「卑劣」を生み出すもの


もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。: 極東ブログ

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最も意味がない批判とは「この議論にはホニャララという問題が書かれていない」というものだ。と言ったのは丸山眞男であるそうで、それを引いて小熊英二は後世の丸山批判に論駁していた。しかしながら、その見解を認めるとはてなで日々繰り広げられている多くの議論と称する意見交換はひいてはブログの相互言及システムは、ましてはてなブックマークのコメントにおかれては言うまでもなく、全滅するのであった。むろん私がやってきた/やっていることも。


「この議論にはホニャララという問題が書かれていない」という指摘のためにブログの相互言及システムは存在しはてブのコメント機能は存在するのであった――事実上。それが相互言及に容易なブログシステムにおける議論と称する意見交換の必然でもある。アカデミックな、あるいはマス論壇的なそれとは違う。念の為に書いておくと、むろん私はそれを肯定している。


換言すると。メタフレームワークが端から前提される。イデオロギーの問題とは表層的にはメタフレームワークの問題であって、メタフレームワークについて考慮ない社会的議論はイデオロギー的無自覚とされる。


私がメタフレームワークを常に前提するのは、単に自分の感情を信じず、感覚心理を信じず、自身の存在の社会的意義を信じず、そもそも自分を信じない性分ゆえのことに過ぎない。自身の当事者性を当事者性として殊更肯定することそれ自体にはあまり関心がないので、当事者性を割引かれる社会と世界が性に合ってはいる。私にとって個人とは当たり前のこと。概念でも理念でもなく。


メタフレームワークの使用によって理論的に個人の個人性が擁護される。私もまたそう考えてメタフレームワークを駆使してきた。ただ。「この議論にはホニャララという問題が書かれていない」という言を引いて小熊英二が言ったのはこういうことでもあった。そのような指摘と批判はあるいはどのような議論に対しても示しうる。たとえば吉本隆明の議論に対しても。にもかかわらず政治学者丸山の議論に対してだけそのような指摘と批判が殊更に示されるなら、それは他意あってのことである。


それをして、メタフレームワークの問題としてのイデオロギーの問題、と言う。そのとき議論はメタフレームワークの議論へと移行する。そのとき人間や倫理が問われることに私は関心ない。メタフレームワークの議論とは個人の個人性を擁護するために為されるものであって、ゆえに議論それ自体は個人の問題を問うものではない。すなわちみうらじゅん言うところのアイデン&ティティを。換言するなら。メタフレームワークの議論を介するとき概念的な「個人」が規定され擁護される。「留保のない生の肯定を」に私はさして関心ないので。


自殺禁止法、はない。自殺それ自体の規制を法制化することはできない。九族に及ぼす類の話にするなら別だが。法の枠組において自殺それ自体に対処することは無理。他者危害としての殺人は対処しうるが、自分自身を殺すことについては。そして生死を法の枠組において対処することに私たちの社会は慣れきってしまっている。宗教の必要を文学の効能を説くものではない。自殺対処としてネット規制を説くこと自体が愚かしいということ。


むろん、finalventさんの問題提起のことではない。既に反応において混同する向きがあるのでそのことは明記しておく。肝心要は。法的対処に適さない自殺とその蓋然に対して、個人の個人性を、すなわち任意のアイデンティティを、擁護せんとするなら、メタフレームワークを使用して概念的な「個人」を規定して為しうるものではない。否、むしろ逆効果を結果している。


内実伴わない理念的システム的な「個人」の概念的規定が現行の日本語圏のブロゴスフィアを規定しているとき、あまつさえそれが年齢を問わないとき、それがブログ運営者個々人に対してマッチョとは言わずともタフの要請を意味するものである、ということ。加えて、タフの要請が規範化してもいるということ。むろん私もまた「そういうもの」とは考えてきた。言い換えるなら。


メタフレームワークの使用において概念的な「個人」は規定され擁護されもするが、一方、アイデンティティとしての個々人の個人性は疎外される、にもかかわらず私たちはメタフレームワークにおいて個々人の個人性が裸形として摘出されると考える。メタフレームワークについて考慮ないブログ運営者もまた、そのように自身の言葉を捉える。その錯誤が現実の死へと至りうるということ。


