問答無用という言明


はしごたんについてmarco11の人が語ってた


――同意。流石Marco11さん、と思った。


またしても非当事者からキチガイ呼ばわりされていたけれども、その文脈的な意味するところはふたつであって。キチガイに殺人予告されたのだから警察行って当然、と、キチガイであるのだから殺人予告へと至りうることを前提せよ、と。どちらも間違っている。キチガイであろうがなかろうが具体的行為のうえ「殺す」と書かれたら警察行って当然。キチガイがいようがいまいが、殺人予告へと至りうることを前提して言動を示さなければならない、と他人に対して公然と要求しうる人間はどこにもいない。


そして何よりも、第一義的にキチガイの問題とすることは、そのように言っていた人が在ったように、彼の人を不可触民とすることと同じこと。この場合、キチガイとメンヘラは違う。キチガイとは「妥当な理路を解さない人」を指しているのであるから。としても、繰り返すけれども、キチガイであるから殺人予告へと至りうることを前提せよ、とは、そもそも現実には困難な話であるうえに、無理筋にも程がある。ところで。「妥当とされる理路を必ずしも解さない人」を容易にキチガイ呼ばわりするの、やめませんか。一般論としても。


危ないと評判の人を公然において徒に挑発してはならないのは路上の世間知ではあるけれども、そもそも「危ないと評判の人」という評判は妥当か。犯罪歴があるという話は聞いたことがない。そして、警察の使いどころを知っているのもまた世間知ではある。


ゲド戦記ではないけれども、「自分自身と戦っている人」の軌跡を指してキチガイとすることを私はまったく好かない。むろん誰しも自分自身と戦っている。彼の人はそれを開示し公開している。そのことに対して第三者の言及があることは当然であって、かつ当人もそのことを前提している。


キチガイとは公然における言行の問題。然るに片仮名のキチガイとは人格批判を含む言葉でもある。つまり。妥当とされる理路を必ずしも解さない人をキチガイとして批判すること自体が、短絡な不見識。毎度の私の持論であるけれども。


具体的行為のうえ「殺す」と書かれて警察に行くことは当然。むろん警察に行かないことも自由であるけれども、それは「殺す」と書かれた当人の判断。行かなかった人はその人のその判断であって、行ったことをもって批判されるべきであるはずがない。付け加えるなら、行かなかった人の、その以前の判断に、寄りかかっていたということでもあるだろう、「殺す」と書いておきながら。私は行かなかった人の判断を了解するが、むろんのことそれは当事者問題であることにおいて度量や寛容の問題であるはずがなく、ましてネットのトラブルはネットで、という話でありはしない。


面と向かって「殺す」と真顔で言われたことはありますか。危なく見える人から、本気で殺しかねないという顔で、刃物をちらつかされて。むろん「危なく見える」「殺しかねないという顔」は主観であるが、「殺す」と言った側が、自分はそんな危ない人じゃあないし殺すはずがないよ、と言うのは、典型的な脅迫者の理屈。びびらせてのち懐柔する。「殺す」と口に出す人間の目的が殺すことではなくてその言明の効果であることは言うまでもない。リアルキチガイにおいてはその限りではない。だから、彼の人はリアルキチガイではむろんない。ただ。特定個人に対する暴力的な威嚇を言明しての脅迫は卑劣なものであって、「たかが脅迫」という物言いは通じるはずもない。


当たり前のことであるけれども。面と向かって「殺す」と真顔で言われたら、大昔の私もそうでしたが、ゴング鳴ります。喧嘩買うということではなくて、リアルキチガイでなければ相手の意図を読む、つまり、「殺す」という言明においてコミュニケーションを図る人があり、コミュニティがある。コミュニティのルールに即して先方のコミュニケーションの意図を読む。そしてそれなりに対応する。


いま言えることは。面と向かって「殺す」と真顔で言う類の人間との喧嘩はブラフであろうと正面から買っちゃ駄目。相手にしないか、気を逸らさせるか、コミュニケーションの意図を汲んでいると示してやるか、現在ならとりあえず謝ってしまう。女連れのときに喧嘩売られたなら買ってはいけない。当たり前だが、行きがかりにおいて暴力沙汰に躊躇がないことは人間ができていないということ。むろん私も自分に嫌気が差した経緯がある。


面と向かって「殺す」と真顔で言われて小便ちびりそうになることはごく普通のことです。ぶっ殺す、誰か情報教えろ身内の名前も、と先方がしきりに言っている、と聞いて恐怖するのも。たとえば恋人のような、大事な存在があるほど。すなわち、年齢長じるほどに。それをもってヘタレとは私はまったく言えない。「真顔で言ったのではないよ」とはコミュニケーションの意図を達した後のそうした手合の常套句です。


私は相手と経緯文脈次第で「スルー」含めて国家権力以外の応対を採るし、経験的にも採りうるが、そしてそんなもん経験しないに越したことない経験に決まっているが、今回被害届を提出し受理された人が過敏とはまったく思わないし、まして稚いとはまったく思わない。そうでないから迅速に判断したのだろう。


人が何に深甚な脅威を覚えるかはその人の判断であって、具体的行為のうえの「殺す」という言明にそれを覚えることを非難されるならそれは間違っている。付け加えると。一方的な「殺す」という言明を介したコミュニケーションとその意図を、認めてよいかという話。私はそうしたコミュニケーションはペストも同様なので意図含めて即刻根絶すべきと思う。


