性犯罪における言説――「自覚」すべきは誰か


はてなブックマーク - http://www.asahi.com/national/update/0216/SEB200802160003.html

強姦被害から自分を守るために、少しでも意識したいこと。

これはとても不思議な現象なんだが

性犯罪の被害者がどんなに愚かでもそれに言及するのは許されませんか

http://koerarenaikabe.livedoor.biz/archives/51129051.html


結局のところ。この種の事件が報じられるたびに判で押したかのごとく繰り返される言説がある。延々と。誰も、好きこのんでこのような話題に言及したくはない。被害当事者があることだから。事件が報じられるたびに、毎度のごとく繰り返され回帰する言説がある。すなわち、言説の延々たる回帰には強固な因がある。それを問題と考えるから、こうして執拗に同じことを記すことになる。


事後における「こうしていたからこういう目に遭った」という言説の問題、ということ。所謂自己責任とは「こうしていたからこういうことになった」ということであり「こういう目に遭った」ではない。「こういう目に遭わせた」人間があることであるから。すなわち、あきらかな犯罪被害者に対して自己責任論を説くこと自体が間違っている。


道義において「こういう目に遭わせた」人間の責が全面的に問われるべきであり、「こうしていたからこういう目に遭った」という因果関係が、もし所在するなら、因果関係の構成される背景をこそ考察するべきである。「こうしていたからこういう目に遭った」という因果関係が所在することは、間違っているし、肯定されるべきでないことと私は考える。この種の因果関係とは自然に構成されるものではなく、社会的に構成されるからこそ、社会においてその構成を吟味される。「こうしていたからこういう目に遭った」という因果関係を、言説的に規定することの悪が、あるいは有害性が、ある。


「こうしていたのだからこういう目に遭って然るべきである」というのを、規範的な言説という。現実の、発覚して間もない犯罪に即して、そのような規範的な言説を示すことは、それこそ犯罪的である。そのようなことは誰も言っていない、と人は言うだろう。


被害者の行動的な不備について、公的言論において指摘されて然るべきと考える人は、そのことにいかなる意味が、意義が、あると考えているのか、私はわからない。その指摘が「こうしていたからこういう目に遭った」を含意することに気が付いているのだろうか。防犯意識の啓蒙のため、起こってはならないことが今後起こらぬよう、未来の被害者を能う限り減らすため、だろうか。未来の被害者のために現在の被害者を、そして過去の被害者を、貶めている、そのことに気が付いているのかいないのか。


発端としての、最初の増田氏の記述から。

 14歳の女の子が、見知らぬ男(米兵)について行って何もされないと思っていたのだとしたら、その無自覚さがとても不幸だ。沖縄では、去年の10月にも女性がアメリカ人(米軍基地に勤務する軍人の息子)から暴行を受ける事件(http://www.okinawatimes.co.jp/day/200710101700_04.html)があったばかり。そういった事件が身近で起きているにも関わらず、自分のような子供にはそんなことが起きるはずはないと思ってしまったんだろうか。


 私は12歳(15年くらい前)の春に生まれて初めて男の人に性的な意味を持って身体に触れられて、自分が大人の男の人からそう言う目で見られるのだと知った。強姦と言うほどひどいことをされたわけじゃない。でも、当時、実体験としては性的にまったく無知であった(性的なことのすべてはまだ自分からは遠い世界の出来事だと信じていた)私にとって、それはとてもショックな経験だった。無知でいることは、そしてこんな事態を想像できないことは罪なのだと思った。私はいまだに、そのことを親に話せていない。ただその男の人が私に道を尋ね、説明しているうちに私の着ていたパーカのジッパーを下ろし、まだろくに膨らんでもいなかった胸を触り、「時間があったら一緒に車に乗って案内してくれないかな」と言ったことだけ、鮮明に覚えている。近所の人が道を通りかかり男の人が手を引いたすきに、私は逃げ出した。その後のことは、よく覚えていない。午後から友達と遊ぶ約束をしていたはずだけれど、約束どおり遊んだのかどうかも、覚えていない。


(中略)


 自分は女で、こんなちびでまだほとんど胸も膨らんでいない貧相な肉体であってもある種の男性にとっては性的な対象となる。それを自覚し、自分の身体は自分で守らなければいけないのだと学んだ。


(中略)


