「アラブに生まれるということは、つらい思いをしろということだ!」



アラビアのロレンス』の結末近く、アンソニー・クイン演じるアウダ・アブ・タイが、ロレンスと共に見た未来に敗れ去っていくオマー・シャリフ演じるアリの背に、投げかける言葉。私はこの言葉を愛し、よく改変して座右の銘とした。「男に生まれるということは(ry」。そして「人間世界に生まれるということは、つらい思いをしろということだ!」と。


ただし。アウダと違って私は一応は近代人なので、つらい思いをしろということだ! と宣告して諒、とはいかない。「人間世界に生まれるということは、つらい思いをしろということだ」というのは歴史的な事実であるが、そのことを単に諒とするわけにはいかないから人は共同体を社会を育み、かくて近代の社会がある。その現代においてなお。たぶん誰しも「人間世界に生まれるということは、つらい思いをしろということだ」という認識を心に秘めている。然るに近代の社会はその外部に存在する。


その乖離を「想像力」において架橋するのが、現在なら世界文学村上春樹に代表される、「物語」の機能だろう。恋愛ないしその不可能という最強の架橋装置において、セカイ系ケータイ小説を含め、ロマン主義の弊害を併せ持って。先日青山テルマのヒット曲の歌詞に目を通して驚いた。「私と貴方」とその距離が一切であって、外部に存在する近代の社会というものが一切存在しない世界観。今にはじまった傾向ではないといえ、極限を見た気がした。

一青窈

はてなブックマーク - 深町秋生の序二段日記

一青窈の作品における世界観とその提示方法が話題になっていた。私は彼女の歌はカラオケで熱唱して他人に引かれる程度には好きなのだが、一青窈の歌詞世界においては、外部に存在する近代の社会ひいてはこの世界というものに対する意識は示され視線は向けられている、が、ただし彼女は、それをきわめて抽象的なメッセージとして処理する。


そのことには、具体的な事象を社会問題に及んで示すことのいまなお難しい日本のJ-POP産業の、ひいてはエンターテインメント産業の問題がかかわるだろう。また、現実の事象に対する問題意識を、具体性やディテールを名指すことのない抽象的なメッセージとして処理することが、文脈的な限定が排されることにより「想像力」において、その影響力において、最適である、という、村上文学に代表される世界的な傾向の一端としてもあるのだろう。映像作家が制作したPVについても同様。それは、極端に言うなら「相田みつを問題」ではあるし、深町先生が示すところの「カルト臭さ」の起点としてある。ただ。

一青窈 - Wikipedia

取り沙汰された中川翔子の「失言」について終風先生が、本人の私的な履歴について参照し指摘していた。少なくとも、台湾の映画作家侯孝賢の『珈琲時光』に主演し素晴らしい佇まいを示したこの複雑な履歴を持つシンガーにおいて、外部に存在する近代の社会ひいてはこの世界が意識されていることが明示され、「想像力」に依存したきわめて抽象的な処理に拠るといえ、自らが歌う詞において、外部に存在する社会や世界に対する意識の反映としてのメッセージが示されている以上、青山テルマやET-KINGの歌詞世界よりは「マシ」だろうとは、私は思う。そのような水準において評価するならば、であるが。


既存の商業主義の枠組においてコンセプチュアルな活動を意志的かつ明示的かつ継続的に展開する「アーティスト」一青窈は、しかし忌野清志郎ではない。あのPVがヒドイことは言うまでもなくヒドイ点については幾らも指摘しうる。倫理的にもセンスにおいても。が、そもそも論で言うなら、たとえば村上文学はきわめて非倫理的であり「善悪の彼岸」であり、すなわちポストモダンであって、ゆえにこそグローバルに国境を越え文化を越えうる。一青窈もまた、相田みつを同様ひとつの典型的なポストモダンであって、そのことが「カルト臭さ」に直結することが、スピリチュアルと自分探しの蔓延する現代の問題ではある。

