「文化的な虐殺」のなかで/あとで


はてなブックマーク - http://www.asahi.com/national/update/0323/TKY200803230259.html

痛いニュース(ノ∀`) : 「日本の先住民族と認めて」 首都圏のアイヌの人々、民族衣装着て署名集め…政府の動き鈍く - ライブドアブログ

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ニュース速報++ アイヌ「元々関東以北はアイヌの土地だったわけだけど、それはさておき俺達って先住民族だよね?」


「自分は差別していないし差別意識も生まれようがないし現在の日本社会にアイヌ差別はありませんが何か」というのは、そもそも彼らの問題提起に対するレスポンスになっていない。


この場合の「民族」って生物学的血統の話ではないですよ。世界史的に見ても。ナチスではあるまいし、というか、以前も書いたけれども、その点においてナチスは突出して特異で、徹底して科学主義的に発想した。ナチスの人種政策とその帰結について調べるほどに「その発想はなかった」という感慨を深くする。それが20世紀ではあるが。「民族浄化」と言われるとき、事態は一義には「血統」の問題。


北海道には事情から昔よく行った。決まって真冬だった。東京育ちには雪中行軍する高倉健の気分であったが。訪ねる機会がある人で、彼の地の歴史と現在に関心ある人は、ぜひ北海道開拓記念館を訪ねるとよいと思う。展示構成の質量共に、きわめて興味深い。これほどの規模ある重量級の施設でなくとも、一般に郷土資料館というのは面白いので、自身が思い入れる地元に郷土資料館ある人は訪ねてみるとよいと思う。展示品とか現物並んでいるのが資料館の醍醐味だ。


http://www.hmh.pref.hokkaido.jp/


そして。先日NHKにて特集されていた、万博跡に設置された国立民族学博物館についても。設計は黒川紀章、そのことにも意味がある。ETVの特集は、穏当にラインが概括されており、啓蒙的によくできていた。若き日の岡本太郎がパリで学び生涯の知的関心にして思想的基盤としたような、「民族学」における「民族」とは、一義に生物学的血統のことではない。


これまでの放送内容


その枠で1月に放送された、アイヌ文化を継承せんとする若者たちについての特集を見たとき、複雑な感慨を私は覚え、Twitterに少しそういうことを書いた。書くに難儀であるから書かない、と書いたのであったか。だが、一連の反応を目にして、やはり少し書いてみることにする。


ラサに始まった事態について、ダライ・ラマが最初の会見で中国政府のチベット政策を「文化的な虐殺」と示したとき、はてなブックマークで「文化的な」はいらない、と指摘していた人があった。あの時点でダライ・ラマが「虐殺」とだけ言えるわけがない、ことは措き、「文化的な虐殺」は一貫して中国政府のチベット政策に対する批判として、亡命政府からもまた国際的にも言われてきたことだった。


民族浄化」は「生物学的な」血統の絶滅に尽きることではないし、かかる措置にのみよって達成されることはない。文化的/宗教的に維持されてきたコミュニティとしての「民族」に対しては。あまりこういうことは書くべきではないが。ユダヤ文化はユダヤ教は、虐殺を逃れた者たちの強い意思によって存続し、そして彼らはホロコーストの後に国家を建設した。ゆえにこそ。「文化的な虐殺」もまた存在するうえ、「民族浄化」に際しては「必要な措置」である。


そして。その意味において、江戸徳川から明治日本に始まって現在に至るまで、近代国家日本はその「文化的な虐殺」の達成において、そのことへの「無自覚」に結実する、現在に及ぶ「国民」単位の意識の形成とそのアイデンティティへの馴致において、中国政府と変わるところないどころか彼の政府が範とすべき存在である。多民族国家であることを公的に規定し個々人に及んで画定し公的な前提としあまつさえ「自治」を与えた中国は国民国家として基盤が弱く徹底度が足りない。ゆえにこそ「反日」の旗のもとナショナリズムの涵養に政府が励みもした。


むろん100年前ならざる現在の日本において政府が国内少数民族に対して現実の「虐殺」に及ぶことはない。が、それは「同化政策」の国民における稀有な達成ならびに馴致の結果の表裏としてあり、ネーションステーツの近代的馴致に留まることなくアメリカニズム/グローバリゼーションの絶え間なき浸透のもと「文化的な虐殺」の徹底は、日本において現在進行形でもある。むろんかつての経済大国日本は先進民主主義国である。「国民」であることにおいて馴致されることを、人が容易く選ぶか否かにかかわらず。


