サイダーハウス・ルール


あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 - (元)登校拒否系


関連言及記事は物理的事情から読みきれていない。後で書こうと気に留めて少しくネットを離れていたらえらいことになっていた。今更ながら、書こうと思ったことを。


人命は資源ではない。そのことについては全面的に同意する。トリアージ可哀相、ということについては。私は最初、toledさんの記事のタイトルを拝見したとき、トリアージに「加担」する医療従事者らが可哀相、という話と思ってしまった。「可哀相」という言葉を用いて表すなら。


むろん、発端となった記事に記されてあったことであるけれども、私はtoledさんの記事を経由して発端となった記事を拝読したので。見捨てられようが見捨てられまいがトリアージが要請される事態が悲劇であり誰しもその当事者である。たりうる。そして。医療資源と人命は、むろん概念において交換されるべきではない。交換されるとき人命は資源化される。


トリアージに際して医療従事者ら関係者の判断を担保する普遍的根拠などない。だから。彼らは事後において「葛藤」する。「見捨てた」ことを、あるいはそうであったかも知れないことを。ひいてはその判断が妥当であったか否かを。そして。そのとき結果的に人命は資源と見なされうるのです。誰にとっても不本意なことに。


NHKスペシャル


この番組を、私は今でも忘れない。そのような判断を現場に強いることがそもそも妥当なことであるか。それが「医師の職責」であるなら、医師は人命を、すなわち生死をジャッジする裁量を職責において有する。それでよいか、ということが、現場から、医師患者の双方から、問われていることではあるだろう。かつて養老先生が言った。無脳症の嬰児は、場合によっては生命維持装置を付ければしばらくは生きうる。それがそうなっていないのは、それなら医師が殺しているのか、それを問い詰めて、なんになるのか。


私が思うことは。その判断を「医師の職責」に、あるいは「現場」に委ねるなら、「可哀相」なのは医師であり、現場だろう。ナイーブきわまる理想論であるが。トリアージにあって、「見捨てられる」者があることは、結果論である。トリアージに「加担」するすべての者は、ひとりでも多くの者を救いたく考えて、そうしている。もしホロコーストに例えるなら、彼らはハイドリヒであるはずがなく、オスカー・シンドラーであるだろう。


そしてシンドラーがそうであったとされているように、彼らは自らが「見捨てた」者のことを考えて事後「葛藤」する。むろん、彼らが「見捨てた」ことは結果論ではない。シンドラーがそうであったように、彼らは「見捨てた」者について、見捨てると自ら判断したのだ。その判断を担保する普遍的根拠など、あるはずがない。ゆえにこそ、彼らは「葛藤」する。


むろん、「見捨てられた」者はその関係者は「見捨てた」者をその関係者を恨んで構わない。ただ。見捨てられた者と見捨てた者を敵対構図において必ずしも描きえないからこそ、この問題は厄介であり、悲しいことでもある。そして「可哀相」なことである。見捨てられた者はむろんのこと、見捨てた者も。そのような判断を下さざるをえなかった人たちも。処理とは解決ではない。現場における処理を、事後において人の感情は解決せんと、葛藤の中、いまなお取り組み続ける。


人命を、生死をジャッジする判断を担保する普遍的根拠など、繰り返すがあるはずがない。そもそも人命は生死はジャッジされるべきものではない。本間丈太郎先生も言ったではないか、「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」と。もっとも、本間医師はいかなる状態にある命も人為によって生かさんとするBJに対する戒めとして逆の意味で言ったのだが。自らの身をもって。命をもって。


人命を、生死をジャッジする判断を担保する根拠を「医師の職責」に、ひいては個人としての判断に帰するなら、それも全面的に帰するなら。――私が想起するのはラーチ医師の姿だ。そしてそれは、かつて養老氏が不謹慎を承知で言ってきたことでもある。


「全体や組織から見た最適」のごとき、人間性を抑圧し人命を結果的にも奪う「普遍的根拠=「万能のプロセスの自動的な適用」」の僭称。それをサイダーハウス・ルールと、私たちが示すなら、私たちは誰しもが、その職責において、あらゆる職責において、そして個人として、ラーチ医師たらねばならない。人命を人間を資源として扱わないよう、己の全存在を賭けて。孤児院を運営する堕胎医と、やがて己の使命に気付く、孤児として生を享けたその息子のように。


あるいは。人間の生死を判断する普遍妥当な根拠なきとき、誰かがその判断を職責において、あるいは個人として、負わなければならない。かつて脳死問題に際して養老氏はそう言った。近親者にとっては、遺体さえ死者ではない。いわんや「死にかけている」なら。むろんそれは、御本人も承知している通り、妥当性を欠く議論である。ラーチ医師が「妥当」な医者でないように。だからこそ、サイダーハウス・ルールサイダーハウス・ルールであると、彼らは暗に示しうる。


貴方は、そのようにありえるか。サイダーハウス・ルールを、サイダーハウス・ルールと、それに過ぎないと、行動において、責を負い、示すために。アーヴィングは、かつてそう問いかけたと、大昔に読んだ小説を思い起こし、私は勝手に考えている。


サイダーハウス・ルール〈上〉 (文春文庫)

サイダーハウス・ルール〈上〉 (文春文庫)