補遺(「イデオロギーにとらわれない歴史認識」の陥穽)


ある「不可知論者」にとっての「神学」 - 地を這う難破船

gerling 2008/03/31 19:01


http://d.hatena.ne.jp/kanose/20071016/hosokinkarasawa


だそうなんだけれども、いやよく知らないんだけれども。
ガス室がなかったうんぬんはいうのは、特定の事実に肩入れしてるんじゃないの?いやあなたの文章はめんどくさくて、いちいち読んでいないんだけれども。


NakanishiB 2008/04/01 04:53


 どうも、お久しぶりですブクマのことを取り上げるのは良くないのですが、gerlingさんも取り上げているのでついでに、彼が「ファクト」に関して実はこだわっているのではないかということについてです。彼がそれを自分で自覚できないとしてもこだわっているのは事実でしょう。彼が自分のメタ的な位置取りを自然だと思う背景があり、それが何か「神学論争」という言葉の出所から考えてもsk-44さんもわかっているではないでしょうか?。私の言葉ではっきりといえば、「サブカル文脈」を包摂する「普通の日本人」というものです。だとすれば「歴史学」や「事実」や「普遍」に対するメタ的な関心と、「ファクト」に関する関心は現実には重なってしまう。この問題についてはsk-44さんが私より語りづらい立場にいることはわかります(最後の節でその立場から語っているのはわかりますが)。しかし、彼が個人としては特異でもやはり一般の現象と繋がるような背景があることはもうすこし明快にしたほうがいいと思います。私見ですが、社会科学無視と社会科学万歳とは同じ背景の下にありますし。かなり余計なコメントでしたが。では。


gerlingさん、NakanishiBさん、おひさしぶりです。


gerlingさんが示してくださった記事は、むろん当時目を通していますし、暗黙に「周知」されていることではあるでしょう。基本的に当該記事は『すこししらべて書く日記』の「愛・蔵太」さんの話です。御本人の明確な意思表示ある以上現在の「ネットのマナー」に拠るべきと私は考えるので。「愛・蔵太」さんの「中の人」の本意や問題関心については関知しません、が。が、というのは、この「愛・蔵太」さんの自己規定とその再三の明示が本件へと至る問題の本丸ではあるから。


「言っていないことを読み取りかつそれを明示する」べきでは基本的にはないと私は考えますが、「愛・蔵太」さんは「言っていること『のみ』を読み取りかつそれをメタ的な価値判断を付して並列的に紹介する」ことを他に対して行い続けている。文脈的判断なきままに。文脈的判断なきがゆえにこそ事実命題に対する半永久的な留保が可能であり、学知をその「イデオロギー性」をもって却下しうる。「近現代史とはイデオロギーである」と考えておられるのでしょう。実際のところは、言うまでもなく多くの近現代史研究者は資料の博捜において一義に「イデオロギー」どころではないのですが。そもそも、直接の倫理的な議論とは線を引いています。


イデオロギーにとらわれない歴史認識」という御題目のひとつの陥穽ではあるでしょう。愛・蔵太さんが自身の行為の結果に対する故意犯/確信犯であるか、という、「愛・蔵太」名義における一連の言行に鑑みてもきわめて妥当な疑義に対しては、私は次のように考えています。


愛・蔵太さんが「イデオロギーにとらわれない歴史認識」という教条にコミットしその結果として任意の「テキスト」としての「ファクト」をファクトとして留保し続けひいては否認して結果歴史修正主義に加担している。それは違いない。その「取り上げるテキスト」の任意性に対して愛・蔵太さんは「ネタとして面白い人がいる」か否か、すなわち自身の端的な興味を引いたか否か、が自身の「主体的決定」における唯一の条件である、と再三明言しておられる。方便ないし強弁と見なしうるか。私は、結局のところ愛・蔵太さんの「信念」の問題に帰着すると考えます。さもなくばかくも頑迷になることの意味がわからない。


愛・蔵太さんは徹頭徹尾肯定性ではなく否定性において「テキスト」としての「ファクト」を語る。御本人はポストモダン的な言説批判と考えておられるかも知れないけれども、史学的な事実関係に対してこれをやるのは、既に無数の指摘がある通り犯罪的です。「不可知論」の立場に立ち否定性において「テキスト」としての「ファクト」を片端から留保しあまつさえイデオロギー的な言説の問題として処理するなら、史学ひいては社会科学にコミットする人が激怒して当然です。


