『ティファニーで朝食を』の主演はジョディ・フォスターこそふさわしいと晩年のカポーティは言った。


当事者合意は原則であるとして。


http://d.hatena.ne.jp/todesking/20080313/1205396416

一休さんメソッド - rna fragments

レイプ神話のホントとウソ


(前略)


 この事件にそっくりの裏ビデオレイプマン」というのがあるということは本誌先週号(サンデー毎日)の記事で初めて知った。犯人の少年たちがこのビデオを見ていたかどうかはわからないが、しかし、ビデオ「レイプマン」に限らず、男性週刊誌やスポーツ紙のマンガなどを見ると、やたらレイプ・シーンが多くて唖然としてしまう、私はそういうのを見るたび、男の人たちの潜在的レイプ願望の根深さに驚く。


 そういうマンガでは、レイプされた女が必ずといっていいくらい、そこはそれ女の「性(さが)」とか「業」とかいうやつで、イヤだイヤだと言いながらレイプした男にズルズルと性的に支配されてゆくようになる。「心は嫌っていても、ダメなの体が」ということになる。そういう、わりと男の人たちにとってチャッカリと都合のいい話の運びになっている。


 私はいつも、「ほんとかなぁ、そんなの。イヤなものはイヤだよなぁ」と思う。


 ところが、女性週刊誌のマンガなどにもレイプ・シーンが登場していて、こちらでもやっぱり「心は嫌っていても、ダメなの体が」だったりするので、またまた驚いてしまうのだ。男ばかり責められない、女にも潜在的レイプ願望というのがあるんだろうか。やっぱり女の「性」とか「業」とかいうやつは思いのほか強力だったりするんだろうか。


 男は潜在的にレイプ願望を持っていて、女もまたそれをヒソカに待ち望んでいる――というのが、あんまり大きな声ではいえない日本の常識のようである。男と女の「レイプ神話」。


 私はこの神話は、たぶん50%は正しくて50%はまちがっているんじゃないかと思う。


 いろんな女の人がいるわけだから、いちがいには言えないことだけれど、女の人たちは確かに空想としての、ファンタジーとしての、一種のゲームとしてのレイプは望んでいるところもあると思うが(そのことはちゃんと認めたほうがいい)、現実のレイプは絶対にイヤなのだ。それはどこまで行ってもイヤなもので、女の「性」だの「業」だのが入り込む余地のないほどイヤなものだと思う。


 ファンタジーとしてのレイプは望んでいるところもあるが、現実のレイプは断固としてイヤだ。だから、女にとっての「レイプ神話」には50%の真実と50%の誤解があると思うのだ。たぶん、男の人たちにとっても、(マトモな男なら)同じようなものではないかと思う。


 レイプしたいとかされたいというファンタジーを持つこと自体は、私はけっして悪いことではないと思う。そういうファンタジーに遊ぶことと、実際にそれをやってしまうことの間には大きな隔たりがある。この隔たりが見えなくなってしまった愚か者たちが犯罪者になる。たいせつなのは、この隔たりが見えているかどうかだ。


 こういう事件があると、すぐに「レイプ映画、レイプ・マンガ、レイプ小説を追放しろ」と騒ぎ立てる人たちが出て来る。確かにひどい作品(「レイプ神話」をおめでたく信仰しきったもの)も多いけれど、でもそういう発想は短絡的で、文化とか芸能を貧しくするだけだと思う。私はイヤだな、そういう「目かくし主義」は。


(中略)


 私はずっとあのショッキングな「女子高生コンクリート詰め監禁殺人事件」のことを考えていて、男友だちと話していたら、思いがけない視点が出て来たようなので書いてみる。殺された女の子に失礼かもしれないのであの事件とはいちおう切り離して、一般的な話として読んでいただきたい。


 男友だちは言う。


「強姦と輪姦は本質的に全然違う。強姦は一対一の関係で欲望を強引にぶつけるだけだが、輪姦は性欲よりもむしろ男同士の仲間意識のほうが重要なのだ。一人の女という対象を共有し、罪をおかしてゆくことによって、他人(男)とつながろうとする。小さな小さな“社会”を作り、強固なものにしていこうとする。そのことのほうが重要なのだ。男と女の問題というより、男と男の問題。社会的動物である男にとって、少年が男になるための儀式みたいなもの。最低の、もっとも軽蔑に値する形での儀式だけどね」


中野翠『最新刊』1989年毎日新聞社刊行原著p111〜113)

最新刊 (文春文庫)

最新刊 (文春文庫)


