テロルの論理と市民社会の原理

 中国人監督が撮ったドキュメンタリー映画靖国」をめぐり、公開日の4月12日からの上映を決めていた映画館5館すべてが、31日までに上映中止を決めた。すでに1館が3月中旬に中止を決めていたが、残り4館も追随したかたちだ。
 いずれもトラブルや嫌がらせなどを警戒しての判断という。5月以降の上映をほぼ決めていた別の数館は、日程や上映の可否も含めて配給側と協議を続けている。
 映画は4月12日から都内4館、大阪1館での上映が、配給・宣伝を担当するアルゴ・ピクチャーズと映画館側との間で決まっていた。
 今回中止を決めた銀座シネパトス(東京都中央区)を経営するヒューマックスシネマによると、3月20日過ぎから街宣車などの抗議を受けたことなどから、27日にアルゴに「降りたい」と伝えた。「お客さんや近隣の店への迷惑もあり、自主的に判断した」という。
 また、Q―AXシネマ(同渋谷区)も31日、「お客様に万が一のことがあってはならない」と判断。シネマート六本木(同港区)とシネマート心斎橋大阪市中央区)を経営するエスピーオーも「他の映画館が中止すると、こちらに嫌がらせが来るのではないか」と、ひとまず中止にした。この3館については、これまで嫌がらせや抗議などはなかったという。
 これより先に新宿バルト9(東京都新宿区)が中止を決め、15日にアルゴ側に申し入れていた。
 この映画をめぐっては、公的助成金が出ていることを疑問視した自民党稲田朋美衆院議員側が文化庁に問い合わせたのをきっかけに、国会議員向けの異例の試写会が3月12日に開かれた。

http://www.asahi.com/national/update/0331/TKY200803310328.html


佐藤藍子メソッドを使用させていただくと、新宿バルト9が中止した時点で、厭な予感がしてはいた。かくて自粛のドミノへと至る。むろん配給会社と映画館の間の問題に過ぎません、表現の自由とか関係ない市場主義下の民民問題ですよ、ええ。笑えないジョークは措き、新宿バルト9は言うまでもなく、銀座シネパトスの現在の経営母体もまた、基本的には新興に属する。残る都内の2館は、いまだ知名度の一定しないがゆえに定期的な顧客を獲得するべく各種サービスにも力を入れている。以前記した韓国映画『ユゴ』を上映したのがシネマート六本木だ。スーツ割引というサービスを実施していて、御陰で知らず立ち寄った私は割引で観られた。あのような、必ずしも客が入るかもわからない「問題作」を上映してくれた。面白かった。


映画館は多く複合商業施設の中に所在する。現行において「安全運転」が最優先されること致し方なしと各館の責任者が判断したことはやむをえないと、一利用者として私は判断せざるをえない。新規の映画館が生き残らんとすることを私は肯定するし、潰れてほしくはない。「映画人の矜持」をビジネスマンに求むるべくもない。そもそも、矜持の問題ではない。


映画館の「ヘタレ」振りを批判する発言を目にした。流石に酷とは思う。その点はプリンスの件とは異なる。あのようなワケありの大企業とは。以前記した通りに、思想的であることとは痩せ我慢をすることであるが、当該映画館の責任者は思想的ではなかったしビジネスマンであったのだろう。責められるべきことだろうか。映画にかかわりその上映を事業とする、表現の自由にコミットするべき社会的な立場にある個人として。


老舗ないし「札付き」の映画館なら違ったろう。今回のような事態とその蓋然に対する認識も経験則もノウハウもあっただろう、ということ。東中野のあそこなら断固やっただろうな、とは思う。そうならなかったこと、すなわち「特色ある映画」を掛ける(こう言っては悪いがニッチな)小屋でなく当初新宿バルト9等都内4館で(ドキュメンタリー映画としては大規模に)上映される予定であったことがその「公的な事業性」のゆえかも知れないなら、今回の結果も含めて、皮肉なことではある。


