サンクション二題


第一に思ったことは、もし件の准教授氏が生放送ニュースショーのコメンテーターとして氏名履歴所属専門明示のうえ、当該の発言を述べて、全国の視聴者の大顰蹙を買ったとき、はたして青山学院大学は処分しなかったろうか、ということだった。――しなかったろう。


それでよいと私は思う。准教授氏は二度とTVのスタジオに呼ばれないだろうが、それは准教授氏の仕事とは直接には関係ない。オン/オフとかありえない。ブログに書くということは、日本語を解する誰しもが読みうるワールドワイドウェブに晒すということではある。第二に。著作をものする社会科学の徒は言論の徒ではないのか。


私は、ウェブというのは不穏当なことをコストなく書けるから素晴らしいと思っている。殺人予告とか犯罪告白のことではない。私がそうであるということでもない。そして、コストなく書けるということは常にリスクが伴うということ。


たとえば、小倉秀夫氏の立論は、ウェブというのは不穏当なことをコストなく書くためにあるのではない、そもそも不穏当なことを書くためにあるのではない、という認識に立脚しているので、根本的に私の考え方とは食い違うだろうと思う。何をもって不穏当とするか、「なぜころ問答」と同じく、すなわち任意の社会の規範に準じる。


コストとリスクは一幅の対であって、コストなく書けるからこそリスクが伴う。リスクなきネット言論社会を志向するなら、コストを上昇させる以外にない。実際、「旧来のアカデミック・トレーニングのシステムや編集・校閲システム」【浅田彰http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200502/index.html#comment】にあって、そのコストは維持されていたし、いる。リスクを限定し、あるいは時に不穏当性、すなわち野放図にして無配慮な規範逸脱を、篩うためにも。


ウェブ言論の可能性、と宣うとき、私はコストの低さにそれを見る。思い立ったら気軽に書いて発表しうる、ということ。それが日本語ブログであるなら日本語を解する誰しもが読みうるワールドワイドウェブにおいて。ただ、不穏当な発言はリスクを負うし、そのリスクが端的に発言者個人に帰属するのが、匿名を前提するウェブ言論の特性。そして、社会的な立場において公的に発信する限り、不穏当な発言のケツを持つ個人は重い、ということをはたして准教授氏は了解していたか。


電凸の蓋然を想定せよ、という話ではない。発言とは常に何かに担保される。担保物件の所在しない、無前提に自由な発言は、他人ある限りこの世のどこにも存在しない。「チラ裏」に記されたもの、すなわち内心の域に留まる独り言でない限りは。署名発言は署名者の同一性と個人性において担保される。


匿名発言とて誰かが社会的にケツを持っている。2chなら西村氏であろうか。准教授氏が、自身の署名発言のケツを所属に回す意思なかったなら、換言するなら自身の発言の担保物件を履歴と所属と考えていないなら、言論の徒として為すべき処理が存する。オン/オフにかかわらず。自身の署名発言の不穏当性のケツを持つのはあくまで署名した自身であると。


むろん、言論は自由である。ワールドワイドウェブにおいて、とりわけ自由である。然るに「不穏当なことをコストなく書けるから素晴らしい」というのは、リスクのケツを誰かが持っているということである。ケツを発言者がその個人性において持つこと。それがウェブにおける署名言論の倫理だろう。


情報発信の倫理は、情報発信者の倫理は、その内容において問われるのではない。発信内容の不穏当性が担保される場所において、問われている。ゆえに西村氏も批判されている、のかも知れない。少なくとも准教授氏において、ウェブにおける署名言論の倫理、ウェブにおける情報発信者の倫理が、欠けているか、あるいは端からその認識がなかったことは、はっきりしている。


率直に言って、青山学院大学の処分については、借金癖のある人間を金融業は雇わない、というのと同型の話ではないかという気もする。代紋の発想、というのがあって。代紋背負っている者は日頃の一挙手一投足において代紋の看板背負っていることをわきまえて行動せよ、という。バッジ外しているときでも。


