悲しいけどこれ結婚なのよね(甲斐性が問われるとき)


そこに愛はあろうとも - 地を這う難破船

beijaflor 2008/08/27 01:41


>そして夫の妻子に対する「思い」や「愛」が、親の子に対する「思い」が「愛」が、犯罪行為を正当な処罰へと至らしめないことが幾らもあって、それが時を経て破裂することもまた幾らもある。


私の感覚では「夫の妻子に」ではなく「妻子の夫に」、「親の子に」ではなく「子の親に」の方がしっくり来るのではないか、と思ってしまうのですが。何か意図あっての表現なのでしょうか?


beijaflorさん、はじめまして。御質問についてですが、この件について新たに掲示された記事とそのブックマークコメントに目を通して思うところがあったので、改めてお答えしてみます。


なぜ親の承諾が必要なのか?・・・二人だけでは結婚できない現状 - ohnosakiko’s blog

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端的に言って、親の承諾とは経済の問題ではないし親子とは家族とは銭勘定の問題ではないでしょう、という指摘が複数為されていて、asami81さんも批判に対してそのようなことを言っていた。小津・成瀬の映画を引くまでもなくジェイン・オースティンを引くまでもなく大人の社会においてまた貧乏人において親子とは家族とは家柄格式措いても銭勘定の問題だったのであって、家柄格式が差別として表向き排されても銭勘定は付いて回る。


そのことに共同体としての親子が家族がひいては家父長制を是とする国家が関与することに対して否を唱えたのがかつてのベビーブーマー世代であり、そして長じた彼らが社会の要に位置する現代の新自由主義「的」な資本主義社会において、資本主義ある限り付いて回る結婚出産の銭勘定は容易に個人の責務としてひいては器量として問われる。つまりは個人において当事者間において「双肩にのしかかる」。


そのような前提において、福祉政策に基づく国家の関与が共同体的な家族主義において理念的に退けられがちな日本の現状を指摘し改めて国家の結婚出産にまつわる福祉施策の充実とそれに即した個人重視の理念の肝要を説く記事に対して筆者の家族観を「情がない」「礼節に欠ける」「血も涙もない」かのごとく問うというのはどういうことなのだろう、と不可思議には思いました。


つまり、ohnosakikoさんの議論に対する駁として「親の承諾とは経済の問題ではないし親子とは家族とは銭勘定の問題ではない」というのは的を外している。指摘内容自体の妥当性ではなく、レイヤーが違うという話です。ところが、人はそのレイヤーを一致させて考えてしまうものであるらしい。自分の人生においてでなく、言論に拠る議論に対してさえも。

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その「レイヤーの一致」こそ、asami81さんの記事において顕著なものでした。「レイヤーの一致」を的確に指す慣用句を私たちは知っています。「甲斐性」と。ひとことで言えば元増田における語り手は甲斐性なしであって、それを「大阪では日常茶飯事」な語彙を用いてasami81さんが激励の意を込めて叱咤する、というのはよくわかる話ではあるのです。「東京では日常茶飯事」な語彙を知る私が「飲む打つ買うに浮気は男の甲斐性」と考えているようなもので、ま、わかりやすい。陳腐なほどに。


で、その「甲斐性」なる発想こそジェンダー規範とその内面化の最たるものではないか、という指摘が「男を男にしてあげるのも女の役目」といった記述含めてasami81さんの記事に対して示されてきました。


御本人があるいは当事者同士が好きでそれを信じて演じて幸せ一杯に啓蒙するのは構わないし見ていてごちそうさん的に楽しいものですが、元増田の語り手にそれを押し付けるのは単純に残酷です、なぜなら、元増田の語り手もまた「甲斐性」という概念においてジェンダー規範を内面化してあまつさえそれに抑圧されて結果自己処罰を伴って凹んでいるわけだから、という。


甲斐性なしという言葉はある種の女がある種の男に向ける最強の傷つける言葉であって、まあ正直、自分の男に対してそれを口にするということは殴られて仕方のないことだなあと私は思うわけですが、見ず知らずの他所様の男にそれを本気で、しかも激励としての叱咤のつもりで言う人がいるとは思わなかった。増田さんへ。久しぶりにグレーターみのもんたが現れました - ls@usada’s Backyardにおける「グレーターみのもんた」という指摘は、残念ながら正しい。