小市民と労働者

いちおう承前⇒「人はサイコロと同じで、自らを人生の中へと投げ込む。」と鷲峰雪緒は言った - 地を這う難破船

404 Blog Not Found:小市民の敵は、小市民

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2008年02月29日 b:id:yamatedolphin  便利な言葉。「小市民の敵は小市民」だと違和感少ないが、「労働者の敵は労働者」と言い換えるとどうか?応用として医療崩壊問題では「病人の敵は病人」とも言える。本質的には共に戦うべき相手という視点はどこへ。


批判ではないと断るけれども。そうではなくて、弾さんは「労働者の小市民根性が問題」と言っている。労働者の姿勢を評しているというよりは小市民根性が無条件に肯定されることを批判している。人生とは人生観とは所与のものと無条件に断ずることはできない。私が私の人生と人生観について所与のものと他から示されたら、いや違うよ、とは応じるだろう。五味太郎の知られた言葉を引くなら「僕のことは僕が組み立てる」ものであって、近代の社会においてその社会システムを前提に「他人に組み立てられた」自分を無前提に自分としてしまうならそれは『ボヴァリー夫人』の登場人物のごとき小市民根性であると。五味太郎の著名な言行一致についてことさらに付するまでもない。


労働者は既存の体制に社会システムに依存する小市民根性を捨て自身の主体性を自発性を既存の下部構造から奪い返せ、ということであるからして、ゆえに「個人において」「労働と所得を切り離す」ベーシックインカムを支持することにおいて、正しく新自由主義である。そして、小泉純一郎がそうであったように、理念的な新自由主義者は、スタイルにおいて振舞いにおいて言葉においてメッセージにおいて、自身の孤独を、ひいては人間存在の孤独を、強く明示し、そのうえで「俺は俺を肯定する」と、そして「貴方も貴方を、貴方がたも貴方がたを、自ら肯定して然るべきだ」と、強く明示する。


孤独であるためには、孤独であり続けるためには、孤独な自己を自ら肯定するためには、強くあらねばならない、物心において、智情意において。その強く孤高な姿に、人は馬上のナポレオンのごとき時代精神を見るか知らないが、惹き付けられた人々が、今世紀初頭の日本において多くあった。堀江貴文時代精神を見た人があったように。価値の産出ならず資源の争奪に汲々としている限りにおいて労働者は小市民でしかない。そう説く人がある。弾さんがそう説いているのではむろんないが。


個人主義者の私は市民主義者でもあるが、ただ、市民であることにおいて自己批判と自己懐疑の回路を持たない市民は私は嫌いで、それを語義における「善良な市民」というのだろう。むろん、フローベールの知られた言葉を引くまでもなく、近代の市民である限りにおいてそれは誰しも逃れ難いことではある。否、あった。近代の条件は社会システムはディシプリンは綻び、だから、人は社会においてシステムにおいてディシプリンにおいて疎外された近代社会の市民ならざる「私」を、Webにて「匿名」において示し表出し主張し垂れ流す。


個人ブログにおいてその「私」は署名のもとに唯一であり、匿名掲示板においてその「私」は署名無きがゆえに「つながり」と任意の欲望の共有(あるいはジジェク的な)に最適化される。いずれも存在しない本質主義的な幻影である。このような枠組において考えているだろう池田信夫氏が「実名」にこだわることは、ダブルスタンダードは措き、私はわかる、気がする。なお私は理論的にも匿名支持。

アウダの言葉


「人間世界に生まれるということは、つらい思いをしろということだ」という認識を誰しも心に秘めている。然るに近代の社会はその外部に存在する。この乖離に現在の問題は多く所在するし、「想像力」への要請とその弊害も所在する。弾さんは、誰しも心に秘めている認識の話しかしていない。近代の社会がその外部に存在することに対する顧慮がない。疎外論ではない。


人は、その生存は、不可避的に、あるいは前提的に、孤独であり無担保である。そのようなことは、ことさらに説いていただかなくとも誰しもわかっている。はず。100年近く前のアラブの盗賊の長すら知っていたことだ。問題は。その不可避な前提に対して、近代の社会が乖離していると、私たちが意識し、ゆえに「想像力」がその弊害と共に要請されることにある。たとえば。「自分の損はどこかの誰かの得である」という「物語」として。