むろん、個人の言論とは代紋の問題ではない。ゆえに、代紋を明示する要もなく、意識において代紋を背負わずとも済むウェブ言論は、こと何事も代紋の先んじがちな国日本において、言論として素晴らしい、個人であることのみを担保物件として発言しうるがゆえに。いずれにせよ、ウェブにおける継続的な署名発言に匿名性などありえないし、個人性とて理念としてのみ実現される概念かも知れない。


代紋の発想が正しいとはまったく思わない、が、代紋の発想が意識において端から欠如しているとき、締まりのない不穏当な発言が署名と履歴と所属をもって発信される、ということではあるかも知れない。そのとき、個人であることもまた締まりがない。不穏当性を担保する場所がどこにもないなら。


http://staki.staki.tk/stakilog/index.php/2008/04/27/197


改めて手動トラバを打たせていただきます。少し、一連の流れを拝見して思ったところを。


性犯罪被害の問題と性犯罪冤罪被害の問題は違う。冤罪とは(現行の)司法捜査システムの問題であるから。むろん「セカンドレイプ」という言葉が存するように、性犯罪被害に(現行の)司法捜査システムの問題がかかわらないわけではない。また「でっち上げ」や虚偽告訴には加害者が存在する。


被害当事者性において一切を還元するとき、性犯罪被害問題と性犯罪冤罪被害問題はあたかも相似と対称を描く。それこそが問題設定の罠と私は思う。つまり、被害当事者の当事者性とそれに基づいた心情へと問題の一切を還元してしまうなら。――批判ということではありません、と厳に断ります。印象深かったので引用させていただくのですけれども。


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2008年03月13日 b:id:SeiSaguru  ふむ。せめて「間違い」と「こういうお馬鹿さん」は分けていただきたいと思うな。間違いってのは誰にだって起こることだし、ましてや恐怖の中じゃなおさらだ。「ごめんなさい」で解決できるくらいであってほしい。


うん、それ無理。「間違いってのは誰にだって起こることだし、ましてや恐怖の中じゃなおさらだ。「ごめんなさい」で解決できるくらいであってほしい。」というのは。冤罪被害者に対してそれを要求する理と筋はどこにもない。任意の性犯罪被害者の恐怖を任意の冤罪被害者が慮らなければ「ならない」理と筋合はない。「「ごめんなさい」で解決できるくらい」かは冤罪被害者の当事者問題。冤罪被害者は性犯罪加害者ではない。――被害当事者とその心情の問題へと全面的に還元してしまう限りは。


任意の性犯罪冤罪被害を任意の性犯罪被害者に帰責する発想がそもそもおかしいのであって、性犯罪被害とその訴えが即性犯罪冤罪被害へと結びつきかねない、被害者の証言のみを前提として物証を軽視しまた容疑者の主張をも軽視することに始まる現行の痴漢犯罪に対する司法捜査システムの問題、ということ。幾度でも引き合いに出すが名作『それでもボクはやってない』は、そのことをこそ明示し問題として提起している。


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作中、被害者の証人尋問の場面において、衝立に覆われたその向こうの被害者の受け答えに対して、加瀬亮は剣呑な目つきを見せる。あえて言葉に換える野暮を犯すなら、自身に突如降りかかった理不尽を、現行犯として自身を誤認のうえ私人逮捕した被害者へと部分的に帰責していることが察せられる。


心情として当然のことではないか。その通り。15歳の少女が「恐怖の中」で「誰にだって起こる」間違いの結果として人違いで加瀬亮を痴漢現行犯として私人逮捕することなければ、彼はいま刑事裁判の法廷に被告として立たされてはいない。繰り返すが彼は性犯罪加害者ではない。