直接にはコメントしない。私は中野氏の15年来の愛読者である。1989年、文中で触れられている通り、綾瀬の事件の報道に接して記された文章である。そして、こちらについても愛読者として明記しておくと、沖田浩之主演のビデオは措き、マンガ『THE レイプマン』はそういう作品ではない。改めて復刊されるくらいには、悪くないB級マンガである。犯罪行為を批判的に描かないフィクションにおける犯罪描写について批判されて然るべきとは私は考えないが、『THE レイプマン』は本当に何も考えていないので、際物にもならない代わり、普通に読めるB級作品ではある。よくああいうタイトルでああいう話を人情物として延々と描いたな、というくらいに何も考えていない。そして。


「が」というのは、「何も考えていない」ことの問題というのはあるかも知れないから。つまり、貴方は自分が描いているモチーフについていかなる認識を持ち合わせているのか、ということが窺えないのは。『THE レイプマン』は別にレイプを肯定・美化するマンガではない。その水準において価値判断がない。「マジレス」すると「心は嫌っていても、ダメなの体が」的な話では基本的にはない。即物的。人情話であること以外、何も考えていないのだ。作者のモチベーションと読者の反響を除けば。そして。作者のモチベーションと読者の反響しか存在しない世界において、犯罪行為を描いた作品が流通することこそが、問題というなら、厄介な問題である。たとえば。


ブラッドハーレーの馬車 (Fx COMICS)

ブラッドハーレーの馬車 (Fx COMICS)


なら、その非倫理的な世界観に対する作者の倫理的な認識が前提されている。批判的な、ということではむろんない。たとえばジャック・ケッチャムも同様。小山ゆうが●●であることは周知に属する事柄だろうが、それは一貫した作品世界の主題と一致する。『THE レイプマン』において、そのような背景は窺えない。あまりにもあっけらかんと非倫理的な行為が価値判断なく人情話の水準において描かれ続ける。言い換えるならオブセッションとそれに付随する自己言及性がない。だからこそ『ゴルゴ13』や小池一夫のように普通に読めるB級作品ではあるのだが。「が」というのは。


http://blog.livedoor.jp/soylent_green/archives/51290442.html

はてなブックマーク - 忘却界抄:私もペドエロマンガ読んでひいたことありますよ。


所謂日本ユニセフの事情についてはすでに幾つもの指摘がなされている。児童ポルノ単純所持規制をめぐる議論とは、端的には、少年少女に対する性的搾取、そのネットワーク、資本主義とメディアの発展に基づくその拡大、ひいては三次元「素材」の国際的流通という、現実の人権侵害を背景とする。言うまでもなく、グローバリゼーションを背景として昂進した国際的な人身売買も。国連の機関が動くのはこれは当然のこと。その国連が内部で、という話は措く。


つまり。表現規制とは別の問題、「国際公約」的には。児童の人権救済のためにする、イリーガルな国際ネットワーク対策、という話なので。翻って、日本の二次元ペドエロ業界においてイリーガルな人権侵害と性的搾取のネットワークが形成されているかというと。少なくとも現在は、そういうことなら、他に措置すべきが幾らもあるだろう。警察が血眼になるべきは他に幾らもあって、実際に日本警察は現在そうしている。


単純所持規定反対とは運用における懸念が所在するがためのこと。私は、イリーガルなネットワークを金銭的に援助すると十分知ってガチの麻薬買っている人間に対して、ありうべき資本主義の観点からもあまりよい感想を持たないので、そういうことは、三次元児童ポルノの単純所持問題について思いはする。


hirokiazuma.com


なお。「うしろめたいことがあるから反対しているのでしょう」的な話はちょっと。普通に穿ち過ぎ。私は鯨食の習慣を持たないけれども、だから捕鯨論争に関心がないわけではまったくない。そもそも静岡出身の私の母親はイルカ食っていた。私は食わないがイルカ食うことを許し難い行為とするなら小一時間問い詰めずとも議論したい。


というか「私はタバコ吸わないから困らない。終了」とかああいう話はなんなのだろう。まぁ私も酒飲まないので酒が現在の5倍の値段になっても困らない。タバコも吸わないが。個人の嗜好としてある嗜好品とその社会的/文化的な受容に対して法的な条件付を社会的合意のもと改めて行うことと、嗜好品産業の商売と、長い歴史ある社会的/文化的な受容規範の存在と、個人の嗜好に対する価値判断は、別の話。


