弁護人の仕事


光市母子殺害事件 - Wikipedia


http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/979079.html


はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`):光市母子殺害事件 弁護側「死姦は蘇生行為」と主張


遺体「強姦」は死者復活の儀式 弁護団が「失笑」ものの新主張 : J-CASTニュース


妙だな、と感じる理由 - good2nd


弁護団によるセカンドレイプ: 大石英司の代替空港


「死刑反対」なのはいいけど目的と手段を間違ってはいけない。 - 想像力はベッドルームと路上から


http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20070525/1180107701


山口県光市母子殺害事件最高裁における二審判決破棄、広島高裁への審理差し戻し。あれから、もう、1年が経つのか。審理の遅延に対する、被害者遺族、本村洋氏の怒りは正当である。


inumashさんをはじめ方々にて指摘が為されている通りに、死刑制度の存廃自体をめぐる議論ないし問題提起ないし法改正は、個別の、ことに審理中の刑事事件とは別個に為されるべきである。


宅間守の事件が起ころうが関根元の事件が起ころうが松永太の事件が起ころうが、死刑制度の存廃は別個に議論され問題提起されるべきだろう。むろん、言い換えるなら、宅間守や関根元や松永太による事件の存在を、そして彼らのような被告人の存在を前提して、死刑制度の存廃を議論せよ、ということ。


その線引きが、安田好弘氏ら弁護団において混同されているかのような印象を受けるのは、本件の審理次第が今後の刑事司法における分水嶺と成り得るため。


率直に言って、私は一審における無期懲役判決を、当時、予想外とは受け止めなかった。是非の話ではない。本件はボーダーラインにあった。針がいずれに触れるか。犯行時18歳。成育環境に基づく情状。犯行時の未成年者に対する死刑判決(確定)は、連続射殺事件の永山則夫、市川一家4人殺人事件の関光彦の2名。


市川一家4人殺人事件 - Wikipedia


http://mizushima-s.pos.to/lecture/2002/020529/020529_04.html



私の想定を、一審判決は覆すものではなかった。そして、本村洋氏は、社会に対して、自らが広く発言することを、始めた。本村氏の一連の行動が、現在の日本において社会的な妥当性を欠くものであるとは、私はまったく考えない。


「21人という大弁護団を結成しなければ争えない事案であるのか。」という指摘があった。同様の感想を持っている方は、大変に多いと思う。


また。muffdivingさんのエントリのコメ欄にあった指摘から。id:tenntekeさんへ。

tennteke 『弁護士費用って、誰が出しているんでしょうね?』 (2007/05/26 23:25)


私が知る限りでは、いわゆる手弁当、ということです。原則無報酬として、各人が自主的かつ自発的に弁護団に加わっている。なぜ、という疑義に対して、私が回答するなら、法曹の一部において、危機感が所在している、ということです。


本件に対して死刑判決が下されることが、今後の刑事司法における死刑適用の基準を変更するものとなり得ることは確かです。「個別事件の審理」が、今後の刑事司法に与える影響は大きい。かつ、最高裁が審理を差し戻したということが何を意味するか。


であるから――安田氏らの弁護団が線引きを混同しているかのように見受けられるのは、ゆえなきことではない。死刑廃止論の立場に立つ法曹として、危機感を覚えていることは。社会的な批判を被って、やむを得ない対応であるとはいえ。


そして。肝心の弁護の方針については、不可解である。

上告審の段階になって主任弁護人となった安田好弘は、接見内容をもとに被告に母子を殺害する故意が無かったことを主張した。しかし、最高裁判所判決では、故意を否定する弁護側の主張については「他の動かし難い証拠との整合性を無視したもので失当」とし、情状については「被告は罪の深刻さと向き合って内省を深めていると認めるのは困難」として採用されなかった。

広島高裁での差し戻し審では、「母恋しさ、寂しさからくる抱き付き行為が発展した傷害致死事件。凶悪性は強くない」として死刑の回避を求める方針を明らかにしている。

以下は、弁護団の主張の一部である。

  • 強姦目的じゃなく、優しくしてもらいたいという甘えの気持ちで抱きついた。
  • (夕夏ちゃんを殺そうとしたのではなく)泣き止ますために首に蝶々結びしただけ。
  • (検察は)被告を極悪非道の殺人者に仕立て上げ、死刑にしようとしている。
  • 水道屋の格好をしたのはコスプレの趣味であり、計画的な犯行ではない。
  • 死後に姦淫したことは、被告が死者を生き返らせようと思ってやったこと。

しかし、この上記の主張を遺族は「弁護側の主張は不可解なことが多く、にわかに信じがたい。心に入ってくることが一つもなかった」と一蹴し、「遺族に向かって弁護人たちは本当にそんなことを言えるのか」「怒りを通り過ぎて失笑しました。あきれました」と、批判的に語っている。

