語源を常に把握する必要はありません、全然(NOV1975さんへの応答として)


語源を常に把握する必要はあるのか(sk-44さんへの応答として) - novtan別館


NOV1975さん、記事による丁寧な応答、有難うございます。


表題については、すなわち「語源を常に把握する必要はあるのか」ということについては、いや全然、というのが私の見解です。というか、少なくともApemanさんが指摘していたのはそういうことではありません。むろん私はIT業界における「デスマーチ」という言葉とその意味については承知しています。日常性についても。はてなに限らずインターネットを覗いていれば幾らでも目に入るし知ることになるので。「IT屋」でなかろうとも。


そのことに対して語源が云々と指摘するつもりはまったくないしそもそも語源が云々と思ったこともありません。大戦における「死の行進」の生存者が目にしたら云々とか思うこともない。まして不謹慎とか思うはずもない。直截に言ってしまえば、ジャーゴンとはそういうものです。


ただNOV1975さんは、デスマーチを汎用的な目的論とはしないと思います。fuku33さんが当該の記事において記したことはそういうことで、だから、トリアージを汎用的な目的論とするならそれはホロコーストへと至りうる論理です、という指摘が為されました。

sk-44さんのおっしゃる行為の対象性については、確かにそういう面はあるかな、と思ってはいます。が、構造的な問題に、問題の所在が帰するのであれば、事は単純です。そうでないから、トリアージホロコーストという強く特定の事象に結びついた言葉の解釈が問題となっていると解釈しています。デスマはここに並び立てる資格がある言葉ではないように思っています。


トリアージホロコーストデスマーチといった単語や概念の固有性の有無、あるいは置換可能性の有無が問われうるのであって、固有なるものを汎用概念としてしまうことの問題であるときIT業界におけるデスマーチはもはや固有概念ではない、ということを言っておられるのですよね。同意します。そして、そのことは今回の行き違いが「単なる言葉の解釈問題」ではなかったことをまったく否定しません。

この「だったら」は明らかに「はい、言われました」⇒「とか言いませんよね?」というのを受けていて、つまり、直接的には言わてないけれども、間接的には言われた、その構造と同じレベルでは、言った、と受け取るのが自然に見えます。そのことについて当人には異論があるかもしれませんが、この文だけ見て他の意を汲み取るのは少々困難です。


「この文だけ見て他の意を汲み取るのは少々困難です」同意します、が、NOV1975さんのApemanさんに対するコメントレスを拝見している限り、NOV1975さんがApemanさんの件のブックマークコメントを、

ただ、どうしても相手がやったからこちらもやっていい的なものを感じずにはいられません。

ついにデスマーチもか - novtan別館


というふうに判断しているらしいことが明らかだったので、少なくともそういうことではないです、と指摘したく思った次第です。つまり、「だったら」をNOV1975さんは「報復措置」の正当化の言明と考えておられるのではないか、と。私の理解に基づく「だったら」に至るやりとりの流れを記します(印象操作と近しい行為であることは承知ですが、敢えて)。


Apemanさんの「ホロコーストって言うなと言われたのはこちらです」に対して。


ホロコーストって言うなと言われていませんよね。デスマって使うなと言われても」
ホロコーストって言うなと言われたのと同じことです。デスマって使うなと言っていません」
「デスマって使うなと言ったのと同じことですよね」
ホロコーストって言うなと言われたのと同じことです、そうでないなら、「だったら」私もデスマって使うなと言ってはいません」
「「だったら」ということは、ホロコーストって言うなと貴方が言われたも同じであることとと同一のレベルにおいてはデスマって使うなと言っているのですね」
「違います。ホロコーストって言うなと言っているのと同じことである以上、「だったら」デスマについても同一のレベルでは言いうることである、と指摘しうることである、ということです」


