人命を救うための戦争のはじめかた(方法論的正当と目的論的最適)


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http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080530/p1

落ち穂拾い - Apeman’s diary


本件についての個人的なまとめと整理として。


最初に補助線として脱線。


はてなブックマーク - http://www.asahi.com/politics/update/0528/TKY200805280255.html

「反対だ。自衛隊は災害救助団体ではない。行くなら、自衛隊としてではなく行くことが必要だ。なし崩し的に海外に行くようになるとよくない」


私は「違憲状態にある自衛隊」という見解に対しては、なら改憲を視野に入れて議論しましょう、という以外の感想を持たない。少なくとも自衛隊の存在を法的に規定するべきとは思う。矢作俊彦と同意見。反軍思想にあってもそれは同様と思っているけれども。


社会党は一貫して反軍思想に規定された政党であり、それは、国家が戦時の発想を明示的に肯定するべきではない、戦時の発想が要請される大量殺人としての戦争行為を肯定するべきではない、という意においては正しい。『父親たちの星条旗』を引くまでもなく、戦時体制とは、一切を資源とその調達と配分として判断する体制のことである。私は村山富市土井たか子はガチだったと思っている。その結果として、阪神大震災における不作為があったことをどのように考えるか。そのことは重い。私がそう考えている、という話であることはお断りしておく。


社会党的な反軍思想にあっては軍隊とは人を殺す存在であり救う存在ではない。それは必ずしも間違っているわけではないが、認識と理解において片手落ちであり、それが95年1月の首相の不作為と相関したとは私は思う。すなわち。戦場の発想、ひいてはそれが国家主導のもと銃後に敷衍される戦時の発想とは、一切を大義としての目的のため全体最適のもと資源とその調達と配分として判断する発想のことであり、国家体制のことである。そのこと自体は必ずしも妥当性を欠くものではない。


大義としての目的を措いたとしても、戦場における帝国陸軍はその参謀本部は資源とその調達と配分においてさえ多く論外であったがゆえに反軍思想の持ち主でなかろうとその悪評には変わるところない。私が実際に知る軍事や戦史に詳しい人で南方戦線における帝国陸軍を肯定的に評価する人を私は知らない。以前、塩野七生山本七平の諸著作を読んで呆れていた。『BLACK LAGOON』に言われる通り軍人はプラグマティストであるとして、まったくありえないと。


私の認識のもとパラフレーズするなら。目的論的に一切を資源とその調達と配分として判断する考え方を、まして国家を単位とするそれを、社会党はその反軍思想において否ともしてきた。そのこと自体は間違っていない。目的論的に一切を資源とその調達と配分して判断するとき、こと戦場ひいては「政策としての戦争」におかれては、人命すら資源とその調達と配分として判断される。「それは許されることではない」。


軍による大規模な人命救助活動それ自体を、社会党的な反軍思想は否ともしてきた。なぜなら、大規模な人命救助活動それ自体が、目的論的に一切を資源とその調達と配分として判断する考え方に規定されもするから。――それは「正しい人命救助活動」であるか。目的論的に正しくとも方法論的に正当なことか。妥当性を欠く見解ではない。なので、いつか阪神大震災について自衛隊批判を記した社民党議員のその発想に、当時私は不意を突かれた。その人は医師でもあったが、反軍思想においてガチでない人だったのだろう。今となってはそう思う。


しかしながら。日本にあってトリアージという概念の広く認知される嚆矢ともなった阪神大震災において、政府判断における自衛隊投入の遅れは当時からきわめて厳しく批判された。人は、人命を救う方法論的正当を求めていたのではなく、目的論的最適を求めていた。その目的とは「無差別にひとりでも多く人命を効率的に救うこと」であった。それは、トリアージの起源としてある目的であった。目的論的最適としての効率主義、すなわち、一切を全体最適に基づく資源とその調達と配分として判断することにおいて。