右翼団体の街宣活動は威力業務妨害に該当しうるか、むろんこのケースにおいて実施されたなら該当するが、またこのケースにおいて警察は要請すれば全面的に対応するだろうが、事はそういう問題ではない。映画館、ということは、新宿銀座六本木渋谷、いずれも繁華街の中心近くである。言うまでもなく右翼は世間や市民社会の空気など読まない。にもかかわらず、世間へと市民社会へと及びその前提を脅かさんとする空気を醸成しようとする、時に故意に、確信犯として。当該映画館にとっては、上映期間限りのことではない、今後に亘って商売の死活問題となるだろう。あまつさえ「目を付けられる」ことになる。けしからん映画を上映するような映画館であると。むろん坊主と袈裟は一体である。


市民社会においては嫌がらせにしか見えない「継続的な抗議活動」というのは、残念ながら、ある。事は街宣等の公然における示威行動にむろん尽きるものではない。かつて、韓国の元慰安婦を扱ったドキュメンタリー映画『ナヌムの家』の上映館(確か東中野のあそこであった)における上映中のスクリーン切り裂き事件というのがあった。そのような人物が客として来場し何かをやらかすか。大挙したなら。切り裂かれるのがスクリーンならまだしも。他の客に怪我人があったら。映画館のスタッフやバイトに政治的な議論をふっかけるあるいはクレームを付けて絡んできたら。


単なる迷惑客と政治絡みの招かれざる客は違う、後者の確信犯に対応する技量と論理と経験則を持ち合わせる人は、日本の通常の客商売には必ずしも多くない。営業マンは政治と野球の話をしてはいけない。映画館は「通常の」客商売ではないのだが、おそらくは中止した4館ないしその経営母体は共にこのような事態の蓋然を認識すらしていなかったのだろう。あるいは検討が浅かった。必ずしも事前に入館拒否しえない以上トラブルの蓋然は無数だ。「公共的な」客商売やっている以上抗議電話は掛け放題。「そのような映画を上映することが公共的な商売として妥当か、御説明いただきたい、そして、考えていただきたい」。


「公共性」概念ほど政治主義者によってフリーライドし放題の概念はないな。改めて思う。市民社会のリソースの毀損どころか簒奪もよいところであるが。市場至上主義の当然の帰結、と正しく指摘した人があった。市場至上主義に与する日本のビジネスマンもまた政治的にタフたらねばならない、のだろう。来たるべき、いやとうに訪れている、政治的な時代にあっては。


記したような事態に対して、人間に対して、その論理に対して、対応しうる「筋金入りの」スタッフが当該4館にあったか。ましてアルバイトであるなら。そしてひとたび大事起こったなら客商売としては。「特色ある映画」に特化して上映しているわけではない。市場至上主義の帰結。


館内にも警察官を配置すればよい、かも知れない。あるいは来館者に念書を取ればよい。そのような厳戒態勢の映画館に念書書いてまでわざわざ靖国神社の映画を観に行くのは私のような酔狂者くらいであるとは思うが。ペイしうるだろうか。リスクとリターンは。明白な蓋然あったとき「責任が取りきれない」ことを理由にストップすることは、「市場至上主義社会」においてはやむをえないし、思想的ではなかろうが、日本の非政治的なビジネスマンとしては残念ながら妥当な対応だ。「責任が取りきれないことであるかなどわからない」というのはあまりにお花畑である。それは実存的投企の領域にある発想だ。


それでもボクはやってない』を最初に観たとき、じつのところ、私がもっとも鮮烈に覚えた感慨は。冒頭のめくるめく「衝撃的な」シーンに対して、普通の日本人はこういう世界があることを知らないし我が事とならない限り関知はおろか認知すらしていないのか、ということだった。加瀬亮演じる主人公は、誤認逮捕されて「我が事」とならない限り、代用監獄や取調室はじめ日本の捜査手法に発する痴漢(に限ることない)冤罪問題のことを、知りもせず認知すらしなかっただろう。「別の世界」のことであると。


彼が留置場や連行時に接触する「別の世界」の人間たちは、なるほどその世界に慣れ切っていて、担当する警察官とも意思疎通に易く、その一切に、これまで「別の世界」と無縁で来た主人公は戸惑いショックを受け続ける。むろん「別の世界」であるはずはないのだが。「私たちの社会」のことであるにもかかわらず、逮捕されてみない限り不可視な世界というものもあるのだろう。堅牢な社会のひとつの達成ではある。


