MANWOMAN INTERFACE


服なんて女の子に選んでもらえばいいのに - good2nd


以前も書いたけれども。


服飾産業が俺にもっと輝けと囁いている - 地を這う難破船


女、というか異性に自分の服装云々されること自体が微妙であったりする。「異性から見て」ということなのだろうけれど、別に殊更にそういう基準で服装選んでおりませんので、という。人はモテることを一義に考えて服を選ぶのか。いいトシこいてなお。


私は、自身の服装はじめライフスタイルにはさしてこだわりないくせに他人の服装はじめライフスタイルとその対外的な表現に関心持ち合わせる窃視者なので、都築響一吉永マサユキの仕事を愛することと同様に他人の外見や固有のライフスタイルとそれに付された署名性に関心しきりで、ゆえにこそ映画好きでもあるのだが、とはいえスノッブな服飾の知の体系に殊更に関心あるわけでもなく、そもそも服装が自己表現であるならスノビズムと必ずしも符合するものでもないとは思う。


私は己を棚に上げて同性(特に中年以上)の服装を眺めるに留まらず云々したり見立てたりする方がよほど好きで(だからゲイと誤解される。服に詳しいわけではまったくない)、異性のそれについては、貴方がそれを好きなら宜しいのではないでしょうか、としか言いようがない。


繰り返すが、男女問わず、人は必ずしも異性の視線というかウケを前提して服選ぶものでもないだろう。趣味と好みと自己表現の問題であるから。換言するなら同性の先輩に対する憧憬の問題であるから。女性ファッション誌の人気モデルはそうした存在としてあるらしく、そして私は『スカーフェイス』の素晴らしさをひとまわり年下の女性にわかってもらおうとは毛頭思わない。人間が着替人形であるなら一切は早い、が、残念ながら現代人には自意識がありプライドがある。「オタク」であろうと「スイーツ」であろうと「ビッチ」であろうと。


ファッショナブルとしか言いようがない行動様式においても洗練された現代高校生の刹那な消費行動に渋谷のオサレな店まで付き合わされてどっちがいいとか訊かれても、スカーフェイスを愛する三十男としては何もコメントしようがない。いや良し悪しと適不適はわかるが。元がいいし若いしと言って茶を濁す。渋谷には縁も馴染みもあるし今となっては好きな街ではあるが。


付き合っている男に自身の服装に対するコメントを求めてはたして男の言うことを真に受ける女はあるかと思っていたらその人曰く、あるらしい。「自分がない子」には特に。いやあることは知っているが、私の知る人には、コメントさせるだけさせて、真に受けた人はいなかった。それはテキトーに言っていることが一目瞭然だから、戦後芸能史やらモダンアート史やらガロ盛衰史を勝手に語っているときと比して、関心の配分が覿面に過ぎる、そのことに対して当てつけていたのだろうし、当てつけている。そう高校生に言われた。


スノッブな服飾の知の体系については、耳年増もあるだろうが環境的にも彼女は私よりはるかに詳しい。薀蓄を勝手に語る性分は私同様で、御陰で勉強にはなるが、聞いた後で固有名詞はすべて飛ぶ。そして私自身の趣味と好みと自己規定が変更されるわけでも必ずしもない。戦後事件史や映画俳優のことはいまなお容易に記憶しうるのだが。


その人はテキトー(ととりわけ彼女には映る)な風体の私に服を見繕いたがっているらしいが、私はかつて恋人から勝手にプレゼントされた(私は小泉純一郎並みに贈答文化に関心ない)ハンカチも使わずネクタイも締めなかった前歴ある男で。小林信彦も言っていたが、自分のネクタイは自分で選ばないとヘンなことになるだろうししまらない気分にもなるだろう。確かに、ネクタイの柄で人はモテるものでもないが、ネクタイの柄を人は見る。社会的に。そういう微細な話ではある。


どうでもよいが、我が親父もそういう人で母親はいまなお始終愚痴を言っているのであった。女が折角選んだ色彩鮮やかであったり今風であったりする服を着ない、服は安物を当人以外には窺い知れないこだわりのもと自分で選んで買って着て泰然。女に言わせると地味で無難で陰気で無趣味。むろん女を嫌っているわけでも当てつけているのでもない。