私たちは人命を救うに際して、方法論的正当よりも、目的論的最適を優先した。それが私たちの判断であり、文字通りの世界の選択であった。大規模災害救助活動に際して文民統制下の軍とその歴史的な考え方を投入することそれ自体の是非を、21世紀の私たちは問わなくなっている。それもまた文字通りの世界の選択である。社会党的な反軍思想は馬鹿にされまくっている。私も支持しないが、馬鹿にしてよいことかはわからない。村山富市の不作為について、私はいまなお複雑である。


本件について。論点は5点。(1)人命を救うに際して、方法論的正当よりも目的論的最適を優先すること、そのことを自明とする種類の議論の是非。また、(2)目的論的最適において問われる目的とその是非。すなわち「無差別にひとりでも多く人命を効率的に救うこと」は目的として無前提に是たりうるか。そして。(3)かかる目的のもと、一切を、すなわち人間の人間的な感情はおろか人命さえも、全体最適に基づく資源とその調達と配分として判断することは是たりうるか。


加えて。(4)経営学的思考の啓蒙として方法論的正当より目的論的最適を優先する任意の考え方を伝えるべく、そのような考え方とその要請される状況を、四川の大地震福知山線の事故を参照して示すことは、そもそも妥当か。


方法論的正当より目的論的最適を優先することは、経営学的思考の啓蒙を措くならはたして妥当か。そのとき、前提される目的の是非と、目的を是とするため召喚される任意の事実命題について問われるべきではないか。斯様な事柄の一切を指摘したこと、id:toledさんの記事は重要でもあり、百家争鳴の起点たりえた。


「目的の設定次第では」とApemanさんは記した。そして問題は目的の設定に尽きることない。方法論的正当より目的論的最適を優先する考え方を伝えるべくそのような考え方ととその要請される状況を「トリアージ」という概念において示すことには、輻輳した問題が所在する。言うまでもなく私は比喩が不適切であったとは思わない。経営学的思考の啓蒙とは方法論的正当と別なる目的論的最適を前提する考え方を伝えることであるなら、そしてその目的が現在の人類社会の一定の合意のもとにある以上、「トリアージ」という概念を示すことは妥当だ。


しかしながら。方法論的正当より目的論的最適を優先する考え方それ自体が、価値概念において批判されうる。そのことを端的に示したのが、toledさんの記事であったろう。目的論的最適に即して、一切を、人間の人間的な感情はおろか人命さえも、全体最適に基づく資源とその調達と配分として判断することはそもそも是たりうるか――と。そして、目的が戦場であり戦時体制とその維持であるなら。


これは、比喩としての概念においてこそ率先して適用されるロジックであるが。戦場とは戦時体制とは戦争行為とは、大義としての目的を問うときひとりでも多くの人間を殺すためにあるものではない。ひとりでも多くの人間を救うためにあるものだ。ひとりでも多くの人間を救うために、一切を、人間の人間的な感情はおろか人命さえも、全体最適に基づく資源とその調達と配分として判断する営為として、ある。こうして書くと、ライトノベルに疎い私もまたマンガやアニメや芝居や映画や小説で見慣れた話也。然りて、そのような戦場の戦時体制の戦争行為の発想がそもそも方法論として正当か。比喩的な考え方として妥当か。


太平洋戦争を牽引した者たちは、その主観において、ひとりでも多くの日本人を救うために加えてアジアのために目的論的最適解として開戦を選択した。結果は、目的論的最適解どころか日本人に未曾有の災厄をもたらした。天皇はそのことを生涯悔やんだ。


戦争行為の方法論的正当の欠如に対する認識が戦後日本を規定し、その具現としての憲法九条に基づいて社会党的な反軍思想は、目的論的最適より方法論的正当をつね優先し、問うてきた。目的論的最適をつね優先する自民党的な発想に対して。そして現在、社会党的な反軍的スタンスは、目的論的最適より方法論的正当を優先し問う態度は、馬鹿にされまくり洟も引っ掛けられていない。それが文字通りの世界の選択であるが、そして私は社会党的な反軍的スタンスをその片手落ちについて支持しないが、私はその世界の選択にはまったく同意しない。