国民国家日本における被抑圧者の問題について私が考えるようになったその契機は、『ウルトラマン』だった。否、『ウルトラマン』シリーズに込められた沖縄出身の作家金城哲夫上原正三の、「ルーツ」と半生と問題意識と、返還以前という時代を背景としたその悲しみ叫び葛藤を、自身のマイノリティとしてのアイデンティティにおいて寄り添うように感情移入して読み解いた、切通理作の初著作にして伝説の名著『怪獣使いと少年』を読み、作家がその怪獣ドラマに込めた背景を知ったことだった。


怪獣使いと少年―ウルトラマンの作家たち (宝島社文庫)

怪獣使いと少年―ウルトラマンの作家たち (宝島社文庫)

お前がセカイを殺したいなら

お前がセカイを殺したいなら


いずれもいま手元にない。『お前がセカイを殺したいなら』に至る、当時の切通氏の一貫した、切実な主題にして問題意識は、被抑圧者の、「被抑圧者としてのアイデンティティ」であり、マイノリティの、「マイノリティとしてのアイデンティティ」であり、その可能と不可能であった。抑圧されたマイノリティにとってのアイデンティティとは何か、いかにあるべきか。90年代初頭において、切通氏はそのことを問い続けたし、たとえば小林よしのりに対しても、そのように問うた。切通氏のスタンスは95年を経て、明確に変わっていく。以下の著作はそのことを示していた。


ある朝、セカイは死んでいた

ある朝、セカイは死んでいた


更に10年近くを経た現在の切通氏に対して、そのスタンスの転回も含めて、私は一介のファンとして興味深く追い続け、読み続けてもいる。いた。


現在の事態と問題の所在についてbuyobuyoさんが的確に指摘している。


http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080326#p3


先住民アイヌは「同宣言に言う先住民族であるかについては結論を下せる状況ではない」というのが現在の政府見解である。対して「先住民族と認めて」と当事者が声を上げている状況。先住民アイヌを「同宣言に言う先住民族である」と現在の政府が公式に認めることの社会的な妥当性については、論点が所在する。たとえば、同宣言の採択に反対した4ヶ国の事情は了解しえないものでもない。


先住民族の権利に関する国際連合宣言 - Wikipedia

University of Minnesota Japanese Page


宣言が指向することは。先住民族先住民族としての自決権を与えるべく国民国家に要請するもの。換言するなら、先住民族先住民族としてのアイデンティティを、国民国家は政治的にも経済的にも社会的にも文化的にも保障するべき、とするもの。宣言は国際法上の法的拘束力を持たないが、日本は採択に際して賛成票を投じている。大きな枠組において、近代国民国家、ネーションステーツによる、共同性に担保された歴史的なアイデンティティに対する強制的な馴致とその修復不可能な結果、に対する批判が所在する。


この「先住民族」と言う際の「民族」とは、共同性に担保された歴史的なアイデンティティのこと。そのきわめてわかりやすい解説として、岡田★斗司夫氏の言葉を引く。個人同人誌『オタク★イズ★デッド』から。p80〜83.

【民族のアイデンティティ


 そういうわけで、オタクの側でも共通文化、共通概念というものが完全になくなりつつあります。


 ま、ヘンな言いかたになるんですけども、ネイティブ・アメリカンというのがありまして、言いにくいからインディアンと言います。インド人という意味ではありません。


 アメリカの原住民族で、「アワワ」とかやってたりして、弓矢を射ってたりするひとたちです。


 イアンディアンというものはもういないです。もちろん、インディアンという人たちはまだいますけど、インディアン文化というものをもう維持できなくなっていますね。


 コーラを飲んでTシャツを着ている時点で、インディアンじゃないんですよ。無理。


 アイヌの子孫はいまいるけど、アイヌはもういないです。


 縄文人の子孫はいまいるけど、わたしたちは縄文人じゃないです。


 日本人は侍の子孫かも知れませんけど、私たちは侍じゃないです。


 文化というもの、民族というもの、文化的に定義された民族ですね、そういうふうなものを保持するには、それなりのまわりとの境界線とか、特有な文化が必要なんですね。


 つまり、インディアンが成立するためには、白人と交流があってもいいけども、白人文化のなかでは、もうインディアンというものは生きてはいけない。インディアンという種族は生きていけるんですけど、インディアンという民族、文化風俗は死に絶えて、ご先祖様がやってた、こんなアクセサリー作ってた、じゃドライブインに売るべぇという人たちがいま生き残っている。こういうことなんですね。




