マスターベーションと社会が出会う場所と折り合う場所


承前⇒『ティファニーで朝食を』の主演はジョディ・フォスターこそふさわしいと晩年のカポーティは言った。 - 地を這う難破船


迂遠かつ曖昧に書いてアップしてから拝読した。やはり論点になっていたか。


消極的自由は児童ポルノを擁護しうるか - 過ぎ去ろうとしない過去

その点で、児童ポルノ法改正反対者が、「内心の自由」を持ち出すのは結構危ういとも思う。それはその欲望の対象者にとっては、「自分達を心の中で犯しても構わない自由」だよね。古典的な「消極的自由」の文脈ではアリなのかも分らんけど、どうなんですかそれは。


内心の自由」を持ち出す人は、「心の中でレイプしたらそれは実際にレイプしたのと一緒です」というキリスト教の格言に対しては勿論反対なのだろうしそれはいいのだけれど、じゃあこの格言を対象の視点から見た受動態にしてみると?「私があなたにあなたの心の中でレイプされるならば、それは私があなたに実際にレイプされるのと一緒です」これに反対するかどうかも考えてみるべきじゃないかと思うよ。


hokusyuさんはわかって記しておられると思うけれども。端的に言うと。欲望の問題とは、マスターベーションの問題です。「内心の自由」は、この場合「マスターベーションの自由」としてある。私たちが誰かを殺したいと思うことも他民族を絶滅させたいと思うことも「内心の自由」において保障されます。行動において問われ、そして内心と行動には「大きな隔たりがある」ことにおいて、内心と行動は区別されねばならない。


私の「考え」においては「私があなたにあなたの心の中でレイプされるならば、それは私があなたに実際にレイプされるのと一緒です」というのは無理筋な言い分です。個人のマスターベーションそれ自体が人権侵害であるという話は成立しないし、個人のマスターベーションに対して個人として「抗議」することはできない。このマスターベーションとは比喩ではない。宗教的な議論ならまた別ですが、近代の原理においては。


現在のYouTubeを少し検索するだけでも、(多く筋骨隆々の)半裸の男が全身を拘束され猿轡を噛まされて「可愛がられたり」「痛めつけられたり」している、プライベートに撮影されたマスターベーション用の映像の公開コレクションを無数に蒐集しうる。あるいは、TVや映画における半裸で拘束された男の拷問シーンや処刑シーンを収集し編集したマスターベーション用の映像の公開コレクションも。警官専門や特殊部隊員専門もある。UPしているのは大半が外国人。拘束され、口にガムテープをグルグルに巻かれた、屈強な半裸の、傷つけられた汗まみれの男の、ビデオカメラを見つめる見開かれた脅えた眼と荒い息。アップ。


私はそういうものや行為に抵抗ない人間なので、一時片端から眺めていたし、今でも仕事に疲れるとよく見て回るが、UPされているこうした映像の膨大な羅列を目の当たりにして、言い難い感慨を抱く、加虐指向も同性指向も持たない成人男性はいるだろうとは思う。いちおう断っておくと、プライベートに撮影されている(だろう)ものは、あくまで被写体との合意あってのことである。はず。


私は同性指向は基本的には持たないが、こうした映像をYouTubeにUPしている人たちに対して「私があなたの心の中でレイプ(ではなくて性的蹂躙だけれども。挿入指向ないので)されるならば、それは私があなたに実際にレイプされるのと一緒です」というようなことは言わない。もっとも私は屈強どころか枯れ枝の東洋人なので、好みに厳格な彼らの方こそ「お断りだ」だろうが。


私たちは、相互に誰かを、あるいはその属性を、オカズにして孤独にマスターベーションしている。仕事上で名刺交換した女性は見なし40歳以下なら必ずその晩自室にてオカズにさせていただいている、名刺を見つめながら、もれなくだ! と豪語した人を知っている。お断りしておくとフツーの会社員です。そして。そのマスターベーションの営みを法的に規制するなら正気の沙汰ではない。その男こそ正気でないとかそういう話は措き。


私たちは、常に誰かの欲望において性的な視線にさらされ、常に誰かの欲望において性的な対象として夜の寝室でマスターベーションのオカズにされている。そのこと自体が我慢ならないというのは、自由な社会に対する否定でしかない。というか、我慢ならないならどうするのでしょうか、という。マスターベーションを法的に規制しますか。米国だって現在そのようなことはやっていない。


問題が所在するのは。欲望の問題がマスターベーションの問題に留まらないとき、すなわち、表沙汰となるときだろう。マスターベーションの問題が表沙汰となるとき、そのことに対するマジョリティの反応があり、社会的な反響があり、ひいては社会において欲望の問題に対する価値的な指向を示す必要が生じる。すなわち猥褻規定含む公序良俗概念の問題。そして。社会における価値的な指向をめぐる議論をスルーして現在の事態は突破しえないのではないか、という指摘は、正しい。


マスターベーションの問題が欲望の問題として表沙汰にされ、そのことが商業主義とメディア環境という既成の事実に基づいて肯定され是認されているとき、任意の欲望が現在の社会を規定していると見なしそのことを肯定も是認もし難い、と考える人は、あるし、トンチキとも言えない。つまり、二次元の「児童ポルノ」が商業媒体やインターネットを通じて広範に流通しおおっぴらに消費されている日本の現状がある以上。この場合の「児童ポルノ」とは法的な定義に準じてのことであるが。


