メロウ1993


昔、書店で『ヒットラーでも死刑にしないの?』という死刑廃止論の立場から記されたと思しき(というのはそれきりで読んでいないからだが)書題の本が平積みされているのを目にして、その『ヒットラーでも死刑にしないの?』『しない』という応答を示しているらしき「キャッチー」な書題に対して、思った。それを我々に説いてどうする。ヒトラーを持ち出すなら、ユダヤ人に訊け。『ヒットラーでも死刑にしないの?』と。


死刑問題とはそういうことではある。死刑廃止論とは原理であるがゆえにヒットラーでも死刑にしてはならない。原理を措いたとき、アウシュヴィッツ強制収容所ルドルフ・ヘスに対する養老先生の論評に尽きる。殺されるに決まっている。あれだけ殺しまくっておいて、無事でいられるはずがない。ヘスに限らず、何百人と殺しまくっておいて、無事でいられると考える方がおかしい。間接的殺人については話が違うので棄却。


ヒトラーは、類的に生きるべき人間と死ぬべき人間があることを確信し、イデオロギーとし、ナチス・ドイツにおいて政策的に実行した。そして確かに、自身の思想に基づき、アーリア民族の敗北を確信したとき自殺した。敗北し死ぬべき民族の運命など知ったことではない。付け加えるなら、イスラエルは公式に死刑廃止国である。生きるべき人間と死ぬべき人間は、いまなお国家のイデオロギーを基盤として様々に取引される。


私は、憲法に規定されてある限り基本的人権とは国民が国家に対して守らせる最低限綱領、と考える。むろんそのとき国家が守る人権は国外へと、すなわち成員の外へと及ばない。基本的人権とは普遍原理ではあるが、日本の誰も中国のいわく国内問題を強制的にSTOPさせることはできない。


私は、国家がその成員を法に基づき公式に殺害することを認めない。ただし。民主政国家において国民の社会的意思が死刑の存置を選択するなら、そのことに同意する。重視さるべきは、民主政国家において国民が国家に対して成員の法に基づいた殺害を公式に付託していることである。仮にも統治行為論の範疇ではないが、民主政国家においては手続的な正義が第一義的に履行さるべき。死刑が基本的人権の尊重に反していようと。


少なくともその点において、日本の死刑制度は中国のそれとは違う。アムネスティ・インターナショナルの主張に私は必ずしも賛成しない。主権者たる国民の意思決定とその手続的な正義の問題であるから。言い換えるなら、立法の問題ということ。私が考える筋論としては、そうなる。ゆえに。国民の社会的意思が、国家がその成員を法に基づき公式に殺害する行為たる死刑の存置を選択することのないその日を志向して、私はこうして幾度も発言している。


鳩山法相の度重なる執行命令は、国民が権利を付託したその結果である。言い換えるなら、鳩山法相の度重なる執行命令に、市民社会の正義は存する。そのことを「どうかと思う」なら。むろん鳩山法相の問題ではなく、私たちが国家にひいては法相に付託している権利の問題である。死刑ある限り存する、死刑の執行権という。それを私たちは、鳩山邦夫という法務大臣に付託している。なるほど鳩山氏はただ仕事をしているだけだ。国民から付託された権利に基づき、日本国の法務当局の最高責任者として。


話転じて。ブクマ経由で目を通した。


http://www.ohmynews.co.jp/news/20080424/23925

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http://staki.staki.tk/stakilog/index.php/2008/04/26/196

http://staki.staki.tk/stakilog/index.php/2008/04/27/197


経験談としての事実と主張としての論旨は区別するとして、前者に対して驚いている人があることに私は驚いた。「こういう子たくさんいる」ことは事実である。私にも憶えがある。私のことではない、とは誤解なきよう明記しておく。「こういう子がいた」ことを思い出す。そして当時、私が彼らを勝手に不憫に思っていたことも。傲慢と浅慮も甚だしい。


未遂の事実とその際の自身の心理を引き合いにして被告の動機を忖度することが当該記事の趣旨であるけれども、そのことには「こういう子たくさんいる」ことに対する市民記者氏の不案内あるいは「想像力の欠如」があるのだろう。自分が特別なわけではない。そして、光市のような事件は日本において稀であるからあれだけ大事になった。それがすべてである。貴方は犯罪者ではない、貴方は被告ではない、市民記者氏にはその言葉を贈りたい。


