そこに愛はあろうとも


憂鬱だ

増田さんへ。私は久しぶりに激怒しました。 - iGirl

本当の目的は何なのか、が大事だと思います - iGirl


asami81さんの記事を介して初めて元増田の小説を最後まで読んだ。私が小説の語り手にアドバイスするなら、直前にキメるべきはアルコールでなくコカインであった。ウィスキーのようには臭わないし。真面目な話、失礼であることと「要は、勇気がない」ことは関係がないし、失礼で非常識な奴はうちの会社で使えない、ということと、失礼で非常識であることには性根に問題がある、は違う。アルコール中毒云々は後者の話。私はTVの画面で礼儀正しいタレント田代まさしが好きだった。「人生初の便所酒」と書いているから未だ依存症ではないだろう。先のことは知らん。


あと、ここで描かれている程度にダメな男は幾らでもいる、元増田はそれを前提して創作している(私はそう判断する)のであって、この程度にダメな男が子の親になることを憂鬱に思っていたらもはや浮世に絶望するしかないし人類の歴史に優生学的観点から絶望するよりほかない。だから、この程度にダメな男は幾らでも子の親になっている。


で、ダメな男だって子の親なのであってそれを「子の親」として否定してよいのはその「子」だけ。そして、この程度にダメな男はふつう相応の相手と相当の環境において相応の結婚をして子の親になっているのであって、そして語り手は不相応の相手と不相応の環境において不相応の結婚に臨まんとして憂鬱になっている、ゲロ吐いてシラフでいられなくなっている、というのが元増田の趣旨と思う。


この程度にダメな男が相応の相手と相応の環境において相応の結婚をして子の親になることはありふれた、そのゆえに所謂階層問題ではあるのだが、だからそれが不幸な結婚であるとはまったく思わない。というか、それを不幸な結婚と言ってはいけないこと。虐待した母親だってそれを「母親」として否定してよいのはその「子」だけであってむろん犯罪行為は処罰さるべきだが、母親失格と人は他人に対して徒に言ってよいものではない。だから、虐待死した子どもの問題が普遍的にある。そのとき、ひとりの人間としての「母親」に対する「子」の思いはどこへ行き着くのだろう、否、消えてなくなったのだ、それでよいか、と。橋本治が『ふらんだーすの犬』において突きつめたのはそのことだった。


蝶のゆくえ

蝶のゆくえ

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以下、asami81さんの指摘に即して「結婚」という前提を設定して、少しメタ視点で読んでみる。元増田において語り手の発想/行動がダメであることと語り手が記すところの恋人の両親の反応/行動がアレであることはそれぞれ別の人間の話で、一方を咎めて一方が「仕方ない」になるものでもない。そして、描写された状況において両者の発想や反応や行動を規定するのは何かというと「結婚」である。その「結婚」とは紙切れ一枚の問題としてのそれのことではなく、では二人が誓いを交わす階梯のことでもないかというと、必ずしもそうではないから難しい。


語り手が卑屈なのは、語り手が記すところの恋人の両親が傲慢に映るのは、社会的行為としての結婚をめぐる任意の歴史的構造が関与する。それは「不相応」という発想を招来せしめる階層問題であって、「結婚」という社会的行為において如実に浮かび上がる階層問題が人間の関係性や心持さえ支配してひとりの堅気の労働者を凹ませる、21世紀においてなお、ということをわかりやすく(あまりにわかりやすく)描くために元増田は記されたと私は思っている。つまり、古典的な話。岡林信康の『手紙』に言及していた人があったけど、それはその通り。


先日MXテレビを点けていたらガーナの共同体的婚礼について解説されていた。少なくとも現代日本において結婚とは共同体的婚礼である以前に社会的行為としてあって、恋愛結婚であれ、彼岸へと至りうる恋愛を社会において調停する一種の社会契約である限り、社会契約の外部において要請される社会的諸関係に対する調停作業は存する。


社会的諸関係に対して調停の人事尽くすなら結婚とは大事業でもあってかかる大事業に臨むに際して未来の配偶者たちの相互協力が要請されそのことにおいて愛が試される、というのはその通りでもあって事実結婚という大事業に臨んで結果良くも悪くも絆が堅くなる恋人たちというのは多い(むろん逆も多い)、のだが、社会的諸関係に対して調停の人事尽くすことと未来の配偶者に対する愛の有無を因果関係として傍から論じると、それは理念としては正しいが現実としては違う話になるのではないか、ということになる。


だから常識の問題なのだけれど、常識とは理念の敗北から始まる。社会的諸関係に対する調停意思の有無と私圏における愛の有無は別の話。とはいえ、私は増田における語り手には調停意思は存すると考える。