プリンスホテルの一件のときも記したことであるが、右翼というのは原理において行動主義であるし、人や団体によるとはいえ、話が通じないということではむろんないが、話が通じない一線は、右翼である限り、確実に存在する。その一線において彼らは「身体を張る」ことを担保している。市民社会と相容れることなく市民社会を否定するからこそ、痩せ我慢をすることにおいて正しく思想的たる右翼なのであるし、「表現の自由」についても、一線においては問題ともならないのが彼らだ。


むろん、周知の通り、痩せ我慢をしない、思想的でない右翼もまた幾らもあって、はっきり言ってそれはこうした「表現の自由」絡みのケースにおいてはさして危惧すべきではない。危惧すべきは、痩せ我慢をすることにおいて正しく思想的たる、確信犯だ。右翼による確信犯的なテロルは、幾度も繰り返されてきた。その気脈は絶えたわけではむろんない。危惧してしすぎることはない。


そして。彼らのそのような、市民社会を関知することなく、あるいは市民社会の惰眠を覚醒させるべく牙を突き立て、表現の自由すら自身の一線においては退ける、テロルが包摂する論理と相対し対峙するだけの論理を思想を、市場主義社会を生きる私たち日本の尋常な社会人は、個々人として一個人として、持ち合わせているか、あるいは映画を商売とするなら。犯罪行為は警察に逮捕され処罰されます、などということは、テロルの論理においては、カラスは黒いと言挙げているに過ぎない。黒いカラスを白くすることを信じそれに賭けるのが市民社会を否定するテロルであるからして。


私は音楽さして聴かないのでよくテレビを点けっ放しにしている。ドキュメンタリー映画靖国』については、一件持ち上がって以来、NEWS23が幾度も特集していた。稲田朋美氏にも密着していたが。どうでもよいが、当の映画を政治的に偏っている偏っていると連呼していた稲田朋美という人は本当に自分が偏っていないと思っているらしい。自身の健全なバランス感覚のセンサーが当の映画を偏っていると判断するらしい。また「監督が日本人でないから」。つくづく発想が新しい。たぶん本当に悪意がない人なのだろう。自身の行動の結果についても。かくて「公共」という言葉は概念は本日もタダ乗りされ簒奪され政治的な取引の材料に使われるのでした。「中立」も同じく。


映画の予告や内容の断片や監督の声明も幾度も流されていたので知ってはいたが、率直なところ、懸念していた。試写を観て記された真魚八重子氏の記事を拝見して、懸念はいっそう深まった。懸念とは、現在のような事態に対する懸念である。念の為に記しておくとむろん私は未見である。私はどちらかというとすれっからしであるが、観たいと思っている。


2008-03-18

上述の通り、保守派にも、靖国神社に否定的な人々にも、イマドキのドキュメンタリストらしい好奇心での目線があって、ここでは靖国神社を賛美も否定もしていない印象を受けます。たとえば国歌斉唱にTシャツ姿の若者がテロッぽく邪魔立てに入るも、強面な雰囲気を読んで微妙に怯えた顔になり、「おまえ中国人だろ!中国人だろ!中国人だろ!」とひたすら叫ぶ保守派の中年男性に気圧されて、無言で境内から押し出されてしまう姿。ここでは単純にカメラの心情の偏向を読み取れない、非常に思想的な力関係が錯綜しています。この映画に言うとすれば、日本人のそれぞれに偏向するイデオロギーを持った人々の「殺気立った姿」を、映画監督のただの野心から海外に晒されたら迷惑だなというのはあるけど、でも「ある特殊な磁場」に集まる人々を写した映画という了承があるのならば、「中国人が靖国を映画化する」ということ自体が癪に障るというイデオロギーの人以外、ここには左右の関係ないケオティックな状況しか見出せないと思う。


おそらくはこの記述に即して、nesskoさんが記しておられる。


映画『靖国』上映中止続出 - 一人でお茶を

一部政治団体が上映中止を働きかけているとのことだが。
私は予告編や宣伝から、この映画からモンドな匂いを嗅ぎ取っている。だから、政治団体がこうまでこの映画に反発するのが似合っていない振る舞いに見えてしかたがない。
モンドなんて言われるのに抵抗があるんだよ、というならこう言い換えてもいい。
これは靖国版『ウッドストック』なのではないだろうか?


(中略)


ウヨはこれ、観たくないのかね?