そして、以下のNOV1975さんの記述となる。「普通に読んだら」には同意します。

じゃあなぜ「だったら」なんですか?
普通に読んだら「だったら言ってない」は先の前提が満たされないのであれば、言っている、と解釈するのが自然です。」

ついにデスマーチもか - novtan別館


そして。以上のやりとりにおいてApemanさんが触れることのない、

デスマって使うな、と言われても、現状としてある、プロジェクトのある状態をデスマと呼ぶこと自体は常態化しているし、デスマは〜な語源だから使うな、といわれてもその現状はなくならないので別の言葉が使われるまたは作られる、というだけです。だけですが、今使っている言葉を語源を問題にして使うな、というのはおかしいでしょ。何か誤解を招くわけではないのだから。


ナチがやったホロコーストと以外のことをホロコーストと呼ぶな、と言われているのであれば、そのその他の類似事象もホロコーストと呼ぶのであるというのが界隈で共通認識として認められているのであれば、うちの業界ではこう呼ぶんだ、でいいと思いますよ。

ついにデスマーチもか - novtan別館


上の記述が、NOV1975さんの主張の趣旨であり本線ですよね。そのことは了解されていること、と私は考えています。そして、「ナチがやったホロコースト以外のことをホロコーストと呼ぶな、と言われている」のではまったくありません。このことについては。


Apemanさんは「言った個人に対して」ということを当該ブックマークコメントの時点から明示しているので、そしてそのことを私は了解していたので、「言った個人に対して」ということをApemanさんは言っている、ということを説明したく思いました。「ダブスタ」とは、つまり言論者としての個人を問うことです。事実、Apemanさんは「デスマって使うな」などと明示的にも暗黙にもひとことも言っていないし、sandercohenさんに対しても「使用を制限」しているのではない、単に批判しているだけです。

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僕は少なくともsandercohen氏のエントリがホロコーストの濫用を問題としているようには見えませんでした。HALTAN氏の主張に無条件に賛同されているようにも。違和感の原因を探っているエントリだと思います。


「「デスマーチ」という言葉になにも感じない人間が「ホロコースト」に感じる「違和感」」については措いても、というかそのことは心理としてはわかります――他者を批判するのでないなら。「デスマーチ」の使用を「自爆」と記すことを「言葉狩り」と判断することと、「ホロコーストを引き合いに出さなければ批判できない理由、ホロコーストを引き合いに出す精神性が理解できなかった」という発言を「単語」の問題と――加えて批判を含意するものと――判断しないことは、私自身の論理においては整合し難いことです。


むろん、当該の発言は率直な見解表明と思いますし、発言を禁じられてよいものではない、否、禁じられてよい発言などない、ところで誰が発言を禁じたのでしょう――というのは強弁の部類かも知れません。NOV1975さんが「振る舞いの問題」という言葉で言っておられることはむろんわかります。発言者も人格ある人間です。


また、「HALTAN氏の主張に無条件に賛同されている」とは私も思っていません。ただ、「第二次トリアージ論争」と呼ばれているらしき本件はHALTANさんの一連の発言がそもそもの経緯としてある。それは「ホロコースト」という「人類史の悲劇」の濫用の問題として他者を咎める、どころか倫理的に責める類のものでした。


倫理性を旗幟とすべき者がまったく倫理的に振舞っていない、その指摘においてHALTANさんの一連の言論は一定の支持を集めました。またSokalianさんも倫理性の旗幟に対する対抗言論として一連の記事を記しているように私には思えます。倫理性の旗幟が藁人形とは私は思いませんが、しかしそのような簡単な話ではない、だから私は本件について再三記事を記してきたのでしょう。倫理性とはそういうことではない、また倫理性を旗幟とすることは自分が正しいと思うことではない、否、その逆です。それが私の見解です。


だから、HALTANさんの一連の指摘が含意するところには同意しません。「倫理性を旗幟とすべき者」と傍から見なされた者はそのゆえに特定個人としての他者を倫理的に責めることが難しい、HALTANさんのイデオロギー批判においてはそうした視座がない。他者を倫理的に責めることと論理的な批判は違います。論理の話を排して倫理において他者を責めることを私はろくでもないと思います。

