ある「不可知論者」にとっての「神学」


なぜニセ科学を叩く人は一般にヘンな目で見られないで、歴史修正主義者を叩く人はヘンに見られるのか - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)


「歴史修正主義」をめぐって - 地を這う難破船

>愛・蔵太さんは−ファクトとしての言説史に準拠する近現代文化史の人


失礼だが、3/27現在あなたのこの文章は間違いだったと判明したように思います。開かれた議論の場では愛・蔵太氏は、まったく何もファクトを提示できず、それ以前に何も”読み”を行わなかった事が明らかになったと思います。以下の私のまとめを参考に、D_Amon氏が用意してくれた掲示板での愛・蔵太氏の発言を一度確認して欲しいのです。


http://d.hatena.ne.jp/abesinzou/20080328


>敬意を払っている人は私を含めて幾らもある


加えてここで明らかになったのは愛・蔵太氏に敬意を払っている人物はほとんど誰もいない事でしょう。この掲示板には愛・蔵太氏の賛同者は1人もいませんでした。一般的にはこういう場には色々な経緯から賛同者が登場するものと思いますが、これは彼が如何に嫌われているという証ではないでしょうか?


○愛・蔵太はこの議論の場(掲示板)を「砂場」「ゲーム」と呼んでいます


彼がこの10年ネット上でしてきた他人への罵詈雑言の浴びせかけや、彼のブログでのApeman氏やni0615氏との過去の応答を読めばわかると思うが、結局愛・蔵太氏のネット上での活動は言説でもなんでもなく、ただ他人を貶める事によって喜びを得る行為だったのではありませんか?事実や思想を問われる議論になった時の愛・蔵太氏の応答に誠実さがまったくない事がそれを示していませんか?それは彼には他人を馬鹿にすることしか関心がないからでしょう。キーワードをいじる時も始めから言論とも事実認識の問題とも考えていなかったように思います。


あなたがこうした経緯を確認され、あなたの愛・蔵太への認識が誤解だった事に同意いただければ私としては大変嬉しいです。


abesinzouさん、はじめまして。土日は所用あったゆえ遅くなりましたが、御返事を。

以下の私のまとめを参考に、D_Amon氏が用意してくれた掲示板での愛・蔵太氏の発言を一度確認して欲しいのです。


もちろん、リアルタイムで確認しています。発言しようかとも思いましたが、関心ないと公言した手前もあり、かつ、膠着した状況を打開しうるものにはならないだろうと。ひょっとしたら誤解をなさっているかも知れませんが、私はこの件については愛・蔵太さんに対してきわめて批判的です。

加えてここで明らかになったのは愛・蔵太氏に敬意を払っている人物はほとんど誰もいない事でしょう。この掲示板には愛・蔵太氏の賛同者は1人もいませんでした。一般的にはこういう場には色々な経緯から賛同者が登場するものと思いますが、これは彼が如何に嫌われているという証ではないでしょうか?


「この掲示板には」でしょう。「証」なくとも「如何に嫌われている」か、周知されていることです。敬意を払うこととつね賛同することは違います。加えるなら、ネガティブな感情を抱くこととも。意見多く異なりかつ過去に「軋轢」あろうとも敬意を払うべき人が私には幾らもある。


なお敬意とはふつう公言するものではありません。暗黙なるものです。定期購読者が桁違いに多くつねブックマークされるブログにはそれだけの理由がある。私が「敬意」について記したのは、愛・蔵太さんに対してのものです。『すこししらべて書く日記』を特定の話題に言及した記事以外読まない人間が政治的意図から自分を批判している、と愛・蔵太さんは記しているし、本気でそう考えているようなので。


付け加えるなら。この一連の件については擁護しうるものではない、と考える人が多いという証ではあるでしょう。私を含めて。擁護しうるものでないことをやっている人間の行為や意見には一切見るべきものはなく耳傾けるべきことがない、などという見解に私は同意しないので。そのことは、私は昔から知っていることであり、書き続けてきたことです。なぜ私がそのような立場に立つか。他人の行為や意見にはその必然あることを知っているからです。その人にとっての必然が。その理路ないし筋道を、それが間違ったものであろうと、了解する/させるべく言葉を重ねることも必要、と私は一貫して考えている。