たぶん現在においてなお感情転移という概念を了解しない人なのだろうとは思われるが、珍しいことでもない。つまり、被害者に対する共感と認識が根本的にないことに対して拒否反応を示すことの妥当に対してこそ懐疑を抱いているのだろう。ゆえにこのような直截きわまる記事を書く。


筆者氏の訪問を受けた相手にとっては驚くどころでなかっただろうことは言うまでもない。筆者氏は今なおそのことに本気で気が付いていないらしい。現在何歳だろう、とは思った。そして、念の為に付記するなら、事件における被告の心情に対する筆者氏の推論は、筆者氏の示す過去の行為とその結末とは直接にはかかわりない。


当該記事の最大の問題は。筆者氏の展開する論旨、すなわち、被害者に対する共感と認識が根本的にないことを性差と年齢と経験の有無、すなわち、未成年の童貞男のゆえ、とする点にある。


問われているのは現在の筆者氏の認識、すなわち、未成年の童貞男は「エッチの対象」に対する共感と認識が根本的にない、それは「国の性に対する整備の欠陥」ゆえのこと、と展開された論旨としての事実認識、ひいては主張である。その論旨が、結部の段落へと帰結する。

 要するに、こういった事件を起こす可能性を持った人間が少なくとも日本に2人はいたということになる。1人はいまこうして記事を書いているし、1人には死刑判決が下った。だから、元少年が死刑になっても、私は今後もこういった事件はなくならないと思う。


 本当は、被害者遺族と元少年弁護団の対決だけではなく、国の性に対する整備の欠陥についても考えられるべきではないだろうか?


 日本には性に対するはけ口があまりにもなさ過ぎる。よくスポーツをすればいいと言われるが、スポーツをするとますます体力や精力がついてエッチをしたくなる。売春や性風俗がいいとは思わないが、思春期の少年の性のはけ口は考えないと、若者の性犯罪は減らないのではないだろうか?


国が為すべきは性の捌け口の調達ではなく教育に基づく分別の涵養であることが改めてよくわかりました、というのが私の感想であるけれども、そして事実、私は性に関して国から何かを教わった記憶がまったくないが、そのことが童貞の悲劇としてあることを、記事を拝見して改めて確認した。


以前も書いたけれども、「処罰されるから性犯罪に手を染めない」人間は多い。大陸における帝国陸軍の所業もむべなるかなではあるが、ゆえに性犯罪は(米軍の軍規がそうであるように)厳罰化するよりほかなし、というのが私の見解で、それもまた「国の性に対する整備の欠陥」ではあるな、とは思う。筆者氏の記す通り「男なら誰でも、思春期にものすごくエッチをしたいと思う時があるのではないだろうか?」「初心者がエッチの妄想で興奮している時は、冷静な行動はできないのではないだろうか?」ということであるなら。私は全然そうではなかったけれども。

 エッチをし損なって殺したなどと、プライドがある男なら絶対口にしたくないはずだ(※編集部注2)。また、エッチの妄想で興奮していたら、冷静になった時、自分が何をしたかボーっとして分からないと思う。


 それに男はエッチをした後、ものすごく冷静になり、たまに異常に落ち込むことがある。自分ではない自分に愕然とするというか「何でこんなことしてるんだろう」と、だから忘れたい気分になっても不思議ではないと思う。そこを弁護団は察することができたのだろうか?


うん、それ無理。「察する」とか良識の埒外。虚脱して自己嫌悪に陥るのでしょ。我を忘れる自らを事後嫌悪する人は多いしよく知っているけれども、相手はたまったものではなかったりするので自重してください。行為の際、自身の激愛>>>相手の反応であったりするとき逆方向に切れて挙句殺して「今は反省している」な人には事欠かない世の中です。


我を忘れるな、という話でしかないけれども。私は、我を忘れられるくらい「エッチ」に没頭する人が興味深い。人間の性は本能ではなく対他において理性的に行使されるから厄介で、自意識とかプライドとか二の次三の次。現在なおそのことに苦しんでいるならカウンセリングの範疇かでFAではあるけれども。アメリカ的には。

 エッチをし損なって殺したなどと、プライドがある男なら絶対口にしたくないはずだ。


プライドというか体面ある男なら口にしたくないだろう。その体面という擬似的な社会性に規定された性規範の問題ではある、が、それが男の社会において任意の関係規範として機能していることを考えるとき、ややこしい。