 私が12歳だった頃よりもっともっと、女の子が自衛を意識しなきゃいけない時代になっていることを忘れないで。


率直に書くが。増田氏は12歳のときの自分の「無自覚さがとても不幸」だったと考えているのだろうか。追記のエントリを拝読する限り、そうらしい。それは構わない。内的真実はその人のものだから。しかし。「だから」「14歳の女の子」の「無自覚さがとても不幸」という話にはならない。増田氏が内的真実に基づいてそのように考えることは自由であるが。


男の私が思うことは。犯罪被害者が自らを責め、過去の自身の「無自覚さがとても不幸」と考える社会は間違っている、ということ。そのように犯罪被害者に、性犯罪の被害者に、考えさせてしまう現行の社会は間違っているし、その歴史的な背景を持つ間違った社会に加担する人間の、その無自覚は、あるいは性差別的な偏見は、とんでもないことでもある。


犯罪被害者の「無自覚さがとても不幸」ということになぜなるか。遺憾ながら、レイピストはざらにいる。私の知った連中にもいた。その物の考え方は私にとっては意味不明であったが。以前も書いたが「ちんこに脳を支配」というのは、自己欺瞞も甚だしい。彼らは、マウンティングに意識を規定され、社会的な虐待の効き目を知り、自らが未成年者であることを知っていた。つまり、あまりに人間的な欲望に腕力同様ちんこが使役させられていた。男根主義とは文化的社会的概念にほかならない。


性差別主義者には極めて悪質な確信犯がいてそういう人間はイリーガルにもやることの範疇と動機が違う。連中は、ということだが、言動においても行為においても極端な性差別主義者の部類ではなかった。マウンティングに腕力とちんこが使役させられていたに過ぎない。ゆえに問題の根は深い。というのは、現在は「更生」しているだろうから。異性関係において私も人のことは言えなかったが、彼らの発想はわからなかった。


私も話を耳に入れていたが。自殺未遂があった。さして知ることのない人であったが。私の知る限りにおいては、未成年者間の「顔見知り」によるレイプは多く内々に、時には被害者の胸の内においてのみ処理された。それは当たり前のことだった。「社会通念に照らして妥当なこと」ということになっていた。被害者が呑むということ。自ら復讐しうるのは、世に言われる通り、身内に不幸があったとき肩を怒らせて歩く者だけだ。大抵の近親者は、当然のことだが肩を落として悄然とすることしかできない。処理法のひとつが自殺である。その人の近親者はその人が自殺を図って初めて事実を知った。


輪姦に加わった人間に事の次第を話すと、そういうつもりではなかった、悪気はない、とのこと。宜しく言っておいてくれるよう頼む、とのこと。済んだことを蒸し返すな、という風であった。ようは腹いせであったのだから、気は済んだのだろう。そんなことばかり彼らはやっていた。親告罪である。「致傷」はなかった。


交際が派手な人で関係あった一人が不実を知り面子を潰されたと怒り仲間が同調した。思い知らせてやった、と考えているのは関係あった者だけのようだった。いずれにせよ、そのような女子においては性について何をしても減るものではないと考える者は多くゆえに分かち合うことも無問題と考えたらしい。実際それは社会において通る。以前の品行において同情の閾値は決まることを改めて確認した。


自身の徳義的頽廃に嫌気が差した私は彼らと更に距離を置いた。その手の話は他に幾らも耳に入ってきた。私は任意の異性と継続的な関係を築くということを当時しなかった。理由はわかりきっていた。


性暴力の被害者に、その後心を病む人は幾らもある。それもひとつの処理である。私が直接聞いた中に、刑事事件となった事例を知らない。警察はじめ外部機関を頼るという発想は「社会通念」の外だった。まして加害者が父兄等親族なら。つまり「犯罪」として問われることがない。「仕方がない」と本人たちが諦めている、「やむなきリスク」と捉えているようにも映った。「リスク」という言葉も知らず。被害者がその後心を病もうとも、加害者はそんなことは与り知らないし関知もしない。現在、状況は変わっているだろうか。


「女癖が悪い」ことはいきがっている男にとっては勲章である。そういう世界がある。「更生」した者は「若気の至り」としか考えないし、恥ずべき過去は振り返りたがらない。「被害者」の現在など、自らとかかわりないと思っている。そして私は思う。復讐するは我にあり、は嘘であるなと。


犯罪被害者の「無自覚さがとても不幸」というのは、事は意識の問題である、ということ。それは違う。多く男の行動において当事者双方の意識が接触する。それはあまりに非対称である。当事者双方の意識の接触とは、「被害者」においては交通事故以外の何物でもない。その非対称を事後的に統合し肯定しうる論理がある。