失礼だが、3/27現在あなたのこの文章は間違いだったと判明したように思います。開かれた議論の場では愛・蔵太氏は、まったく何もファクトを提示できず、それ以前に何も”読み”を行わなかった事が明らかになったと思います。

彼がこの10年ネット上でしてきた他人への罵詈雑言の浴びせかけや、彼のブログでのApeman氏やni0615氏との過去の応答を読めばわかると思うが、結局愛・蔵太氏のネット上での活動は言説でもなんでもなく、ただ他人を貶める事によって喜びを得る行為だったのではありませんか?事実や思想を問われる議論になった時の愛・蔵太氏の応答に誠実さがまったくない事がそれを示していませんか?それは彼には他人を馬鹿にすることしか関心がないからでしょう。キーワードをいじる時も始めから言論とも事実認識の問題とも考えていなかったように思います。


あなたがこうした経緯を確認され、あなたの愛・蔵太への認識が誤解だった事に同意いただければ私としては大変嬉しいです。


最初に書いておくと、同意しかねるところです。御教授いただくまでもなく、私は長らく『すこししらべて書く日記』を読ませていただいているので。そもそも。「メディア・リテラシー」関係を除くなら、賛同するもしないもないですよ。「見解」というものがないので。ない、というのは呈示しないということですが。あらためて、率直に書きましょう。先の記事において記した事柄について。


言うまでもなく愛・蔵太さんは「上から目線」です。軽蔑には軽蔑をもって返礼される、を地で行っている。口汚い言葉を使用しない代わり、揶揄に値すると自身が考える対象を公然と揶揄しているので。修辞が相違するに過ぎない。愛・蔵太さんが何に対して「上から目線」であるか、揶揄に値すると考えるか、軽蔑を投げかけているか、というと、愛・蔵太さんが思うところの神学者に対してです。


「愛・蔵太さんが思うところの神学者」とは何か。


愛・蔵太さんは言説にも言論にも、そもそも事実にもその認識にも、直接には関心がない。愛・蔵太さんにとっては、世の現在進行形の言葉の一切は神学論争でしかない。ウェーバー的な、神々の闘争の発露としての。愛・蔵太さんには、現在進行形で流通する浮世の言葉の一切はそのようにしか映っていない。行為以前に認識において、価値を相対することが最大の関心事たる生粋の価値相対主義者です。なので実際、右バイアスの人とは私は思わない。愛・蔵太さん自身は「中立」ないし「中庸」と本気で自己規定し自己認識しておられるのかも知れないけれども、はっきりと言って、これはきわめて特異かつ極端なスタンスにして認識です。善くも悪しくも「普通」ではまったくない。


愛・蔵太さんは事実にもその有無にも直接には関心がない。括弧付きの「事実」をめぐって人がめいめいどのようなことをいかに言うか、そのことにしか関心がない。あるいはそのことにのみ関心が特化している。そして、愛・蔵太さんはそのことを、そのような自身とその関心事項についても、幾度も繰り返し明記している。だから「メディア・リテラシー」の第一人者となりうる。「メディア・リテラシー」とは、事実に留意し事実を知ろうとすることではなく、括弧付きの「事実」について人がどのようなことをいかに言うか、そのことにこそ留意するメタ作業であるから。


なにか一部で礼賛されているようですけれども「メディア・リテラシー」とはそもそもそういうものです。朝日新聞が社説で中国についてこのように記すことの背景とは、産経新聞が社説で米国についてこのように記すことの背景とは、という。中国を米国をめぐる事実は、この場合一義的には関係がない。愛・蔵太さんは、そのことにのみ特化しておりかつ徹底していて、そのスタンスと関心事項についても自ら繰り返し明記し、しかも為にしていることではなく本当に浮世の「事実」をめぐる言辞の一切をそのように認識しているからこそそのように扱い処理しているらしい。聖書記述の解釈と定義を云々する神学論争に過ぎないと。そういう人は流石にあまりいない。