本来、弁護人は被告人の利益を最大限尊重する立場にあって、上告審においてのこの主張は以前の裁判で争った事実関係とは大きな隔たりがあることから、弁護側や被告人がどのような意図で主張を大きく変えてきたのかは不可解である。というのも、控訴審まで被告人が死刑を免れてきた最たる理由が、この事件に対する「反省している」という主張であり、この上告審はそれまで死刑が回避できた唯一の手段を自らぬぐい捨てているとすら印象付けるものであるからだ。もっとも、被告が頑として主張を曲げなければ、その主張をそのままを言うこともある。一部には、この主張の変更を捕らえて、この事件の弁護が死刑廃止論者としても有名な安田好弘弁護士らの死刑廃止などのプロパガンダに用いているという見解もある。他方で、弁護人らは弁護に際しては死刑廃止論を語っていない。


後付であれ本心であれ、そういうことを言ったり思ったりする人間はいる。私は、この被告を馬鹿と思っているから。馬鹿なら言ったり思ったりするだろう。そして。私は、安田氏をいまなお信じてはいるので、弁護団が真面目にやっているとするなら。


犯意ないし故意性の有無をこの線で主張して司法の場において認められると、本気で考えているのか、法律の素人たる私にも、到底見当が付かない。


あるいは、責任能力の有無について申し立てを行うつもりなのだろうか。上記の主張は、つまり、自身の行為と行為のもたらす結果を、ひいては客観的な帰結を、犯行時の被告がまるで認識し得なかった、という前提なくして、刑事裁判においては通用するものではない。犯行時の被告に理非の認識能力が欠落していた、ということであるのだから。


被告に知能の遅滞が存した、あるいは犯行時の被告が精神疾患を患っていた、もしくはなんらかの障碍を有していた、という話は、聞かない。犯行後8年の経過した時点において、犯行時の責任能力を判断するために精神鑑定を求めることも、きわめて難しい。


一審二審において焦点として問われてきたのは、被告の犯意ないし故意性の有無ではなかった。いわんや被告の責任能力でもなかった。

山口地裁および広島高裁の判決は、いずれも、犯行時少年が18歳と1ヶ月で発育途上にあったことや、殺害については計画性がないこと、不十分ながらも反省の情が芽生えていることなどに着目して判決を下した。ただし、広島高裁は更生の可能性について、「更生の可能性が無い訳ではない」と曖昧な判断をしていた。


むろん、審理は十全に尽くされるべきであるし、法廷における「真実」の追究は為されなければならない。いわゆる麻原裁判があのような形で決した以上、なおのこと、そのように思う(安田氏はそちらも手掛けている)。ことに犯行時の未成年者を被告とする、死刑と無期のボーダーラインに位置する、今後の刑事司法の趨勢に影響を与え得る事例であるなら。


ただし、本村氏が表明している所感に対して、安田氏らは応えるべきとは私は思う。一審二審時の弁護人に対して、私には疑念があるし、本村氏はなおのことあるだろう。あるいは、一審二審時における弁護人の選択した弁護方針が妥当であったとするなら、疑念の矛先は何処に向かうか。


�۸��Ĥμ�ĥ�ˤĤ��ơʸ������һ��������� - �����۸��ΤΤĤ֤䤭


�����۸��ͤμ�ĥ�ˤĤ��� - �����۸��ΤΤĤ֤䤭


世相は変わりつつある。右傾化したということではない。本村氏らが社会に対して発してきた主張と見解が、時間を掛けて世に容れられ、浸透してきた、ということ。本村氏の長きに亘る主張が、世を動かし、一審二審の判決を否とする世論が、可視的に形成されていった。

上告を受けて、最高裁は口頭弁論を実施した。通常、最高裁で口頭弁論が行われる場合は二審の判決が覆る場合が多く、世論の注目を集めた。また、口頭弁論の当初の予定日に被告人側の弁護人が主任の安田好弘弁護士をはじめとして全員が欠席して弁論が翌月に遅延したことについて、不誠実な対応であると非難された。

率直に言って、安田氏の認識には不備がある。安田氏は死刑制度に対する自らの見解とスタンスを公言している。むろん、無問題。そして。そのことと問題は別として、個別事件の審理において死刑回避を企図して全力を尽くすことも、それが結果として被害者遺族の意に沿うものでなくとも、当然、問題ない。弁護士の職務であり、被告代理人の使命である。


しかし。個別事件の弁護に際して自身の示した方針が現行の社会において、如何様に受け止められるかという事柄について、あまりに不用意である。かつ、安田氏が死刑廃止論者であることは、公知の事実である。


社会的な注目を集める公判である。本村氏はその状況を心ならずも切り開いた。公判は公判として、現行の社会における文脈や世論の動向やいわゆるコモンセンスから切り離して、刑事司法の範疇において粛々と審理を進めるべき、という立場であるならわかる。