言うならば、「エッチ」の問題は男たちの体面と名誉において取引され関係規範として機能する、がゆえに、「エッチをし損なって殺した」というのは男の体面と名誉にかかわることになっていたし、端的に、相手の意を損ねて「エッチをし損なう」こと自体が恥ずかしくみっともないこととされた。


この場合、「エッチをし損なった」がゆえに相手の意を損ねたのであって、「エッチ」をしてしまえば相手の意は改めて問われない。そのプロセスも問われない。ま、それで続いている男女も確かにあったりして、私も干渉はしなかった。合意の有無とかそういう話ではない。あくまで男の社会における男同士の関係規範であるから。ということで外部機構において動機形成され続ける以上世にデートレイプの種は尽きない。


幾度も書いているけれども、「男なら誰でも、思春期にものすごくエッチをしたいと思う時があるのではないだろうか?」「初心者がエッチの妄想で興奮している時は、冷静な行動はできないのではないだろうか?」というのが仮にそうであるとして、ちんこに支配される脳のせいではまったくありません。そこから所謂名誉殺人までは、むろん甚だしい距離が存するが、直線の先にあることはある。


男にとっての性規範とは、男同士の関係性において、年長の男から教育され、男たちの中で涵養される。だからこそ小林秀雄長谷川泰子との関係を述懐して「女は俺の成長する場所だった」と若き日に記した。御節介ながら、市民記者氏は『xヘの手紙』読むとよいと思う。


Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)

Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)


むろん、そこから疎外される男もいる。皮肉で言うのではなくて、知的な社会人に読者を持つ女性マンガ家が魅力的に描く男のことであり、それを思春期に読み自身の規範意識の糧とする男のこと。『ハチクロ』読んで「こんな男いねぇよ」と突っ込んでいること自体がアホであって、事実「こんな男」は幾らもある。オマエの持ち合わせる関係規範に端から異性が介在していなかったというだけのことで。異性なき関係性において性規範と関係規範を形成する人間の悲劇というのはあるだろうけれども。しかし余談であるが、ああいう作品に出てくる男は自分が男であることを認識すらしない。


私の認識で言うなら。16歳当時の筆者氏は「稲中卓球部の田中」であるというだけのこと。ああいう奴はいるし、いた。定石通りに気持ち悪がられたり、あるいは一部で敬されたりもした。あのマンガに描かれた、中学男子における異性という存在を介した男同士の連帯意識と関係規範は、とてもリアリティがあり、観察において正鵠を射ており、そしてとても美しい。男の子であることの美しさか。むろん私は田中はおろか前野にも井沢にもなりえなかった。


行け!稲中卓球部(1) (ヤンマガKCスペシャル)

行け!稲中卓球部(1) (ヤンマガKCスペシャル)


私が記事に目を通して第一に突っ込みたく思った点は、本件の被告は犯行時18歳1ヶ月、18歳でその行動はありえないから弁護団もまた被告の幼さを強調しているし、それはそうだろうと私も思う。16歳と18歳は大きく違うし、まして『稲中』の登場人物は14歳だ。


18歳は性的に成熟して当然の年齢、というのが既成の性規範であり関係規範であって、にもかかわらずそうなっていない日本の現状に対して、筆者氏の経験と心理を引き合いにして「国の性に対する整備の欠陥についても考えられるべきではないだろうか?」「日本には性に対するはけ口があまりにもなさ過ぎる。」「売春や性風俗がいいとは思わないが、思春期の少年の性のはけ口は考えないと、若者の性犯罪は減らないのではないだろうか?」――という。それが筆者氏の主張にして提言。正鵠を射ていないわけでもないかも知れないし、頷ける部分がないわけでもない。


私の見解を述べるなら。国が為すべきは分別の教育であるけれども、民間に「ソープに行け」と言って手ほどきしてくれる北方先生がいなくなってしまったのか、ということ。いなくなってしまったはずもない、が、めぐりあわない人は18歳までにはめぐりあわない。私がそれを信じ難く思うのは、私のあまり褒められない育ちのせいであって。


盛大に放言すると、現在の日本において性教育とは実地研修以外なく、そして研修医は10人殺して一人前の医者になる。10人殺したことは黒歴史であって、ネットで書く方が珍しい。私が少年の頃に水谷修先生はブラウン管にいなかった。


