「人はサイコロと同じで、自らを人生の中へと投げ込む。」と鷲峰雪緒は言った


404 Blog Not Found:自己責任から自己権利へ


小飼弾さんの議論には、わかることとわからないことが、常にある。わかることはある。人間の生を、そして現在を、保証するものなどない、という認識から出発する言葉であり議論である、ということは。ニヒリズムではない。保証するものがないところから、いかに生き、一回性の現在を過ごすか、「よりよく」あらんとするか。そういうこと。単なる、物心において、智情意において、自らに恃むところある者がそのことにのみ拠って示すオプティミズムでないことについても、いうまでもない。


私もまた、世代的には所謂ロスト・ジェネレーションに該当しはするが、先日増田でも拝見したが、正直に言って、その類の言説にはピンとこない。異論があるでもなく、というか社会批評としては異論なきこというまでもないが、自らにとっては単にピンとこない。むろんそれには折に触れ記してきた私の個人史がかかわる。たとえば、私は高校すらまともには出ていないし、「正社員」としてはブラック入っていない企業に勤めたためしがない。私は賭け事やらないが、スロットやヒモで長く生計立てている人間は、履歴書書く際どう記しているのだろうとは思う。


生計を立てることと社会保障をやりくりすることと「正社員」になることは別と私は考えていて、社会というか世間には隙間があって皆と逆行けば誰かが座る空席が見つかるものではある。社会において資源は公正に配分されているわけではない。フェアネスとはつね志向すべきものであって自明の事実性ではない。養老先生曰く、他人と同じことをやっていては、ラクはできない。むろん、それは隙間でしかなく、吹けば飛ぶような小船である。性分の問題ではあって、いまさら別の生き方ができるわけでもない。他意なく、人生が違うな、というふうには思う。


当然のことながら、そういう人間において見識と倫理観が欠如していると、功成り名遂げても堀江貴文であったりする。むろん弾さんはそうではない。そして、私は人生が違う人間に対してアドバイスはしない、というかしようがない。人生が違う人間に対する自身の人生観の直接的な提示を説教という。弾さんはそういうふうには考えないのだろうな、と思う。というのは、弾さんその人にとってはフェアネスとは他人に対する原理であるから。

一つ聞いておきたいのは、なぜこの入社二年目の時に辞めなかったか、ということ。
逆算するとこの時、君は27歳。転職適齢期だ。
こんないびつな組織が回らない、というのがわからなかったのだろうか。
それとも、転職が怖かったのだろうか。


誰しも弾さんのようにクリアに考えられるわけではない、というのは、別に能力や「出来」の問題ではない、意志や認識の欠如という問題でもない。「個」を一切に先んじて考える人間が一切の世の中ではないし、そのような人間が一切の世の中が、人間社会として成立するか、現行においては難しいと言わざるをえない。geekの構想する公共性が公共性の一切ではない。


比喩であるが「オープンソース」として在ることができないことにおいて、人の苦しみは形成されもする。対するに、「個」として一切の自己規制としての不自由を意に介することなく、心の欲する所に従って、矩を超えず、 と示しうるものでもない。「掟の門」を人は自ら求めるし、古代の中国において孔子は「七十にして」と説いた。自身という個体の死を近しくして、ということ。


弾さんが示す「人文的な」議論においては、弾さんの個人としての実感と「個」の尊重という原理原則の、その中間地帯が存在しない。中間地帯の存在に対して示されるのが、人文世界における「公共性」概念ではある。「個」を尊重することに対して「個人としての実感」がいかに機能しうるか、あるいは、「個」を尊重することと「個人としての実感」をいかに架橋するか、という話であって、「国家」に対して「個」とそれが尊重される「ユニバーサルな」価値観を示すことは、その類とは接合し難い。


弾さんにおいて「個人としての実感」は「個」であることにおいて確固としてあり、他と共有しうるものでも「すり合わせる」ものでもない。「国家」に対して「市場」の原理が「個」を尊重すると考え、かかる見解を示したとき、いや現在の「市場」は「個」を尊重するものではありません、という反論は当然あるし、現状認識として妥当である。「市場原理」にひいては流動性にさらされる度合の少ない職場や業界ほど、「個」が尊重されうる、というのが私の個人史に基づく「個人としての実感」ではある。職能と「個」は違う。IT業界のことはわからない。

