繰り返されてはならないこと、繰り返させてはならないこと


自動的に泣き寝入りさせられるシステムは残る…… - Close To The Wall

この記事すら、本当は書くべきではないだろうと思う。でも、一応事件について発言したことのけじめはつけたかった。少しではあるにしても私の書いたものも結果的に少女に対する負担の一部になっていることは間違いなく、その点については本当に申し訳ない。


報道を知って、特に感想はなかった。繰り返されてきたことがまた繰り返されたか、と思っただけのこと。この手の事件や事態を「報道で」目にしても感じるところなくなって久しい。繰り返されてきたことが今後も繰り返されるべきではない、そのほかに思うことはない。感情の問題だろうか、違う。ことさらに誰かを守りたいと思うことのない男の私にとっては、また繰り返されたか、で済むこと。そこには絶望もない。が、他人が絶望し存在を踏みにじられることが妥当なことであると考えたことはない。

(前略)一方で、このことを捉えて「基地維持派」は少女に対する非難をやめようとはしないだろうし、おそらく、少女の自己責任を問うたのと同じ口で、「反基地」運動がかわいそうな少女を祭り上げて運動を展開し、そのせいでダメージを受けたと、少女を擁護するような口ぶりで都合良く「反基地」運動を批判する連中が出てくるはずだ。


確かに出てきている、そういう意味のわからない言説が。前提を示しておくと、性暴力の問題と沖縄の基地問題は別であるし、セカンドレイプ批判と地位協定批判は別である。花岡信昭氏の一連の発言の最大の問題とは、「反基地」運動批判を目的として性暴力の被害者を批判したことにある。


そして、ある人が示していたように、セカンドレイプを「二次被害」と換言したとき、「反基地」運動の「抗議の声」が、その声高が、「二次被害」に含まれた、と考える人は、あるかも知れない。あるいは多く。なお、セカンドレイプ批判もまたセカンドレイプに与するとかまったく意味がわからない。反差別運動もまた差別の再生産に与する、という言説の最悪のバリエーションだろうか。


が。沖縄の問題と性暴力の問題が別であるとすることができないこともまた、前提である。それは今に至る歴史的な事実問題であることと同時に、抑圧と体制に強いられた沈黙の問題であるからだ。長い長い。私は「米軍人」の問題であるとすることには賛成しない。すでに指摘されている通り、米国はこうしたことについては個別に正義を指し示し法において執行せんとする国である。その正義に対しては、このことについては、私は同意する。省みるに日本国は。


http://www.genpoken.com/data/keiji/keiji08.html


遺憾ながら「基礎知識」として。紹介されている、一部で有名な昭和53年の広島高裁判決には、むかし日垣隆が切れていた。

(女性達の間では悪名高いと言われている)広島高裁の判決(昭和53年11月20日)では、「…およそ男性が座っている女性を仰向けに寝かせ、性交を終えるについては、男性が女性の肩に手をかけて引き寄せ、押し倒し、衣服を引きはがすような行動に出て、覆いかぶさる姿勢になる等のある程度の有形力の行使は合意による性交の場合も伴う」として、被告人に無罪を言い渡している。

日垣氏曰く、テメエの日頃の性癖を基準にするんじゃねえ。「テメエの性観念」を基準に近代法が運用されてはたまったものではない。社会通念とはそういうことではない。

2008年03月01日 yingze  (前略)自分が「強姦」されたと固く信じる人たちがいることを それが数万人も集まって大会を開くことを 中学生の自分には逃げ場が無いことを 絶望だ これは地獄だ

はてなブックマーク - http://www.asahi.com/national/update/0229/SEB200802290011.html

2008年03月01日 yingze  不謹慎だ? アホか、怒ってるんだよ。/id:freeflyflow2 強姦が事実かとか、なんで告訴を取り下げたかとかじゃないんだ。やっと彼女を取り巻く人たちに気づいたんだ。 とてもじゃないが自分なら堪えられない。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/national/update/0229/SEB200802290011.html

2008年03月01日 yingze  地位協定の改定のためにも取調べの可視化は絶対に行うべきなのに、この主張をする人が殆どいないのは全く理解できない。

はてなブックマーク - 沖縄事件の続き - REV's blog

b:id:yingzeさんのスタンスと言っていることは、私は私なりにわかります。ただ。


まず、先日『それでもボクはやってない』が地上波で放送されたので、多くの人が「肌身をもって」了解したろうが、取調べの記録と弁護士の同席は最低限綱領としての日本国の課題と私は考えていた。「左右」を問わず、基地問題の有無にかかわらず。少なくとも関心ある人においては。そして。ブログで何を書こうと変わるまい、とこのことについては私は諦念が前提にある。


また。性暴力とは「当事者」の問題ではないし、そうすべきではない。沖縄を訪れたことさえない「内地」の男として示すなら。沖縄の問題が「当事者」の問題ではなく、私たちの「当事者性」を問う問題であることと同様に。


