愛と資本主義の現在


店員に「ありがとう」と言う人が大嫌い。おかしいのでしょうか。。。 - さ... - Yahoo!知恵袋


今頃元記事を読んだ。何を言わんとしているか、私なりにわかる。社会的関係と文化伝統が個人のパーソナルな感情を拘束する、という話。別の言い方をすると。


言葉が只であることに対する違和感、という話。言語論的転回について説いても詮無い。淀川長治の伝で言うなら「言葉は社会という機械を回す潤滑油」でありゆえに言葉は「ありがとう」は大事である、となる。文化の価値と効能もまた説きうる。が。淀川先生は言葉は只であると言っていたのではない、逆である。


言葉は只ではないのではないの、という問題意識を「世間知らず」として一蹴する気にもならない。かつての零細営業マンとしては上方の人である淀川先生は全面的に正しいと言わざるをえない。良くも悪しくも、ビジネスがビジネスに尽きないのが日本のビジネスである。そもそもが「挨拶は大事」とかそういう話。自分の感情は自分のものであり他人に棹差されたくない、というのはわかる。


「ありがとう」が相手に与える負債意識に基づいた、社会的関係における相互的な(負債意識の)返済に規定された拘束を「道徳の系譜学」として徹底的に叩いた哲学者がいた。「自分の感情」とは常に現在であって過去の未来のひいては来世の空手形ではない、とも、孤独と病という暁の栄光に生きた哲学者は喝破したが。

私自身、コンビニでバイトしてたときに、「ありがとう」と言われたことあります(関西の発音の人が多かったような。。。)
正直、内心で「友達でもないのに何様?」と思ってました。別にお礼言われるようなことしてないし、と。

あ、でも年配の方とかが笑顔で「ありがとう」と言ってくれたら素直に嬉しい。
この気持ちは何でしょう。。。
とりあえず、何かと馴れ馴れしい人が嫌いで、「ありがとう」も、本来喜ぶべき御礼の言葉なのに、
イラッとしてしまいます。

そう、会釈や「どうも」くらいならいいんです。やって普通だと思います。
でも、「ありがとう」って。。。。
常連さんや顧客じゃないんですよ!?
一見さんですよ?言う必要ありますか?


「別にお礼いわれるようなことしてないし」――時間拘束の接客業において、当然のことをしている、という認識に尽きているのか。プロ意識、とも言いうるか。「当然のこと」には挨拶も含まれるだろうが、時給に挨拶が含まれているかは知らない。客が自身を接客した店員に対して挨拶を返すのもまたビジネスの問題ではない、というか、ビジネスの問題とは、相互的な「気持ち」に金銭が介在することの問題ではある、少なくとも、日本において人に直接物を売る商売は。


時給に挨拶は含まれないと「ビジネスライク」に割り切る文化もあって、だから私は繁華街の外国人が経営し接客する飲食店では郷に従う。挨拶がないことをもって「客」であるからと切れることは少なくとも「権利」ではないし言っちゃなんだがKYである。文化伝統に基づく社会的関係を、あるいはその切断と不可能を、知らないという話。


言葉が只であることに対する違和感、は私も持ち合わせる。私は口を開くと多弁なほうらしいが、私的には多く雑談と空理空論しかしないこともあり、他人に直接向ける言葉において、言葉にしたくないことはある。わかりやすく言えば「I Love You」の類。ホッテントリにあったが、「私の事好き?」とか覿面にうざくなる性分でそれでどうでもよくなった相手もいる。


「客」と「店員」は非対称である。その非対象関係において、商品の売買ないしサービスの提供という目標設定が示されることにより、ビジネスが滞りなく成立する。その逸脱に対する警戒を非対称関係における「店員」の側が内心において抱くことは、わからなくもない。「店員」においてクレーマーが嫌悪されることの理由のひとつであることは言うまでもないが、「馴れ馴れしい人」に対する違和感もまた同じことの表裏である。「一見」の「客」と「店員」の間柄において、心理的な、そして関係性における、イレギュラーを嫌うということ。心理的な負債と関係性の不均衡に、意識においてあまりに過敏な人は、接客業には向かないとは思う。


