罵倒について(ネットの紳士協定)


トラックバック頂いたのでお答えします。言及に感謝します。

自分としては、むしろhokusyuさん寄りの方に中に立って頂くことを期待していた。ただしそういう方はとくに現れなかったということです(強いて言えばid:sk-44さんなどがそういう御立場だったのでしょうか?)

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080826/p1


論点について了解し難いということだったので私なりの見解を記したく思った次第です。私は原則において論点と論者は別と考えるので。対するに、このように立論する論者ひいてはこのような論者――hokusyuさんのことです――の提示する論点については了解し難い、ということだったので、論点と論者は別個に考えたらいかがですか、私自身はそうしています、とお答えしました。そこから先のことは、干渉しないというのが私の立場といえば立場です。


論点の話を論者の話にスライドさせているようにも映りましたが、そもそもHALTANさんは最初からそのことに限定して問題としていた、それが私の結論です。論点すなわちトリアージホロコースト経営学や福祉それ自体の話はHALTANさんの主張においては擬似問題でしかない。論者とその類型性について一貫して問題としておられたということです。それもひとつの見識と思います。すなわち、罵倒を行う人間の提示する「大きな」論点とは私的な感情の取引材料に過ぎない、というのも。私は同意しませんが。同意しないのは、同意するならHALTANさんもまたその見識において批判されうるということです。そのような下司の勘繰りに私は関心がありません。
 

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皮肉や逆説や反語や両義的なレトリックを多用する私が、罵倒しないのは、リアルを前提しリアルを直截に敷衍して考える癖ゆえのことです。ネットにおける、あるいは言論における罵倒は修辞に過ぎませんが、すなわち論理なき修辞に意味なく、修辞と別個に論理を読み取ることを前提としますが、そして論理なき罵倒はそれだけのものでしかないのですが、リアルにおける直接的罵倒は修辞ではありませんし修辞では済みません、言うまでもなく。それが修辞として機能するのは権力関係の介在を条件とします。つまりブラック企業によくあることです。


換言するなら、コミュニケーションの賭金を吊り上げることそれ自体が問題とされるのではなく(大の大人なら御勝手)、直接的な罵倒を修辞として機能させる権力関係とその存在こそが問題とされうるのであって、直接的な罵倒が修辞として機能するネットにおいて権力関係の存在が傍から規定されることは蓋然として容易にありうることでしょう――たとえば「いじめ」「集団リンチ」として。


その権力関係とはいわばリアルの風景に基づく蜃気楼であって、ネットの議論において直接的な罵倒が修辞として機能するのは論理とその交換/応酬が上位の審級として存在するからです。端的に言うなら、危害を加え合う関係性にないことを前提して論理の審級が担保される。それを私はネットの紳士協定と勝手に呼んでいます。


なので、このとき問われるのは、危害を加え合う関係性にないことに対する合意と、それによって担保された論理の審級に対する誠実、と言って言い過ぎなら、義理立てです。それはネットの議論における前提としての合意です。相互危害の蓋然なきことに対する合意とそれによって担保される論理の審級に対する義理立てなきとき、他者への直接的罵倒は修辞でなく単なるDQNでしかない。

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で、HALTANさんが再三問うておられることなのでhokusyuさんに限定して敢えて私見を述べますが、行為の感想を訊かれたなら私はうへえと思うと答えますが、公平に言って、危害を加え合う関係性にないことに対する合意とそれによって担保される論理の審級に対する誠実が、hokusyuさんには存すると私は思います。HALTANさんにはそれがない、だから他者への直接的罵倒を行わないのだと私は判断していました。批判して、あるいは貶めて言っているのではありません。


「それがない」とはリアルを前提しリアルを直截に敷衍して言論という行為を考えるということでしょう。私もそうです。私は根本的に、相互危害の蓋然なきことに対する合意もそれによって担保さる論理の審級も信じていない。だから他者を直接的に罵倒することなどオソロしくてできない。論理の審級を根本的に信じないからです。そして結果論と意志的行為は違います。ただ、それは私の癖に過ぎないのであって、ネットにおいて論理の審級を信じることが妥当でないはずがない。これははっきりとそう思います。


HALTANさんは「他者への配慮」の話をしているのではないですよね。リアルにおける社会的な履歴を参照したうえで処世を示唆するとはそういうことであって、つまり論理の審級に対してリアルの審級の上位を説くにとどまることでなく、その含意を私はあげつらうことはしませんが、少なくとも大きな御世話とは思います。ネットにおいて論理の審級を信じる人に対してそのような百も承知を説くことは。

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本件に関係する増田に付されたenemyoffreedomさんのブックマークコメントの一節に思い当たったのですが。

2008年08月23日 b:id:enemyoffreedom 増田, はてな, 人   「いやこれでも十分に抑制・配慮している。オレが本気出したらこんなもんじゃすまないよ」くらいに思っているでしょうね。一度"敵"と認識すると知性はブレーキとしてよりアクセルとして働いてしまいがち

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20080823075056


ブレーキとアクセルという言葉に思い当たったのですが、少なくとも私は自分自身について知性をブレーキの機能として考えます、それを生存の原理として生きてきたからですが。ただそのブレーキとは時に論理に対する規範の形式的な優先かも知れません。リアルにおける規範の一般性とネットにおける論理の一般性は同様に肯定さるべきであって、ゆえにネットにおいては論理の一般性に即して他者問題としての倫理が浮上するのですが。つまり「現実の紳士」と「ネットの紳士」は相違する。様相が相違するということです。規範とは現実の紳士協定です。


そして、HALTANさんは他者問題としての倫理を問うているわけではない、一貫して。「現実の紳士」と「ネットの紳士」を一致させて考えておられる。むろんそれはひとつの立場であり見解であり見識です。ただ。論理に対する規範の形式的な優先をネットにおいて説くということは、無理筋であって、他者のリアルにおける社会的な履歴を参照してそれを説くなら、規範的な行為でさえない。忠告めかした単なる暗黙の威嚇でしかない。HALTANさんに害意が所在するということではありません。現実の紳士協定の類を旗幟としてリアルにおける顰蹙ないし結果的なサンクションをネットの言行に対して示唆しているということです、当人の社会的な履歴を再三参照して。


それは、相互危害の蓋然なきことに対する合意が、ネットの議論においてもHALTANさんにはないからであって、それ自体はひとつの立場であり見解であり見識ですが、別に大人の知恵でも処世でもない、規範なきとき他者を獣と思うということです。私はそうですが。そして現実の紳士協定とはそういうものです。それで問題があるとも思いません。「お前と一緒にするな」と仰られるなら賛成します。


だからこそ私たちは他者を他者と思わなければならない。定言命令として、私はそう考えます。そしてネットはそのことに最適の箱庭ではあります、論理の審級とそれに対する誠実において守られているからです。いまなお。私の「御立場」について説明するなら、そういうことです。わかりにくかったら申し訳ありません。急いで書いたところがあるので。