野蛮人のテーブルマナー
タイトルはコピペです。
⇒はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:バイキング式のレストランで給仕を待つ君たちへ
そもそも。人間とは必ずしも生産性や建設的行為のために生きているわけではない、と私は考える。付け加えるなら、こうした価値観が社会的に前提されないことには、生きていくことを許されない人が、許されないと考えてしまう人が、幾らもある。経済や労働の問題を倫理ないし規範の問題とすることに対しては慎重であってほしい――それも任意の倫理的/規範的立場から。マネジメントを否定しているのではない。その逆。
fromdusktildawnさんが言うところの「下位2割の人」に対して「上位2割の人」が道義的な責任を有するか、んなわけない。「だからこそ」所得の再分配という理念と議論と制度がある。小飼弾氏に始まる一連の議論は「既得権」を問うものではなかった。弾さんは親族の私有財産を相続した人でも縁故に頼ってきた人でもない。スタートラインにおいてエスタブリッシュメント社会の成員ではなかった。既得権の存続は歴然とある。
現在の仕事柄、多額の資産を相続した年配の人たちと私はよく接するが、むろん福本マンガの登場人物ではない彼らには彼らの、身軽な私とは異なる、しかし言うまでもなく戦後民主主義下に育った人間であることにおいて私と変わるところのない、苦労と悩みの種がある。しかし同時に、日本にはまだまだ階層が遍在し存続しうることを確認する。給仕を当然のごとく必要とする彼らはベーシック・インカムのことなどそもそも知らない。関心もないし、関心を払う必要もないのだ。格差の拡大に弾さんが与したわけではない。
私の妹は、縁故のきわめて強い大企業に縁故皆無のままキャリアとして勤めている。努力家であり勤勉であり社交家でもあり、他人の面倒見がよい。なぜそのようになったかというと、生来の怠惰と無感動とコミュニケーション欲求の欠如と刹那性のゆえに「人間とは必ずしも生産性や建設的行為のために生きているわけではない」と考える犯罪と親和的な兄を見続け反面教師としたためである。鼻が高い(ちがう)。ということで、とりあえず私は借金と手が後ろに回ることはしないことにしている。日本は悪い意味でも縁故社会であるので。
私の妹は「現在においては」「勝ち組」に属するだろうが、むろん本人は勝っているとはまったく思っていない。「現在においては」が「明日をも知れない」と同義であることをよく知るうえ、現実のハードな生活は、勝っているとかそういうものではまったくない。代われるとして代わりたいとは私は毛頭思わない。人生とは個別だ。接待酒宴の少ない代わり、会社という保証なき収入水物のフリーランスへと私は帰着した。「好むと好まざるとにかかわらず」。
以前、テリー伊藤に問われ、誰だって、そこいらのチーマーの兄ちゃんだって、大蔵官僚になれるものならなりたいと思っているに決まっている、と豪語していた大蔵官僚があったが、人間観が浅薄にすぎる。ある種の経済学的人間観の陥穽はあって、つまり誰しもが最適解を選択するべく生きているわけではない。最適解を示唆され提示されたとして、個人の選択はそれと別個にある。
そのとき、選択における個人の責任とは。哲学者は問うた。最適解を示唆され提示され、了解した個人がはたして最適解を選択するか、別であるがゆえにresponsibilityという概念があり、自己責任論がある。そして。その前提をヒューマンファクターとして条件化してしまうのが経済ではある。
自身の行為については自身以外に帰責しえないとして。最適解の提示はそのことと別個の問題。最適解の否について論じることと、最適解を提示されてなおそのように選択しない/しえない者の存在について論じることは、別のことであり、「強者/勝者の傲慢」という概念においていっしょくたにするべきではない。
実力とは意識的に蓄え研鑽するものであって、妹はそのことをよく知っていたし、知っている。勝者は敗者のことを考えようとしないどころか知らない、その通りだろうし、妹は私の人生と人生観を了解しえない、それでもなお私のように考える人間があることは「他者」として知っている、ただし、妹が私の人生観に対して辟易することは、よくわかる。
「勝者」は「敗者」のことを考えようとしないどころか知らないが、同じくらいには、「敗者」もまた「勝者」のことを知らないし、その価値観や世界観や人生を考えようともしない。だから、「勝者」「敗者」とカテゴライズしている限りにおいて、それは双方の話は噛み合わないに決まっている。少なくとも「他者」があることを知ること、ほかなる処方は見つからない。現在の経済や労働の問題についてたとえば私の妹に帰責する言説は妥当か。「私の妹」のような人が、生産性や建設的行為を信じる人が、たぶん社会を実質的に支えている。理念的には措き。
⇒はてなブックマーク - あなたは、なぜ、自分のお金を貧しい人々に分け与えないのですか? - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ
『カイジ』の兵頭会長がまったく同じ問いをカイジに対して示していた。福本伸行という作家は、たとえば青木雄二のようには、階級闘争史観や唯物論に対する関心をまったく持ち合わせない。すなわち社会システムに対する関心がない。徹頭徹尾「イメージ」の人である。あれを「人間社会の真理」のように思う人がいて時折驚く。あんな金持ちいないよ。あれは「金持ち」という記号に付加されたイメージに過ぎない。しかしカリカチュアでなく大真面目であるからこそ滅法面白い。作家福本伸行の一貫した主題は、社会的なそれというよりは、はるかに「宗教的」である。
富の再分配はすればよいし、すべきだ。それが一国単位で行われることの南北問題的な欺瞞を問うことはあって構わないが、現在において富の再分配は国家において行われる。たとえばビル・ゲイツのように、他のやりかたで富の再分配を志向する者があるなら、それはがんがんやっていただきたいし、尊敬に値する。いずれにせよ、社会システムやインフラの敷設されていない、ひいては再分配という理念の共有されていない国家や地域に対して金だけ送っても詮無いことは言うまでもない。したがって、システムやインフラの敷設に対して資本と技術と知識を投下するコントローラブルな再分配の方法論と実践があることは、当然のことでもある。金を渡せばよいというものではない。
本題。
可愛くも凛とした女の子が言い放つ正論の納得力と破壊力は異常。もれなく死ねる。
いい友達と思うし、正論ではある。ただその正論は、私個人は10代の頃に通過した場所であって、人生観にまつわる正論は全体最適にして部分不適であることを現在の私は知っている。あるいは人生に正道なく人生観に正論なしを。guri_2さんが示しておられるようなよくあるわかりやすい洗礼は男子たるもの10代で、すなわち中高生の頃に、誰しもが受けて「格好よくなる」あるいは「格好よくなろうと七転八倒悪戦苦闘自意識悶々冥府魔道」するものではないか、という。で。三十路が目前になる頃には、ダサくていいんじゃね、という境地に達するという。諦めではなくて、それが人生の個別化ということ。勇気とか犬に食わせて。勇気とは自分のものではなく自分の自由にしうるものでないと知るから。
気になったのは。「だせぇ」「言い訳するな」「勇気を出せ」的な「サジェスチョン」を、guri_2さんはこれまであまり人から示されることなかったのか、改めて友人から直接言われて堪えるくらいに。はてなに巣食う理屈だけ達者なウィンプどもは多くの人は、その種の非生産的で非建設的な「サジェスチョン」というか宗教的精神論には方々で出くわして食傷というか耳タコしている。つまり。わざわざ言挙げていただかなくとも了解し言行に反映させている。その結果が反逆にして叛乱であるならそれが世界の選択というか説教の敗北。複雑化した社会における宗教的精神論の敗北。
guri_2さんのケースとほぼ同様の、出会いがない、的な話は私も聞かされたことがあって、なぜ私にそういう話をするのか、サラ金に借金して首回らなくなって闇金行くようなウシジマくんコースだろうと思ったがそれは措き、私の「サジェスチョン」はふたつ。ナンパするか逆ナンされるような場所に出向くかブログでロリペド性差別無縁の人格ある女性としての凛とした女の子の絵を描き続けるかしたら。それと。出会いが人生ではないよ。加えてもうひとつ。軽い子はイイよ、陰気な男だから軽い子がいいんだろうが! 先方の都合は知らんが!
つまり。出会いとかそれに準ずる勇気以外の人生の味わいを、Flavor Of Lifeを、知り開拓し獲得してそれなりにうまく運転していくことが、もう性的には若くないことを知る男の、真の勇気であり、格好よさではないかな、という。私は宇多田の歌は好きだけれども、恋愛というのは大きいね、と他人事を思う。自身がどれだけ「勇気」を振り絞ってもできないこと、自身にとっての真に守るべき掟の門をその価値と共に知ることが、個性化の要諦。任意の価値的裁断に個人として脅えないこと。
価値的断定というのは強烈で。あいつはバカだ、とかいうのも同じこと。そうした価値的裁断に善くも悪しくも翻弄されがちなのが、10代という季節。そもそも、ナンパというのは勇気の問題ではない。昔の私がそうであったけれども、ナンパする奴、できる奴、というのは、勇気なんぞ振り絞らなくとも呼吸するようにやる。向き不向きの問題。あるいはモチベーションの問題。つまり、貴方は本当に出会いが欲しいのか、彼女が欲しいのか、ということの問題。経営者に向かない人というのは歴然とあり、それが分業化の帰結。だからたとえば堀江貴文は尻を叩いたし、確かにそういう時代ではないけれども。
正直なところ、
言い訳したり、あら探しをしたりしながら今の自分を守って、それで70、80まで生きてもいいと思うんです。
イヤミとかそういうんじゃなくて、それもひとつの生き方だと思うし。
ただ個人的には、欲しいモノはなんとしてでも手に入れるべきと思ってるのと、
