ジョン・弾


差別よりも残酷な - 過ぎ去ろうとしない過去

それが、人に身銭を切らせる時の貴方の作法なんですか? - シロクマの屑籠


脳裏に浮かんだのは、文豪の著作の書題にして巻頭言としてあまりに有名な、ジョン・ダンの詩だった。

なんぴとも一島嶼にてはあらず
なんぴともみずからにして全きはなし
ひとはみな大陸の一塊
本土のひとひら そのひとひらの土塊を
波にきたりて洗いゆけば
洗われしだけ欧州の土の失せるは
さながらに岬の失せるなり
汝が友どちや汝れみずからの荘園の失せるなり
なんぴとのみまかりゆくもこれに似て
みずからを殺ぐにひとし
そはわれもまた人類の一部なれば
ゆえに問うなかれ
誰が為に弔鐘は鳴るやと
そは汝が為に鳴るなれば


bewaadさんが以前、呉智英氏の著作でこの詩がジョン・ダンなる詩人のものであると知った、と書いていた。私もそうだった。


サルの正義 (双葉文庫)

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そして、当該のジョン・ダンの詩を紹介した後、呉氏は続ける。イラクで、ベトナムで、シベリアで、広島で鳴らされた弔鐘は、ほかならぬそれを聞く貴方の為に鳴らされているのだ。時あたかも湾岸戦争の只中であった。むろん、呉氏が説いているのは倫理問題である。そしてジョン・ダンは、17世紀英国の宗教詩人であった。


そういう時代ではない。にもかかわらず、一連の小飼弾氏の議論は、結局そういう話に終始している、という印象が私には一貫してある。繰り返すがそういう時代ではない。21世紀日本は17世紀英国ではなく、呉氏が説き続けるように倫理問題とはあるいは普遍であり原理であるが社会的な構造問題は歴史的段階において様相を違える、階級闘争史観においては。「そういう時代ではない」ことを「汝の為に鳴る弔鐘を聞く現代の個人」が了解しうるか、という論点については、論じようがない。呉智英氏が説いた当時、歴史は終わったそうなので。むろん呉さんはヘーゲリアンではなかったが。――で。


私のセカンド童貞を賭けてもいい。弾さんにはそんな自覚ないから。それどころか弾さんは弾さんで「俺たちがこんなに一生懸命やっているのに、なんであいつらは愚痴と泣き言をネットに垂れ流し心優しいつもりの懐ならず心の貧しいアカ(ダブルミーニング)の他人の同情を引いているんだ」、と思っているから。

君の年収分を賭けてもいい。彼らにはそんな自覚ないから。それどころか彼らは彼らで「俺たちがこんなに一生懸命やっているのに、なんであいつは足を引っ張るんだ」、と思っているから。
自分以外の痛みというのは、それくらいわからぬもの。配偶者や親子ですらそうだ。母や私を殴る父には、そもそもそれが暴力だという意識すらなかった。言う事をきかない機械を殴って直そうとする意識の延長上にそれはあった。
繰り返す。自分の痛みは、結局のところ自分にしかわからない。いや、自分ですら全てわかっているとはいえない。それを他人に何とかしてもらうとしてもらっている時点であなたは袋小路に入っている。

404 Blog Not Found:小市民の敵は、小市民


真面目に書くと「そんな自覚」とは、社会システムの問題を世界の不条理と対する個人の覚悟の問題に還元して論じている自覚、のこと。その背景には、現在の「タガの緩んだ」社会システムが個々人の行動とその蓄積において可変可能であり容易に「確変」に入りうる、という認識があり、具体的な行動の蓄積を伴っての確信に準じた意識がある。IT業界を知らない堅気とも言い難い社会人としては、それはIT業界の話ではないでせうか、と醒めた見方を前提とせざるをえないけれども。


技術者としての弾さんの「具体的な行動の蓄積」について最大限の敬意が払われていることは言うまでもない。経営者としての弾さんの「具体的な行動の蓄積」をめぐっては、弾さんの記したことに基づいて最近も議論されていた。そのことと、ブロガーdankogaiの議論/主張は、別のことと私は考えるけれども、弾さん自身が自らの「具体的な行動の蓄積」に実践に自身の議論と主張が裏打ちされていることを明示する以上、弾さんの社会的な履歴と立場が俎上に乗ることは、仕方がない。何を今更、な話ではある。