結局は本件、岡林信康の『手紙』な問題として問うか、私圏における愛の有無として問うか、と考えると、元増田の趣旨は前者と思う、というか「私圏における愛」自体にほとんど筆が裂かれていない。つまりそのような問題提起を暗黙に含意して構成されている(と私は勝手に決める)。そして、社会的諸関係に対する調停意思の有無をもって私圏における愛の有無を問うたのがasami81さんの記事だったのだろう。それ自体はひとつの正論と思うし、対するに岡林信康を説いても筋違いとしか言えない。ただ、元増田氏が意図したのは岡林信康だったろう。


そして、社会的諸関係に対する調停意思を持ち合わせることと世間体に配慮することは、やはりぴたりとは重なり合わないと私は思う。たとえ世間体に配慮しない、できないことが未来の配偶者を不幸にし悲しませることであったとしても、それはその人の筋でありスタイルであり在り様であり個性であって、私たちは世界に一つだけの花であるからしてその人の花なのである。冗談を言っているのでもなく、私圏における愛とは世界に一つだけの花を個人的に、そして当事者間で信じることである。そのとき花に貴賎はない。かくて、私圏における愛は社会的諸関係との調停の回路を模索する、彼らが社会において生きようとするとき、必死で。社会的諸関係は決して妥協してはくれない。それが常識的な解の実相である。


社会的諸関係に対して調停意思を持ち合わせるということは、自分を殺すということではなく、社会的諸関係と自分の、あるいは社会的諸関係と自分たちの、38度線を模索し暫定的にも設定することだろう。だから結婚とは紙切れ一枚の行為でもある。恋愛とは本来的に治外法権の所業である、それを法治国家に帰属させるのが結婚という社会的行為のひとつの機能でありまたそれは効能でもあって帰属を拘束とは私は呼ばないし思わない。そして面白いもので、法治国家において規定された結婚という社会的行為において、またそのことを理由として、治外法権の恋愛が発動することがある。必ずしも「姦通」のことを言っているのではない。


千年の夢―文人たちの愛と死〈下巻〉 (小学館文庫)

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ところで「近代個人主義者」は、以下のように考える。恋人が大切にするものを否定すべきでないし尊重するべきである。夫の鉄道模型を勝手に捨てた妻の話が昔あったが、恋人が猫好きであったりあるいは犬好きであるなら、それを否定すべきでないし尊重するべきであって、たとえば自分がオバQのごとく犬が大の苦手であったとき、二人の生活にまつわる葛藤はけっこう深刻であったりもする。タバコをやめるには恋人から「やめてくれないと別れる」と宣告されることが最も覿面であって私はそれでやめましたとは宮台真司の言であったか。


だから、恋人が大切に思うものを否定すべきでないし尊重するべきであるからして恋人の両親にも同様に対する。それは「イエ」とかそういうこととは少し違う。恋人を取り巻く、そしてその人が大切に思う人間関係を自らもまた認めるということであり、加えて、恋人の現在をこれまで構成してきた無数の「思い」というか、asami81さんの言葉で言うなら「愛」の存在を知り認めるということである。貴方が大切にしたいと思うほどの人であるなら、その人がそのような素敵な人物であることに、その人が引き合わせたいと思うほどの両親が関与していないはずもない。むろん、逆もまた真であって、その人のアレな部分に両親のアレが関与していないはずもない、という話もあって、結婚しようが子を為そうが世に親子の因果は尽きない。そしてなさぬ仲の確執もまた尽きない。


私は誰かを「大切にしたい」というふうに思ったことはないのだが、恋人に自分の両親を引き合わせたいとかこれまで思ったことがない、むろんそれもまた階層問題ではあるのだが、それ以前に自己とその来歴を厭でも構成する手札を片端から見せたいと思ったことがない。人間というのはばれてしまうものであるとはいえ、率先して手札を晒すことが結婚の階梯であり戦略的互恵関係の一環として要請される愛の証明であるなら、なるほど私が結婚に関心ないわけだとは思う。


恋人を取り巻くその人が大切に思う「愛」は現在進行形であるからして、暗黙の協定は結ばれて然るべきだけれど、常識に鑑みて語り手が記すところの恋人の両親の対応は偽の遺骨送ってくるレベル。宜しいならば戦争だ、は冗談としてもレスポンスがノーサンキューにならないのは増田はダメな男かも知らんがいい奴で、恋人が大切に思う人びとを無下にはできないという前提に立ってはいるからだろう。私は発想が女衒入ってるので根本的にああいう優しさというか人の良さはわからない。


協定なきとき尾崎豊の歌のようなことになりかねないと、元増田における語り手は知っているのだろう。誰しもが社会的諸関係の掌にありその治外法権としての恋愛さえ社会的諸関係の掌であることを「思い知らされる」。そして悲しい歌に愛がしらける。マリッジとはそういう概念ではないのだが。所謂セカイ系と現実の恋愛の最大の違いは何かというと、言うまでもなく現実の恋愛は決してセカイになど至りはしないし世界と引き合いもしないということ。心中しようが何しようが。私が無感動なだけかも知らんが、その点において、尾崎豊の歌は決してセカイ系ではなく、君と僕の、俺とおまえの、永遠なき関係の限定性と閉塞とそのどうしようもなさをよく知っていた。だから論壇でよしながふみが推される時世なのか、よく知らない。余談。

