不幸な男と幸福な幽霊


痛いニュース(ノ∀`) : 「痴漢です!」と助け求めるも、乗客動かず…“鬼畜男、JR車内で女子学生に暴行・強制わいせつ”で - ライブドアブログ

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L.A.コンフィデンシャル』のラッセル・クロウが乗り合わせていたなら、男は走行中の列車の窓から放り出されていただろう。昔、愛読するテキストサイトの映画レビューが作中のラッセル・クロウを「女に暴力をふるう男を絶対許さない刑事」と表現していたことに、私は軽い違和感を覚えたものだった。間違ってはいない。Wikipediaの登場人物紹介から。

バド・ホワイト(Wendell "Bud" White)・・・ラッセル・クロウ


幼いころにベッドの上で母親が父親に虐殺されるのを目の当たりにしその事件以来、女に暴力を振るう男を憎む。エドとは互いの正義の考えが違うためたびたび衝突する。リンに想いを寄せている。


エド・エクスリー(Edmund Jennings "Ed" Exeley)・・・ガイ・ピアース


35歳で殉職したL.A.P.D.の伝説的な刑事の父を持ち目標にしている。首席で警察学校を卒業したエリート刑事。曲がったことを嫌い出世の為なら仲間の不正を告発するという強い正義感を見せている。

L.A.コンフィデンシャル - Wikipedia


たぶん。映画を知らず原作者を知らない人に、作中のラッセル・クロウを「女に暴力をふるう男を絶対許さない刑事」とだけ端的に説明したなら、青島俊作のごとき正義感を持ち合わせる「いい奴」と了解しかねない、とは思う。むろん、いや私が見る限りは、ということかも知れないし、そもそも最後に観たのが幾年も前のことなのだが、作中におけるラッセル・クロウ演じるバドは、そのような人物ではない。映画においても、むろん原作においても。


私がスクリーンに観るバドは「正義漢」でも「よき警官」でも「いい奴」でもない、「色々と大変な奴」である。そして、彼程度に「色々と大変な奴」は世に溢れているし、彼程度に懸命に、自滅せず法を超えないよう七転八倒悪戦苦闘して生きている。1950年代のロサンゼルスに限ることなく。


バドが「女に暴力をふるう男」を許せないのは、べつだん正義感ゆえのことでも理性と公正への希求ゆえのことでも人権思想ゆえのことでも「いい奴」だからでもない。彼は結果において、たとえば映画中の彼に救い出された少女にとって「いい奴」でありうるが、むろん彼は自身のことを「いい奴」と思っているはずもない。彼にとってそれはどうしようもないことなのだ。


彼は自身の内なる憤怒を飼い慣らせず陶冶の意味も知らない。そして彼は自身も他人も傷つけ続け刑事仲間からは始終自棄になっているとも取られるが、実際には、自棄になっていないからこそ彼はかろうじて荒事担当の警官を続けている。当時のL.A.において誰しもそうでありえたように、暴力警官として。


アメリカにあって警官とは何か。正義と公正のため身を賭して職責を果たす者のことだ。そして、バドのような男こそ、正義と公正の使命を果たすための「よき警官」として合衆国は必要とする。


自身の背負う個人的憤怒のもと、向こう傷を恐れるどころかいかなる危険も省みず己の身を使い捨てるかのごとく無茶を繰り返し悪人を半殺しにし、あるいは躊躇なく殺す、実存において傷ついた男バドこそ、掛値なしに「よき警官」であり、理性と公正という正義を掲げる合衆国において、法の執行者たる資格を持ち合わせた適任者であり、彼のような男が、あるいは女が、合衆国の掲げる理性と公正という正義を執行し貫徹するべくサーチアンドデストロイの員として必要とされている。


そして、バドもまた、合衆国の奉じる理性と公正という正義において、自身の個人的憤怒を庇護されている。法的にも、内心においても。破滅しないため、彼は警官として在る以外にない。バドのような男こそ、合衆国にあって正義と公正の執行者として適任の「よき警官」である。そして。個人的憤怒を抱える男バドは、自身が正義と公正を執行しているとは内心つゆ思わないが、しかし合衆国の正義と公正に自身の憤怒を供犠として捧げるその機構と構造について、同意することなくとも了解している。刑事であることにおいて。


