このことについてははっきりさせておく


承前⇒感情を排して説明してみるということ - 地を這う難破船


花岡信昭氏のブログ⇒http://hanasan.iza.ne.jp/blog/entry/481804


少し、まじで呆れたので、はっきりと書くことにする。

 この種の事件の論評はきわめて難しい。どう書いても、建前が先行してしまう。犯人の米兵が非道、悪辣で、被害者の中学3年、14歳の少女は気の毒であることこのうえもない。その貴重な人生に考えられうる最悪のキズを負ってしまったことを思えば、言葉もない。


 といったことを前提として、「反米・反基地」勢力がこの事件によって、勢いづいていることを見逃せないという視点から、書いてみた。ご関心の向きは、関連記事に入れておくので、お読みいただきたい。



 このコラムに対して、さまざまなコメントが寄せられた。少女が知らない米兵のバイクに乗ってしまったことは無念だ、といった趣旨の部分に対しては、同じ思いだという声がある一方で、なにやらこちらを「鬼畜」呼ばわりするコメントもあった。


 ものかきである以上、反響が大きいほうがありがたいのは確かで、どう非難されようとかまわない。多様な言論があってこその民主主義だ。だから「反米」「反基地」の主張も、どうぞ、お好きなようにやってください、という以外にない。


仰る通り「政治闘争の具」にするべきではないでしょうね。「「反米・反基地」勢力がこの事件によって、勢いづいていることを見逃せない」なら。そのような構図において把握する見方もあるかも知れない。私は採らないし同意しないしそのような話とは考えていないけれども。


なら。「反米・反基地」勢力の欺瞞をこそ指摘すればよい。「被害者の中学3年、14歳の少女」のことに触れる必要はまったくない。ましてその品行に。「反米・反基地」勢力は今回の事件を、「被害者」の存在を、利用している。花岡さんはそのように考えている。「被害者」を「中学3年、14歳の少女」を、言葉は悪いが、カードとするべきではない。


花岡さんは、そのことを批判しておられるのでしょう。「反米・反基地」勢力が、被害者の存在をカードとして使っているから、対抗する勢力がカードとして使ってよいものでも、そもそもカードと見なしてよいものでもない。そうですよね? 「反米・反基地」勢力が、被害者を「中学3年生、14歳の少女」を、カードとして使っているのであれば、ですが。少なくとも、花岡さんは、そのように考えておられるようですね。だから。


「反米・反基地」勢力の「切り札」たる被害者を「中学3年生、14歳の少女」を、貶めようとした。カードとしての切り札としての価値を下落させるために。「気の毒であることこのうえもない」にもかかわらず。


なぜ御自分が「鬼畜」呼ばわりされているかわかっておられないようですが。オースペさんの言葉を借りるなら「この事件を政治利用しようとしてる輩への牽制」のために「少女が知らない米兵のバイクに乗ってしまったことは無念だ、といった趣旨」を示しておられるためです。それも、一目瞭然にあからさまに。政治的牽制のために被害者の「カードとしての価値」を公に毀損し下落させんとする。ゆえに、被害者の品行における不備は公に示されなければならない。対抗する政治的勢力に対する牽制のために。


「多様な言論があってこその民主主義だ。だから「反米」「反基地」の主張も、どうぞ、お好きなようにやってください」という話ではない。「多様な言論」? 本当にわかっておられないのかも知れませんが。貴方は、対抗する政治的勢力に対する牽制のために、被害者の「カードとしての価値」を毀損せんとした。毀損は公に為されなければならなかった。ゆえに全国紙産経新聞に掲載された。「この事件を政治利用しようとする輩」において、被害者を政治的なカードとしての利用価値無くするために。


花岡記事は防犯の話なんかしてないってば - good2nd


good2ndさんが示す困惑の通り。当該のコラム、文脈においてそうとしか読めない。被害者を、政治的なカードとしての価値においてしか見ない。政治闘争の具とする以外の何物でもない。そして、その政治的なカードとしての価値を、公器の紙上において毀損し、下落させんとする。「政治的なカードとしての価値」とは、被害者の被害者性。「中学3年生、14歳の少女」の「被害者」属性を毀損し、剥奪せんとすること。


たまには価値判断を示すと。「鬼畜」とは思わない、が、花岡さん、貴方の発想と行為は最悪だ。私が唾棄する質の政治主義だ。そして、掛け値なしにセカンドレイプです。

 一報を聞いたときにとっさに感じたのは、米兵が「強姦」で逮捕されたということへの疑問だ。なぜ「強姦致傷」ではないのか。


 車の中での犯行だから、手足に打撲傷などを負っていてもなんら不思議ではない。全治何日間、あるいは何週間という発表がなかったのはなぜか。まったくケガをしていなかったのか。


 それとも起訴の段階で「致傷」が加わるのか。そのあたりが素朴な疑問としてまず浮かんだ。


 少女が米兵のバイクに乗った経緯も不確実である。読売は少女が「乗せて」と頼んだと報じている。米兵が3人連れの少女に声をかけ、なぜ、被害者の少女だけ家に送るとバイクに乗せることになったのか。