その目に見える「顔」として「敵役」として、たとえば弾さんが在るように映る人はいるのだろう。「資源の争奪という事実に対して顧慮がない」すなわち「関心がないことに対して関心がない、にもかかわらず請われてのこととはいえ言及する」ことは指摘されて然るべきとはむろん思う。ただ。


弾さんは、乖離していることを無問題とするどころか契機と捉えているのだろう。個人が個人であることの不可避な前提は、近代の社会が人間の条件の外部に存在することを理由とするものではなく、すなわち疎外に拠るものではなく、端的に人間の、いや「存在」の、ひいては人間存在の、あるべき条件である。ゆえにこそ、不可避な前提については自らが主体において自発的に引き受けなければならない。「今の境遇を他人のせいに」するのではなく。さもなくば必然的に召喚される「想像力」の弊害に翻弄されいっそう「自分自身」を、個人であることの不可避な前提を、人間の条件の、あるべき姿を、見失う。


端的に言うと。実存の全面的な社会還元において「個人」であることを見失うなら、歴史的条件が要請する個人の宿命に「個人として」抗うことがかなわない。――それはわかる。が。


個人が個人であることの不可避な前提に対して、近代の社会が乖離していると、私たちが意識すること、それをしてポストモダンと言い、あるいは再帰的近代と言う。そのことを顧慮するか否か。再帰性とは、不可避な前提を了解し生きる個人による、社会に対する、近代の理念に対する、新たな接続の試行である。弾さんは、その試行を、ひいては再帰性を、顧慮しない。


個人としての自身が不可避な前提を生きることについては確固として在り、すなわち「個人」であることにおいて確固として在るからだろう。かつて橋本治が言った。自分がどう生きるかは自分の問題であって、その個々の「自分」が他の人間といかに共生するかが社会の問題であると。


確固として在ることのできない者が、再帰性に拘泥する。それはその通り。ただし。再帰性に拘泥することは「今の境遇を他人のせいに」することでも既存の体制に社会システムに依存することでも市民社会に無批判であることでも、単純雑駁な社会還元論の類でも、ない。現在の社会体制に対してシステムに対して批判的であるがゆえに顧慮しない人が、そのことを再三言明する人が、単に世間知らずであるとは、必ずしも言えないことと同様に。個人体験談バトルが不毛であることは、この場合は間違いない。

愚痴と泣き言


弾さんは、端的には「(大の大人が)愚痴と泣き言はみっともない」と考えているのだろう。妥当な見解ではあるが、マッチョというなら、私はそれこそマッチョと思う。愚痴や泣き言を言ってもいいじゃない、と私は考える、寛容ならず軟弱な人間であり、愚痴や泣き言から生まれるアクティビティとクリエイティビティが在り、愚痴や泣き言を了解することの感性が在ることもまた、よく知っている。匿名掲示板の一部は典型ではあるだろう。


社会性に愚痴や泣き言は含まれない、だから、Webにおいて今の境遇や会社や他人に対する愚痴や泣き言を「私」を露出させて書いてもいいんでないの、とは思う。私はチラ裏肯定なので。主に費用対効果の観点から私は書かないけれども。感情とその表出においてすら当事者が費用対効果を算定し前提することが、かく強いられてしまうことが、諸悪の根源ではないかな、とは時折思う。


恋人が死んで泣く者に対して泣いて生き返る人間はいないとサジェスチョンする人間はいない。他人のために流す涙と自己憐憫の涙は違うとか私はまったく思わない。人生に対する愚痴と泣き言を垂れ流し交わし合うことが産出する価値はないかも知れないが、資源を積極的に争奪するものでもない、それが「暇を潰す」ということでありその価値である。そして、愚痴を泣き言を聞く相手があるというコミュニケーションによって、束の間埋まりうる孤独という人間存在の不可避な前提がある。