正義と公正において、合衆国に溢れる凄惨な暴力とその大地から生み落とされた逃れ難い個人的憤怒が、メフィストファウストのごとき形而上の取引と誓約を交わす。それをして、合衆国の理念と言う。それが、アメリカである。そのことを彼の国の司法警察映画は小説は、飽くことも倦むこともなく描き主題としてきた。


そして。斯様な「アメリカの影」としての合衆国の理念を個人のきわめて私的なトラウマとオブセッションにおいて実現されるものと見なし示したのが、80年代に登場した、ジェイムズ・エルロイの小説世界であった。少なくとも、私は彼の小説をそのように読んだ。その主題の軸線を際物めかすことなく丹念な人間ドラマとして再構成し描いたのが、監督カーティス・ハンソンであり、ラッセル・クロウは、バドの、通り一遍に言われる類の「正義漢」でも「よき警官」でも「いい奴」でもない「色々と大変な奴」振りを、シリアスかつ哀切に表現しきった。


映画の結末。バドのような男こそ「よき警官」であることを、名優ジェームズ・クロムウェルの、善悪を貪欲に消化しきった痩せた背中が示す。年若く逞しいバドは、しかしガイ・ピアース演じるエド同様に善悪に引き裂かれ傷つき続け、エドがかたくなさをつね見せるその瞳に彼はやるせなさを漂わせる。クロムウェル演じるダドリー・スミスは、そのようなバドとエドに「よき警官」たらんとする機会を与える。


「よき警官」は、実存において傷つき個人的な憤怒を抱え善悪において混乱していなければならない。さもなくば、正義と公正という合衆国の理念において内なる取引を持ちかけ誓約を交わすことかなわない。メフィストは悩み迷えるファウストをこそ誘惑する。


正義と公正は暴力の大地に産み落とされた生まれながらの罪びとの耳元に常にそして執拗に囁く。『インファナル・アフェア』の終焉において、善人になりたいと、アンディ・ラウが叫んだように。むろんのこと、真実は、常に死者のもとにある。生きることそれ自体が罰であり虚偽である。ということで、真実は聖杯は、生きている限り見つかることはない。


『心臓を貫かれて』Shot in the Heartの訳者あとがきにおいて村上春樹は記した。

 歴史的に見てアメリカそのものが、激しい暴力によって勝ち取られ、簒奪された国家であることを思えば、その呪いが今ある人々を激しく規定することも、また理の当然であるといっていいかもしれない。アメリカの建国にあたって人々が光として高くかかげた、理性と整合性への愛は、結果的に暴力によって報いられることになった。そしてもたらされるのは、圧倒的なまでの荒廃だ。(P610〜611)


僭越ながら私が思うに。アメリカが掲げる光としての、理性と整合性への愛は、最初から暴力によって規定されていたし、いまなお規定されている。激しい、すさまじい、そして内攻した暴力に。孤独な個々人の、トラウマとオブセッションに規定されて、理性と整合性への愛という合衆国の掲げる光は存し、いまなお輝いている。光と影は、そのとき一致するものとしてある。言うまでもなく私はそのような米国を批判しているのではない。


そもそもが。理性と整合性への愛を、激しい暴力にさらされることなくその大地に産まれ落ちることなかった者が、切実に欲し、希求するだろうか。『ノーカントリー』においてコーエン兄弟が柄にもなく直接的な言葉をもって説いたのは、そのことだったろう。むろん、他なる解は幾らもあって、現在ならPTAの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』はひとつのアンサーたりうる。コーエン兄弟は、私は好きだが(『ビッグ・リボウスキ』が最も好き)、インテリに過ぎる。一方では『24』が大ヒットしている。血と暴力と理不尽にさらされ深く傷ついた個々人の内なる正義と公正としての、理性と整合性への愛たる掲げられた光としての、そしてメフィストフェレスの囁きとしての、アメリカ。合衆国。連中は自己言及が好きすぎる。


血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

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何を言っているか。冒頭の事件とその反響に戻る。一年前に同種の事件が百家争鳴を呼んだ。現在、正義感とか公徳心とか勇気とか覚悟とか、書くのも空しい心境に私はある。この一年で改めてわかったことだが、日本社会はそういう状況ではない。


日本社会のよき規範性を、少なくとも机上の言論においては買いかぶり高く見積もってみせたく思っていたけれども。当事者問題に第三者が介入することのトラブルコストの蓋然を人が先んじて算定することが、加えて蓋然算定の一定の妥当性が、自明な社会にあって、このような事態とその頻発はまったく当然の帰結であるだろう。報道を受けて殊更に唖然としてみせることでもない。