性暴力を「当事者」の問題とすべきでないのはなぜか。「当事者」の問題としてしまうことが、抑圧と強いられる沈黙の構造の一切であり、体制の都合であった。沖縄の問題を「当事者」の問題であるとして、抑圧を肯定し沈黙を強い、体制の都合に加担する、恥ずべき言論人が「ジャーナリスト」があることと同様に。「オマエも当事者だろうが」という突っ込みが一斉に入ったことは正しい。


沖縄と「内地」の、「私と貴方」の距離が、歴史的な事実と経緯が、そのことを理由とする政治問題が、当事者において当事者性を忘却させる。基地問題に限ったことではない。あらゆる抑圧と強いられた沈黙の構造に、窺えた事態であり、結末である。


知られる通り、多くの性暴力は「顔見知り」の間において起こる。そのことを「当事者」の問題として処理する体制の都合が所在したから、強いられる沈黙のもと暴力が隠蔽され、抑圧される、過去の現在のそして「未来の」被害者がある。無数に。個人的なことは政治的なことである、とは、「当事者」の問題を広く社会に対して言挙げすることの正当と妥当を示すためにあった。過去の現在の、そして「未来の」被害者のために。


理不尽な暴力の隠蔽と被害者に対する抑圧が保証するのは、そのことを都合のよいこととする人間と体制の利益と、未来の被害者の存在である。それだけ。抑圧と体制に強いられる沈黙の構造が存続することとは、そういうことだ。沖縄の基地問題において、性暴力において、痴漢冤罪において。14歳の「被害者」の心情を慮り尊重することと、14歳の「被害者」の人格に対する毀損行為に憤り、あるいは反駁することは違う。むろん、後者が前者に優先するということではない。


イスラム世界における「女性の抑圧」について「抗議の声」を挙げる非ムスリムの人間は「当事者の問題」に政治的に介入する「非当事者」であるか。それは一面においてそうかも知れない。ただし。繰り返されてきたことが「暴力」であり「差別」であったとき、繰り返されてきたことが今後も繰り返されるべきではない、かく信じて為される介入は正しく「政治」であり、近代のヒューマニズムの基盤ではある。私はネオコンの思想に必ずしも同意しないが。

性暴力問題が政治問題と絡まることできわめて面倒な事態になってしまっているというのが私の認識で、だからこの問題に関してはセカンドレイプ批判をすればするほど相手が意地になってしまう可能性がある。そうした論争の泥沼化が被害者側にしてみるとプレッシャーになるのではないかというのが私の危惧だ。

なんともやりきれない。結果的に泣き寝入りに近い形になってしまったけれど、その泣き寝入りを起こした構造を批判することすら、負担を増す。少女を非難したり、少女の存在を「反基地運動」批判に利用する連中(産経なり週刊新潮なり多数のブロガーなり)は、そのことに配慮などしないだろう(自分の「利用」は「良い利用」!)。しかし、それに抵抗していく行動すら、事件を大きくしていってしまう。


そして暴力だけが残される。なにをどうしたらいいのかわからない。なんたる無力感。


繰り返されてきたことが今後も繰り返されるべきではない、繰り返されてはならない、かく信じることにおいて揺るぐことないなら、発言し続けるしかない。「現在の被害者」を支援することに結果的には繋がらなかったとしても、そしてそのようなことはそもそも望めないと最初からわかっていたとしても、「未来の被害者」のために、その人が「泣き寝入り」しないように。そのような社会をその構造を、体制の都合のためそのことに加担する確信犯を、そのとき許さないために。


私たちが日々の生活の中限られたりソースを投入して「ネットで」できることなどそのくらいしかない。伝達の媒体としての言葉とは、他人のために発されるもの。その「他人」が想像的な存在であろうとも。「現実」に対する無力は、言論の無念ではあるが、咎でも罪でもない。


私の世代において平然と繰り返されてきたことを、次の世代に、後の世代に、現在の、そして未来の、少年や少女たちにおいて、引き継がせ順送りにするようなことは、私は望まない。残念ながら、暴力が繰り返されることは止めようがない。だからこそ、そのことが隠蔽され抑圧され「当事者」において沈黙が強いられるような事態が状況が、繰り返されることを、構造において事実性に拠って容認してはならないと私は考える。ネットという言説空間において。


被害届は取り下げられたけど、沖縄の少女暴行事件に対する議論は絶えな..


東浩紀が言った。現在のネットの状況とは、これまで日本人が感じ思い酒の席で口にしていたことが、ネットというメディアを通して表沙汰となり「言説」化して流通する、ということであると。繰り返されてきたことは、いっそう規模を大にして、過渡期のネットを舞台に、繰り返されている。繰り返されてきたことが繰り返されるべきではないと、繰り返されてはならないと、繰り返させてはならないと、私は幾度でも言うだろう。

水晶内制度

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