どんな国の、どんな時代に生まれてくるかは選べない。自らの出生は、確かに自己責任ではない。
しかし、どんな会社にどのように勤めるかは、選ぶ事が出来る。
その意味では、君の今も過去の君が果たした、あるいは果たしそびれた自己責任の結末ではある。


私は、自分の人生について「それは貴方の事情でしょう」という反応を、10代の頃から、多く同世代の人間から示されてきた。友人も含めて。ゆえに。その名前を知る以前から、サルトルが第一に説いてきたことを、基本認識として知っていたし、支えともしてきた。だから、他人の人生の話を聞いても「それは貴方の事情でしょう」とは、むろん口には出さないが、感想としては思う。「同世代」なる類的存在に対して思うことも、そもそも同世代意識も、そのような文脈においてはない。「個」の問題と思いはする。


かつて大学生であった同年代の人間が雇用絡みで「我々の世代は」的な話を開陳する場に実際に出くわすが、ピンとこず感想もない。「我々の世代」ではなく貴方の知る人の話でしょう、とは思う。むろん私も御同様でその限界を知るから世代として考えることがない。三島由紀夫司馬遼太郎山田風太郎丸谷才一古山高麗雄を「戦中派」として括って議論しうるだろうし考察を加えたら面白いかとは思うが、当人はどう思うだろう。


私は、サルトルが人生観/人間観における自明の前提であったから、マルクスについては、ひいては構造主義については、後追いで了解した。二度の大戦の後において、人間の生を、そして現在を、保証するものなどない、という認識から発した切実な思想。保証するものがないところから、いかに生き、一回性の現在を過ごすか、「よりよく」あらんとするか、ハイデガーの隘路を排しつつ示された、サルトルの思想。

余談であるが、私が地域格差に冷淡なのも、転居の自由が憲法で保証されているからだ。中国みたく、都市戸籍がなければその都市に住めないというのであればとにかく、日本はそういう国ではない。いやなら引っ越せばいい。自由がある以上、その自由を行使した結果、すなわち責任も我々にある。


b:id:yellowbellさんも突っ込んでいるけれども⇒はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:自己責任から自己権利へ、日本の全地方在住者数千万人がいっせいに首都圏に転居してきたらどうするのだろう、という感想が真っ先に浮かんだ。そのようなことはありえないし、日本の全地方在住者がそのように選択し行動するはずがない、ということを知っているから、書けること。「そのようなことはありえないし、日本の全地方在住者がそのように選択し行動するはずがない」という認識に「憲法で保証された自由を行使しない」という意味における価値判断が付されるなら、さすがにどうかとは思う。

自己責任。これまた変な言葉だ。責任というのは、責任を任せるものと引き受ける者の二者がいてはじめて成立する概念だが、それであれば自己責任というのは、自分のことを自分でやって、その結果を自分で受け止める、ことのはずである。しかしそういう意味で「自己責任」という言葉が使われているところをめったに目にしない。
「会社が押し付けた責任を、いやいや引き受けた結果、壊れました」。これは「責任」ではあっても「自己責任」ではないはず。自己責任というのは、自ら会社と戦うなり辞めるなりして、その結果を受け止めることのはずだ。


弾さんが示している「自己責任」とは、自身の主体的かつ自発的な選択と行動の結果に対する責任を自身が主体において自発的に引き受ける、ということ。下部構造において上部構造が規定されるなら、いやそのりくつはおかしい、ということになる。つまり、下部構造がそのような発想を個々人に否応なく要請しているのであるから。


弾さんは、「個」の尊重を原理とすることにおいて、「国家」に対して「市場」を是とする。むろん私が言えることでもないし、私はIT業界のことはまったくと言ってよいほど知らないが、弾さんにとっての「社会」とはその断片である。「市場」が「国家」に対抗しうるとして、現在の「市場」はフェアとは言い難く、「個」を尊重するものであるどころか、その逆と化している、とは反論しうる。


「自己責任」とは、本来、個人の選択と行動が「市場」において評価されることとその帰結を指す。そのことが、個人における主体性と自発的な選択の肯定と、セットで語られるから、所謂日本における新自由主義は批判されてきた。あまつさえ、弾さんは実存の話をしている。個人の主体性の根拠としての実存が、「市場」において、それも「労働市場」において、評価されて然り、とはサルトルは一言も言っていない。


「むろん」利根川さんの言う通り、金は命より重い。労働は「市場」において値段が付く。現代中国における労働価格の適正性については、資本主義国家ではないということになっている「から」、仕方がない、のだろう、きっと。「労働市場」のアンフェアを指摘することと「今の境遇を他人のせいに」することは違う。だから。

厳しい言い方だけれども、君は今の君の境遇を会社という他人のせいにしたくてしょうがないようだ。
そのまま行けば、多分次の会社でも「やむなく仕事をした」あげく「退職を余儀なく」されることになるのではないか?