ひとりでも多くの人間を救うために、一切を、人間の人間的な感情はおろか人命さえも、全体最適に基づく資源とその調達と配分として判断すること。それが現在の日本社会の、そして世界の、圧倒的な趨勢である。左派的な観点に即してそれが批判されることは、妥当な理路と私は思う。トリアージをめぐる倫理問題ならサイダーハウス・ルール以外に記すことは私はない。一義に個々人に返る問題である。輻輳する問題はそれに尽きないから、改めて記事を書いた。


http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080525/p1


そして最後の、否、根本的な論点は。(5)「ひとりでも多くの人間を救うために、一切を、人間の人間的な感情はおろか人命さえも、全体最適に基づく資源とその調達と配分として判断すること。それが現在の日本社会の、そして世界の、圧倒的な趨勢である。」という前提が、価値判断以前のアレゴリカルな事実認識としてそもそも妥当か、まして自明のことであるのか。というところにある。それを事実としての前提として提示されるトリアージという概念は、あるいは任意の価値判断の提示であるかも知れない。


つまるところ。あちら立てればこちら立たない欺瞞に規定された社会をなんとか生きる貴方や私は「ひとりでも多くの人間を救うために、一切を、人間の人間的な感情はおろか人命さえも、全体最適に基づく資源とその調達と配分として判断すること」を自明の前提として日々暮らしているか。あちら立てればこちら立たない痛みは、あるいは立場に規定されて人を手助けすることが時に難しいことの痛みは、トリアージという概念が緩和するべく前提する痛みではない。


トリアージという概念を比喩として要請する目的論のもと、上記の認識を事実に準ずる自明の前提として首肯する、任意の価値的な判断の提示。それを批判する理路は、所在する。換言するなら。トリアージ概念とはアンタッチャブルではなく人命優先の目的論は掛値なしに素晴らしいがそのために召喚される全体最適概念と自明の前提として示される任意の価値判断を含んだ事実命題に対しては、眉に唾を付けておいて損するものでもない。


最も簡単に言うなら。目的論的な全体最適概念において当事者性を公然と割引かれるなら、あまつさえそれが公然と肯定されるなら、当事者は、また当事者たりうる者は、異を述べる筋合がある。これは「留保のない生の肯定を」ではない。私はドラッカーの考え方を支持する。つまり社会とは当事者性の割引かれる場所ではあるが。そしてそのようなことは誰しも厭というほど承知だが。が、という話。筋合を割引くものであってはならない。


本件について倫理的裁断に私は一切関心がない。経営学的思考の啓蒙において、方法論的正当と別なる、現在の人類社会の一定の合意のもとにある目的のための目的論的最適を前提する考え方を伝えるためトリアージ概念が比喩的に召喚されているとき、殊更に問い質されて然るべきことかというと私個人は難しい。対するにホロコーストが提示されることが筋違いとも同様に私は思わない。セクシズム云々には関心ないし大学教育の在り方に私はまったく関心ない。


「マッチョ」問題ではあったか、とは思う。発端の記事にかかわることなく、年頭以来の「マッチョ」な発想とその支持に対する批判の新たな相と。任意の価値判断を含む事実命題を自明の前提として前提への懐疑を付さずに提示し善悪と道徳的是非を一旦捨象した「要は、勇気がないんでしょ?」を「たったひとつの冴えたやりかた」のごとく説きそれが支持される構造に対する批判として。個人批判はくだらない、とは最近はっきりと思っている。



追記。掲示してから気が付いた。


生政治/ホモ・サケル/人道的介入 - 過ぎ去ろうとしない過去


これからきちんと読ませていただきますが、また少し被ったらしい。「目的論的な罠」――か。私の議論は語彙からして常に俺流に過ぎるとこういうとき思う。