8月15日の靖国のことは私はよく知っているし、私ですら知っているのだから「ウヨ」はもっと知っているだろう。率直に言って8月15日の靖国神社の喧騒をいかなる批評的意図すらなく「映画監督としての野心」において「左右の関係ないケオティックな状況」を見出すためだけの「素材」として撮影して劇場公開されたところで「ウヨ」は観に行くはずがない。現場で見てきたものを批評性もなく編集して「素材」として羅列して提供されてもね。私もそれだけの映画なら映画館まで足を運ばない(むろん、そうではないと思っている)。言うまでもなく、監督の撮影者の国籍にかかわらず。「ウヨ」でない人にとっては知らない。


「モンドな匂い」も『ウッドストック』も結構ではあるし(というか私はその手の映画は好きだ)、そんなことは私に限らず8月15日の靖国を知る人はみな知っている。ただ。nesskoさんの記事を拝見して、むろん反論ということではまったくないが、右翼、と言わずとも、靖国に思い入れる人の論理というのは了解され難いものであるか、あるいは当然のことではあるけれども、とは思った。私は靖国信仰を持たないが。


繰り返すが監督の国籍は関係ない。監督が日本人なら観たくなるか「了承」するか。あるいは「反日的」でないなら8月15日の靖国を取り上げたドキュメンタリー映画を「許容」するか。それは「ウヨ」を誤解している。「支那人」(ということは大陸人ということだろう)の日本からの排除を掲げて活動している「市民団体」のことは知らないが。「民族」概念に拠る日本の右翼は原理において血統至上主義でも国籍至上主義でもない。共同性の問題である。


いまなお。天皇靖国は一部の日本右翼の逆鱗となりうる。敗戦の数百万の死者から出発したのは戦後左翼だけではない。「彼らのため」に「身体を張る」ことを厭わない者はある。それは一線の問題であるからして、市民社会の原理とか表現の自由とか戦後憲法とか知ったことではない。それが実存的投企に偽装した自己満足の問題に過ぎなかろうと。1回の「身体を張った」テロルは市場至上主義に規定された市民社会に対してはきわめて効果的なリザルトとしてある。


ソクーロフの『太陽』はOKでなぜこちらが駄目か、著名なロシア人と無名の中国人に対する扱いの差か、と問うなら、そうではない。著名無名とか国籍とか関係ない。ただしソクーロフだから、ということはあったろう。すなわち、ソクーロフには天皇を取り上げるだけの論理と思想と批評意識と見識が存在し、その決定的に「外的」な論理と政治的かつ審美的な問題意識はその「不敬」な内容にもかかわらず、一線の手前において話を通じさせもした。ロシアの知識人ソクーロフの、日本国内のコンテクストとは離れた政治的かつ審美的な問題意識と見識には、それだけのものがありはした。


「映画」に対するリテラシーとは一義に関係がない。それを政治主義者たる右翼に求めても栓ない。「素材」とそれに対する政治的かつ審美的な見識の問題であるからして。一般論と断って、もう少し書くと。「現人神」としての天皇を否定する類の表現は基本的に問題ではない、ただし、ひとりの人間としての天皇や皇族を無見識に揶揄し「中傷」する類の表現に対しては。逆鱗に触れうる。残念ながら、歴史が証してもいる。


私は李纓監督の言葉を幾度も目にし耳にしている。ネガティブな印象のあるはずもなく「反日的」などとはまったく思わないが(そして「反日的」であるか否かは一義に問題ではない)、しかし、日本とその政治状況と戦前戦後のコンテクストに対して幾許か不案内なまま「外的」かつ迎合的な言葉と論理を並べるなら、それは一線の問題に対しては響かない。愛しているから愛が受け入れられるわけではないと「日本」を体現している(つもりの)者たちは考える。そして言うまでもなく、「日本」を背負うのではなく体現している(つもりの)者たちはその日本が国際的な文脈において相対化されることを歓迎しない。愛国と尊皇の相違というか。


未見であるからして仮に、ということであるが。政治的かつ歴史的な見識に裏打ちされた批評意識なきまま、議論喚起の意思すらなく、極端に言うなら文化人類学的/民俗学的な視線から8月15日の靖国神社の、「ウヨ」においては周知されている「モンドな匂い」に満ちた「ケオティックな状況」としての『ウッドストック』を、あの「ドメスティック」としか言いようがない喧騒を、「左右の関係ない」ままに「素材」として撮影して文脈の「翻訳意思」なきまま「ドキュメンタリー映画」としてあたかも「世界残酷物語」のごとく世界に紹介されることは、それは頼みます本当に勘弁してください、と私は率直に思った。私ですら思ったのだから、もっとはるかに率直に思うところある人もあるだろう。