であるなら。なおのこと社会と世論に対して誤解を解くべく公的にも主張するべきだ。本件はあきらかに、「個別事件の審理」をめぐって、社会的な議論の俎上にも、また載せられるべき事案である。安田氏らの、あるいは愚直な選択は、不手際としか、私には言えない。


社会的な人間というのは、およそ、咎なき者を残酷に殺した人間よりも、咎なく残酷に殺された人間と残された者の側に付く。そのことの是非を問うなら是としか言いようがない。むろん、その際の社会とは社会性とは常に限定的なものであるが、そういう話ではないだろう。


宅間守を包摂し得る社会というものを、私は構想し得ない。なら私達の社会が、宅間守を生者の列から強制的に排除することは妥当か。神学論争だ。言えることは、私達の社会はそのことについて合意している、ということ。


現行の日本社会は、死刑制度の存置を選択している社会である。かつ、身勝手にして残酷な殺人に対して、死刑判決の下されることを妥当とする社会である。もしも、死刑制度の存置を、個別事件の審理に即して、社会的に問う意図が、いくらかでも存在するなら、問う対象たる現行の日本社会を捕捉し、照準を合わせたそれと向き合うべきだ。


現行の日本社会において、死刑制度の存在を全面的に不当とする人は、多くはないし、死刑制度の不当性について、社会的な合意が形成されているわけでもない。というか、そういう状況ではまるでない。


私が思うことは、というか、多くの人が思っているに相違ないことなのだが、本当に、被告人に対する死刑判決を回避する気があるのか。最高裁が差し戻した時点において、結果は予想される。


とはいえ、仮に、審理の妨害を意図し、死刑制度ありきの現行の司法制度そのものを結果的にも否認するものであるなら、それは弁護士としては許される行為ではないし、そのようなプロ意識なき弁護士の発言や問題提起に対して、社会は同調/同意することはない。


そもそも、被告人の利益にまるでならない。救い難い馬鹿とはいえ、被告人はひとりの人間であり、私と年齢もさして違わない、世を社会を他人を知らない無知な男であって、死刑廃止を前提する弁護人の、目的の里程標ではない。救い難い馬鹿であれ、ひとりの人間の、生死がかかっている。


現行の日本の刑事司法において、死刑制度は存在している、社会はその存続に同意している。現行の刑事司法においてボーダーラインに位置する事件であり被告人である以上、死刑の存在を前提したうえでなお、現行の刑事司法の範疇において、自らの担当する被告人に対する死刑判決の回避を、全力を尽くして企図すること。


それが、常に変わることのない、原則としての、かつ社会において認められた正義としての、貴方方21人の仕事であり職務だろう。死刑廃止論者であろうがなかろうが、あるいは死刑存置論者であろうが、弁護士としての、疚しいことなど何もない、正しい務めであり職務であり、「正義の女神」が証す使命だろう。弁護士が弁護士として貫くべき正義だろうが。千万人といえども我行かん、ではないのか。


死刑制度の存廃は措いて、仕事をしてくれ。自ら、疚しい真似を、あるいは疑義を招く振舞いを、示さないでほしい。貴方方が、法廷を、審理を、日本の刑事司法を、被害者を、その遺族を、そして被告を、愚弄する態度を示すことのなかったなら、本村氏の態度は、そして社会の姿勢は、かくも硬化することのないはずなんだよ。貴方方の態度は、当該の事件自体を、関係者としての、殺された、あるいは生きている個々人を、軽視し愚弄しているとしか、思えない。


死刑制度の是非とかその存廃とか、貴方方が社会に対して主張したところで無理筋であるし、当該の被告人についてはいずれにせよ間に合わないのだから、当面はベストを尽くせ、思想信条主義主張以前の、法のプロフェッショナルの仕事としての、ベストを。馬鹿で屑であろうと、人の命がかかっている。貴方方には次があるのか、あるいは「次の事件」があるのか知らないが、被告人には後も次もない。


どれほどに救い難い、「矯正不可能」と思しき馬鹿であろうと、かつ社会に害なす残酷な殺人者であろうと、人格ある個人が国家によって殺されるべきではないと貴方方が信じるなら、命を救うべく全力を尽くせ。すでに、ふたりが殺されて、ひとりの生が、決定的に分岐した。わかっているのか。


このうえ、重ねて人が殺されるべきではない、あのような手紙を記して拘置所から知人に出す、どうしようもない馬鹿で屑の、哀れむべき男であろうと、殺されるべきではない、途上において生を断たれるべきでない――咎なきふたりの生を途上において平然と断った人間すらも。そう、貴方方が信じているなら、だ。


信じているのだろう。思想信条主義主張以前の、信念なのだろう。意見は違うが、そんな貴方のことを敬してもいた。風当たりが強かろうと、千万人といえども、なのだろう。仕事をしろよ。安西監督も言っているだろうが。諦めたらそこで試合終了だよ――と。