「ファクトとしての言説史に準拠する近現代文化史の人」と小奇麗なことを書きましたが、明確かつ直截に換言すると。ブロガーとしての「愛・蔵太」さんは「ファクト=事実」そのものには関心がなく、「○○について○○がこのように言った」にしか関心がなく、そのことを「すこししらべて書く」作業を一貫して自覚的に継続している、ということ。そのこと自体は、愛・蔵太さんは再三自ら明記し説明しているけれども。


愛・蔵太さんにとってのファクトとは言説とその歴史でしかない。「言説」とはフーコー的な意におけるそれ。愛・蔵太さんはきわめてポストモダン的な人とは私は思うし、また言説批判としては正攻法ではあるが、言説批判の前提が「興味を持ちました」「ネタとして面白い人がいる」でしかない以上、体制批判の有無以前に、フーコーが聞いたら卒倒するだろう。つまり、その点は愛・蔵太さんは決定的かつ根本的に間違えている。その錯誤が「歴史認識」をめぐるスタンスと自身の倫理性の遵守において如実に露見する。


「事実」が括弧付きであること、その「事実」をあたかも括弧なき事実のごとく、ひいては真理のごとく、めいめいの人間がどのようなことを、あるいはどのような意図を持って、言っているか、騙っているか、愛・蔵太さんはそのことを「暴く」べく、「すこししらべて書く」と自ら称する作業を続ける。そのとき愛・蔵太さんは、括弧なき「事実」に関心がない、というか、語られたものである限りそのようなものはないと考えている。「語られた事実はあくまで語られたものである」というスタンスのもとに。語られた事実を括弧なき事実として「一方的に決定」し命題化し真理へとすりかえる言説に対する警戒と批判とともに。ゆえに。再三公言する「知りえないことに対する沈黙」も、かつての「○○語がわからないから語りえない」も、単なる方便ではない。


ただし。そのスタンスと倫理観に価値なきものではない。というのは、近現代文化史は、ことに日本においては、そのように紡がれ語られてもきたから。端的に言うなら、イデオロギー的な、あるいは社会科学的な、アプローチと世界観を排して細部細事とその非イデオロギー的かつ非社会科学的な文脈に拘泥することによって。愛・蔵太さんもまたリスペクトしているだろう、小林信彦橋本治坪内祐三唐沢俊一を挙げたのは、そういうこと。荒俣宏山口昌男を加えても構わない。


そして、そのような彼らの知的営為が、社会科学においては修正主義的な立場として規定されること、ポストモダンにおいて脚光を浴びた彼らの仕事とその方法論もまた、90年代を過ぎた現在において文脈的に批判されてもいること(所謂「サブカル問題」)、かつ、愛・蔵太さんには彼らの仕事とその方法論において窺えたような社会科学とその文脈と方法論に対峙する敬意も尊重も準備もロジックも倫理観も存在しないこと、を指摘するべく先の記事を記したのですが。そもそも愛・蔵太さんは、上記の論者と相違して、自身の直接的な見聞をほとんど語らない。それもまた、自身の認識とスタンスに拠るものです。愛・蔵太さんは、自身のルールについて自身もまた例外とはしない。


ゆえに。愛・蔵太さんの認識とスタンスとその倫理性は、近現代文化を扱うときには価値あるものです。しかし。おそらくは問題点の自覚なきままに「歴史認識」問題に対して、その認識とスタンスを、あまつさえ倫理的に適用するから、批判を浴びる。しかも本人はおそらく、それが何故かを本当に了解していない。先の記事を記した理由です。「責任」概念を捨象して論じることは構わない。しかし。そうではなく。