労働市場」の問題を個人の事情の問題として解いたところで、筋違いな話であり、請われてのこととはいえ直接言ったなら説教ではある。「市場」において労働が評価され値段が付くことと、留保のない生が肯定されることは両立する、が。労働とは価値の産出であって、資源の争奪ではない、とは言いうる。

まずは、「責任」という言葉を一端忘れて、「権利」を行使しているのだと考えてみてはどうか。「私はこの会社で働く責任がある」のではなく、「私はこの会社で働く権利を行使している」のだと。それだけで、世の中の見え方がだいぶ変わってくるはず。自己責任ではなく自己権利。「やむなく」でなく「あえて」、「余儀なくされる」のではなくて「踏み切る」。
「権利を行使する」。それは「責任を果たす」よりもおそらくきつい生き方だ。「他人のせい」という最も手軽ないいわけを封殺してしまうのだから。しかし私の目から見て幸せそうに生きている人々は、一人の例外もなくそうしている。
誰かのせいにしているものは、結局最後には自分のせいにすることに行き着き、ますます自分を追い込む。まずは「他人のせい」にするのではなく、「自分のおかげ」にするべきだろう。単に自尊心が高まるだけではなく、自分の出来ない事をしている他者に対する尊敬も高まる。


人間の生を、そして現在を、保証するものなどない、という認識から出発することにおいて、そして、保証するものがないところから、いかに生き、一回性の現在を過ごすか、「よりよく」あらんとするか、かく考えることにおいて、私も同様ではある。ただし。そのことにおいて人が不自由を主体的かつ自発的に選択することがあることに対して、そのことを愚として断じることも、ありうべき認識の転回について説くことも、妥当ではない。見解を請うた人があってのことではあるが。


人間の生は、そして現在は、前提において無条件に肯定されているものではなく、価値あるものでもない。だからこそ人間は、「個」として尊重されるべく、その生が肯定される条件を物理的に「自ら」築き、その生に価値を「自ら」付与しなければならない。そうだろうとは「私は」思う。その「価値の付与」こそが前世紀前半の、あるいは現在に続く、厄介であったが。私以外の人間がそのように思っていないことを前提としないなら単に21世紀のラスコリニコフである。そして。


その認識に立ち、自らの生が肯定されるべきでない価値なきものと考える人は、言葉として意識しているかは措き、志向する人は、普通に居るのだ。「だから」「死ぬ者は負け」とする人はあるが、比喩として述べるなら「私は死んでしまっているからこそ、他人の非対称な死を認めない、他人の生に対する一方的な否定と無価値とする前提を認めない」と考える者はある。彼ら「亡霊」の言葉は連綿と、近代を遡り人類史を貫き繰り返し紡がれている。


人間の生とは、あるいは主体的かつ自発的な、価値の産出の有無において、肯定否定が、価値の有無が、問われ定まるものではない。世界史的に、そのことを指し示してきたのは「宗教」だった。主体的かつ自発的な価値の産出を他に対して強迫する類の言説は、そのことにおいて人間の生と現在の価値をフィックスする類の言説は、私は好かない。むろん歴史的に先立っていたのは宗教だ。事態は転倒している。放言を重ねると、パクスロマーナの末期と現代が相似を描こうと、戻らないものは戻らない。だから。スピリチュアルが流行り自分探しは止まらない。


価値の産出と資源の争奪は対立するだろうが、そして所謂南北問題において構造は輻輳するが、そのことと「個」が生きることは、別である。「個」が「個」として生きるために価値を産出しなければならないことは原理的にはその通りであるが、価値を産出しないことにおいて価値なき「個」もまた「個」であると私は考える。「個」を尊重するとは、当為命題として示すなら、そういうことだろう。


「価値の産出」が、「個」として生きる人、生きようとする人において、宗教たりうることが、ある。無価値に生きることの価値、というのは、別に屁理屈でも言葉遊びでもない。亡霊の言葉にも意義はある。人の記憶が受け渡されることにおいて。それこそ実存というものだろう?

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