私は同性というか同族のよしみでわかるので母親に言う。それが親父の、いや、多くの日本の男の自己主張ならず自己規定です。そして母親はやはり父子と、厭なところほど似ると、昔から私に呆れている。ところでこういうありふれた話を二十歳にまるで満たない女性に述べるべきか。


脱ヲタ出来たのでまとめる。


オタクとは外見の問題ではないことが改めてよくわかりました。という感想。『アメリカン・サイコ』におけるパトリック・ベイトマンの滔々たる音楽薀蓄を思い出した。作中に頻出するベイトマンの一人称における内なる音楽語りは、同族ならず「異性」に開陳したなら、話柄の一般性と内容の妥当性にかかわることなく、キモイ、でFA。上記増田のファッション語りと同様に。


むろんのこと、ベイトマンは知らず、オタクで悪いと私は思ったことがない。問題の要諦は、オタクとされる個人の個性にあるのではなく、「話柄の一般性と内容の妥当性にかかわることなく」「異性において」オタクがキモイとされる、と世に見なされるところにある。


アメリカン・サイコ

アメリカン・サイコ


結局のところ。オタクとはインターフェースの問題と、改めて思う。あるいは、オタクが所謂非モテへと帰結しうることに、インターフェースの問題がかかわると。人には、とりわけ男には、と言いうることかも知れないが、個人性に基づくこだわりが所在する。そのこだわりが表沙汰とされることにおいて世間という社会にあっては受け容れられるものでなかったとき、個人の個人性に基づくこだわりは実存問題へと公的に問題として転化される。むろん、世間という社会の不受理には、通念としての成熟規範がかかわる。「大人になってもアニメなんか見て」という類の。


然りて。成熟規範の機能不全が自明化した(浅田彰氏なら「幼児化」と言うだろう)90年代以降の日本社会にあっては、個人の個人性に基づくこだわりが実存問題へと公的に問題として転化される契機もまた失われる。流通観念において換言するなら「オタクの浸透拡散」ということではあって、オタキング氏の「オタクはすでに死んでいる」もまたその事態を指しての指摘であり、その点に限るならそれは妥当。岡田氏にとっての「オタク」とは定義においても「萌え」を含まない。


世間という社会における通念的な成熟規範の抑圧のもと実存問題へと公的に問題として転化される個人の個人性に基づくこだわりを、岡田氏は「オタク」の問題として、公的に議論されるべき社会問題として言挙げた。岡田氏が企図し志向したのは、世間という社会の規範と、個人の変更し難い個人性との、インターフェースの調停と刷新であったろう。90年代、地下鉄サリン事件以後という時代が、宮台真司氏らと同様、岡田氏の八面六臂の活動の背を押した。氏は最近、記した。いまなお常に活目すべき言葉を示す。

 みんなのため、というのは「フロン」や「オタクはすでに死んでいる」を書いたときの動機です。アニメ作りを辞めたとき、僕は人生の第二の目標を「この世界の不幸や苦痛の0.3%ぐらいを軽減する」ことに決めました。「フロン」や「オタクは〜」というのは、それぞれの社会カテゴリーで「無用な苦しみを受けている人」への処方箋として書いたつもりです。

昨日の番組の話: 【今日だけダイエット】のススメ


世間という社会の理不尽な規範において抑圧される、変更し難い個人性に規定された個人の「無用な苦しみ」を軽減すること。岡田氏の言論に留まることない活動の一切は、確かにそのためにあった。私もまた、かつて氏の活動や言論や存在によって「無用な苦しみ」を軽減された者のひとりとして――現在の私は氏のよい読者ではないが――いまなお感謝とリスペクトを忘れることはない。


そして。世間という社会の成熟規範が「個人の個人性に基づくこだわり」に対する抑圧としての機能を縮小し、「趣味の問題」という認識が広範に共有され前提される現在、岡田氏は問題から半ば手を引き、育児や恋愛やクリエイティブや肉体に即する「世間という社会の理不尽な規範」と向き合い、思考と言論を駆使して、また個人の個人性を裏打ちする気まぐれのもと、マスメディアを舞台として、商業的に、戦ってきた。戦っている。家族幻想恋愛幻想クリエイター幻想、そして自己管理幻想と。岡田氏は岸田秀氏の影響を公言している。


むろんのこと、世間という社会の理不尽な規範は、たとえば性愛の問題に対して、2008年の日本においてなお抑圧的に機能している。対する異議申立がレジスタンスが「萌え」の戦線として、あるいは「非モテ」の戦線としてあるとき、岡田氏はその戦線を自らの戦線とはしなかった。そしてそのことを公言してきた。