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私もまた、HALTANさんの一連の記事に「ホロコースト」に対する「言葉狩り」、そう言って悪ければ、ホロコーストを参照することへの倫理的糾弾を読み取ったことは事実です。一般論として「ホロコースト」という「人類史の悲劇」の濫用を戒めることはわかりますし妥当です、特定個人としての他者の行動を批判するのでないなら。もっとも私は、こと日本においてはホロコーストについて多少なりとも闊達に論じられることをよしと考えるので、一般論としてもHALTANさんの見解には同意しません。そのことは既に記しました。


誤解されている方があるようですが、本件において「言葉狩り」を「倫理的糾弾」を事実上行っているのはHALTANさんです。HALTANさんは「糾弾」されてなどいない。「サヨクが嫌い」と結論付けることは「糾弾」ではない。「サヨクが嫌い」であることはなんら問題でないからです。「ユダヤ人が嫌い」「朝鮮人が嫌い」なら問題を含みますが「サヨクが嫌い」はそうでないからです。ただ「サヨクが嫌い」であることにおいて他者の倫理性を批判することには私は賛成しませんし、できません。NOV1975さんの問題意識はそうでなくとも、本件について「言葉狩り」を問うならそれはHALTANさんの一連の発言という経緯の問題となると私も思います。


倫理において他者を責めることは重いことです。医師にそれを傍から説いて恥じないという増田を私も昨日目にしました。「ホロコースト」が「人類史の悲劇」であること「のみ」を理由に慎みと戒めの美徳において他者を公然と咎めるならとんでもないことです。「だったら」自身もその公然と他者に敷衍しうる倫理に準じて然るべきでしょう。


「違和感の原因を探っているエントリ」が他者への批判を含意していると私は判断します。そしてその論理は結局のところHALTANさんの再三の言説と同型です。論理的帰結を「精神性」の問題と根拠なく断定するなら。「ホロコーストなんぞ」を「引き合いに出す精神性」ということなら。その程度に普遍的に有効なことを、HALTANさんは言っていたということでもあるのですが。倫理性において他者を批判することは別に構いません、ただ、そのとき自身を例外に置くことは最も非倫理的な態度であるということです。

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無論、ホロコーストデスマーチの一部だ、という捉え方をすることはわかります。しかし、ホロコーストという単語が(ナチス以外のそれを含むジェノサイド)という意味から逸脱した単語になったことはないと思います。ナチス(ホロコースト)の話をしているときにデスマーチという単語を無頓着に使うとは不謹慎な、という批判であれば、批判として受け取れると思います。


繰り返しますが、そういうことではありません。「ナチスホロコースト)の話をしているときにデスマーチという単語を無頓着に使うとは不謹慎な」という問題意識を少なくとも私は持ち合わせないし、それこそ言葉狩りであってとんでもないことです。言論に対する「不謹慎」を根拠とする批判に私は関心がありません。ふだん書いていることも書いていることなので。そして少なくとも今回、Apemanさんは「語源において、また語源に対する無知において、あるいは語源を逸脱した「濫用」において、IT業界における「デスマーチ」という単語とその使用を問題視している」のではない。


「不謹慎」は問われていません。それはfuku33さんの使用した「トリアージ」についても同様です。というか、「不謹慎」を問うならそれこそ「ホロコースト」への言及が不謹慎、という物言いを成立させてしまう。別に麻生太郎は「不謹慎」であるから抗議されたのではない。いや不謹慎とは思いますが、政治家の言動に対して「不謹慎」として問題が問われるものでもない。麻生太郎であるし。それはかつての久間発言についても同様です。


IT業界における日常的な語彙としての「デスマ」という言葉の語源を問うているのではないし、ためにするかのごとく語源を問うてsandercohenさんを咎めているのでもない。IT業界における日常的な語彙としての「デスマ」が問題視されているのではありません。NOV1975さんが「対抗言論としてというよりは、普段使いの言葉として使ってる身からして、言わざるを得ないものではあったと思います。それこそ、IT屋として。」と考えて件のエントリを記されたこともわかります。エントリを一読したときからわかっていますし、そのこと自体は了解しています。そして、そういうことではないのです。だから「言葉狩り」についての話になった。