個々の立場における「心情として当然のこと」が司法捜査システムに反映されることの問題を、作品は提起している。「悪役」の居ないがゆえに素晴らしい作品であるが、一連の事態に基づく冤罪を引き起こしたことは誰が悪いかと問うなら、むろん一番「悪い」のは自白ありきで加瀬亮を「強引に」取り調べたうえ法廷で偽証した担当刑事の大森南朋だ。そして大森南朋もまた、現行の司法捜査システムに基づき刑事の職業論理を心情的に行使しているに過ぎない。


悪辣な常習犯に対する前提ですべての容疑者に対する。事件は次から次へと控える、懲りないうえ手に負えない常習が雁首並べて待っている。むろん、善人と悪人の区別など、彼の職掌にあって付くというわけでなく、付ける必要があるわけでも必ずしもない。西部の保安官ではないのだから。刑事は人格でやるものでも必ずしもない。


現行の司法捜査システムの問題を当事者間の論理とその心情の対立/衝突として必ずしも描かないこと。それが周防監督の目指しただろう要諦であり、成功を収めている。最も筋が悪く出口なく不毛にして対立/衝突の激化をきわめるのが、性犯罪被害者と性犯罪冤罪被害者の論理とその心情の、それぞれの当事者性と、当事者たりうる蓋然に基づいた、直截な交錯である。


端的に言って、男と女の当事者性の相違とその理解(不)可能性の問題へと還元することの罠がある。なぜなら、そのとき帰責という概念は有耶無耶にされるから。「悪い」のは性犯罪者と言ってもよいし、現行の司法捜査システムと言ってもよい。性犯罪者の背後に男の通念が控えているとは必ずしも限らないし、現行の司法捜査システムの背後に女の通念が控えているとも必ずしも限らない、というか、短絡と思う。


以前も書いたけれども、男の通念とはレイピストの通念と正しく翻訳されるべきであり、女の通念とはスイーツの通念、ではなく、男女を社会システムの運用においてなお区別する通念と正しく翻訳されるべきである。私は性犯罪は嫌いだが、別に自分がフェミニストとはまったく思わないし、実際違う。誰も私のことをそのようには思っていないだろう。


私は自身が親和的であるがゆえに性暴力というか暴力全般が嫌いで、女がスイーツであっても別にいいじゃないと思うからこそ、痴漢冤罪の頻発を由々しきことと思う。別に、男の側に立つとか女の側に立つとか、ポジショントークとか、そういうことではない。「男」と自己規定する限り歴史的な男性原理に対して責を持ち合わせるべき、というふうには考えるけれども。


犯罪者は突き出されるべきではあるし、冤罪の責は司法捜査システムとその再三指摘されている問題に対して問われるべきだ。犯罪被害者は、犯罪被害者であって、同情を示されこそすれ、それ以上を問われるべきではない。でっち上げは虚偽告訴はむろん突き出されるべきである。私見を付け加えるなら、上記のブクマページにリンクしたような事件は、正しくパブリックエネミーとしか言いようがないので、一定のサンクションが発動してやむをえないこととは思う。


当事者性とその心情はむろん踏まえるべきことであり、またそれを男/女として対立的に一般化するべきでもない。そもそも論として。斯様なデリケートな問題はデリケートに言及されるべきであり、当該の市民記者氏がデリケートに言及していたとは到底言えない。「あえて」直截に言及したのかも知れない、が、そもそも市民記者氏は「デリケートな問題」という認識がなく、あるいはそのような認識に対して懐疑的であり、端的に直截な問題と捉えている節が窺える。


対して、そうでなくデリケートな問題であり、そのような直截な発想こそが性犯罪の、否、犯罪全般の温床である、という指摘はありうるし妥当だ。デリカシーの欠如が常に批判さるべきとはガサツな私は考えないけれども、それが犯罪に結びつきうるなら別。直截な性犯罪観が、ひいては性観念が、加えて規範意識の欠如が、現実の性犯罪に結びつきうることの、ひとつの傍証ではあったろうと思う。直截な性観念を、普通は幼さという。