交通事故において蓋然性を算定することが悪いとはむろん思わない。ただし蓋然性の算定とは意識を問うことではない。「自覚」を問うことでもない。まして必然性ではない。そして、レイピストの意識とは、「被害者」の意識をも事後において自身の論理により規定する。「被害者」が「加害者」の性差別的な論理に同意するはずがないにもかかわらず、「加害者」が性差別的な自身の論理を「社会通念」として被害者の行動と意識についても公然と規定することが、甚だしい非対称を裏書する。その、「社会通念」を偽装して公的言論において流通する性差別が、レイピストの意識をも規定しているのだから、質が悪い。


レイピストの肩を持っているわけでもその意識を肯んじているわけでもない、と人は言う。なら。任意の犯罪被害において被害者に部分帰責する言説の意味とは意義とは何か。部分帰責していないのなら、被害者の行動の不備を、あまつさえ意識における不備を、公に指摘することの理由がわからない。法理に限定して話しているわけではあるまい。ソーシャルな言論であるはずだ。


被害者の「行動の不備」「意識における不備」という発想が在るとして、それに付け込みあまつさえ事後において「被害者の不備」を主張するのがレイピストである。犯罪行為の問題が被害当事者の意識の問題へと変換され部分還元され、つまりは相殺される。そのカラクリこそがセカンドレイプであり、その問題である。


被害者の「行動の不備」を指摘しそれを意識における不備に基づくものと示す。「意識における不備」という発想は、それを犯罪被害者に対して指摘することは、すでに、犯罪行為に対する事後における被害者への部分帰責以外の何物でもない。むろん。被告はその代理人は法廷においてかく主張する。「第三者」が、任意の犯罪行為に対して、被害者の「意識における不備」を公的に指摘することは、事実上、レイピストの意識と発想に加担することであり、レイピストの肩を持っていることと同じだ。それは「現実を踏まえた意見」でもなんでもない。そのことをわかってほしい。


「意識における不備」と示すとき。それはレイピストが性犯罪者が性的搾取がいまなお地上に存在することに対する「意識における不備」ということである。なぜそのような発想を搾取されてきた側が呑まねばならんのか。「呑むべきである」という話であるはずがない。現実に、地上にレイピストが性犯罪者が性的搾取が存在する。行動において現実を呑むことと、意識において現実を呑むことと、意識においてレイピストの性犯罪者の性的搾取者の意識を呑んでしまうことは、まったく違う。性差別者の意識を呑みあまつさえ内面化してしまう性暴力被害者があることを、私は遣る瀬なく思う。


性犯罪において男女は非対称である。非対称であるから搾取が成立する。そのことに「無自覚」な者があり、確信犯の搾取者がある。後者については言うまでもないが、前者についても「とても不幸」であるはずはなく、同様に犯罪的である。公的に為される社会的かつ言説的な搾取を、セカンドレイプという。


下部構造において上部構造が規定される、と示した偉い人がいた。少なくとも、社会において性的搾取構造がある限り、個々人の意識もまたそれに規定されうるのだろう。むろん、そうでない人もあるだろう。社会におけるセカンドレイプの悪とは、流通する言説の悪とは、言説が個々人の意識を支配しうることの悪である。「仕方がない」という諦念として「やむなきリスク」という絶望として。性犯罪が報じられるたびに防犯意識を社会的に啓蒙すべきと主張する人に、以上のようなことを考えている人が、どれほどあるだろうか。


このことについて。「基地」「沖縄」という事情が絡むために、右も左も声高に騒ぎすぎる、という見解を、愛読しリスペクトする幾人かのブログ主氏が示している。花岡記事はその最悪の「燃料」であったと。一連の事態が、被害者のためになるものだろうか、と。


容疑者が強姦の容疑について否定している、と報じられていることは、むろん知っている。容疑者に対してわずかでも同情的な意見が見られないことについて指摘する人がいた。米軍人である、そして被害者は同国人である、ということが関係するのだろうか、と。「容疑者」に対する配慮の不要が前提としてあるかのようだ、と。批判でも反論でもなく、その人の指摘に対して私の見解をここで述べるなら。


被害者は14歳である。容疑者は38歳である。容疑者は被害者を「押し倒した」そして「車内で抱きついたり、わいせつな行為を迫ったりした」ことは認めている、と報じられている。「同情」というなら。私はそういう問題ではないと考えているので、実のところ被害少女にも「同情」しているわけではないが。私は、米軍人であることを理由に、14歳を押し倒した38歳の男を同情の余地なしとしているのではない。好色な男に、性的/身体的搾取という概念のない、すなわち「無自覚」な男は、あるいは確信犯は、少なくない。好色でなかろうとも。14歳の女と38歳の男において、搾取性が介在しないという認識を私は持たないし認めないので、無自覚だったのであれ同情の余地はない。