今回の件において、非難さるべきは。そのコミュニケーションを知っていること、用いたこと、そして、彼の人が「キチガイでない」ことを了解し、そのコミュニケーションとその意図を、たとえば私が「汲んで」しまうこと。


私が彼の人をキチガイとしてしまうことをまったく好かないもうひとつの理由は、キチガイゆえに「殺す」と言明しているのではなく、「殺す」という言明を介したコミュニケーションとその意図を、すなわち意図を持ったコミュニケーションとして対外的な交渉をそのように図ることの生み出す軋轢という問題を、ネグることを結果するから。


「ゴング鳴る」と書いたけれども、それは「殺す」と口にした瞬間「コミュニケーションの余地なしと判断されてやむなし」ということ。「殺す」という言明は、リテラルにはコミュニケーションの切断以外の何物をも意味しない。言明した対象の存在を認めないということであるから。存在を認めないと言明しているのだから。そしてそのことについて自身が積極的に関与しうると。


殺意の表明とは相手とのコミュニケーションの切断の言明ということ。余地なしということ。犬養毅に発砲した青年将校のごとく「問答無用」ということ。問答無用をわざわざ言明するのであるから、問答以外のアンサーないしリアクションを要求していると判断したところ、問答でないにせよコミュニケーションであると、たとえば問答以外のアンサーとして追い込みかけた後で、あるいは問答以外のリアクションとして警察行った後で、言う。無理。


口で罵倒して、あるいは「殺す」と口にして、自分の心はそうではないからそちらを了解してほしい、と、そういうコミュニケーションは世に横行しているけれども、それは無理であるし、ネットにおけるコミュニケーションとして稚拙きわまりない。だから、そもそもキチガイの問題ではない。キチガイな言行ではないから。


リテラルにコミュニケーションの完全切断を意味する言葉を吐いた後あれはコミュニケーションであり意図があったと口にするハイブロウなコミュニケーションは、掃いて捨てるほどあふれているが、それを「真に受けて」コミュニケーションの完全切断に即した対応として、たとえば警察に行くことを公に言明した人に対して、リテラシーが足りないと指摘することは――私自身の認識はMarco11さんと同じくするところであるが――筋違いである。


先方がコミュニケーションの完全切断を言明した以上、当方もまたコミュニケーションの不成立の判断と、今後一切のコミュニケーションを切断し棄却する法的対応の選択を、公にします、というのは、妥当な対応。なぜ公開したか。今後一切のコミュニケーションを切断し棄却します、と公に言明しないことには、コミュニケーションの接続と継続を前提されかねない、ということでしょう。「殺す」と言明されてなお。それは普通「粘着」と言う。


脅迫とかログとか措いても、「死ね」どころか「殺す」と口にしたらおしまいです。存在を認めないということであるから。むろん、再三記してきたように、誰かの存在それ自体を認めないことはあってよいし、それを言明し公言しても構わないし、あるいは個人として行動に移しても構わないと、法的な話を措き私は思う。しかしながら。存在を認められない相手と、対話はおろか、コミュニケーションすることはできない。自身の意図を、心を、了解させるべく指向することも。存在を認めないと言明することは、そうした一切の契機を、自ら拒否するということ。


喧嘩上等は御自由。問題は、先に喧嘩を売ったのは、でなく、交渉の契機の一切を先に拒否したのは、ということ。自身の意図を、心を、了解しなかったから、具体的行為のうえ「殺す」は問題でない。ただ、以後一切の契機は失われる、ということ。失って然るべき対人行為であるということ。殺した相手とコミュニケーションすることはできない。殺さんと言明した相手とコミュニケーションを指向することもできない。そして法的な対処を先方が選択したとして止めることはかなわない。


「殺す」という言明は喧嘩の範疇を越える。その言葉が吐かれたとき、喧嘩は終わる。殺し合いは喧嘩ではない。喧嘩を回避し終了させて警察に行くことが非難される理由はどこにもない。脅迫云々以前に、「殺す」は一切のコミュニケーションを交渉を御破産にする言葉であるということ。それは、正しくリテラシーの問題。


最後に。アイスピックを持ち歩いている人間を危ないとかおっかないとかまったく思わないのは私がおかしいのだろうけれども。キチガイにならないためにアイスピックを持ち歩いている人がいる。違法行為だろうが、そういう人は幾らでもいる。それで人を刺したら犯罪者になるだけのこと。犯罪者になりたいとか、自分はキチガイであるとか、彼の人はまったく思っていない。自身の人生について生活について日常について両親について、対する思いについて、丁寧に記し続けている。そしてむろんのこと、彼の人は犯罪者でないし、キチガイではない。彼の人はそのことを、再三再四書いている。その意味がわかるだろうか。


私は、彼の人をキチガイとすることをまったく好かない。自分自身と戦っている人の軌跡をその公開される軌道を、キチガイとして片付けてよいなら、ブロガーの内面語りは大概キチガイである。対人行為の問題であるなら、それはキチガイの問題でないとここに記した。むろん、被害届の提出はまったく正当であり、その受理は妥当でもあり、殺人予告は脅迫は卑劣な行為である。ネットにおかれても。