愛・蔵太さんは「歴史認識」をめぐる問題を「神学論争」としか捉えていない。そして、「神学論争」の当事者を、「神学論争」と自覚していないことに対して、批判的に揶揄する。愛・蔵太さんにとって「社会科学」「人文学」の範疇にある議論とは「神学論争」の謂いであり、ましてマルクス主義という「大きな物語」など福音書の別名でしかない。そして。自分はキリスト教徒でも神学者でもないから、復活も信じないので、神学論争には加わる気どころか関心自体がなくその義理も義務もない、と。だから、正しく不可知論者ではある。「社会科学」「人文学」が神学でありその議論が「神学論争」であるなら。ウェーバー的な「神々の闘争」の別名であるなら。


言うまでもなく。愛・蔵太さんの拠って立つ「不可知論」は、自身が「信じる」だけならともかく、他を批判的に揶揄する際に持ち出すなら、二重の意味で間違っている。第一に、事実が括弧付きの「事実」でないと、その意味において「神学論争」たる要素がないと、認めない論者など、まずいないこと。第二に、社会科学とは神学ではなくその議論は神学論争ではない。聖書の記述を云々と解釈し定義付する営為に尽きるものではまったくない。


愛・蔵太さんはたぶん本当に神学の問題と考えている。だから、愛・蔵太さんにとっての倫理とは、語られる「事実」が括弧付きであることをつね認識し自覚することの倫理、すなわち神学に対抗する不可知論者の倫理であり、愛・蔵太さんにとっての誠実とは、あらゆる「事実」に準拠する命題的な議論が神学論争であることを了解し、対して距離を置くことの誠実としてある。


括弧なき事実は言説においては不可知であり、命題的な議論はすべて神学論争に過ぎない。以上が愛・蔵太さんのテーゼ。だから「それなら実際のところ貴方はこのことについてどう考えて/思っているのか」と訊ねたところでまともに答えるはずがない。愛・蔵太さんの「信じる」倫理と誠実に拠るなら。むろん、abesinzouさんは、いやabesinzouさんに限ることなく、そんなものは非倫理と不誠実のきわみ以外の何物でもない、と考えるでしょう。だから、行き違いであると。最低限綱領においてすら一致点を見出しえないのだから、議論は常に膠着する。そして。文化論ならまだしも社会科学の範疇にある「歴史認識」問題については愛・蔵太さんのスタンスと認識は、倫理と誠実は、決定的かつ根本的に間違っている。のみならず悪質かつ有害。そもそも学知に対する信なく関知しないとするのだから、難しいとしか言いようがない。以上が私の見解です。


愛・蔵太さんにとって「歴史学者」とは「神学者」の謂いでしかなく、社会科学たる歴史学は神学でしかなく、浮世の現在進行形で流通する言説の一切は括弧付きの「事実」を括弧なき真理のごとく騙る神学論争に過ぎず命題とは「イエスはいかにして復活したか」の類でしかなく、倫理とは聖書とそれを司る神学者と司祭の範疇。ゆえにこそ、「事実」を事実と「一方的に決定」し命題化する言説に対して掣肘するべく「すこししらべて書く」。「それは聖書に書いてあることでしょう、貴方は見たのですか」と。貴方は聖書を読みかつそこに書いてあることを「事実」として信じているだけではないのですか、イエスは復活したのかも知れないけれども、聖書に書いてあることだから、と。


そもそも、事実と「事実としての記述」とキリスト教の成立と聖書の流布の順序について認識が逆立しているか故意に無視しているし、シニシズムと言わざるをえずニヒリズムでさえあると思うけれども、そのように考えていることは、本心だろうと私は思うので、仕方がない。学知は「事実」を事実と「一方的に決定」し容易く命題化しないためにこそ存在する。その認識は議論の前提ではあるけれども。学知は「軍命令」を軍命令と一方的に決定し容易く命題化しているのではない。「知ればいいのに」。