更に言い換えると。メタフレームワークが前提される現行のインターネットにおいては公開された個人批判が結果的にも暴力として機能しうる、ということ。むろん暴力とはアナロジカルな意である。そして三島由紀夫ではないが「私は生まれてから一度も暴力に反対したことがない」人もいる。個人批判イクナイ、という話ではまったくない。メタフレームワークが前提される現行のインターネットが構造的に有する暴力性、という話。


極東ブログ』記事に付されたブックマークコメントに指摘があった。コメント承認制にしたところでブログ運営者は投稿された「死ね」という言葉を目にすると。私の見解においては、そういうことでは必ずしもない。この世には、人に恥をかかせるべく公然において衆目の中任意の個人に対して言葉を投げつける者がいる。遺憾ながら星の数ほど。


その行為は公然衆目でなければ意図において意味をなさない。そして個人を貶める修辞的言辞は意図以外に構成用件を持たないので、むろん見ず知らずの人間が運営するブログに公然と書き込まれる「死ね」は修辞的言辞以外の何物でもないが、ゆえに意図を削除された「死ね」は行為における意味を持たない。


多くの日本語圏の個人ブログは、肉体的にも社会的にも個人が存在しないがゆえに、看板たりうる。その看板において特定個人に対して恥をかかせるべく衆目を意識して言葉を投げつける者があり、行為がある。私の知る常識では、そんなもん名誉の問題か看板毀損の問題なので血を見るか弁護士が現れる類であるが、ブログとは個人不在ゆえにサシで話つける構図が原理的に存在しない。所謂ネット紳士協定以前の問題として。看板毀損において個人を貶めんとする行為を当事者問題として決済し決着させる機能が不在である限り、行為を前提において排除することは理ではある。


看板の問題とは個人の問題ではない。私はその原則を堅持したうえで紳士協定に拠りたく考えてはいたけれども、前述の通りその原則はネット言論においては構造的に間違っている、というか間違うようにできている。看板の問題はアイデンティティとしての個人を疎外するが、看板の問題としてアイデンティティとしての個人が毀損されるとブログ運営者本人が誤解する。間違える。そして時に死ぬ。


その蓋然からアイデンティティとしての個人を守るために為されることである以上、すなわち、かかる構造を利用した(あるいは無自覚か)看板毀損において個人を貶めんとする行為を当事者問題として決済し決着させる機能たりうるために、前提的な排除は当事者個人の権限と裁量に帰属する。


個人ブログを運営管理する当事者個人として、当事者問題として決済し決着させるべく。それは妥当な対処だ。コミュニケーションやダイアローグそれ自体の却下は当事者問題としての決済と決着に含まれる。むろん規制の話をしているのではない。そして紳士協定は機能しない。否、存在しない。


紳士協定なきことを自明の前提とする単なる原則論に私は関心ない。法律に反しないことなら何やってもよい、という話ではないのだろう。紳士協定なきことを自明の前提とする原則論に精神論が付随することがわからない。私は、人に恥をかかせるべく為される行為を紳士協定の外部と考えるので、法に反することないあらゆる対処を肯定する。なお立件されない暴力行為は犯罪ではない。ましてアナロジカルなそれについては。行為に対して対処へと至らないことを寛容と言う。


尊敬するタケルンバさんが、大意、自分は幸せになるために生きる一環としてブログを運営している、と記していた。私は自分の気が狂わないでいるためにブログ書いている。明示すべきは。ネットというか公開される言葉の世界にあって、多くの人は自身が発する悪意や敵意や軽蔑に負ける、蝕まれる、時に食い尽くされる、ということ。そして、よく訓練された悪意や敵意や軽蔑がある。その使い手が発狂しないのは、公開される言葉の世界におかれては、メタフレームワークにおいて個人の個人性が疎外されるがゆえのこと。つまり社会的身体の不在ゆえに対人決済も不在であるということ。むろん、漱石の『道草』ではないが、片付かないのが世の中であるが。