私は、人が恋愛し性交し共に暮らし子を為すことも、実存においては同じことと考える。愚痴を泣き言を聞いてもらうことと、恋愛し性交し子を為すことは、同じことだろう、人的資源の産出を措いては。一青窈の歌を聞くことも、村上春樹にメールを送信することも、小泉純一郎の示す新自由主義に惹かれることも、新興企業の株を買うことも、孤独という人間存在の不可避な前提に対する愚痴と泣き言の相互的な交換と、行動様態は違えど同じことだろう。資源の争奪という事実に対して顧慮なく、一切が実存の問題であるなら。


ゆえにこそ、再帰性が問われ試行されているのだけれども。愚痴が泣き言が社会において許容され社会性の一部となるように。愚痴と泣き言の代わりに自分を探し「カルト臭さ」に迷い込む人が、能う限り少なくなるように。かつて福沢諭吉が示した通り、一身独立して一国独立するが、一身の独立の在り方について、一国の独立の在り方と共に、明治ならざる21世紀に、既存の体制の社会システムの「失敗」を踏まえて、改めて模索し再試行するために。

Philip Marlowe

関連して、ハードボイルドとは何か、という話題があった。定義問題に対する回答にはならないが――。


この世界が糞であると、情など見込み難いと、嫌というほど知ってなお、生まれ落ちるということはつらい思いをしろということだ、と孤独に了解してなお、自身はディーセントで「ありたい」、他に対する情を、幾許かでも「持ち合わせたい」。生まれ落ちるということが、つらい思いをしろということであることに対して、何がしかの感情を持ち合わせざるをえない、しかしディーセントであらんとすることがその表出を抑制する。――そういう、弱くて臆病な人間の身の処し方について、大戦の暴力と殺戮の後に考えた人はいた。タフでかつジェントルであれ、ということは、そういうことだった。


生れ落ちるということが、つらい思いをしろということであることに対して、気に掛かる者が在りその人がつらい思いをしろという生存の命令に翻弄されていることに対して、やさしくあるためには、タフでなければならない。そのタフとは、レイモンド・チャンドラーその人にとっては、腕力のことでも、まして経済力のことでもなかった。


誰かが、つらい思いをしろという生存の命令に翻弄されているとき、その「つらい思い」を、その表出としてのみっともない愚痴と泣き言を、受け止めるのは、マチズモでも孤高として在る強さでも、実績と能力と商品価値に担保された自己肯定でもない、生存のつらさに辟易することによって価値なき者となる者が、最低限の自己規定と自己肯定の手段として持ち合わせる、ギリギリの抑制とディーセントであった。チャンドラーにおいては。


自己肯定しえない者が吐くのがみっともない愚痴と泣き言である。みっともない愚痴と泣き言を聞き、受け止めうるのは自己否定を知る者だ。自己否定を知る者が、他者が自己否定しようとなおそれを肯定する振舞いとスタイル、そこに品と礼がある。


生まれ落ちるということは、つらい思いをしろということである「から」、自己肯定のススメを説くのは、是非は措き、確かにマッチョである。自己否定に規定される者は多い。弱く臆病な彼らが、他人の自己否定に対して、生まれ落ちるということがつらい思いをしろということであることに対して、生存の残酷に対して、なお人間として最低限の自己規定を確保せんとするとき、弱く臆病な彼らは他人の自己否定のことを思い、その中に自らの何かを見出すのだ。


生存の残酷を、そのつらさを知る者が、自己否定に対して自己肯定を説くその発想については、私は単純にわからない。自己肯定とは生存のつらさと罪と共にあり、ゆえに自己否定と隔てうるものではない。むろん、そのようなことを弾さんに対して説くことは釈迦に説法でしかない。


一点の曇りすらなき自己肯定を持ち合わせる人が、生れ落ちることにおいてつらい思いをするべく組み立てられた人間社会に在るか。あいにく私はアウダ・アブ・タイではない。すなわち、生れ落ちることにおいてつらい思いをするべく人間世界は運命付けられた、のではなく、組み立てられている、と考える。さもなくばどうして「個人」たりえるだろうか。

肝心の子供

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アシュラ (上) (幻冬舎文庫 (し-20-2))

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