接客商売とはイレギュラーありきであって慣れないことにはやっていけない。それは、「一見」の「客」と「店員」の間柄に限ることなく、あらゆる対人接触において同様である。あらゆる自他の本質的な非対象関係において、定量的な均衡値の設定を志向するからこそ、心理的な、そして関係性における、イレギュラーに対して耐え難い違和感を抱く。質問者は「定量的な均衡値」を内心において模索せんとしている。それは無理、だからこそ、「慣れないことにはやっていけない」。


社会において。商品の売買ないしサービスの提供において、「客」と「店員」の関係性は、相互的な「気持ち」に金銭が介在する関係性であることにおいて、定量的な均衡値を設定しうるものではない。「もちろんそれは偽善である、そしてこの世は偽善を必要とするところなのである」と言った故人がいた。偽善を前提として成立するのが本邦の客商売ではある。


それを建前としてしまうことが安易なのは、結局のところ、経済行為もまた文化伝統に規定されそれに準じた社会的関係を構成するからだ。構造改革が叫ばれネオリベラリズムが云々された現在に及んで。そのソフィスティケーションの露骨が、本邦の水商売に示される。これをして丸谷才一的な日本文化論とも言い、やはり邱永漢は正しい。岡崎京子によって知られたゴダールの言葉を引用する趣味はない。が。


私はタクシードライバーの倅なので、仕事でタクシーを利用する際にも、運転手に横柄な応対を示したことはない。横柄であったり仕事が杜撰であったりする運転手だろうと。むろん、論理的な話ではない。他のタクシードライバーが親父であるわけでなし、親父は生計のためにハンドルを握っていた、親父の会社仲間もそうした人ばかり。横山やすし松平定知に腹を立てたこともない。


上司は思いつきでものを言う (集英社新書)

上司は思いつきでものを言う (集英社新書)

を著したとき、橋本治が、自分は商店の倅で子供の頃から店番やってたから、いまだに「サラリーマン」という存在がわからない、わかろうとして書いた、と言っていた。


考える人 2007年 05月号 [雑誌]

考える人 2007年 05月号 [雑誌]

における高橋源一郎との対談から引用。

橋本  本当言うと、サラリーマンがまだわからないんですよ。何とか株式会社の何とか営業部第二課長みたいな人がどういう人間か、そういう細かいことになるとわからない。小説ってディテールだから、そのディテールを知らないと書けないですよね。だから会社ってどんなものか、日本人のつくる組織とはどういうものなのかっていうところからわかっていくしかなくて……。(p75)


私は「サラリーマン」というものが未だにわからず、サラリーとは無縁に先の知れぬ生計を立てている。零細営業は言うまでもなく完全歩合であった。性分に過ぎないが。妹は大手企業勤務で連日深夜の帰宅からタクシーも頻繁に利用するが、やはり運転手に対しては横柄に応対できないそうな。


あきらかに搾取されているような所謂肉体労働者に対して隔てるような応対を示すことも私はしない、というかできない、が、意識において隔てることを当然のこととする家柄ある金持ちが幾らもあることを、現在の仕事(と言ったら天罰が当たる)において改めて知った。改めて、というのはかつて知っていたからである。差別とは意識も認識もしない、それは彼らにとって前提。イヴリン・ウォーの小説世界をやっている人は現代日本にもいる。


ある感覚を持ち合わせている人が在って、「年配の方」に多いかはわからないが、在ることは知っている。坂の上の雲が見えようと日本は貧しかった。只の言葉と値段の付いた肉体において「ビジネス」のもと残酷な経験と屈辱を味わい、その痛みを忘れない人は在り、他に対する賽の目がいずれを指すかはその人次第。善悪の問題でもない、が、かつてディケンズを再読したとき、人の感じることは150年を経ようと変わらないことを改めて知った。私など現在は忘れまくっているが、忘れないことはあって、どうやら意識の基底を構成しているらしい。


