「警察官の人命」


37年間の孤独 - 地を這う難破船


こうしたことを、瀬戸内シージャック事件の経緯も含めて、finalventさんの指摘があるところに重ねて記す必要があるのか、と自問しながら掲示したエントリに、予想外の反響があったことは、大変に、嬉しかった。書いてよかった。ブックマークしてくださった皆様に、コメントも合わせて、感謝を。


id:catfrogさん、id:t_yanoさん、ポイントの送信、ありがとうございます。御礼申し上げます。


蛇足かも知れないけれども、いくつか、補足として記しておくことを。


1970年。当時の世論の空気がいかなるものであったかというと、上記において引用した書評にもあった通り、あさま山荘事件の時点では、現場において警官が2名殉職してなお、犯人が確保された直後においてさえ、連合赤軍側に対するシンパシーは一定層において健在であった。少なくとも、言論として公然に掲載される類の声として、多く在った。あえて書くが、潜在的な共感は、はるかに多かった。


本人達が記しているのだけれども、先述の中野翠呉智英らは、あるいは彼らと同世代の、政治運動に幾許かはかかわりシンパシーを寄せてもいた学生ないし元学生達は、あさま山荘における熾烈な「攻防戦」の時点においては、立てこもった連合赤軍のメンバーに対して、それこそ「たった5人で1400人の警官と戦った」として、喝采でなく健闘をたたえるとは言わずとも、悪しからぬ印象を持ってはいた。はっきりと書くが、「戦った」ということは、含意において「先方に被害を与えた」ということでもある。


山岳ベース事件 - Wikipedia


そして。後日、逮捕された立てこもり犯らの自供から、いわゆる山岳ベース事件という、榛名山でのリンチ殺人が発覚して、当時の中野氏や呉氏や、あるいは連合赤軍に対して幾許かのシンパシーを寄せていた学生や元学生や世論(の一部)は、衝撃を受け、言葉は悪いが「ドン引き」して、連合赤軍に対する世論の部分的な支持は、潮が引くように一挙に失われた。それは「反乱の時代」の、事実上の終焉であり、学生運動の退潮の、決定的な契機であり潮目であった。


少なくとも、中野氏や呉氏は、榛名山の事件から受けた深甚な衝撃を、以後長く、あるいは還暦を迎えた現在に至るまで、ひとり問い続け、筆にしてもいる。私は、彼らの著作から、様々なことを知った。いわゆる「全共闘世代」の何たるかについても。


そして、坂口弘のような当事者もまた、死刑囚監房において、自らの為した行為を、問い続けているはずだ。私事であるが、中野翠呉智英坂口弘と私の親父は、同年の生まれである。親父は単なる団塊だが。私は、中野氏や呉氏の著作によって、坂口弘という短歌投稿者の存在を知った。言うまでもなく、とはいえ私的には大昔のことに属するのだが、あさま山荘事件や山岳ベース事件について、私は坂口弘永田洋子植垣康博の著作に目を通している。


坂口弘 - Wikipedia

1990年代に、獄中で短歌を作って朝日新聞の「朝日歌壇」に投稿した時期もあり、その作品の一部が『坂口弘 歌稿』(朝日新聞社)にまとめられている。 また、一連の連合赤軍事件の記録を当事者として後世に残すため、「あさま山荘1972」(上・下・続)を著した。(下巻についてはいったん完成した原稿が行方不明となり、再度書き直している)


なお。下記の悲劇についても、記憶されるよう付記しておく。


坂東國男 - Wikipedia

しかし1972年2月28日にあさま山荘事件で逮捕された。(※ この時坂東の父親は逮捕される直前自宅旅館のトイレで首をつって自殺したがこれは息子が警官2名を射殺したためその事を詫びた為のものという説が有力。)


少なくとも日本警察においては、突入については、現場の一存によって決められることではない。西鉄バスジャック事件の犯人が所持していた凶器は、刃渡り40センチの牛刀とはいえ、刃物であった。かつ、少年である。今回のケースにおいては、突入については、本部長以下の県警幹部の決断が前提となる。そして、おそらくは、今回、狙撃も、また。