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僕は少なくともsandercohen氏のエントリがホロコーストの濫用を問題としているようには見えませんでした。HALTAN氏の主張に無条件に賛同されているようにも。違和感の原因を探っているエントリだと思います。一方で、氏はなんら政治的の文脈のない、自分の状況を表わす一般的な単語として「デスマ」を使ったら語義を問われ、問答無用で自爆と認定されています。

単純に言ってしまえば文脈の問題です。僕は全ての関連エントリをフォローし切れていないので、どうしてもその場でのやりとりを重要視してしまうところがあります。

僕はデスマという言葉があの文脈におけるダブスタの対象になると思ってない(あるいは了解しうるダブスタであると思っている)のに対して、Apemanさんはそうではない、ということですね。そこについて了解されえない以上、かみ合うことはないと思います。


言葉狩り、ということについては僕も言い過ぎですね。「他の意味でしかない単語に(語源を問題にして)噛み付いても」という以上の話ではありません。

ついにデスマーチもか - novtan別館


文脈の問題としては。当該のブックマークコメントにおいて問われたのは「任意の問題系に即して他者の行動を批判するならその問題系に対して誠実であれ」ということであって、それ以上の話ではありません。だからHALTANさんは「不誠実」と指摘されたし、任意の問題系に即して他者の行動を批判するならその問題系に対して誠実であるべきであってそうでないならそれは「ただのポジショントーク」というのは正しいと、不誠実な私は思います。


他者を批判するとき自身の依拠する問題系に対して誠実であるべきであって、むろん問題系は自身に対しても向けられるべきであり、批判される他者ある以上他者を批判するとはそういうことである、と。そうでないならただの節操なきポジショントークであると。


ホロコーストを引き合いに出さなければ批判できない理由、ホロコーストを引き合いに出す精神性が理解できなかった」と他者の行動に対して指摘するなら、すなわち前記記事から記してきた問題系に依拠して他者の行動を批判するなら、「デスマーチ」という言葉に対して同様の問題系に依拠することは少なくとも批判された他者がある以上要請されうる、と。他者の行動を批判するに際して任意の問題系に依拠するとはそういうことであると。「ダブスタ」と言ってしまうと簡単ですが、そういうことです。だから、HALTANさんに対する指摘とかかわりなきことではない、大筋では同じことです。

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と、ここまで書いて思うことには、たぶん無茶な話ですね。sandercohenさんは私が記してきたような「問題系」のことなどつゆ考えず率直な見解を表明したに過ぎないのでしょう、「この件を冷ややかに見ている一般人」と記すということは。「違和感の原因を探っているエントリ」にいきなりそれを求めることは、そしてブックマークコメントにおいて批判することは、かく言ってよいなら「酷に過ぎる」ことかも知れない。しかし、昔も今も思想的な人間とはそういうものです、私が思うにそれは悪いことではまったくない、そしてすべての人が思想的人間であるわけでもなく思想的人間でない者が見解を述べてはならないということでもない。むろん誰も禁じていない。思想的人間とは自身の思想性をイデオロギー的に自覚する者のことです。


「何故噛みあわないのか」というのはそういうことかも知れない、とは思います。私は根本的に不誠実で無節操で自身の依拠する問題系を言説ごとに使い分ける最悪の相対主義者なので他者を直截に批判することはあまりしません。批判的なブコメも付けません。天に唾なので。それが私のスタンスです。


言論者としての自身の依拠する問題系に誠実であるがゆえに他者の行動を直截に批判しうる、自身の依拠する問題系に対する節操と他者の無節操への直截な批判は思想的な誠実の表裏としてある、そうしたスタンスに立つ人もいる。それもまたスタンスであり、見識ではないでしょうか。NOV1975さんが問い、そして本件について多くの人が思っただろう「振る舞いの問題」に対する私の見解は、そうしたものです。人は人、我は我、されど仲良しとは行かずとも、我が筋を通し我が正義を貫け、正義持ち合わせる人は美しい、「一般人」ならざる自身が正しいとは思っていないということだから、というふうに、イーストウッド主義者の私は思っています。