「殴られて仕方ない」とは、ジェンダー規範を内面化している者に対してそれをピンポイントで毀損するべく痛恨の一撃を繰り出すのはジェンダー規範とその人格的な支配性すなわち逆鱗たりうることを承知してのこと、ということ。逆鱗を知って傷つけるべく故意につついているにせよ愛ゆえに本気で言っている天然にせよ、双方合意のプレイは御自由にという主義です、私は。男という内面化されたジェンダー規範と女という内面化されたジェンダー規範の相互毀損プレイ。スコセッシの映画にもよく描かれます、女房が亭主にろくでなしと言って男社会で男自慢張ってる亭主が体面傷付けられて女房を売女と罵りながらボコにするという、古今東西に亘る人類の古典的営みは。むろん一切は男社会の問題であってジェンダー規範の内面化をもたらしたのも男社会であるわけですが。


「甲斐性」という概念において凹んでいる男に対して「結婚」という一方的に挿入した設定と「彼女のことを考えるべき」というそれ自体は普遍的でありながらしかし個別には大きな御世話以外の何物でもない正論をアリバイにして甲斐性なしと叱咤しあまつさえ「子の親」として云々することが相手の為を思っての激励たりうるとか私はまったく思わない。アルコール中毒は甲斐性なしである、を、アルコール中毒は妻子近親者ほか周囲の彼を愛する人たちを不幸にしてしまいうる、と言い換えると妥当で真っ当な物言いに見えるという不思議。


asami81さんが仰る通り、多くのアル中は甲斐性なしですが、「甲斐性」という概念に拘束され強迫され「甲斐性」という概念とその欠如/不十分/不適格を気に病むがゆえにアル中になる、あるいはそれをこじらす男が昔も今もゴマンとあることを知らないわけでもないとは思う。たとえば――nijuusannmiriさんが言及しておられるので敢えて引き合いに出しますが――鴨志田穣氏がそうであったように。誰に頼まれたでも押し付けられたでもない「甲斐性」という概念においてすなわちジェンダー規範において鴨志田氏は抑圧されていたとかつての配偶者は後に大意として語っている。彼は誰も望んでいないにもかかわらず「家長」たらんと無理をしたと。


そしてアル中は弱い男と「甲斐性」なる社会的概念において水に落ちた犬のごとく打たれる、見ず知らずの人間に。酒飲まない東京人の私は、古典落語に登場する亭主が「甲斐性無し」ばかりであることを美しいと思っている。むろん、美しさで飯は食えない。美しさで飯は食えないとだけ言ってみせる言論に私は関心がない。飯の話をするなら、そうした言論こそ誰も得しないのだから。

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「男の甲斐性」という概念を――そのことを記して擁護する人があったので敢えて批判を含意して記しますが――「20代の女性」が信じて見ず知らずの「男の甲斐性」の欠如に凹んでいる男に対して甲斐性が無いと一方的にハッパかけること自体は、まあ、「見ず知らずの」ということを除けば現実に幾らもあることであるし、見ず知らずであろうとも大手小町では「日常茶飯事」であるし、構わないのだけれども、「甲斐性」という概念を自明の規範としたうえ愛の問題と誤変換されてもなあ、と私は思うのでした。


しかし「甲斐性」なる社会的概念はこの社会において自明の規範とされているにとどまらず愛の問題としても自明と見なされているがゆえに、福祉受給者は子を為すべきでないとかそういう話が公然と出る。甲斐性の欠如は愛の欠如とイコールであるからして国家に経済援助を求めることは恥であり情けないことであるらしい。福祉受給者が「甲斐性なし」であることは端的な事実です。だから子が不幸になるかは私は知らない。甲斐性という社会的規範とその自明は結婚という社会的行為をいまなお規定するにとどまらず愛の問題までも規定しているらしい。だから、以上の逆もまた存在する。beijaflorさんの質問に戻りますが。

私の感覚では「夫の妻子に」ではなく「妻子の夫に」、「親の子に」ではなく「子の親に」の方がしっくり来るのではないか、と思ってしまうのですが。何か意図あっての表現なのでしょうか?


beijaflorさんの記す話のほうが「しっくり来る」ことは確かです。私が先のエントリを記す際に念頭にもあった虐待事件の報道もまたそうしたものでした。というか、そういう「しっくり来る」話になっていました。