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「近代個人主義者」はそのように考えるので、大切な人をめぐる他なる人びとの「思い」や「愛」を知り認め尊重しそれに配慮するという個人的かつ倫理的かつ原則的な行為に、現行の社会的階梯やそれに規定された道徳規範を利害関係なき傍から一方的に差し込まれると困惑するものではある。いや大手小町はそれでよいのだが。そのことは現行の社会的階梯やそれに規定された道徳規範を否としたり軽んじることをまったく意味しない。レイヤーが違う、という話であって、社会的諸関係に対する調停において私圏における愛の有無を利害関係なき傍から問うことは単純に筋違いですよ、という。


社会的諸関係に対する調停意思の欠如をもって大切な人に対する「思い」や「愛」を傍から難じられることは、うへえ、ではある。加えて元増田の趣旨でもある階層問題を捨象して一切を私圏における「愛」の有無に還元するなら、それは単純に間違いです、という話にはなる。現行の社会的階梯に対する顧慮の有無をもって私圏における「思い」や「愛」の有無を傍から問うことは妥当でないし、まして現行の社会的階梯に規定された道徳規範に対する顧慮の有無を私圏における「思い」や「愛」の有無に還元するなら端的に事実として、また論理的にも、加えて常識的に言って、間違いでしかないから。


「思い」や「愛」とは証明されるものではないし、少なくとも利害関係なき傍の人間に対して証明する筋合もないし、また他に主張するものでさえなく、結局のところは私圏における当事者問題でしかない。敢えてこう言うが、アル中どころか暴力夫が妻を思っていないわけでも愛していないわけでもないように、虐待親が子を思っていないわけでも愛していないわけでもない、ただ、歴たる犯罪行為はある、という。そして夫の妻子に対する「思い」や「愛」が、親の子に対する「思い」が「愛」が、犯罪行為を正当な処罰へと至らしめないことが幾らもあって、それが時を経て破裂することもまた幾らもある。

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以下、綺麗事ぶっこいてるのでなく単なる私的な実感に過ぎないと断る。子の親になる「べきでない」人間などいない、子の親になる「資格なき」人間などいない、私は最近そう思うようになった。向き不向きとは別の話である。むろん不幸な結果は幾らもある、報道されるのは氷山の一角だ。私も他人にそれを知っている。しかし不幸な結果とはならなかった事例もまたゴマンとある。そして「起こらなかったこと」は事件にならないし報道もされない。それはあるいは僥倖だが、決して奇跡ではないし、人はその程度には環境適応しうる、結婚という環境に自身が責任持つ生命の誕生という環境に。


不幸な結果は幾らもあって報道されるのは氷山の一角であるが、量産される不幸な結果を中田氏の以前に先取して子の親になることの是非を傍から問うことは褒められたことではない、というか、予言者か。昔、子どもというのは血縁にかかわりなく誰かが面倒見るようにできていた。そうでないのが現代の社会であってそれは歴史の必然でもあり共同体を基盤としたことのない私は反動や退行に与しないが、近代化の果ての現代日本の極端な家族主義の危うさをもって誰かが親になることの是非を問うならそれは人格の非難にしか帰着しない。


子の親にはならないが吉と思っていた人間が子の親になっていく光景を幾度も見て、そして未だ虐待や遺棄の話を聞かないとき、私は率直に思ったのだった、人は分からないと。そして人は自身が責任持つ存在あることにおいて変わりうると。あまりに陳腐な暫定解であるが。病的に暴力的な人間は子を為さない方がよい、親父を見て私を見てその遺伝を見ていた母親はかつて私にそう言って、私はまったく同意だったが、最近少し反論したくなった。むろん本人には言わないしとうに忘れているだろうが。私は少しだけ、自身が面倒見るべき子というものと付き合うことを自分に許せるようになっている。それは必ずしも血縁の問題ではない。

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結局「思い」や「愛」の問題ではない。社会的階梯に即した社会的行為とは外形の問題でしかないと、道徳規範を必ずしも自明としないがゆえに常識を是とする私は思う。近代国家において立件されない暴力が犯罪でないように。だから結論は、便所酒はやめとけ、コカインも。大人の語彙としての「汗をかく」ことを私的な愛の証明として立論されてしまうと、キツイなあ、と、そういう話なのです。


まあ、しかし、花嫁というのは教会から掠奪するものではないのか。旧弊なる私の世界観に拠るところでは。ラストシーンのダスティン・ホフマンのように呆然とするところから凡庸なる人生は始まる。漱石の『門』のように、苦渋に満ちて。ルールは自明でも正当でもないがそれを架橋するのは愛と勇気と戦略である、というのはその通りで皮肉でなくまったく同意なのだけれども、それは相互了解の原理であって、このケースは良く言って三島の『サド侯爵夫人』だから。そこに愛はあろうとも。