メモ


人間関係のトラブル。それが暴力沙汰に及んだとして、未遂段階において、私はそのことをブログに書くだろうかと自問して解は自明だった。少なくとも、渦中において書くはずがない。「私なら」ということ。意識の問題でなく、書いたところでトラブルの解決には役立たないことを知るから。相手が「私」に対して憎悪を抱いているならなおのこと。私が人間関係において「ネット」と「リアル」を分けているからだろう。私は、ネットにおいてコミュニケーションとはコンセプチュアルなものと捉える。


未遂であれ暴力沙汰は、ことにそれがネットを因とするものなら、公知されるべき。考えはわかる。公知の事後において批判されたのは言行不一致について。対するに、自身の言論に行動が伴わぬことは措き自身の示した言論について正当であることは変わらない、とは言いうる。言論に行動が伴わぬとき言論もまた正否は措き意味がない、とも言いうる。


言論と行動を一致させうるか。それは倫理の問題。行動の一致しない言論を無意味にして無責任と考える立場があり、ゆえにこそ言論に行動を一致させるべき、言論が正当であることについて同意しうるなら、と考える立場がある。未遂であれネットにおける言動を因とする暴力沙汰を許容しない、ということについて同意するなら。許容しうるという言論を示した者についても同様に対応するべきと。


が。許容しうるという言論を示した人は自身の言論については正当であるとする。そして。許容しうるという言論については同意しない立場から、許容しうるとした人に対する批判に対して問う。許容しえないということについて同意するなら、まず「許容しえない」ことにおいて、この未遂であれ公知された暴力沙汰に対して、反応するべきと。許容しうるという言論を示しそれを正当とする人の言論を問うこととは別に、「許容しえない」ことにおいて、許容しうるという言論を示した人に対する暴力沙汰もまた許容するべきではないと。


公知するべき、とは一律には言えない。ただ。ブックマークコメントにおける剣呑な言動が発端であった以上、憎悪を示していた人において詳らかにされることが本意でなかった、とは言えない。許容しうるという言論を示しそれを正当とする人の言動を問う立場があり、許容しえないなら許容すべきでないことについて反応すべきとする立場がある。そして。許容すべきでなくともその点において公知する必要があったか、公知する限りは留意すべきことがある、という議論がある。