人権侵害ありきのイリーガルなネットワークに対して手を打つことと、ペドエロに欲情することを批判することは、別のレイヤーにある話。後者に対して法的な措置が講じられるべきは、人権侵害ありきのイリーガルなネットワークに直接に「加担」したときであるし、かく限られるべきでもある。児童に欲情するような欲望が存在するからこそかかるイリーガルなネットワークが支えられる、というのは飛躍した議論ではある。あるいは政治的な議論である。そうであるとして欲望は法的には規制しえない。


たとえば。性犯罪者は去勢しろ、というのはレトリックでないなら無理な議論だ。端的に言うなら。身体を精神が統御する理念において、身体を精神の不足の弁明とする者に対する応酬としては妥当であるが、理念に規定され身体刑を排した近代刑法において、精神の不足を直接の身体的矯正において補う発想は採用し難い。男根なかろうと欲望は矯正されない。私はそのことをよく知っている。が、「そのゆえにこそ」物理的に行為余地を排するソリューションが社会的に選択される。ディシプリンなきポストモダンにおけるコントロール社会ということか。

 アナルセックスだの女装だのぐらいならばたいしたことはないが(なくはないが)、幼女を拉致監禁して輪姦する内容のマンガが売れている=そういう欲望を抱いている人が大勢いる、そういう本に影響を受けて幼児性愛に覚醒する人がいるかもしれない、という状況は子供を持つ親ならば誰しも恐怖する事態だろう。私は子供持つ予定ないから関係ないけどね。


欲望は近代刑法においては裁きえない。が。近代刑法が当初想定しなかった高度に発達したメディア社会において商業的にかつ広範に流通する、人称すら失った誰のものでもない、パブリックドメインとしての「幼女を監禁して輪姦する」欲望、それ自体が問題也。その発想はわかるし、おそらくはマジョリティの感覚であり認識であろう。


だいぶ以前、ブログで(別の人による)同様の見解を目にして、そうかと思ったが。『GUNSLINGER GIRL』について、ああいうのを問題の所在にすら気が付くことなく単に悦んで消費している人間には辟易する、作者は全部わかってるのだろうが、と言った知人の女性がいた。読まなきゃよいのに、なんで厭な気分になるとわかってわざわざ読んで、俺に対して、厭な気分になりました、と報告するかね、貴方に読んでほしくて描いてるわけでもたぶんないよ、とは思ったが言わなかった。代わりに作品主題の政治的な正しさについて説いた。現在のようにメジャーな作品になる以前のこと。つまり。それがゾーニングということであり、その見解は対症療法であり問題の回避でしかないことを私は知っていたから、口にはしなかったのだろう。『GUNSLINGER GIRL』は、メジャーになるべき作品であった。


高度に発達したメディア社会において、誰かの欲望が、誰のものでもない欲望としてコードのごとく広範に流通し消費され、現実の誰かの犯罪行為として顕現しうる。絵本の中の痛めつけられ怪物にガリガリと食べられてしまう王子様に欲情した、幼き日の三島由紀夫のように、人知れず苦悩し続けることさえないまま。


冒頭の、20年近く前の中野翠の文章、一般論としての要点を示すと。高度に発達したメディア環境において形成され広範に流通し共有される性的な「ファンタジー」が、時に現実の犯罪において無分別な「加害者」を規定しその行動を決定しうる。この場合の「ファンタジー」とは、レイプにおける「心は嫌っていても、ダメなの体が」のこと。むろんそれが性差別的であることも、社会の枠組の外に存在することも、中野氏は知っている。そのうえでなお「私はイヤだな、そういう「目かくし主義」は。」と。


そして。その、社会の枠組の外に存在する性差別的な「ファンタジー」がオブセッションとして現実の社会を規定し、ゆえに枠組が揺るがされていることに、たぶん中野氏は気が付いている、が、そのようには自覚されないのがあの時代であった。綾瀬の少年たちは単なる無分別な野獣であるがゆえに私たちの社会の埒外に存在する連中であると。


性犯罪とは端的には分別の問題である。「ゆえに」分別の見込めない犯罪者は去勢するべき、となるのだろう。近代の理念も瓦解した。欲望と分別は対と私は考えていた、が。欲望とはアイデンティティとその政治であって、公にも留保を付されるべきものではない、が、ゆえに性差別的な欲望の社会的な流通が肯定される、という議論にはならない。