真面目な話、貴方はコンドームの正しい装着法を身内や教師から教わったか。私は最初の時、相手の女性から教わった、んないいかげんな被せ方でなめてんのかおまえ、と。幾つか年上の相手であったか。15だったか16だったか。私は何が楽しいかわからないのでソープを利用したことがなく、その当時は筆卸する奴を馬鹿にさえしていたが、10人殺して一人前になる医者よりよほどマシだろうとはいま思う。


だから。「国の性に対する整備の欠陥についても考えられるべきではないだろうか?」「日本には性に対するはけ口があまりにもなさ過ぎる。」「売春や性風俗がいいとは思わないが、思春期の少年の性のはけ口は考えないと、若者の性犯罪は減らないのではないだろうか?」という主張には少し既視観があった。手前の言行を棚上げしていること、「10人殺して一人前になる医者」のその一人目が取り返しの付かないことになったのが光市の事件である、という論旨に基づく推論としての例示がそもそも無理筋きわまることを除けば。


私は思うのだが、10人殺して一人前になった黒歴史を忘れて研修医に正論ごかした説教する自称名医がたまにある。あまつさえ相も変わらず藪医者で次から次へと殺していながら保身に長け御身安泰であったりする。『ブラックジャックによろしく』を読み直せと言いたい。我が轍を踏んでほしくないということならまだしも。『医龍』の朝田龍太郎でありたいものではある。


男同士であれ、男女であれ、性を介した関係規範の通念というか紋切型があって、『稲中』はそれに対するアンチテーゼでもあった。だから素晴らしかったし、90年代におけるひとつの金字塔たりえた。私が、筆者氏の主張に見る不可解は、稲中の田中がなぜ長じて性規範の通念を語るかな、ということであった。主張において取り繕われた社会性とは思うけれども。長井代助が働かないのは近代日本のせいではあるけどそうではないんだよ。


稲中の田中は北方先生に何言われようと洟も引っ掛けないだろう。その寡黙なエロさにおいて我が道を行くところ、彼は前野や井沢に尊敬され一目置かれた。凡庸ならざるスペシャルな奴として。


私は北方先生好きだし尊敬しているけれども、北方先生の名言は、そのテーゼを了解するところにおいて機能する。北方テーゼとは、若者の暴走しがちな性を既成の社会的な鋳型において管理し犬に食わせるべき「プライド」と共に陶冶し成熟させるという規範的な社会綱領。かかる規範は国家ならざる民間において至るところに張り巡らされ機能している磐石の装置である。むろん、第一義的に男の性とは自身一人のものではないことを知ることが社会性とする点、それは正しい。正しいというのは、D.T.力が反社会的行為に帰結するなら、ということであるが。分別が至極つまらないものであることは誰しも知っている。


そして、斯様な犬に食わせるべき社会性に対するアンチたる中学男子のユートピアとしてあったのが『稲中』であり、しかし作家は成熟する。作家とその分別の分身たる竹田の、異性と自身の性に対する認識的な成熟と共に、90年代の金字塔は、『スタンド・バイ・ミー』は、終焉を迎える。最終回の直前において、作家の中の永遠の少年たる前野すら幼年期の終わりと自身の年貢の納め所を知る。作家はそのことを、あたかも終わらないかに見えた『稲中』の世界に遊ぶ同年代/同世代の読者に突きつける。そして作家は更なる成熟を志向し、00年代において新たな金字塔を打ち立てた。犬に食わせるべき社会性の、その真価を説いて。


北方先生の説いた真理は、永遠に勝利し続ける。なるほど男の性とは自身一人のものでなくそれが社会性である。しかし。ゆえにこそ女はケツであり男は少年のまま崩れていく存在であると、そして彼らは『稲中』の京子と前野のごとく無垢な喧嘩友だちであり続けると、成熟しない男たちは諦念と共に示し続けんとする。社会的なエディプス関係において「男」として収まりかえる気はないと。その無理筋を厭というほど知ってなお。人は勝手に年くって、勝手に分別臭くなっていく。私もまた収まりかえってしまっている。その安穏を自らに言い聞かせ好意を笑って流して。


男と女がもっとも美しくあった時代、ケツと手の届かないファックがすべてであった時代に還ろうと、永遠に愚かな少年たらんとして、真実愚かで崩れたトウの立った男になっていく。それが21世紀のスターチャイルドであると、時に私は夢想する。その結果がいかにおぞましくグロテスクなものであろうとも。「スターチャイルド」で検索すると、キングレコードの内部レーベルがトップに来る。


メロウ

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