ゴダールの言う通り、今日のパリならざる東京の社会において、すべての仕事は売春であるが、すべての仕事が売春であることの残酷と人間性の疎外に対して、そのことを過去にそして現在進行形において知るがゆえに、なにがしかを忘れない人があって、だからこそ、タクシー運転手に対しては横柄な野郎だろうと礼を言い、コンビニの店員が無愛想だろうとクレームを付けることなく、相手にかかわらず売買ないしサービス提供において「客」として「ありがとう」「ありがとうございます」を当然の習慣とする文化があり、人がある。ゴダールは知らんが。


「いい人」ぶっているのでもお人好しでもない、まして「馴れ馴れしい」ということではない、単に、自分の記憶と感情の問題、すなわち、自らや知った人たちに対する扱いと尊厳の問題。そのとき私は、マルクスを脇に措き、ディケンズの説いた能天気なヒューマニズムを認める。思い出したが、吉川英治の自叙伝は素晴らしい。

忘れ残りの記 (吉川英治歴史時代文庫)

忘れ残りの記 (吉川英治歴史時代文庫)


岡崎京子がその言葉を引いたとき。すべての仕事が売春であることの残酷は、実際の売春を描くことにのみよって表現される、そういう時代だった。文化的雪かきにまみれて、音楽の鳴っている間は踊り続けるしかなかった「今日の東京の社会」。そして。すべての仕事が売春であることの残酷が、現代においていっそう苛酷に昂進したその結果については、NHKの特集にてしきりにお目にかかれる。他人事でもなく、TVの外のそこらじゅうで。


傾いた高度資本主義社会の経済行為をめぐる労働疎外においてなお、相互的な「気持ち」に金銭が介在する関係性を、人は商品売買やサービス提供に求めるからこそ、誰ともなく「客」と「店員」において「自発的に」挨拶が交わされる。それは文化という必要な偽善であるが、文化の伝統の社会的関係のという高尚な話でもない。単に、偽善なき即物的で残酷な世界に、潤滑油なき社会という機械に、21世紀においてなお人は耐え難いのだ。淀川先生最愛のチャップリンが『モダン・タイムス』に示した通り、70年の時を越え、フォーディズムが終焉した後で。


只の言葉と値段の付いた肉体において、はした金のもと人が屈辱を受け残酷に扱われることを、悪と考える人は在り、その悪を自己にも他にも能う限り及ばせたくないと、記憶と感情において考える人が在る(余談だが、よく知られる淀長さんの現金至上主義はそのゆえでもあったろう)。だからこそ、社会を世間をその残酷を身をもって知る世の親は子に対して、ホームレスを指し日雇いを指し水商売を指し、自身の未来のために勤勉なれと説くのだろう。そして、価値観の強制を意図せずとも結果する。


はてなブックマーク - ホームレスの人に向かって指差し「○○しないと、ああなっちゃうわよ」とかぬかす親の独我論 - 捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!


20代を日雇いとして暮らした親父は、常習犯罪者にだけはなるなと私に散々拳をもって説いたが、御陰様で前科なく、相も変わらずホームレス同様の精神構造である。自宅は暮らせたものでなく空けてばかり、他人の部屋のほうがよほど安眠できるのだから仕方ない。そもそもまともなフトンの上で眠らなくなって久しい。黒田硫黄の短編にあったなこんな話。身体も壊しているし屋根とパソコンと物置はないと困るので家賃は支払っているが、一切合財燃えてくれないかなとは駄本の山を見るたび思う。


すべての仕事が売春としてある「今日の社会」における愛をその不可能を歌ったのが岡崎京子は知らずJLGだった。映画作家の説く愛は彼の本来的な孤独のゆえにつね刹那であったが、愛とはたぶん今日の社会においてなお刹那ではない。それはあまりに日本的な風景であるかも知れず友愛とも言い難く結局は身贔屓に似たものであるが、そして漱石はそのことを生涯問い続けたが、私が思うに、身贔屓に似ることのない愛が刹那でなくしてあるだろうか。神は死んで久しい。「情」の問題でもない。


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