かつての私が、認識において間違えていたことは、高度に発達したメディア社会において形成され広範に流通し共有される性的な欲望とは「記号」であってその問題に過ぎない、と考えていた点にある。それは再現表象に対する身体的感度の鈍い私の事情とかかわるが、欲望喚起の「記号」が個人のアイデンティティに関与するがゆえに社会的なオブセッションへと転化することを、長く東浩紀を読んできたにもかかわらず私は了解しなかった。四六時中SEXでもあるまい、と私は思う。私にとって、一切は分別の問題、すなわち現実の問題であって、欲望の問題ではなかった。分別の問題が欲望の多様性を不可視とし否定し抑圧した近代の経緯があったがゆえに、むろんそれは批判されたのだが。


高度に発達したメディア環境において形成され広範に流通し共有される性的な「ファンタジー」が、「記号」に留まることなく個々人のアイデンティティたる欲望として、すなわち性的なオブセッションにおいて私たちの社会を規定しているとき、「私たち」はそのことに対する態度表明を迫られるのだろう。


日本における二次元ペドエロの嗜好は欲望は、多く前提としてあるメディア環境において形成される。少年少女を性的対象とすることを前提とするメディア環境とは社会とは、オブセッションを措いても、まずいのではないか。その問い自体は妥当と言わざるをえないが、「だから」少年少女を性的対象とすることの是非論と接続するものではない。


高度に発達したメディア環境において広範に流通し共有される性的な「ファンタジー」が、「記号」に留まることなく個々人のアイデンティティたる欲望を形成し、そしてその欲望が性差別的で暴力的で攻撃的でイリーガルなものであったとき、そのことを問題とする人はするだろう。典型的な二段階論であるが、ゆえに下部構造を狙い撃たんとする。欲望は規制しえないがゆえに。


端的には、「分別」と同じく、第一にリテラシーの問題であり、第二にゾーニングの問題である。メディア環境はすでに事実性に属する。ゲイ雑誌に連載を持つ西原理恵子が、以前、息子がホモになっても構わないが、わざわざホモにすることもあるまい、ということで家にホモ雑誌は置かないことにしている、と記していた。蓋然性に対する彼女の認識は正しい。


少年少女を性の対象とする「ファンタジー」が、あるいは監禁や陵辱や解体をモチーフとする「ファンタジー」が、メディアを通して環境的に存在し流通しているとき、しかしそれが「記号」に留まらないとき、欲望がアイデンティティへと帰結する社会において、「ファンタジー」が社会的なオブセッションへと転化することを警戒する人はあるだろう。そして、社会的な事態であるかは措き、すでにオブセッションであり、あるいはオブセッションですらない。その無自覚な暴力性に対して不快を覚える人があることは、わかりはする。


ナボコフ源氏物語も発禁ですか、ということではなくて、ことはすでに文化芸能芸術文学の範疇にはない。むろん法規制さるべきではない。が、ナボコフは文学というフィクションにおける倫理的な反転を説き実践していたのであって、少女陵辱コンテンツの擁護をしていたのではない。引き合いに出してそれを本人知ったなら激怒すると思う。


私は、SEXとは個人のものであり、かつ政治的なアイデンティティではないと一貫して考えるから、個人の嗜好とメディア環境の問題は別個に考えるべきだろうと思う。メディア環境において形成された個人の嗜好が欲望が問題である、またそれがアイデンティティである、という類の発想には同意し難い。三島由紀夫は苦悩したが、あるいは美輪明宏は誇りとしたが、それは同性愛が禁忌であったがゆえのことである。性的な禁忌を排することと、嗜好を欲望をもってアイデンティティとすることは、トレードオフの関係にもある。


児童ポルノは知らないが、またスナッフビデオも知らないが、イリーガルな性行為を記録に収める人間は幾らもいる。そしてインターネットはそうした類が蓋然において幾らも流通しうる。どこかの誰かの名前のない欲望として。むろんそれは「記号」ではない。暴力という死という「記号」であるはずのないものが「記号」として流通し、欲望とオブセッションは伝播する。誰かの欲望は誰かの欲望のもとに、アイデンティティを付随することなく、あるいは差異を構成することなく、漂白されて返される。そのことと単純所持の法的規制は話の筋が違う。が。


少年少女を性の対象とする社会がメディア環境が、監禁陵辱を欲望する嗜好が、一般的でありうること。そのこと自体が世界の無自覚な暴力であるとするなら、一概には否定しえない。個人のSEXとは、最終的には倫理問題であって、すなわち人権問題ではなく、法規制の正当性を構成し難い。よって、風が吹けば桶屋が儲かる類の理屈に基づいた、児童ポルノ単純所持の法的規制には、私は反対する。が。

ティファニーで朝食を

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だいにっほん、おんたこめいわく史

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