。


むろん私は特定の信仰を持たない。しかしながら、桜桃の味とそれを世界の恵みとして了解する認識なくして、現行の社会と余計な顔を付された情報の洪水の只中において精神的な個体として均衡を保持しうるか、経験則としてはわかりかねる。桜桃とは他者の謂ではない。桜桃の味を感ずる個体としての自身の幸福の謂だ。他者なき世界におかれても、個体としての自身は桜桃の味を感ずる。そのことを他者に伝えることにおいて意味が生ずる。


私にとって肌とは常に他者を他者として了解する一線であった。それは桜桃でなく味もない。むろん肉体を親密に扱うという発想が根本的にわからないのは私の生まれついての性分に過ぎない。だから私は生来ひとりを好んだし、桜桃の味を、世界の恵みのささやかな相を、別なるところに求めた。別なるところに求めていることは常に恋愛の相手に知られた。最近はあらかじめ言う。「彼女」というか、カップリング観念というか、対幻想的な恋愛に対する価値観が、まったくわからない。


春が来て、桜を眺めて、夏が来て、水の中の八月を知り、水族館で魚群を眺めるように(私は水族館マニア)、水着の群れを眺めて、それで幸福であり、世界の恵みに感謝する。水の中の八月は、どんな恋人とも分かち合えない。でも隣にいるなら伝えたくも思う、それが他者でありその延長にあるのが社会だ。でも、水の中の八月は、いずれひとり胸に仕舞わざるをえないものである。サディズムゆえの私の刃物嫌いと同様に。


恋愛の相手は、世界の恵みたる桜桃ではない。そして情報化されず徒に人間の顔を付されることもない桜桃は桑の実は、そこらじゅうに転がっている。世界を構成してもいる。ただし、身体において他者を自他の分別として認知することないとき、他者の肉体を傷付けることに対する一定の箍が外れることはありうるだろう。躊躇の閾なく。他者とは情報ではないし捏造された人の顔でもない。


最後に。9.11を引くまでもなく人の不幸は情報として消費され記録としてアーカイブされる。そのタイムラグが決定的に消失したということではあるだろう。当事者の感情と世界の茶の間を横断する情報とその消費は当然相違する。ゆえに、当事者に対する配信の倫理を個人において背負うべき職掌としてドキュメンタリストがジャーナリストがノンフィクションライターがある。すなわちその職掌は自負でもある。


当事者に対する配信の倫理を、加えて茶の間に対する情報発信の倫理を、個人において背負うことに本来職掌は関係ない。そもそも配信行為と情報発信行為の倫理は、先述の通り職掌職掌としての役割とは関係ない。「べき」の職業倫理が存在しないだけのこと。職掌的に規定したところで倫理を背負うのは個人である。個々人がその倫理を積極的に、しかし沈黙において背負えばよいと私は思う。


倫理と責任は違う。そして責任は知らず倫理を公言する必要もないし公言を問う行為は断罪に過ぎない。茶の間の正義と言ったのは山本夏彦で、そして言うまでもなく茶の間の正義は犬に食わせれば宜しい。森達也のマスメディア批判は知られており、そして森氏もまたその著作において配信と情報発信の倫理を問われている。氏は黙している。


世界の茶の間を横断し消費される情報としての人の不幸は、誰しもが茶の間で覚えもする当事者性との乖離と接近において、個々人の内部に厳粛な感情や痛みを喚起する。非倫理的な高度情報社会において新たに召喚され編成される社会規模の厳粛として。痛みとして。『The World Is Mine』が10年以上前に示したのは、そのことだった。


真説 ザ・ワールド・イズ・マイン5巻 (ビームコミックス)

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技術はシステムはコミュニケーションは個人の行為を値引するものでもない。むろん持ち歩くこと自体が物騒であり違法であるが、ダガーナイフを所持することとそれで人を刺して回ることは違う。携帯カメラやデジカメを持ち歩くこととそれで任意の対象を撮影することは違う。なお私は私用ではデジカメも写メールもまず使わない。関心がないだけだけれども。自身が感銘した風物もまた荒木経惟のごとく恋愛相手のスナップも撮らないのに死にかけている見ず知らずの他人を撮ってどうするのか素でわからない。


いずれ、記録しUPしたところで現場に居合わせた当事者としての経験は更新されはしない。心理的な後遺症も。事後における意味了解はいずれ内的にせざるをえなくなる。経験は保留しうるが、要請される決裁は先送りしきれるものでもない。ただし、決裁は内的な要請にのみ応じればよい。「釈明」などする必要なくそれを迫る行為に理はなく茶の間の正義に洟も引っ掛けるべきではない。


人の不幸は確かにその通りだが、人は人である限り不幸でもある。経験を保留しきれず決裁を外的にも内的にも要請されてしまう存在である限りにおいて。意味了解のオブセッションは、人間社会の誰しもを規定している。私もまったく例外でない。人は自身の死を了解するどころか、自身の死後の葬式の参列者の多寡を想像してしまう存在である。意味了解を指向しようが死は死でしかなく常に結果論でしかないにもかかわらず。むろん、それが人間とその社会の価値である。そして意志された死を相応に決裁するべく今生は存する。生きている人の世の中の、その他者を指向する意志は。世界の恵みとしての他者を指向する意志は。


そして。予期されたことといえ、今回の事件に及んで、私は死刑存置を到底認め難くなっている。意志された死に対して、世界の恵みとしての他者を志向する意志は、その生存をもって、生きている人の世の中の列に編入し直すことによって、相応に決裁するべきと。このような意志された行為に対して死をもって決裁することは、世界の恵みとしての他者を最終的に断念してしまった殺人者としての個人の絶望に対する、世界の恵みとしての他者を指向する意志の敗北でしかないと。


他者を換え難く欲したあげくの絶望に対して、世界の恵みとしての他者を志向する意志に規定される今生が死をもって報いることは、それは生きている人の世の中の敗北である。


他者しか見ることなく他者を換え難く欲したそのあげくの絶望に対して、世界の恵みを、桜桃の味を、その、あるいはささやかな相としての他者を、そのものでなくそれらへと至る回路としての可能性を用意することが、世界の恵みに、桜桃の味に、そのささやかな相としての他者に、救われ生かされている者の、この世界を生きるべく意志してきた者の、それが社会的なものであるかは知らないが、責務ではないか。


回路としての可能性を用意してなお、生き死には本人に決めさせれば宜しい。自分の首は人に国家に公務員に吊らせるのではなく自分で吊れ。自身に問うたとき、私の解は決まっていて、それをごまかす気にもならない。だから、それに至った幾許かの個人的事情と筋道を含めて明記する。むろん法的な議論ではない。


むろんのこと、私という人間が自身に対して問うた結果に過ぎない。所詮この世は生きている人の世の中である。世界の恵みは桜桃の味は、それへと至る回路としての可能性は、すなわち生存は、生きている者に対しては用意したく思う。桜桃の甘みを知る者として、それを強制的に奪いたくはない。強制的に奪われた死者で世界が満ちている以上。それが私の判断する、相応の決裁。自身の行為の意味了解を唯々諾々と死刑の受容において決裁するのでなく、自身の生において決裁すること。それが、敢えてそのように記すなら、桜桃の存する世界において、犯人が負うべき罰だ。


水の中の八月 (講談社文庫)

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