ある種のシステム最適化問題であり、すなわちスタンド使いはシステムを承知している。繰り返すけれども、メタフレームワークが前提される現行のインターネットにおいては公開された個人批判が結果的にも暴力として機能しうる。はてなブックマークの集約が劇場化して久しいことは周知の事実である。そして確かに劇場として面白く刺激的である。倫理的には知らん。誰のせいでもなく、ヒューマンファクターがシステムへの最適化行動として示され問われているとき、システムの変容は行為の倫理問題に対する一定解として機能しうるだろう。


言葉、ことに文字列の世界における悪意や敵意や軽蔑において、自身の敵は自身であって、悪意や敵意や軽蔑が反映されることによってその対象とされる外部ではない。所謂「上から目線」とは、軽蔑の問題であって、軽蔑の明示はしまいに血を見ると私は認識しているので、軽蔑を表に出すこと自体がよくわからない。


言葉の世界において軽蔑を明示することそれ自体が呪として自身に返ることはあまりに多い。ネットとリアルは別であるが、ゆえにこそネットの文字列が自身に対して返りうる。自意識にかかわらず、構造的システム的に、自身が記して公開する文字列の宛先は一義に自身であるから。「書き捨て」ならまた別。そしてそれが個人ブログにおいて排除されることは理としてある。


人の何が悲しいって、恥の意識で自殺することが悲しい。ことに子供の、それも公然衆目における虐待については。そして恥の意識とは、自身の行為とその心理に対して覚えるものである。自身が示した軽蔑に、自身が記した悪意に敵意に、自身が抱くその感情に。それを狙い撃つ行為が、世の中には、ここは酷いインターネッツには、あふれている。


他人の悪意や敵意や軽蔑を狙い撃つ行為があって、自身の悪意や敵意や軽蔑を恥じる者にとってそれは覿面ということ。言葉の世界におけるよく訓練された悪意や敵意や軽蔑とは、知的たらんとする個人の倫理規範に即して恥の意識を喚起せんとする行為のこと。そんなもんに乗ったら勝ち負けで言うと負け。というか、知的たらんとする個人の倫理規範に直接問い合わせるのは紳士協定を前提するならゲスの行為です。


社会的身体の存在しないゴーストとしての他人に対して殊更に社会的責任を云々する発想を私は認めない。法的責任は法廷で。そしてゴーストであることそれ自体が問題なら社会的責任を紐付けする以外に解はない。所謂ネット実名論とは、そういうこと。むろん本件は、ゴーストであることそれ自体を問うものではない。


知的たらんとする個人の倫理規範に直接問い合わせて恥の意識を傍から引き出し、そのうえで行為を規範的に裁断し恥認定することは、あまつさえ公然衆目におけるそれは、「死ねと書かれて死ぬなんて」と「死ね」と書き込んだ人間が言ってみせる類のマッチポンプと同型である。それ以前に私の常套句を用いるなら「大きな御世話」であるし、個人の倫理規範の忖度は大概外すもの。


そのようなマッチポンプ回路を切断することが問題とは私はまったく思わない。個人の倫理規範に直接問い合わせるのも他人の恥の意識に訴求し「恥じるべき」とか要求するのも、私に言わせれば紳士協定外のゲスの行為であるし、ダブル・バインドのひとつの典型でもある。


現在、私はブログにカウンターもアクセス解析も付けていないので、PVさえ把握していない。反応への対応については推して知るべし。塩野七生の受け売りであるが「このことについて私はこのように考えますが、貴方はどのように考えますか」――以外に私が規定するスタンスは、殊更に明示すべきものとしてはない。そしてその先にもない。自身の文が、どこかの他人の「考えるヒント」になればその時点で完了、と。これも七生タンの受け売り。むろん七生タンは小林秀雄から受け売った。


ブログにおいて人は気ままかつ勝手に書けばよいと思うし、そしてブログに限らずブックマークコメントについては言うまでもなくあらゆる意味で言論とは、気ままかつ勝手に書くしかないものであるし、気ままかつ勝手に書くことが、そうしうることが、近代以降の意義と価値としてある。言論の賭金は対話の賭金は今世紀のネットインフラにおいて暴落の一途をたどっている。そのことが慶賀すべきこと以外の何であろうか。そして賭金が下がるということは、アイデンティティとしての個々人の個人性に、言論の裁量が帰属するということ。構造的に疎外されるがゆえのシステム的対処として。否応なく。


考えるヒット (文春文庫)

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