マッチョというのは、社会的な立場と実存が一致する人のこと。そして。一致しない、ことは『404 Blog Not Found』のそこかしこに明示されている。にもかかわらず、弾さんは時に一致しているかのごとく発言する、それをして姿勢としてのマッチョと言い、そのことに対しては私は肯定的であったりもする。私は自身の男性性に一点の懐疑も抱かないがゆえに男根主義者になりようもない人間なので、他人のために「男」たることを意識的に貫かんとする弾さんの古風な「男らしさ」とその明示については――私は『404 Blog Not Found』のあまりよい読者ではないが――ブロガーdankogaiの好きなところであったりする。


社会的な立場と実存を一致させることが「男」において要請された時代があった。あるいは「女」においても。経営者として、また個人としては知らず、ブロガーdankogaiは、一致しないにもかかわらず一致させんとしている、ことを明示する。その間隙にたぶん今回の問題が在る。


アルファブロガーの多くは社会的にも所謂「成功者」である、と誰かが真理を衝いていた。「具体的な行動の蓄積」と実践に自身の議論と主張が裏打ちされていないと、かつそのことを明示しないと、他人は説得力を感じない。ことにライフハックな事柄については。当たり前のこと。社会的/実存的に不幸な人間が説くライフハックとか誰が読むだろうかというとたとえば私。それもまた社会的/実存的に不幸を逃れ難い人が生きるに必要ジャマイカ


私はマッチョなので(嘘)、自分がそうとは言わないが。「自分がそうとは言わない」のがマッチョ。だから、社会的/実存的な不幸の問題についてマッチョが言及すると「上から目線」になることは仕方がない。「自分がそうとは言わない」から。「思わない」かは知らない。それをもって当事者性に対して顧慮がないとしうるかはわからない。遠慮はないだろうが。「自分がそうとは言わない」自尊心というのは、単純な自尊心ではあるが、わかる。


そして。「アルファブロガー」の自己認識は措き、上記の真理に逆襲されることもある。つまり。社会的な所謂「成功者」であることにおいて、その再三の明示と「誇示」において、議論と主張が批判されることもありうるということ。対するに、自身の「具体的な行動の蓄積」と実践の歴史を説いたところで、社会システムの暴力性に対する「個人の事情」の一般化、という論駁からは逃れ難い。社会システムが暴力であることを認識せよ、と。むろん「勿論社会システムは暴力ですが何か?」と弾さんは応えるだろうし、幾度も言っている。社会システムの暴力性について小飼弾氏にことさらに帰責されるものでないことは言うまでもない。が。


然るに。君の年収分を賭けるとか「喧嘩を売る」放言して、対するに「年収分をせびられる」。「冗談」でも「皮肉」でもなく、それは正しい批判だ。社会的な所謂「成功者」であることを再三明示して、議論と主張を展開し、あまつさえ人生を説く行為に対する。「成功者」の「上から目線」が先か、「敗残兵」の「愚痴と泣き言」が先か、卵が先か鶏が先か、卵と鶏の繰り返しは止めようがないか、そういう話ではあるまい。つまり、階級闘争史観を「上から目線」と「愚痴泣き言」の対立として偽装するべきではない。が、「弾さんにはそんな自覚ない」のだと思う。


経営者が必ずしも経営者として社会的に発言する必要はない、私はそう考えるし、弾さんは、経営者であろうが、否、「雇われ」ならぬ「経営者」であるからこそ、社会に対して個人として語るべきと一貫して示し言行一致させてきた。が、社会的な立場と実存が一致しないと公に言わないのがマッチョであり正しく「男の矜持」であるからして、弾さんは一致しないとは言わないし、そして他に対しても一致させるべきと、すなわち愚痴と泣き言を公にすることは、あまつさえそれを社会的言論として流通させることは、頂けない、とするのだろう。


ブロガーdankogaiの言葉において、一致しないことは周知されている。不一致とは、人の、社会関係と社会的立場に疎外された個として在ることの、必然的な孤独。そのうえでなお社会的立場と実存を一致させんと対外的に「胸を張り上を向く」、それは仕事人の矜持であり社会人の自覚であり、家庭人の覚悟である。弾さんの言葉に「元気付けられる」とはどういうことかと首をひねっている人がいた。私が思うに、そういうことではないか。