大石先生の指摘の通りに、県警幹部は決断を選択しなかったということだと思う。あまつさえ。前野重雄氏が、事件後に掲示した日記において指摘している通り、殉職をされたSAT隊員が撃たれた時点において、応射をしなかったということは、そうした指示が為されていた、ということではないかと、私もまた考える。そうした指示が「浸透」していたということだ。


特殊急襲部隊 - Wikipedia

SATが出動した際は、警視総監(道府県警は本部長)、警備部長がSATの指揮を行い、SAT隊長は現場指揮官として命令を受け任務にあたる。原則としてSAT隊長は突入を独断では行えず、警視総監(本部長)、警備部長の許可が必要といわれている。
狙撃に関しては、緊急の場合(テロリストが、突入準備中の隊員を発見する等)以外は、SAT隊長の指揮で行われる。
さらに命令が下され、突入が開始されると、犯人(テロリスト)に対する射撃は、突入した隊員の判断によって行われる。これは、射撃が遅れれば人質の命に係わるため、いちいち「撃ってもよろしいか」などと、指揮を仰いでいる暇が無いからである。瞬時に犯人の抵抗力を失わせる必要があるため、突入の際には、主にサブマシンガンを装備している。
SATに特別な射殺権限が与えられているわけではないが、SATが取扱う事件は、警察の他の部署では対応できない、非常に困難なものであるため、「人質救出のためには、犯人の射殺もやむを得ない」ことを前提にして突入するといわれている。ただし、武器の使用は法規(警察官職務執行法第7条)に基づいて行われる。
これに対し、刑事部の特殊犯捜査係(警視庁ではSIT、大阪府警ではMAATと呼ばれている)はSATとは違い、テロリストや工作員ではなく、一般的な刑事事件の凶悪犯、粗暴犯を扱うため、可能な限り犯人の逮捕を優先し、射殺は「最後の手段」とされている。
アメリカの各警察機関に所属するSWATも、行動方針は日本のSITやMAATに近く、可能な限り犯人の逮捕を優先する。
またSATはアメリカのSWATに比べ、公開される情報が少ないが、これはSATがテロ対策を主要な任務としており、凶悪犯罪者への対処を主要な任務とするSWATとは、組織の性質が異なるためである。
なおアメリカにおいて、日本のSATに最も性質が近い組織は、連邦捜査局(FBI)の特殊部隊「HRT」であると言われている。
また、日本においては法解釈上、犯人の射殺等は犯罪の「予防・鎮圧行為(警察法第2条)」とされ、「行政警察活動」であり、犯罪の捜査を目的とする「司法警察活動」とは分離されている。警察はこの「予防鎮圧行為」を、検察庁等他の機関の干渉を受けることなく、独自に行うことができる。


SATを含めて、「上」の下した命令に従い、独断や感情に流されることを最後まで抑制した現場を、現在の時点においていたずらに責めるべきではない。一般論として。銃を構える者は、発砲されたら、あまつさえ仲間が撃たれたなら、応射するに決まっている、常識以前に、反射神経として。徹底的な訓練も経ている。


あの状況において、応射を抑制したことを、「ヘタレ」と取るか、日本警察のプロフェッショナリズムと取るか。私は後者だ。ことに特殊急襲部隊は、また警察官は、命令と指揮系統の存在を絶対の前提とする。命令を堅持し指示を厳守した、ということだろう。


だからこそ、70年の1件における、犯人を狙撃した巡査部長個人に対する殺人罪での告発は、以降の日本警察に深い影響を残した。刑法35条(正当行為)36条(正当防衛)の適用に基づく不起訴処分は、言うまでもなく妥当であり正当である。警察官の職務として正統な指揮系統に則した命令を受けて遂行した行為が、命令者に限ることなく現場の警察官個人に対して「殺人」として問われてしまうなら、たまったものではない。


あさま山荘事件をめぐる付記を上に加えたのは、当時の、ことに左派政治運動と対峙していた日本警察に向けられていた世論(の一部)の視線を、社会全体の空気を、知ってもらいたく思ったため。再度引用する。