はてなブックマーク - http://www.asahi.com/national/update/0821/TKY200808200380.html


むろん、「しっくり来る」にとどまらずそれもまた事実です。ただ私が言いたかったのはそういうことではありませんでした。ohnosakikoさんの記事ともたぶんかかわるのですが、改めて申し上げるならこういうことです。


警察は原則において家族間不介入です。現代の社会においては警察にとどまらず隣人もまた家族間不介入です。なぜか。人は愛の責任を問われるからです。介入に際してそのことを前提するからです。愛の責任を自覚し自認するのが「真っ当な親」であり世の親は愛の責任を自覚し自認するべく傍から迫られ、そうしないとき「真っ当でない親」と見なされます。


むろんそのとき、愛の責任の名のもとに専横もまた横行します。元増田において描かれた語り手の恋人の両親のように。それを愛の責任ゆえのことと「正しく」解読してくれる「20代の女性」もいるということです。そして貴方は恋人の両親の負う愛の責任と引き合うだけの愛の責任を「彼女と生まれてくる子に対して」負えるのかと覚悟を迫る。傍から。それは正論ということになるらしいです。愛しているなら恋人のことを思え生まれてくる子の為を思え、というのは最強の物言いです。私はよう言わん、親しい者に対しても。何様だ、と頭の後ろから小人が囁くからです。


囁く小人のない人もあるのでしょう。実績の裏打ちとやらで。私事をビジネスと考えるからマネーの虎のごとく語れるのかも知れません。戦略を要するにもかかわらず段取りの悪い能無しであると。それは別に構わないのだけれども、「彼女と生まれてくる子に対して」とか要らない。主観においてはおためごかしでないからおそろしい。


愛の責任を負うこととはつまりは甲斐性の問題であるらしいです。間違ってはいません。愛情はプライスレスではない、それが甲斐性という言葉の意味です。そしてそれは責任という概念とイコールであるらしいです。それは構わないのですが、なら愛情をプライスレスのごとく騙るべきではない。繰り返しますが私は反動にも退行にも与しませんが、しかし自律した個人の涵養なき新自由主義「的」社会において愛の責任のハードルはひいては賭金は吊り上がる一方です。それは「歴史的経緯」に基づく世の趨勢というものであって云々したところで詮無いことですが。だからこそohnosakikoさんの議論とその結論は妥当と私は思いますが。

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私は薄情な不干渉主義者であるからして「愛の責任」などという概念を個人的には信じない――つまり「責任」とはresponsibilityの意であるからして宗教ではない――のですが、信じる人が幾らもあることは知っているし愛とは正しさの問題ではない以上つまりはそういうことです。遠藤周作の小説ではありませんが、信仰者と交わって神の存在を知り神の存在に打たれることがあるように、愛の責任は存在しますし私が打たれなかったわけでもない。


だから愛の責任の存在それ自体が問題ではない。というか、それなくして生きえない人が幾らもある。ただ、愛情をプライスレスと騙って愛の責任を甲斐性として説くグレーターみのもんたな言説が世にはあふれていて、asami81さんの記事はその典型であったということです。


そして、愛の責任を、あるいはそれゆえのそれからの逃避を、幼い子も知ってしまうものです。人は甲斐性を傍から問うにもかかわらず愛情をプライスレスと信じている。そのように言う。それが現代日本の社会規範です。法制度は社会規範と好んで対立しようとはしない。だから、家族という密室は破綻寸前の問題を抱えていようと多く孤立します、責任を付随する愛の観念に守られているがゆえに。「甲斐性」という概念に代表される現代的なオブセッションに。


どうにかならんものかね、と私は思いはしますが、私もまた破綻寸前の家族という孤立した密室で育ったもので、他の選択肢とその可能性についてはよくわからない。親が人格的な同一性を失ったかに見える姿を目にすることは幼き子にとって残酷なことです。しかしその残酷をもって他人の「子の親」としての如何を傍からあまつさえ中田氏の以前に云々することは、しかも「彼女」と「子」とその未来と人生とそれに対する責任とその自明を公然と人質に取って「貴方の為を思って」説くそれは、残酷の再演でしかなく、とんでもないことです。かつて偉大な作家が言った通り、貴方の為にという言葉はいついかなるときも美しくない。


生まれてくる子にとっての残酷をasami81さんが示したような現代日本社会の基準に即して考えるとき、なるほどアフリカ人の多くは子の親になるべきではないのでしょう、が、世の中には言ってよいことと言って面白いことと、言って詮無いことがあります。私も詮無いことをよく言いますが。