社会的立場と実存が一致せず、社会関係と社会的立場に疎外された個として在ることの必然的な孤独を知り実感しなお、社会的立場と実存を一致させんと対外的に「胸を張り上を向く」こと。三文の得にもならず価値の産出にも資さず他に幸福を分配することにも繋がらない愚痴や泣き言(むろん私はそう思わない)を公に垂れ流すならその頭と口を、他人の幸福のために、価値の産出のために、ひいては三文の得のために、使うこと。仕事人の矜持には、社会人の自覚には、家庭人の覚悟には、意義があり、価値があること。以上が社会関係を迂回して自己肯定を構成すること。それらを言行一致をもって示し続けているから、そして、一切の話がそこに着地するからこそ、世界の不条理に対する個人の覚悟、すなわち気構えにおいて説くからこそ、弾さんの言葉に「元気付けられる」仕事人が社会人が家庭人がある。


弾さんが説く「マッチョのススメ」「自己肯定のススメ」とは、「勝ち組になれ」とかそういうことではない。システムに疎外された個人において社会的立場と実存が一致せずとも、仕事人の矜持を、社会人の自覚を、家庭人の覚悟を持って、体外的に「胸を張り上を向く」ことの価値と意義を説いている。ゆえに支持される。常に通俗的であることがブロガーdankogaiの強みである、と記した人が以前いた。私の言葉で示すと、人生と人生観をめぐるメッセージに限ったとき、マッチョ版の「相田みつを」に見える。「癒し」ならず「カンフル剤」としての自己肯定。


そして、そんなdankogaiが社会システムの暴力性に対する認識を問われ、社会システムの暴力性は存在しますが何か? と返す。これが、一切の齟齬と軋轢の要点ではないか。


現在の「タガの緩んだ」社会システムが個々人の行動とその蓄積において可変可能であり容易に「確変」に入りうる。容易であるかは措き「タガの緩んだ」ことは、分析と評価は措き、事実ではある。具体的な行動の蓄積においてたとえば弾さんらが牽引してきた日本のIT業界が在り、かくてプログラミング知らずの私がこうして手軽にブログを更新している。


「タガの緩んだこと」と「タガの緩み方」に対する認識と分析と評価と価値的な判断の相違が基底にある。議論されて然るべきことであるからこそ、そうした社会システムに対する議論が、個々人の社会的立場に過度に依存して展開されるべきではないし、まして個の人生や「愚痴と泣き言」や、倫理や覚悟の問題とすべきでない、と私は思う。これもまた何を今更であるが。


「成功者」の「上から目線」が先か、「敗残兵」の「愚痴と泣き言」が先か、階級闘争史観に拠るまでもなく歴史的には前者が先であるし、弾さんの実存哲学に拠るなら端的に後者が先である。個の倫理と覚悟と美学の問題であるから。その実存哲学に打たれ賛同し元気付けられる人が多いこと、それが、ニーチェ的な意における「強者の論理」の、もっとも厄介な副作用ではある。ニーチェは現実に負け犬だった、すなわち彼の議論と主張は、思想は、「具体的な実行の蓄積」に実践に裏打ちされていた。が。


弾さんの実存哲学に限定するなら私は同意するが、それは社会システムに敷衍できるものではないし、自己憐憫無き代わりに自己否定が初期設定の人間としては、実存哲学が人を殺しうることを知ってなお他人に勧めることの倫理的な問題について、思う。


この賭けに負けたら私のセカンド童貞は誰に分配されるのか、と詮と品無い与太は措き、つまり、そもそも賭けとして成立しない話ではある。「取り合う」ことを前提に金銭を賭けるならむろん相互的であるからして。つまり、弾さんが賭ける金額を自らも賭けないと、その事前の合意がないと、1対1の賭けは成立しない。であるから、最初からそういう話、と私は思っていたけれども。作法とかコミュニケーションとかそういうことではなくて、筋違いの要求に応じる必要はないし、応じなかったことをもって責められるべきでもない。レトリックだったのだろうし、了解しての流れだろうと。で、だからこそ弾さんの放言は問題だろう。経済的な強者弱者関係においてベットの上限を自らが握っていると示しているのであるから。私の脳裏に浮かぶのは、福本伸行先生が描くdankogaiの姿。


dankogaiはブロガーとして「キャラクター」というか着ぐるみのごとく社会的立場と実存と言説をわかりやすく一致させることがある。そのとき、マッチョはマッチョでもきわめて戯画的な、すなわち福本マンガの登場人物のごとき相貌を描いて、対立は福本マンガのごとき様相を呈する。そこまでわかりやすい人でもない、と私自身は思っているし、ではなぜdankogaiがわかりやすく対応するかといえば、マッチョだからだろう、と言うしかない。「持てる者の責務」として。そういう発想自体が、社会的にどうなんだろか。そのことこそ、論じられ問われ質されていることの本丸ではないかな。