むろん宗教法人靖国神社は日本国ではないしその信仰はナショナリズムでも愛国でもない。戦後憲法に規定された日本国においては。にもかかわらず、というところに問題の一切は存する。ファナティックな人は、国際言語における「原理主義者」は、我が国にも幾らもある。見聞を聞く限り、また予告編等を目にする限り、監督の一連の発言を目にしてなお、逆鱗に触れうる類かも知れないとは、私は思った。繰り返すが、監督の国籍の問題ではない。アメリカ人だろうとフランス人だろうとドイツ人だろうと同じことになったろう。


以上、今回の件に対する私の認識。そして、以下に、個人的意見を記しておく。プリンスホテルのときと同じことになるが、今回はアイロニーも抜きで、はるかに強く書かねばならないだろう。


言うまでもなく。「だから」撮るべきではないとも映画を製作するべきではないとも公開するべきではないとも世界に紹介されるべきではないとも、言ってはならないし、考えてもならないし、行動に起こすべきでもない。そのようなことが具体化するなら、絶対に許されないことである。結局は「許さない」主体が問われるのであるが。


8月15日の靖国を一線の問題とする人はあるだろう。おそらくは多く。文化人類学的視線や民俗学的視線の対象として、まして「世界残酷物語」のごときモンドとして「素材」を国際的に「消費」されることなどとんでもない。そう考える人があることもわかる(むろん、右翼の原理的帰結としての「ドメスティック」性にこそ問題が所在することもまた確か。対して批判的に乗り越えようとしてきたのが福田和也の言論活動であった)が、「だから」上映するに難しくしてしまうことは、間違い以外の何物でもない。そのことこそが目的であったとしても。市民社会の原理や表現の自由の以前に、自身の賭けるべきものを辱める行為だ。寛容とは市民社会の美徳である、が、度量とは賭けるべきものに対する美徳であり、その証明だ。「自重」を求めるべくもないが、堪えるべきだった。


一部の者の「敢えてする空気を読まない行為」が法にも制度にも社会にも拠ることない暗黙の空気を醸成すること。空気を醸成することを目的としてその行為が為されるなら、それは「卑劣」と形容されるにふさわしい発想であり、それこそ市民社会の原理に対する否定とその前提的基盤に対する挑戦たるテロルの論理だ。テロルの論理のおそるべきは、個人の実存的投企が現実のリザルトとして社会的に機能するため。覿面に効果的に。そのことを確信犯はよく知っている。個々人の「社会的行為」たる実存的投企のリザルトが総体において社会における抑圧のコンボを形成し、かくて信用に支えられ市場に規定された社会においては自粛のドミノが一挙に倒れる。


この自動的な作動を掣肘する安全弁は、現在の日本社会には、残念ながら存在し難い。かくて1回のテロルがその予告が社会において絶大な効果を挙げうる。そのことを知ってなお、封殺と沈黙という目的達成のために手をこまねいている者がどこにいるだろう? 「卑劣」などということは、実存的投企においては知ったことではない。市民社会の原理を否定しその前提的基盤を逆手に取るテロルとはそういうもの。確かに、市民社会は惰眠をむさぼっているかも知れない、そのツケがこのように回るのだろう、覚醒した市民社会が試されもするのだろう。


稲田朋美氏は天然とは思うが、彼女たちが結果的にも事を事前に周知させたことによって、確信犯を煽り火を付けた、ということは十二分に言いうる。当たり前だが国会議員は市民社会の原理を表現の自由を踏まえてください。社会と実存は違います。正しい社会的な責任を果たしていただきたい。


冗談と断るが。以上記してきたような「原理主義者」の論理と行動主義と応対し対峙しうる思想とキンタマと度量と経験則を持ち合わせた仕掛人なりプロデューサーが、火中の栗を引き受けてくれないものか、とは思う。猪木vsアリ戦を実現しオリバーくんを日本に招聘しネッシー捜索隊を組織したあの方が一肌脱いでくれないかしらと言ってみるテスト。「モンドな匂い」にふさわしく。


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