 朝日によれば、米兵は「成人だと思った」と供述しているという。事件当時、少女はどういう服装をしていたのか。成人だと思ったというのが本当なら、化粧をしていたのか。


 少女たち3人は、夜の8時半に沖縄市の繁華街で、アイスクリーム店から出てきたところを米兵から声をかけられ、5分ほど会話した、という報道もある。


 米兵のやったことは言語道断で、仮に成人女性だったとしても許せないのだが、当時の状況が克明にされるにつれて、受け止め方に違うニュアンスが出てくるかもしれない。


 その詳細な続報を待ちたい。


第一に、殴打の有無と行為における合意の有無とはかかわりない。「抵抗すべきであった」とか、そのような最低にしてお花畑な規範論を示さんとしているのでないなら。「抵抗しないのは不自然」とか、私に言わせれば、これまで目を開けて生きてきたのか、というくらいのブラインドな物言いです。貴方が強調しておられる通り14歳ですが。第二に、拉致の有無と行為における合意の有無とはかかわりない。第三に、化粧と露出の有無と行為における合意の有無とはかかわりない。第四に、TPOと行為における合意の有無とはかかわりない。総じて、「当時の状況」と行為における合意の有無とはかかわりない。以上は原則論です。


「受け止め方に違うニュアンスが出てくる」ことは否定しえない。法廷の外においても。「心証」は所在するし形成される。だから「当時の状況が克明にされる」ことを求める。一期一会の男女間のフィーリングは状況と文脈に依存する。が、前提にも規定される。故あって一回りは下の未成年者とかかわっている身としては14歳に対する38歳の能天気振りは理解し難いことであるが。ゆえに「米兵は「成人だと思った」と供述しているという」。米国内における文脈も在る。公判においてそうした「当時の状況」は問われ「克明に」もされるだろう。


――で。そのことをなぜ貴方が公に詮索する? 「当時の状況」を「克明に」公知せんと望む? 「その詳細な続報を待ちたい。」? それは。「反米・反基地」勢力にとって被害者の少女は価値あるカードであり、あるいは存在における「シンボル」である、かく利用されている、と貴方が考えているからだろう。ゆえに、被害者の品行を詮索のうえ公知して「シンボル」としてある「被害者性」を毀損し剥奪し、カードとしての価値を下落させんとする。政治的に。


あるいは、それも結構なことかも知れない。私は吉田司の読者なのでわからないでもない。で、性犯罪とはその被害者とは、そしてその品行とは、貴方の問題意識の反映でも政治的なカウンターのためにあるファクツでもない。再三指摘されていることだが、また報道を職業とする者は忘れがちなことであるようだが、犯罪被害者の品行を広く公知することは公共の利益という天秤に掛けられる。よって。すでに被疑者が確保されている性犯罪被害者の品行を広く公知することには能う限り抑制的であって然るべきである。ことに被害者が未成年者であるなら。


そして。公共の利益とは、政治闘争のことではない。被害者の品行を広く公知することは、貴方の、とは言わないが、「この事件を政治利用しようとしてる輩への牽制」のための利益にしかならない、そしてそれをして貴方は公共と考えている。貴方が考えるところの「反米・反基地」勢力を牽制することが。被害者の品行が広く公知されることはやむなき。法廷の外の政治的な「心証」において、被害者の被害者性を毀損し剥奪し、「被害者」としてある価値を下落させるために。


原則論の裏面には強固な心証が貼り付いている。それは単なる、社会的ですらない、しかも性差別的な通念でしかないことが往々にしてある。ゆえにこそ法廷は公正でなければならない。そして、政治的な牽制のために法廷の外の「心証」を操作せんとする者がいる。被害者の品行を広く公知することによって。「当時の状況が克明にされるにつれて、受け止め方に違うニュアンスが出てくるかもしれない。」――と。花岡さんは法廷の話をしているのではない。繰り返すが、最悪の発想だ。質の悪い政治主義だよ。


念を押しておくと。犯罪被害者の品行を公知することは、防犯意識を公知することではない。全然違う。防犯意識は防犯意識で公知すれば宜しい。任意の、それも発覚して日も経たない犯罪を引き合いに出すことではないし、そうすべきでもない。そもそもリアルにおいて、現実の事例を引き合いに出して身近な者に防犯意識を勧めるものか。私は、強姦というのが本当にろくでもない犯罪であると知るが、仔細な話は他にしない。実態を知ってなお広く公知させようとするならその発想が私はわからない。「被害者」は、少なくとも、生きている。だろう。


犯罪被害者の品行を広く公知させることが、公共の利益に資すると考える人間が居る。規範的な問題意識において、時に政治的な動機において。それは脅しであり、威嚇だ。未成年者に対する、女性に対する、品行の選別と規範的強制だ。犯罪被害者を政治的なカードと見なす、花岡氏の認識と考え方にこそ、一切の錯誤がある。


政治的なカードとしての価値を毀損せんとするために、被害者の被害者性に対して、「被害者」属性に対して、公に疑義を差し挟む。「証拠を揃えて」。被害者とは犯罪被害とは属性ではない。人間はカードではない。人間として毀損されるだけだ。人間として毀損されるのだ。性犯罪のことを何もわかっていない。――「政治闘争の具」にするべきではない。心から同意する。私はこれでも大変控えめに言っている。