その「少女」は本当にいないのか? - OAF

この問題に関して考えるなり議論するなりする上で、まず最初に押えておかなければいけないのは、いわゆる児童ポルノは社会的な悪である、ということが合意されているかどうかということだ。
ここをアイマイに各論(表現の自由とか)に入ったって得るものは何も無い。


私は「表現の自由」を各論とは考えないけれども、それは措き、「合意されているか」私にはわかりかねる――既成の事実を鑑みるなら。かつ欧米先進国と比較するなら。Domino-Rさんは「合意すべき」「合意ありき」という立場だろうけれども。私の立場は、と言えば、その広範な社会的流通とおおっぴらな消費において、すなわち「表沙汰となる」ことにおいて、社会的な悪でないとは言い難い、と考える。だから法規制すべき、という話にはむろんならないけれども。社会的な悪について必ずしも法規制において対応すべきと私は考えないので。私は刑法上の猥褻概念規定に不同意であり、かつ公序良俗概念に対してきわめて懐疑的です。


欲望の是非を問うことと、「児童ポルノ」表象の是非論と、表象の社会的流通と消費に対する、社会における価値的な指向をめぐっての議論は、別個の話です。加えて示すなら、法と規範と倫理は別個のレイヤーにあります。倫理的に許し難い欲望について社会的な規範において合意し法的に規制するが解、という発想は、もしそのように考えておられるなら、ですが、あまりに短絡で乱暴です。


私は、同性指向は基本的に持たないけれども激烈な加虐指向は持ち合わせる。ゆえに、他者関係を前提しない非倫理的な欲望は社会に流通させることについては自重すべし、と「個人的には」考えていた。エロゲにもAVにも縁無いせいもある。が、最近、考え方を変えた。


そのような非倫理的な欲望がごく普通に存在すること、そのような欲望を持ち合わせる者がどのように考えているか、そうしたことは言葉をもっていちおうは社会に対して示すことが必要ではあるな、と。私の気を変えたのは、ペドフィリアに代表される非倫理的な自身の欲望についてネットに記していた、多くの「匿名」の人たちだった。指向は違えど、感謝している。


大人のための有害情報規制について - rna fragments

 もっとも、個人的な実感としては相手の痛みを理解する以前に自分が性的に承認されることの喜びを知らなくては暴力的な性行為への抵抗感は育たないとも思う。恋愛を性行為の必要条件としてしまうと絶望的な結論に導きかねないけれど。宮台真司が言うように近所のお姉さんが筆下ろしさせるような習慣があればいいのだけど。


orzとなる人は多いだろう。性的な承認においてこそ非倫理的な行為を必要とする人は多いから。捩れているし、つまりは当人の自己承認の問題であるけれども。私の経験と実感と理屈においてはこうなる。自身の身体に対する配慮を持ち合わせる者が、他者の身体に対する配慮を持ち合わせうる。そのためには、自身の壊れやすく性的な身体に対する配慮を距離感含めて自ら試行錯誤のもと文字通り満身創痍となって模索しなければならない。性にまつわるオブセッションを廃棄するためには。


それをして倫理の問題という。自身の欲望の非倫理性に対して自覚ないし自省せよ、自身の欲望が他者を人格において毀損し貶めていることを自覚ないし自省せよ、という種類の議論が示されているようなので、そういう議論なら「当事者」はよく承知ですよ、所謂「腐女子」がそうであるように、とは改めて示しておく。


もっとも。自覚も自省もない人間が幾らもあることはよく知っている。YouTubeで加虐指向の同性指向者のマスターベーション用映像を片端から閲覧して、誰かの性的な欲望の対象とされること、されうることを了解したとき、どのような言い難い感慨を抱くか、あるいは抱かないか、もし「実感ない」なら「お手軽に」試してみたらどうか。hokusyuさんが示す「恐怖」を覚える者があるかも知れない。というか、ないとは私はまったく思わない。


なお、他人に対して不躾かつ一方的に性的な視線を向けることを、暴力であると現代の社会は規定している。法的な議論は措き。暴力とその潜在と蓋然に対して恐怖を覚えることがナイーブである、と単線的に捉えてよいとは、一概には言い難い。きわめて厄介な問題ではある。


現代日本は性的社会である。きわめてオープンな性的社会において公然と流通する非倫理的な暴力性や攻撃性や差別性やオブセッションが、耐え難い、という人はあるだろうが、そもそも社会的な合意なき以上、法的に規制するが解、という話にはならない。日本はキリスト教国ではない、という条件は大きい。むろん近代が発したのはキリスト教圏であった。


寛容であることとは、倫理的にタフであること。個人を単位とするなら、私はそのように考える。「恐怖」の存在において、個々人の、性的存在としての自身との格闘、自身の欲望に対する均衡の保持、という課題が、誰しもに「当事者」として問われる。自身の欲望が、他者にとって、のみならず自身にとっても「恐怖」であることを、人は平等に問い質されその生の課題とする。誰に?――内なる神様に。商業主義とメディア環境に保障された非倫理的な性的社会において。まことに、カエサルのものはカエサルに。


近代において「商業主義とメディア環境に保障された非倫理的な性的社会」の是非を措くなら、そういう話になる。非倫理的な性的社会の是非が問題であるなら、すなわち環境の問題であるなら、また別の話になる。いずれにせよ、違法化されたところで本気の手合は「地下に潜る」だけのことではある。被害が減るかは知らない。が。


そのような手合を私たちの社会は許容しない。そうした「社会的な合意」が形成されることの意味と必要はある。「だから二次元を社会的な合意のもとに法規制せよ」という話にはむろんならない。そして。「そのような手合」を「そのような欲望」へと変換することに対して、警戒的であってありすぎることはない。