否定性において「テキスト」としての「ファクト」を片端から留保する、括弧付きですよ、と「だけ」示し続ける、括弧を構成するのがイデオロギー、と言説批判であるかのごとく示す。そして。自身が否定性において「テキスト」としての「ファクト」を片端から留保するその任意性について「主体的決定」を問われたなら、「ネタとして面白い」からと、自身の「非イデオロギー的な」端的な興味の問題であると、言明し続ける。すなわち「主体的決定」に対してすら、その倫理性については言うまでもなく、愛・蔵太さんは否定性を発動する。以上が、愛・蔵太さんの一連の言行の問題性。結果において擁護の余地はない。


かかる愛・蔵太さんの「主体的決定」とその倫理性に関する言明が、否定性の発動が、「嘯く」「強弁」の類であるか、すなわち行為の結果に対する故意犯/確信犯であるか、と問うなら、私自身は、愛・蔵太さんは決定的かつ根本的に否定性の人、と考えている。徹頭徹尾ポストモダニズムの時代の人と考えている。それをしてシニシズムの問題と言うのですが。「左派的な文脈においては」と限定を付するべきか。


gerlingさんの示してくださった記事に即して言うなら、西岡昌紀氏は、決して強烈な反ユダヤ主義者ではない。西岡氏自身は。西岡氏は「イデオロギーにとらわれない歴史認識」の深い陥穽に落ちた人であって、そうであったに過ぎなかった、言行の結果における犯罪性にもかかわらず。ゆえにこそ問題、ということがある。かくも極端な事例でなくとも「イデオロギーにとらわれない歴史認識」を「教科書が教えない歴史」と言い換えた本が売れに売れた時代がありました。すなわち、90年代初頭における西岡氏のごとき「極端な事例」が、広範に一般化したのが90年代後半という時代であった、とは言いうる。ポストモダニズムが決定的にシニシズムへと変容したのも。


NakanishiBさんの示唆に従って端的に記すなら、左派における普遍性の僭称とは限定的な神学に過ぎないと喝破したのが花田吉本論争以来の吉本隆明である、そう指摘したのが80年代後半における呉智英でした。花田吉本論争に遡る問題設定はいまなお生きている、それが私の認識です。そして、その構造が一般化し「浸透拡散」したがゆえに愛・蔵太さんの一貫した自己規定が広範な支持を受ける、ということではあるでしょう。愛・蔵太さんの「イデオロギー批判」に基づく左派批判が。言うまでもなく愛・蔵太さんは左派をことあるごとに批判的に揶揄していますが、それは、神学が普遍性を僭称することへの異議と反撥としてあるでしょう。右派は、あるいは新左翼は、原理的にも普遍概念に拠りません、が、神学の分際であたかも普遍性を僭称するかのごとき右派に対しては、愛・蔵太さんは批判的であり揶揄もするのでしょう。普遍概念それ自体に対して愛・蔵太さんは否定的なので。


(そういうものがあるとして)普遍性を僭称する「イデオロギー的な」史学への批判意識に基づいて「教科書が教えない歴史」へとコミットすることの一般化という90年代後半のミクロな歴史の帰結が、現在に及んでいるということではあるでしょう。「「サブカル文脈」を包摂する「普通の日本人」」が現れる、ということではある(おそらくはこの点の状況認識において私とNakanishiBさんは一致しうるのでしょう)。


私の記事が、自身の示した「分析」に対する価値判断において曖昧であるかのごとく映るのは。私は。僭越な言い方をするなら、愛・蔵太さんの「気持ちはわかる」からです。シンパシーを覚えていると言ってもよい。敬意も変わらない。ただし、愛・蔵太さんは自身の拠って立つ基盤に対する批判的な視座があまりにない。外的な批判の一切はその「イデオロギー性」を唯一の理由/口実に却下する。自身の拠って立つ知的/思想的基盤に対してこそもっとも批判的であれ。私はそう考えます。他人の「イデオロギー性」を揶揄しているよりは。


所謂「イデオロギー・フリー」とその一般化の根深い問題ではあって、しかし愛・蔵太さんのような人が「イデオロギー・フリー」など信じているはずがない、とは私も十二分に思いはします、が。御本人がかく見なしてほしいと明示するなら、御本人の公言する自己規定とその知的/思想的基盤の水準において批判することを、私自身は選びます。よく知るものであるだけに。シンパシーと敬意のゆえに。「藁人形」と示させないために。