「公平に」論ずる限り、むろん、市民記者氏の当事者性とその心情も踏まえるべきではある。あるいは光市の事件における被告の当事者性とその心象も。そのことと、市民記者氏の記事におけるデリカシーの欠如に対する批判は両立するし、加えて、直截な性犯罪観が、ひいては直截な性観念が、加えて規範意識の欠如が、現実の性犯罪に結びつきうることに対する危惧の表明は、普通に、きわめて妥当なこととして、並立する。市民記者氏は、光市の事件における弁護団の主張の要旨すら踏まえていない。


そして。市民記者氏が示した16歳の時の経験談も、また、直截な性犯罪観と直截な性観念が現実の性犯罪に結びつきうることとそれに対する危惧も、むろん規範意識の欠如についても、童貞一般の問題であるとは必ずしも言えない。言うまでもなく、最初に「男は」「男なら」と杜撰きわまる一般化を繰り返したのは市民記者氏であり、そしてその世界観は、単純に間違っている。市民記者氏のごとく直截かつ単線的に性を、まして対他における性を考える男は現代日本にあっては必ずしも多くない、16歳の童貞であろうとも。


規範意識の欠如に基づく現実の凄惨な性犯罪を端的に直截な問題と捉えるとき、すなわち「男」という一般性に一切を還元して論じるとき、第一に帰責免除されるのはレイピストとその通念である。レイピストの通念が免罪されてよいとは、痴漢問題をめぐる男女間の当事者性の相違に基づく対立/衝突の激化を憂う者として、私はまったく思わない。


レイピストとその通念が帰責免除され「男」という一般性に還元的に帰責されるならたまらない。「男」と自己規定する者としてなおたまらない。自身と異なる者に対する視線が根本的にないことを属性の問題へと転嫁されても筋違いとしか言いようがない。


私は、もし「男」が「男」であるがゆえに暴力性を持ち合わせるならなお、暴力の在る場所に対する視線を忘れるべきでないと経験的に思う。人生賭けて思う。それが「暴力の在る場所」であるという認識がないから、市民記者氏は当事者性を単に肯定して能天気な太平楽を記している。それを、規範意識の欠如と言う。私も無規範な人間ではあるが、自身とその当事者性が正しいと思っているはずもない。


アウトプットが前提されるのは、レイピストとその通念が帰責免除されることをただ了解して、それでどうするのか、いったい何に資するか、ということ。ましてソーシャルな言論であるなら。そもそも、規範意識の欠如を男の性に一般に属する問題と見なすこと自体が単純に間違っている。ちんこに支配される脳などどこにもありはしない。切込隊長氏の結婚談はネタではない。あれが、理性と規範を持ち合わせるまともな「男」というもの。


私個人は、ということであるが、子供は一期一会の見ず知らずの大人に迷惑をかけて、かろうじて無事長じるものと思っている。私が思春期の時分に迷惑をかけた一期一会の見ず知らずの大人は両手の指では到底きかない。詫びを入れに行ければよいのだが。ゆえに、かろうじて無事長じた私自身は、一期一会の見ず知らずの子供に成り行きから迷惑を掛けられることも、持ち回りと思っている。持ち回りこそが大人の社会の負う責務の実相であると。


なので、その点においては、つまり大人の社会が責を持つべき子供を死刑に処することに対する躊躇という点については、瀬尾准教授の見解に同意する。むろん、それは妻子なく生活の柄なきがごとき私の暢気に過ぎない。妻子と生活ある大人が第一に責を負うのは、自分の子供に対してであるから。すなわち当事者であるよりほかなく、また当事者であるべきだから。私が、当事者性とその心情を止揚したいと、ブログの言論において考えるのは、自身におけるその概念に実感伴わないこと、それが私の性分であるからだろう。