人を生かす/活かすということ


サイダーハウス・ルール - 地を這う難破船


の続きとして。


http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080526/p2

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080527/p1


私は、象が殺されようがパンダが死のうがイルカが屠られ食われようが知ったことではない。むろん、それは私個人の感情というか無感情。「可哀相」はむろんあってよいし主張されてよい。感情に基づく距離規定の問題であるから。人間の都合で屠られ食われるイルカを「可哀相」とは私は思わないが、そのように考える人があることを認めるし、そのこと自体を妥当なこととも思う。差別が関与することなければ。このとき、象やパンダやイルカを「関係ない人間」と人は敷衍して認識しうる。そして、その問題意識のもと、宮沢賢治の豊饒な作品世界は紡がれた。「本当の幸い」を希求して。


「合目的」と言うとき、その目的とは、白樺派ではないが「人類全体の幸福」のことであるだろう。このことについて、発端となった記事はじめ、論者間に相違があったか。理性の人にして合理主義者ヒトラーは人類全体の幸福など目的としてはいなかった。指向され標榜されるのは、最終的解決でなく、最終的目標であり、対するアプローチの相違として議論が交わされていたと、私は了解している。悪意の人などない、ゆえにこそ困難である。そう発端となった記事には記してあったと思う。善意の人を貶めているのではない、そうした区別こそ批判さるべきと。


人類全体の幸福に適した社会は必ずしも社会主義とは限らないだろう。むろんたとえば新自由主義とも限らない。本件において、人類全体の幸福の実現は不可能と言明した人があったか。そして、人類全体の幸福の実現に適した社会の相貌を問い模索するとき、経営学が問われると、経営学にまったく不案内な門外漢の私は思っている。


経営学に滅法疎い私は、かつてそれなりに濫読したドラッカーくらいしか経営学を知らないが。現在の私の了解においては。ドラッカーが説くマネジメントとは、組織をもって人を生かす/活かす術のことであった。利潤を一義に説く類のものでも人間を無視する類のものでもない。むしろ逆であって、人間を疎外することない組織を、そして組織をもってはじめて活かされる個人としての人間の可能性を、説得的に示していた。


人を活かすとは、個人として価値を付するということ。価値を付するのもまた人である。そうでないのが、すなわち人に個人として価値を付することを原理に基づき無前提として、他なる人の判断に即して価値を付すことを否とするのが所謂「留保のない生の肯定を」であるが、そして私はその議論の妥当を了解するが、経営学一般は知らず私の理解するドラッカーにあっては、人に個人として価値を付するのは他なる人の判断である。そして。人間の相互的な価値の付与を肯定してマネジメントを説いた。その場を地平を社会と彼は規定した。相互的な価値の付与の営みとしてある社会を彼は肯定した。


この点において、すなわち「留保のない生の肯定を」とドラッカーの相違において、本件は議論された。それが私の了解。ドラッカーにろくすっぽ学ばなかった私自身のボヘミアン気質は措く。


先日、色川武大の『離婚』を読みいたく身につまされたことは措き、作中、社会に出て勤めようとする生活能力皆無の元妻に対して生活観念に欠ける主人公は言う。世間は君を正当に扱うさ、正当に扱わないのは僕だ。人は、他なる人の判断に即して個人として価値を付される。それが「正当に扱う」ということ。一方、いまなお元妻を好いてもいる男は、情ゆえに、彼女を「正当に扱わない」、すなわち、原理にかかわることなく無前提に個人として価値を付している。元妻の留保のない生を肯定している。情ゆえに。


離婚 (文春文庫)

離婚 (文春文庫)


本件とは、斯様な話でなかったか。ドラッカーは、組織をもって人を生かす/活かすことを考えていた。その目的は、人類社会の幸福であったろう。そしてドラッカーは、組織をもってこそ生かされる/活かされる人があることを、知っていた。――俺了解に過ぎるか。


