I don't believe me. (by Jun Miura) 


2008-03-06

2008-03-08

http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20080306#1204796984

最初に記しておくと、こうして、持論開陳の端緒としての心ない自動TBをしじゅう打っている私が誰かに何かを言えるものではまったくない。


精神分析の用語は使いたくないと以前書いたことを全面的に忘れるとして。一言居士の言及の欲望に自身の言及が駆動されていることを自己欺瞞のごとく偽装するな、自身の欲望の実行を誰しもに保障された「当然の権利」の行使の問題としてすり替えるな、という批判として読んだ。返す言葉もない、御指摘ごもっとも、と省みるまでもなく私は思った。自覚なき人ばかりとも思わない。


「バカにバカと言って何が悪い」という話、としていた人がいたけれども、その伝で言うなら。バカにバカと言うことの欲望が、バカに対してバカと公然に書き付ける行為を駆動するなら、誰しもが持ちうるだろう自身の欲望に対して自省的であるべきではないか。以上が指摘の要点と私は受け取った。対して、たとえば疑似科学レイシズムの問題において、バカに対してバカと指摘することの必要性と「正しさ」を説くことは、記事の問題提起に対してはズレる。


欲望はその実行において社会的に問われる。差別意識はその表出において社会的に問われる。バカなことを言っている他国国籍所持者に対してバカと指摘する者の言及を駆動するその(ジジェク的な)欲望、という論点はある。欲望はその実行において社会的に問われる、すなわち社会的な正当性と妥当性が問われる。言及の欲望に基づいて言及する、ことは「当然の権利」ではあるが、内容において正当性と妥当性を問われるし、批判にさらされうる。


内容の正当と妥当を自ら措き、言及の欲望に基づいて言及していますが何か? というのは「社会的には」成立しない。言及している側に「そのつもり」があるなら。私的な欲望の私的な行使に過ぎない、なら公開するの止めたら、という。一言居士の言及の欲望はむろん肯定されて然るべきである、が、悪意を調達する欲望の実行において「言及したいから言及している」ことをもって「当然の権利」の行使とするなら、それは社会的な主張としては成立し難い。私はチラ裏肯定だけれど、チラ裏の社会的な意義と、チラ裏ですが何か? という主張の非社会性は、別の話。


自身の「言及の欲望」に対して自覚的かつ自省的であれ。そのように私は読んだ。普通に同意する。バカな発言のどこがバカか指摘することと、バカに対してバカと言うことは違う。公然における後者を、「当然の権利」の行使と「だけ」するなら、それは単なる欲望の問題。対して、悪意を調達する欲望の実行を「当然の権利」の行使と「公言」することに対する指摘と批判はありうる。それもまた主観であるか。悪意をもって他に言及した「つもり」など私は一度もないけれども、むろんそう考えていない人はいるだろう。被言及当事者でなくとも。


悪意を調達する欲望の実行が自身の正義と釣り合うとき、人は自身の行為を承認する。自身の正義が倫理に基づくか当事者性に基づくか社会正義に基づくか、あるいはそのすべてであるか。社会正義に基づくなら行為内容において他人の社会正義の天秤にも乗る(ヒトラーだって社会正義を考えていた)。それをして政治という。然るに俗的認識論においては、その他人の天秤もまた主観的でありうる。ゆえに。原則論と前提の確認がもっとも穏当な議論ではある。


名誉毀損という法的概念がある。「日本国において」ヒトラーの思想は弾圧されないが批判されうる。原則論と前提の確認とは、そういう話。あるいは「それだけの話」。なお人権擁護法案という以下略