ゆえに氏は現在も批判されているのだろう。氏は世間という社会の理不尽な規範を性愛の問題に対しては積極的に問うことなかった。なぜか。「無用な苦しみ」を軽減するためのインターフェースの刷新の問題として問題を設定し続け社会的に問い続けたから。自身の任でないとする岡田氏の判断は、必ずしも不当ではない。


世間という社会の理不尽な規範による抑圧に基づく「無用な苦しみ」を自身の実存として、あるいは個人性として、自己規定し、あまつさえそれを公言することは了解しかねる。それが「貴族」たる岡田氏の根本認識であった。ゆえに氏は、本田透氏が自ら規定する個人性とその実存には決して共鳴することなかった。『電波男』が、世間という社会の理不尽な規範による抑圧に基づく多くの人の「無用な苦しみ」を軽減したこと、それを先んじて認め最大限に評価しながらも。――いや、そうであったからこそ。


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かくて「非モテ」は、マルクス主義恋愛資本主義もそっちのけで、自ら規定する個人性としての実存として、好き好んでこじらせるマインドとなった。岡田氏と見解立場を異にするみうらじゅん氏と伊集院光氏は、確かに明察にして卓見であったし、正鵠を射てもいた。そして岡田氏はその言説空間から去った。


むろんのこと私は、好き好んでこじらせて構わないと思う。そもそもがマインドの問題であるなら男の大半は「非モテ」であって、ゆえにみうら氏や伊集院氏は掛値なしの人気者であり、一方、岡田氏はあまりにも、日本にあってはいまなお珍しい「マッチョ」であったということだろう。


何の話か。good2ndさんの提言は、斯様な「マインド」の問題を捨象している。「男心をわかってない」という指摘がブコメにあったけれども、「男心」としてよいかは措き、そういうことと私も思う。加えて、インターフェースの問題に対する了解がない。


そもそも。「非モテ」に対して「これこれこうすれば世間という社会における恋愛コードに対する自身の合意を明示しうる」とサジェスチョンすること自体が、宛先違い。家元本田透以来、「世間という社会における恋愛コード」の是非を問うているのであるから。すなわち、前提の問題。世間という社会における恋愛コードに合意した覚えはありませんが何か、という。

 うーん、馬鹿にされたくないってだけなら「典型的なヲタファッション」だけ避けて清潔にしてれば(「清潔そう」に見えなければダメだけど)、もうそれでいいんじゃないのかなぁ。だってアレってわざわざしてるんじゃないの?気がついたらいつのまにか…てわけじゃないでしょ。あちこちで「アレはちょっと」って言われてるんだから、そういうのだけ避ければもう普通だと思うけどなぁ。あれがいいとかこれはダメとか細かく言わなくても十分な気がする。髪切ってヒゲ剃ってサイズの合ったボロくない服着てれば十分なんじゃない?色の組み合せなんてオタクじゃなくたって大抵の人は無難でテキトーじゃん。


 でもさー、もし好きで「ヲタファッション」やってるんなら別に馬鹿にされたっていいじゃんねー。言いたい奴には言わせておけば?と基本的には思いますけど。自分の趣味に自信ないのかなぁ。


「ヲタファッション」に対する標準化のススメ、あるいは「自分の趣味に自信を持つこと」について。所謂「ヲタファッション」とその前景化とは「個人の個人性に基づくこだわりが実存問題へと公的に問題として転化される」ことの帰結ではあるが、それは換言するなら、オタクにおける、世間という社会に対するインターフェースとしての対応であって、それをして本田透氏は「護身」「喪闘気」と名付けた。


つまり。マインドがインターフェースとして開示される服装は必ずしも自己表現とは言い難い。ゆえに「自分の趣味に自信を持つ」云々の話とすること自体が、この場合は無理解を意味する。


個人の個人性が性的なファクターを介する標準性に即してジャッジされる状況に対するやむなき異議申立であって、対するに「もし好きで「ヲタファッション」やってるんなら別に馬鹿にされたっていいじゃんねー。言いたい奴には言わせておけば?と基本的には思いますけど。自分の趣味に自信ないのかなぁ。」というのは、あまりにも見識がない。自身の文化的/社会的前提において他者を忖度するべきではない。個人の個人性が性的なファクターを介する標準性に即してジャッジされることを、私は理念的にも否とする。かつて沢尻エリカが叩かれたことはその点において間違っている。