ただし、私が愛・蔵太さんの信念をドグマを尊重するように、愛・蔵太さんもまた他人の「神学」を揶揄するべきではない。愛・蔵太さんの不可知論もまた神学の範疇であるから。近代の合理主義/科学主義においては。かくて愛・蔵太さんの拠って立つパラダイムは転回する。宙に浮く人間を歴史上の全人類においてひとり残らず確認しない限り、人間は宙に浮かないとは、なるほど断言できないかも知れないが、しかしおおよそ人間は宙に浮かない。死なない人間を歴史上の全人類においてひとり残らず確認しない限り、人間は誰しも必ず死ぬとは言い切れないかも知れないが、しかしおおむね人間は誰しも必ず死ぬ。ポストモダニズムから100年は遡る、近代の古典的かつ19世紀的な、合理主義と科学主義に拠るなら。


文脈的な妥当とは、そのこと。確かに宙に浮く人間もあるかも知れないし死なない人間もあるかも知れない。近代合理主義が生んだ社会科学という「神学」に対する「不可知論」をもって応じるなら。ポストモダンここにきわまれり、と私は思う。愛・蔵太さんがベルクソンとは、私はまったく思わないし御本人もそのつもりはないだろう。「神学」批判を繰り返し、自身は「不可知論者」と称する徹底した相対主義者である限りは。


「事実」に準拠するあらゆる言説とその命題に対して「どっちもどっち」「みんないっしょ」「どれも同じ」と、括弧を外した事実に対する関心も問題意識もなきままに「事実」の「事実」性について「すこししらべて書く」ことによって示す「だけ」なら、あまつさえそれが沖縄戦を含めた諸々の戦地における事実≠「事実」に対するものなら、すなわち<事実≠「事実」>という普遍的命題に対する問題意識すらなきままに「ネタとして面白い人がいる」からとそのようなことを言挙げているなら。政治主義批判でもなく、イデオロギー批判ですらない。率直に申し上げて、「歴史修正主義に与する行為」と指摘されることは、妥当です。


歴史修正主義」のキーワード登録をめぐる、愛・蔵太さんの「不誠実」な対応について私見を述べるなら。愛・蔵太さんは「歴史修正主義」を任意の価値的集団におけるジャーゴンと考えているのでしょう。神学における「三位一体」の定義や「ユダ」の寓意などその神を信じる者たちだけでやってくれ、あらゆる「宗教」に対してつね懐疑的な神学否定者に見解を問われても困る、と。以下、私の見解。


第一に、たとえば差別用語に該当しかねない言葉など、価値的な語彙は注釈なくキーワード登録されるべきではないと私は考えるので(たとえば「支那」が注釈を付してキーワード登録されているように)、記した通り現在の「歴史修正主義」の記述に異存ない。然るに、「価値的な語彙」自体がキーワード登録されるべきでないとはまったく思わない。


第二に、任意の価値的集団におけるジャーゴンが注釈の有無にかかわらずキーワード登録されるべきでないとも私は思わない。「ヤンデレ」も「アサヒる」もキーワード登録されている。第三に、「価値的な語彙」を「価値中立的」に(注釈でなく)記述するならそもそもキーワード登録する必要がない、ゆえに愛・蔵太さんはキーワード登録自体に反対なのでしょうけれども。


最後に。「歴史修正主義」は価値的な語彙でありその文脈的変遷も存在するが、任意の価値的集団におけるジャーゴンなどというものではない。普遍的な文脈において問われる価値的語彙です。むろん、愛・蔵太さんは「普遍的な文脈」に対して、ひいては「普遍」について、存在しない、あるいは「知りえない」というスタンスであり、認識であり、その「倫理」に立つのでしょうけれども。一切は神学であり神々の闘争であり、自身はその営みから距離を置き価値的にメタかつ「中立」たらんとしてある、とする限り。


普遍概念を共同幻想に過ぎないと見なす人にとっては、価値的な議論の一切は「ゲーム」でしょうし、共同幻想を普遍と「信じる」者たちの「砂場」とも映るのでしょう。普遍が指向概念/価値としてすら存在しないなら相互的な議論に意味はなく、言論にさえ意味がない。私は普遍主義者とは言い難いけれども、愛・蔵太さんはこのことについては間違っている。指向概念/価値としての普遍を前提しないなら、イデオロギー共同幻想と示しうる歴史的条件もまた簒奪されることだろう。温故知新とはそうしたことを知ることなのですが。