児童性愛者が本心か否か時に口にすることがある。性的搾取などないと。性において年齢はかかわりなくフェアでフィフティ・フィフティであると。ピューリタンでも「子ども」礼賛論者でもない私は、他人のことを言える身でもないので、性愛に欲望に貴賎も上下もないと考える、が、搾取性が介在しないという見解については採らないし認めない。


故あって17歳と私的に付き合いがある、ということについて、何の間違いか私のブログを読んだ友人が、彼女か? と訊く。いや、と応えると、プラトニックなのか、と訊く。――ま。『人のセックスを笑うな』の小説家と映画作家の作品世界と同様に、相互的かつ言語的に確認し合う関係性というのが私は苦手で、つまり絵に描いたような個人主義者なのだが、そういうことの以前に、そして淫行条例やプライベートな事情の以前に、接する限り勝手に保護者目線にならないか常考、というのが訊かれて思った私の感想である。


自らが17歳の頃を省みるに、そして17歳の頃にかかわりあった同年代の「少女」たちを省みるに、みな性的に混乱していた。そのことに付け込んで、経済的にならまだしも性的/身体的に搾取する連中がいた。同年代の「ちんこに脳を支配された」と称する男たちにも、そしていいトシこいた男たちにも。私は宮台真司のかつての援交言説を基本的には信用していない。


つまりは、目の前の17歳に己の過去の記憶と風景と実感を一方的に見てしまう。私的な事情以外の何物でもないかも知れずまた当人にとっては傍迷惑以外の何物でもないだろうが、そのことについて割り切ることは難しい。それは枯れて長いおまえが青春の回春剤を欲しているということだ、と宣うた奴がいたが。一方的な目線と思い込みではあることはむろん知っている。仮に容疑者が、異国の地で「羽を伸ばそう」としたのなら、同情の余地とかそういうレベルではない。


私に子はないしその予定もない、が。誰しもかつて子供であった。あるいは、性的搾取の対象としての。その残酷に対して、私は私なりに考えることがある。その年齢と直接にかかわるなら、考えて然るべきことではあるだろう。そういう回路なく14歳を押し倒している38歳には、同情の余地はないと私は思う。


「結局、運でしかないのだと思う。」と記した人があった。そうしたことを、言わなければならない。外形的な行動や状況において犯罪被害者に条件を付する、そのような場は法廷で十分である。そして、条件を付している「第三者」は何に拠って立って条件付しているか。「社会通念」だろうか。あるいは自身の経験か実感か。社会的な条件付が価値の規定を意味し結果することは自明であるがそのことをわかっているか。冬山登山を引き合いに出す人間を見かけて私は頭が痛い。そして「第三者」はなぜ性犯罪被害者の外形的な行動から「意識」に及んで条件を付するか、それも、大手新聞出版メディアのレベルにおいて。


そもそも論で言うなら、性犯罪者の意識と発想を内面化しない限りはそのような言説は示しえない。「シミュレーション」であれ。我々は誰しも性犯罪者予備軍である、と言うならその通りかも知らんが。そして。性犯罪の悪質性とは、犯罪行為を通じて、結果的にも性犯罪者自身の意識と発想を、ネガとして被害者に植え付けかねない点にある。だからこそ。「結局、運でしかない」と示されなければならない。


性犯罪者の意識と発想に拠って立ち性犯罪に処することは、勝ち負けで示すなら負けであり、社会において今後性犯罪と対峙するにも、未来の被害者を能う限り減らすにも、おぼつかない。防犯意識の啓蒙において、性犯罪者の意識と発想に拠って立つことは、一般論としてはあるいは意味があることかも知れないが、結局は運である。結局は運であるとき、そしてそのことは事実であるがゆえに、外形的な行動や状況において、ひいては「意識」において、犯罪被害者に条件を付することは、意味と意義と妥当性を欠く。セカンドレイプ的な言説において示される「社会通念」とは、単にレイピストの通念でしかないことが多々ある。防犯意識の啓蒙を主張するとき、規範が別であると示すなら、先ずそのことを知り、省みたほうがよい。「社会通念」とは規範を含む。その規範が性差別を含むなら、それはレイピストの通念である。