本田氏は性愛における自身の主体的な選択権と決定権を「オタク」に取り戻した人であり、ゆえに、その攻撃的な言説と認識のコペルニクス的転回としてあった数々の名言と造語が圧倒的な支持を得た。本田氏が説いたのは、一義に「オタクの性的な自己決定」とその公的な主張のススメであった。が、本田氏の言説が紛糾を呼んだのは、それに留まらなかったところにある。

 で、服になんて興味がないからその「普通」がよくわからないという人は、女の子にでも見てもらうのが一番いいと思うんですよ。変にルールがあれこれ書いてあるマニュアルに頼るくらいなら、信頼できる人に頼ったほうがいいよ。マニュアルとか Tips とかいうやつは君のことなんか考えてくれないんだから。女の子ったって、一緒に買い物に行くだけなら別に彼女とかじゃなくてもいいでしょ。姉妹や親戚だっていいんだし。そういうの苦手な女の子じゃもちろんダメだけど。


 なんつーか、恋愛したくて服装を変えようっていうのは順序が逆だと思うんですよね。服に関心がある子だったら絶対に付き合いはじめてから「どんな服が似合うかなー」とか真剣に考えてくれるから。まかせればいいよ。それか、一緒に自分の好みを作りあげていけばいい。服のせいで出会いがない、ていうのはあんまり説得力を感じないんですよねえ。だって皆GパンにTシャツとかでデートしてるじゃん。ていうか服が少々ダサくたって、どうせもっと致命的な欠点が山ほどあるに決まってるよ。人間だもの、誰だってそうだよ。でも恋愛てそういう欠点を飲み込んじゃうものでしょ。だから服くらいそんなに関係ないんじゃないかという気がする。いやまあ、服を変えて自信をつけるっていうのは主観的な効果としてはありそうだけど。

 モテたい?それは無理。服くらいでモテたりモテなかったりしないでしょ。それよか誠実な恋愛したほうがいいと思う。


我が妹は兄貴のごときステテコ野郎とは出歩きたくないそうだがそれは措き。結部の一節、モテるモテないの問題ではないそういうこととしか考えられないところが童貞だよなほんとおまえらは、と含意すると読んだ、ではなくて私が私の見解において勝手に含意を追加した、のでむろんgood2ndさんはそのようなことを言っているのではない。私の見解と厳に断るが、確かに、恋愛知らずは恋愛のニュアンス知らずであるし、性愛知らずは性愛のニュアンス知らずである。ニュアンスを全面的に捨象されたとき「本当の恋愛/性愛の話をしよう」と言いたくなりはするかも知れないが私はそうはならないしべつだん本当の恋愛やら性愛やらを知っているわけでもない。つか「本当の○○」は犬も食わない。そして今日も人は増田を読む。私も。


本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)


オタクとは、本来的に、世間という社会の規範と、個人の変更し難い個人性との、インターフェースの調停と刷新において帰納的に問われ規定される概念である。その意においては、いや私自身の見解においては、内在的に意味了解する概念とは一義には捉えない。岡田氏の議論はその点においてきわめて両義的である。


本田透氏にあっては、世間という社会とその規範性を「女」において問い、「非モテ」の議論におかれては、世間という社会とその規範性を「モテ」として問うた。ゆえに、かつて「女オタクと男オタクの相性」的な議論が、主に岡田氏の周囲において活発かつ真面目に問われた。「女」が世間という社会とその規範性を含意し代表し象徴する存在であるとき、そこから逸脱した「女」は我らの同族たりえるか、と。結論は、むろん無理。ジェンダーはオタクに勝る。


そして。「モテ」を問う後者は措き「女」を問う前者は、ミソジニーの発露たりうるのでないか。それは、オタクや非モテ云々以前に、またマルクス主義恋愛資本主義もそっちのけで、自ら規定する個人性としての実存として、好き好んでこじらせる「男」というマインドの問題でないか。という指摘と議論は当然生じる。


むろんのことモテるモテないと女を嫌う嫌わないは、現実に関係ないし(言うまでもなく私は一貫して女嫌いである)、問題としても違う。「非モテ」はモテるモテないをこそ問うているが、本田透氏にあっては問題は同じこととしてあった、否、むしろ女を嫌厭し忌避することとしてあった。そしてその点をこそ岡田氏は批判していた。むろん本田氏はモテたいと考えてはいない。いなかった。そして。