情とは、「可哀相」とは、存在を分け隔てる関係性と距離規定において生じる。情を滅却すべきと彼は説いていない。個々の情を止揚し、その情を、すなわち相互的な価値付与への指向を、そのための機能体たる組織をもって、社会的に敷衍し、ひいては社会全体としての価値産出へと至る。それが、ドラッカーの指し示した、人類社会の、否、人間の幸福のための方法論であった。


生かさんとすることと、殺すことと、生かさんとすることが一方で見殺しを結果することは、違う。人為的な殺戮と、救命行為における人為的な命の選別は、違う。深刻な難産に際して母体の安全を優先し子供の生命を諦めることは、殺すことではない。このことは明確にすべきことだろう。そのとき、「赤ちゃんが可哀相」と言いうるのは、誰か。問われるのはそのことだ。生命と個人は時に、否、必然的に相反する。そして欺瞞に規定された現行の社会がサイダーハウス・ルールの別名であるなら。


情の問題としての「可哀相」は普遍妥当を構成しない。情の問題としての「可哀相」を、すなわち相互的な価値付与への指向を、私的な限定性から社会的な機能体として、普遍妥当たるべく組織し社会全体において調停すること。ドラッカーのマネジメントとは、そういうこととも私は了解した。と記憶するけれども。手元に本がない。Wikipediaから引く。

彼の著作には大きく分けて組織のマネジメントを取り上げたものと、社会や政治などを取り上げたものがある。本人によれば彼のもっとも基本的な関心は「人を幸福にすること」にあった。そのためには個人としての人間と、社会(組織)の中の人間のどちらかのアプローチをする必要があるが、ドラッカー自身が選択したのは後者だった。


ナチスの勃興を目撃し、古い19世紀的ヨーロッパ社会の原理が崩壊するのを目撃した彼はアメリカに赴く。そこで彼が目にしたのは20世紀の新しい社会原理として登場した組織、巨大企業だった。彼はその社会的使命を解明すべく、GMを題材にした著作に取り掛かる。その著作は組織運営のノウハウすなわちマネジメントの重要性をはじめて世に知らしめた。彼は「分権化」などの多くの重要な経営コンセプトを考案したが、その興味・関心は企業の世界にとどまることをしらず、社会一般の動向にまで及んだ。「民営化」や「知識労働者」は彼の造語で、後に世界中に広まる。特に非営利企業の経営には大きなエネルギーを費やした。


『産業人の未来』『わが軌跡』などによると、エドマンド・バークの保守思想の影響があるとされる。

ピーター・ドラッカー - Wikipedia


医者は、生かす人である一方で、少なからず、心ならずも命を選別する人である。それを医師の仕事と人類社会は暗黙に規定してきた。「押し付けてきた」と言ってもよいこと。『サイダーハウス・ルール』。堕胎が否とされる社会にあって、女性の生命と幾許かの幸福のため堕胎を行う、そして孤児院の運営者でもあるラーチ医師は、かく言ってよいなら、望まれざる存在として生を享けたがゆえに堕胎を「可哀相」とするホーマー・ウェルズに対して、そうではないことを、全身をもって、人生をもって、教える。伝える。


そして。ホーマーは、セント・クラウズの孤児院にあってサイダーハウス・ルールに規定されなかった彼は、ラーチの仕事を継ぐ。私は大学どころか高校もろくに行かなかった人間なのでわかりかねるが、教育とは、そういうことでもあるのだろう。神の賽を人は懸命に背負う。アーヴィングは、常にそのことを記してきた。


あらゆる医師はメンゲレたりうる、あらゆる組織人はアイヒマンたりうる。斯様な議論において問われるのは個人としての倫理観とその欠如である。私の知るトリアージとは、医師がメンゲレたりえないことを前提する概念であり、私の知るマネジメントとは、組織人がアイヒマンたりえないためのノウハウである。私は「可哀相」を肯定するので、医師の職業倫理も経営学の人間の幸福への指向も、信じる。


ドラッカー わが軌跡

ドラッカー わが軌跡


追記。先んじて掲示されていたことに気が付かなかった。


2008-05-27


ドラッカーについて、偏頗な拙記事よりはるかに明晰で妥当で正確で、開かれた記事です。勝手ながら多謝。