勇気が出ないっていう本音をカモフラージュしながら何十年も言い訳をしつづけるのは、考えただけでげんなりするので、
できない理由を考える暇があるなら、できることだけでもやってしまった方がいいと思うし、そっちをおすすめしたいんです。
「それができない人もいる」という意見は、とてもよくわかるんだけど、最近はわからないフリしてる。
ホントにそうか?って思う。
なぁなぁ、ホントにできないか? できない理由って具体的になんだ。それに対してこれまで行った対応策はなんだ。
意外と具体的には言えなくて「なんとなくできない気がしてる」だけのときってあるし、
突き詰めてみると、「それって勇気を出して一歩踏み出せば解決するんじゃん?」ってことが案外あったりすると思ってるんです。
欲しいものはあるか、と問われて、何も応えようがなくなって久しい。失いたくないものはある。屋根と布団とか、自分が善人であることを証し立てするために自分にとって存在し自分がかかわる人とか、社会の理念としてあるべき公正とか。思うことは、自意識の問題ではないし、自分の問題ではない。
給仕なきバイキング会場としてある世界は社会は、私のためにあり私のために皿を振舞ってくれている、のでは必ずしもない。公正な社会を皿を振舞い振舞われる関係と考えるなら、給仕は不要だ。皿の渡し合い回し合いとその上に乗る無数の料理が愛であると考えうるなら。給仕という具体的な愛なくして誰も皿を欲することない、私はそのように考えるけれども。皿をめぐる欲求は欲望は、社会関係において形成される。
愛とは自己の問題ではない。最近つくづく思う。適切な社会的欲求/欲望を育まれず、自身に価値なきと考える人間は幾らもあり、しかしそのような人間も痛みを覚える。ときにそれは宅間守の事件のような反社会的行動として帰結する。自身に価値なきと考える人間に皿を与えるのは、皿の取り方をテーブルマナーを教えるのは、換言するなら適切な社会的訓練を施すのは、適切な社会的欲求/欲望を育むのは、たぶん給仕という具体的な愛と、その適切な欠如だ。
「自分の問題」として考えるなら、あるいはダサいとかそういう問題であるかも知れない。他者性を介してしか自身の価値と社会的欲求を見出しえない人間があり、それは勇気の問題ではない。他人のために、公義のために公正のために、人を殺す人間があり、そうした存在を私たちの社会は保障している。制度的にも、理念においても。人は他人のために人を殺しうる、そして自らを殺しうる生き物であり、そのことを社会的欲求における自身の価値の行使として承認し、公認しうる社会的存在である。
「それもひとつの生き方だと思う」なら、そういうことを承知しておられるなら、私が言うことは何もない。加えるなら、スピルバーグが喝破したように、ゆえにこそ、食卓は諸悪の根源でもある。
- 出版社/メーカー: 角川エンタテインメント
- 発売日: 2006/08/18
- メディア: DVD
- 購入: 2人 クリック: 48回
- この商品を含むブログ (237件) を見る
なお。他意はないが一点だけ「それは違うのでは」と思ったので。
⇒http://d.hatena.ne.jp/Rir6/20080316/1205682434
なんでこいつわざわざ女の絵なんか書いてその女が自分の主張を言っている様に見せかけてるの?
だって記事の内容ではその台詞を言っているのは男友達だよね?だったら別にその絵は状況を説明するための補足ではありませんよね。
「要は、勇気がないんでしょ?」という言葉はid:guri_2の主張なんですよね?だったらその絵の中心にはid:guri_2さん、あなた(の自画像)がなきゃおかしいでしょう?なのにそこには何か可愛らしい(と世間の人たちは思うのだろう。正直僕はこんな台詞吐く女はただの馬鹿としか思えないから、全く可愛いと思えない、むしろ吐きそうになる)女が居る。つまりid:guri_2はその女に自分の主張を代弁させているわけだ。キモッ。何、あんた女に代弁してもらえねーと自分の主張一つ出来ないの?*2うわー……
なんつーか、正直僕の価値観からすると、ナンパが出来ないとか会社を立ち上げられないとかより、自分の主張を女に代弁させなきゃ語れないことの方が、よっぽど「だせぇ」と思うんだがなぁ。
そうではなくて、たぶん、自分がそう言われたいのだろうと思う。自らが描くような女性に。guri_2さんは「自分に言い聞かせる」ことをひとつの目的にエントリ書いていることが、傍から見ていてもわかるので、ゆえに実質的に記している内容にもかかわらずネガティブな印象を持たれないのだろうと思う。可愛らしくも凛とした女性に、自身の惰弱や優柔不断や日頃の言動や生き方について厳しく叱咤され裁断されたい、その心持には全力で共感する。私も凛とした女性に改めて言われたい。「死ね」と。
私は自己憐憫というのがわからない。だから、自己憐憫の問題というのもよくわからない。そのことで目の前の他人に対して困惑することはある。欠落とは思う。そのことは書き加えておく。