 元内閣安全保障室長、佐々淳行さんの話  最初の通報で駆け付けた巡査部長が撃たれた後の対応は納得できないことばかりだ。約5時間も巡査部長を救助せずにいたことは信じられない。警察官の人命は尊重されないのか。さらに、SAT隊員が撃たれた際も、どうして反撃や突入をしなかったのか。


佐々氏が、何に対して激怒しているのか――「警察官の人命は尊重されないのか。」ということだ。「人質の人命」「一般市民の人命」と比してなお。それは、35年前のあさま山荘において2名の警察官の殉職に立ち会って以来、佐々氏が抱き続けてきた問題意識であり、退官後に一貫して主張してきたことである。むろん、佐々氏は県警幹部に対して憤っている。


今回、最初に駆け付け撃たれて重傷を負ったのが警察官ではなく一般市民であったなら、5時間も救出されることのないままに「放置」されて、報道のヘリに中継され続けることは、ありえない。第一に、県警は途方もない非難にさらされるためだ。強硬的な手段に拠ってでも早期に救出したと思う。


なら。撃たれて救出されることもないままに負傷した姿を「放置」され中継され続けるのが、警察官であるなら構わないのか。駆け付けて有無なく撃たれた重傷者が、一般市民でなく、警察官であるなら、世論の非難は、軽減されるのか。警察官の人命は、一般市民のそれと比して尊重されることに差が存するのか。――なぜ。


佐々氏の、数十年間に亘る怒りと問題意識は、そのことにあって、そして、内実はどうであれ、今回、氏は現場の警察官のために、彼らの「人命を尊重」するために、県警上層部の対応を批判してもいる。私は、ほかのことは措いても、また氏の表現については措いても、その怒りと問題意識については、それらを退官後に強く主張してきたことについては、佐々氏に共感するし、氏を支持する。


過去形として記せることではないけれども、警察官という存在が、その「人権」が人命が、軽視され軽蔑され侮蔑されていた時代が、あった。警察官という存在を、軽視すること軽蔑すること侮蔑すること、それを生身の警察官に対してあからさまに投げ付けることと、警察機構ないし警察権力に対して正当に批判的な態度を示して市民ないし納税者の立場からチェックすることとは、異なる。記しておくが、私は前科こそないが、ガキの頃には色々と厄介になった警察署があったりする。


重大な事件が発生した際に、その解決において、最終的に強硬な対応を選択し決断し得るのは現場ではない。強硬策を選択し決断しなかったことから、対応が現場において後手後手に回ったことは、確かだろう。そのことを問うなら、強硬策を選択し決断することのなかった県警幹部に対して、批判は向けられるべきと思う。


そして、県警幹部が強硬策を最終的に選択し決断しなかった、あるいはし得なかったことには、日本警察独自の、理由があり、歴史的な経緯がある。県警幹部が強硬な対応の決断を選択しなかったということは、大石先生の指摘通り、責任を取る意思がなかった、ということかも知れない。責任とは、大枠におかれては、70年以降の37年間に亘る日本警察の原則を、犯人確保の枠組を、転回させる切先となる、ということでもある。


はっきりと、かつ強調的に書くが、今回、県警の決断によって犯人が射殺され結果それを間違いなく世論が支持したとき、日本警察の犯人確保に際する原則は転回し、書き換えられることにもなっただろう。転換点となっただろう。その、重い「責」を、県警幹部は、いかなる理由と事情によるものであれ、負うことを決断によって選択しなかった。そのことを、どのように捉え考えるべきなのか。


現場に対する拘束的な指示と命令なければ、SATは応射し突入もしただろう、狙撃も選択されたであろう。現在の世論がそのことを、結果的な犯人の死も含めて支持するであろうことを、私は知っている。私の個人的な感慨とてある。そして。日本の警察機構とは、良くも悪くも、官僚組織であり、上意下達であり、原則において前例志向である。


であるから。私の思いもまた乱れている。そして、そうした諸相を、私が改めて記すまでもなく、id:Mr_Rancelotさんが、エントリとして示してくれた。同意、と私が言うまでもない。有難う。書いた甲斐がありました。私のこのエントリを、感謝の意を込めての蛇足として、掲示します。