絶望の国のExodus


はてなブックマーク - 日本でしか生きていけないと将来破滅するリスクがあるので、世界中どこでも生きていける戦略のご紹介 - 分裂勘違い君劇場

はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:日本はヤバくても、東京はヤバくないかも


ある高名な「知識人」の言葉を思い出す。女性と明記するべきだろう。大意。日本という国家はゆくゆくは沈没する、貴方がたが沈没する船と運命を共にする義理などない、いつでも日本を捨てられるように、準備と心構えを持ち合わせておくべきだ、自分が生きるに値する場所で生きていけるように。ただし。


沈没のさなか大混乱が発生することは避け難い。そのとき真っ先に犠牲になるのはいつだって、女子ども、老人、弱い者である。歴史が証明している。だからこそ、この国に留まらんとする者が在る。沈む船から先んじて逃げ出すのではなく。


「男」に対する当事者意識なく、国家脱構築の名うての論客であり、個人の自由と主体性を至上の価値とするフェミニストたるその人は、日本人のアイデンティティ、といった問題意識など洟も引っ掛けまい。この種の議論を目にするたび、私は、小松左京の『日本沈没』を、作家がその時代に、気宇壮大な仕掛をもって取り組まんとした問題意識を、思い起こす。



日本人である前に個人であることを、日本国家が保障しうる。という構造において、国家の脱構築は概念と意識の水準に留め置かれる。先日放送されたNHK小田実特集をながら見していたのだが、この戦後稀代の実践家において「市民」とは概念と意識の涵養の問題であったことを、病床からの「遺言」を複雑な感慨と共に聞きつつ改めて確認した。


ゆえに。リバタリアニズムが台頭した。個人であることを市場が保障しうるなら、国家は構造においても相対化されうる。社会観の相違について論じ合うことの不毛を思う。私は以前自らを国家主義者と半ば冗談として名乗ったが、残り半分はそういうこと。個人であることを日本国家が保障しうる限りにおいて、共同体にも縁故にも位置のない私は日本国にコミットし続けるだろう。語学不得手の言うことではないが、世界のどこにあろうとも。


そして、個人における日本国に対するコミットにおいて、想像的な共同性が関与するとき、国民国家は補完される。なお、集合的な記憶と「外敵」の存在に直接に担保された共同性が想像的であることと、存在の了解すなわち内的真実の問題は別。所謂本居宣長問題の現在まで及ぶ要点がこれ。


冒頭の言。その人は日本国に対するコミットを持たないし(そもそも国家観念に対するコミットを持たない)、想像的な共同性に対してきわめて批判的である、自身の未来を条件付し留保する「義理」もないとする、ただし、「女子ども、老人、弱い者」に対する「義理」から、日本国に留まる選択肢を保持する。


個人であること。それは意識の問題ではない。保障なくしてありうるものではない。団塊世代のその人において存在的なその保障とは、性愛すなわち国家幻想/共同幻想と対抗しうる対幻想であったのだろう。その人が吉本隆明を評価していることは知られている。存在の了解と社会に対するコミットの不一致を、その社会学者は前提する。私は、その人のそうした文章が何より好きであったが。


性愛を知るということは孤独を知ることであるし、あるいは自身の孤独の輪郭をくっきりと縁取り、そのことによって、想像的ではない自らの身体ひとつぶんの等身大の孤独を了解し、大仰に言うなら通じて人間存在の本源的な孤独を改めて確認するということでもある。性愛とは孤独を忘れるものではなくて、自身の孤独をつね確認して了解するプロセスの繰り返し。西欧的な意において、自身の孤独と親しむとは、そういうことだろう。性愛ほど自身の孤独を身に染みてわからせてくれるものはなく、だから私は懲りて疲れた。我が事を色々と棚に上げて。性愛すなわち対幻想とその不可能とは、存在の了解の問題ではあるが、社会に対するコミットの問題ではない。私はそう考える。


そして。存在の了解と社会に対するコミットの不一致において、個人であることを、市場における保障を望む者は市場において保障され、望みえない者は国家において保障されるべく、社会が構成され制度設計されるならベターと私は考える。が。虻と蜂を同時には獲りえないとするなら、端的には優先順位が問われ、なぜか市場原理と留保の無い生の肯定が激突している。「なぜか」というのは、別のレイヤーの問題であろうから。


端的かつ乱暴な言であることは承知だが。規制緩和セーフティネットの整備、加えて敗者復活の余地、は政策的に両立しうるだろう。規範的/倫理的な話にしても甲斐無い。自由な個人であることを至高の価値とすることにおいて同意しうるなら。市場あるから国家とか邪魔、というのも、市場原理は個の生を留保する、というのも乱暴な議論だろうし、つまり一部経済学と一部リベラリズムが不倶戴天というのもどうなんだろである。


かつ、個であることは無前提ではない、すなわち存在の了解という内的真実の問題ではないし、資本主義の市場において保障される個も民主主義の国家において保障される個も在って、現代中国を見るまでもなく両者は車の両輪であり、いずれに保障されるかは個人の適性の問題。すくなくとも規範的/倫理的に問われるものではない。すなわち、生活保護の議論自体が難しいこんな世の中じゃポイズンであると。


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私はこうした公知する人を無条件で尊敬する。石橋湛山の話に繋げたかった、長くなったゆえ別の機会に。以上のスタンスから私はベーシック・インカムに賛成するにやぶさかでないはずなのだが、「が」というのはたとえば風が吹くと桶屋が儲かる問題について湛山らに教わったからではある。


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