社会を構成する私たち個々人が云々、というふうに議論を組み立てることに、ことこうした案件においては、意味を見出せるものか現在私はわからない。バドのような不幸な男に対して正義と公正という理念のもと「善人」の誘惑を耳元で囁くシステムも社会規範も、むろん宗教的基盤もない。日本社会に正義と公正という理念なき代わり、血塗られた暴力の歴史もさしてなくまたあったとしてもそれはアメリカと比して現在の私たちを殊更に強迫するものでもない。良くも悪くも。


バドのような不幸な男は本人の心がけにおいて個人として自前で自腹切って理性と公正という正義との誓約(=pledge)を調達しなければならない。だから。日本にあっては誓約を調達し損ねてあるいはその契機すらなく形而上の正義の所在さえ知らぬままに破滅して血塗られた中に沈む不幸な男たちが大勢あることも、当然のこと。「理の当然であるといっていい」。それは、死刑存置されるに決まっている。



ショーン・ペンジャック・ニコルソンによる上記の映画もまた主題として示した通り。正義とは、個々人の個人性に基づくパラノイアックなオブセッションの帰結として実現されるべく用意される永遠の空席でもあるのだろう。社会正義を論じることが冒頭のような事態を抑止するべく為される議論では必ずしもないことは言うまでもない。バドのような不幸な男を、否、エルロイが描くような心ならずも血と暴力に憑かれた男たちを前提において疎外して展開される議論であるから。


血と暴力と無縁でありたい人が密室における狼藉を抑止しうるか、公徳心の涵養よりは公共機関における監視カメラ導入等の防犯システムを徹底構築するべきだろうし(監視社会万歳)、そうでないなら昨年の大顰蹙買ったライブドアPJ氏の主張を一般論として改めて説く必要があると考える者があるだろう(自分の身は自分で守れ)。いずれ殺伐としている。


深夜にTVで観た。


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作中の「グランパ」こと菅原文太は、電車内での性犯罪をひとり軽々と制圧するのだが、それは、やくざ者でないといえ彼が世間と社会の法の外にある列外者であることが前提されている。そして結末において、グランパは生きることに倦んでいたのだと、石原さとみ演じる孫娘は呟く。


映画において、徹頭徹尾、彼は社会に生きる者ではない。世間に生きる者でも共同体を信じる者でもない。その一切から疎外されているがゆえに飄々と法を超え失う物なくそして世界に未練ない。むろん彼は、たったひとりの孫娘に対して愛情を示し、想い出と深い印象を遺すけれども。


出来においてもあまり成功している作品とは言えないが、「グランパ」をあらゆる意味で浮世の者としなかったこと、それを明示したことに、制作者の認識と意図があり、かつ、菅原文太の主演が指し示す作品全体の意味がある。


文太ニイさんの住む場所は、もはやこの世のどこにもないのだ。少なくとも現代日本社会には。そんな幽霊のごとき文太ニイさんだけが、作中において正義を為しえる。幽霊の為す正義に法も社会も警察も関係なく、すなわちそのような正義は意識される正義でも社会的に規定される正義でもない。本作はファンタジーと作中において明示される作品であって、リアリズムではまったくない。


米国のような理念も、またそれを規定する暴力も、個々人の内心に囁く善の誘惑もなき現代日本にあって、正義とは幽霊の為すものであり、幽霊しか為しうるものでない。少なくとも、天下国家にかかわらない、たとえば電車内での性犯罪のごとき、些細な事象については。そのような話と、私は勝手に了解した。むろん、その批判的含意を了解した、と念の為付しておく。原作は未読。


バドのような不幸な男かグランパのような幸福な幽霊が乗り合わせていればね。他に議論の余地があるか、そもそも机上において議論すべきことか、こうした件について私はわからなくなっている。現実の暴力において正義とその行動を問うことは難しい。公に問うまでもないことのように私には思える。もっとも、正義を問わないなら、監視カメラと「自己責任論」以外の理路はない気もする。集団心理云々には関心がない、というか暢気な議論と思う。


私の場合。内的には検証済の話だ。状況次第相手次第当方の虫の居所次第。バドのようには発火しないというか真逆だが、あまりに目に余ったら止める。そして布団の中で枕を抱き自身を恥じて勝手に呻くのだろう。毎度のごとく。

L.A.コンフィデンシャル 製作10周年記念 [DVD]

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