女を嫌い忌避しておきながらモテたいと考えることは不誠実であるし、だから童貞なのだ、恋愛とはモテの問題ではない、とそういうことは言える。誰に対して言いうることかはわからない。というのは。ことネット(いや「はてな村」か)におかれては、「女」を敵視する人は「モテ」に自身が関与したいと考えてはいないし、「モテ」を敵視する人は「女」全般に対して露骨なミソジニーを表明しているとも必ずしも言えない。


私の見解は。世間という社会とその規範性が「モテ」の事実性を取引材料として抑圧的に機能し発動していることを糞と思うし、対する異議申立には全面的に賛同する。ただ、世間という社会とその規範性を、インターフェースとして規定されたそれであれ「女」において問うことは、論理的にも現実的にも、無理なこと。対幻想に基づいた恋愛コードを強制する類の糞のごとき性愛規範において抑圧されているのはオタク男や非モテに限ったことではない。


規範は必ず抑圧として機能する。恋愛も性愛も腐れ縁も面倒くさく厄介なものではある。恋愛とはコードでなく性愛とは規範でない。対幻想に不適な男女は世に幾らもあるが彼ら彼女らに恋愛する資格なきはずはない。健全な男女関係と健全な交際と健全なセックスと健全な結婚と健全な出産育児と健全な家族関係が前提される世間という社会が糞であることについて、私は全面的に同意する。そのような見解があるなら。


恋人やセックスの相手があって人は一人前とか私は意味がわからない。それは恋愛の有無とも性交人数の多寡とも関係がない。異性を趣味のひとつとするのは、他なる趣味との比重において時期により関心が極端に変動するのは、結局は私の性分である。趣味のひとつが異性であるとその面倒くささゆえに他の趣味に手が回らなくなりがちとかつて言ったのはみうらじゅん氏であったか。私はそれほどでもない。面倒に懲りるがゆえに。散々懲りたがゆえに。用件のない携帯メールは勘弁と最初に言ってEメールで伝言するのだった。


対幻想に基づいた恋愛コードを強制する性愛規範に対する異議申立の戦線において提言される「誠実な恋愛」のその誠実とは、何を指し含意するのだろうか。相互に尊重し合うフェアな恋愛関係など私は信じたことも実践したこともない。坂口安吾が描いた恋愛が規範的であったことなどない。ゆえに安吾は倫理の作家としてある。


世間という社会とその規範性が「モテ」の有無を取引材料として対幻想に基づく恋愛コードを強制する。斯様な認識自体が、某所の議論にあったように世界認識の歪みとその反映であるかも知れない。世界認識に歪みなき人間などない、ゆえにこそ人は精確な世界認識を志向するべきであり、そして『愛のコリーダ』ではないが、恋愛も性愛も、精確な世界認識の管轄の外にある。


恋愛とは性愛とは個人に帰属する歪みであり、ゆえに個人の世界認識を歪める近代社会の「諸悪の根源」であって、対して規範的なコードを設定しそれを「モテ」の有無へと還元する発想と言説こそが、質が悪いと私は思う。同時に。世間という社会に対するインターフェースにおいて「女」を規定する限り、「モテ」という罠からは逃れ難い。世間という社会とのインターフェースにおいて「女」を規定し設定することはやめたほうがよい。


もっとも。所謂「はてなアイドル」とは、世間という社会に対するインターフェースにおいて「女」を規定し設定する前提に基づき、オタクないしGeekの斯様な前提に最適化されたインターフェースとしての「女」としてプレゼンテーションされる、想像上の存在ということではある(ゆえに特定個人を指しているのではない。為念)。


付け加えると「脱オタファッション指南」に「本物のオタク」が召喚されるということは。殊更極端に書くと、オタクとは、一般性を有するアイドルに対して「さぁ! この有様の私を自ブログに出せるレベルまで変身させてみせたまえ!」と自身のプライドにおいて「公正に取引」せんとして先方の善意を破壊し困惑顔に満足する難儀なマインドのことではある。そしてそういう人についてもウェルカムかというと。いずれにせよ。「モテ」という世界認識の外部にある恋愛と性愛の要諦は、蓼食う蟲という言にある。


攻殻機動隊 (2)    KCデラックス

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