 で、ぼくは大阪出身なんで、韓国出身の、在日朝鮮人たちがどんなに一所懸命に自分たちの息子や娘を朝鮮学校に行かしているか、ある程度知ってるんです。


 彼らは民族文化というものが、すごい努力で維持して、共通の目標を持ってなければ、とんでもない勢いでばたっとなくなっちゃうのを知ってるからですね。


 休日は親戚を呼ぶとか、正月はこう過ごすとか、こういう言い伝えを話すとか、いやがらずに結婚式には全部出席させる、葬式には全部行く、高校はこういうふうに行く、部屋にはこんな写真を飾る。


 まわりから差別されようが、こんな制服を着て、中学校や高校に行く。これを守らないと、朝鮮民族というものは日本ではなくなってしまう。


 日本という異文化に決して溶け込んでなくなってしまわず、文化的なアイデンティティーというものを外野を作って守って全員が維持しているから、やっと朝鮮民族というものが日本の国内で生きていけることを、彼らは知ってるんですね。




 で、そういう意味で、共通文化というものを失っちゃった、もしくは相互理解という幻想を失っちゃったわたしたちオタクっていうのは、もう、いないんです。


 死んじゃったというのは言いすぎかもわかんないですけど、いないですね。


 ほかのひとたちとの文化と簡単に混ざり合い、萌えって言って入ってきた人たちと簡単に混ざり合い、彼らとある程度言葉も共有できちゃうんですね。

 なんでしょうね。文化というものは、それなりのプライドとか誇りとか、さっき言った韓国、朝鮮人もそうですし、インディアンもそうなんですけど、プライドとか誇りとか、矜持とか、あと義務感みたいなものがないと、やっぱり維持できないんですね。


岡田氏は例示をもって、「オタクの血」とそれが絶え、半ば「宗教的」な文化的コミュニティにおいて規定されたアイデンティティとしての「オタク」が死んだこと、多様化のさなか「文化的な虐殺」の憂き目に遭ったこと、しかしそれが歴史的条件に基づく歴史的な必然であることを、その不可逆を、示す。2年前のことであるが。岡田氏の、人によっては甚だしい我田引水と映るだろう敷衍については措き、例示の認識は妥当だ。


「血」とは「民族」とは「生物学的な」血統の問題ではない。文化的/宗教的なコミュニティの存続のもと共同性において担保された歴史的なアイデンティティのことを、概念的に指す。「民族の尊厳」とは、それを尊重することだ。かつて国民国家が、そして現在の世界資本主義が、任意の文化的/宗教的なコミュニティの存続と、そのための先祖伝来の土地と生活様式と、その形ある共同性に規定された「個人」のアイデンティティを、破壊し毀損してきたからこそ、グローバリゼーションにさらされる現在、国民国家が改めて、先住民族先住民族としてのアイデンティティを自己決定権の行使において選択し保持することを――その担保として共同性を召喚するための、文化的/宗教的なコミュニティと先祖伝来の土地と生活様式を存続させるべく――政治的経済的社会的に保障することが、「民族」としてのアイデンティティを自己決定権の行使において選択し保持するため必要、ということ。


つね読ませていただいているuumin3さんの記事と、それに対する反応に目を通して。


2008-03-24

 あらゆる先住民・少数民族などが「文化的独立性」などに誇りを持てるようにすること。そういう人格権としての側面しかまず思い浮かばなかったのですが、実は国連先住民族作業部会などで継続している作業、企てには「自決、土地に対する権利その他の集団的権利のような問題」が重要なものとしてあるらしく、こういう権利闘争としての側面が話を難しくもしているようす。


 過去の反省云々の話が権利回復や補償の問題と直結していないのでしたら、おそらく一部の国を除いて「各々の人格権」に配慮せざるを得ないのが近代国家の多くでしょうから、この問題はこじれずに済むのかもしれません。


 先住民が「個人として、また集団として国連憲章、世界人権宣言を始め、国際人権法に認められるあらゆる人権を享有する権利があり、その権利の行使について、いかなる差別もなく、平等である」というのは当然のこととして、そこに自決権や土地の権利(回復)の話が絡んできますと、ことはなかなか簡単には進まないと考えるのが自然でしょう。


 それにしてもアイヌを自認する人々というのがどれだけいて、さらには権利闘争まで行なおうという人の規模がどれほどのものかそれがさっぱり見えてきません。そこまで望む戦いと思っていない人が多いのではないかというのが正直な感触でした。


私は、buyobuyoさんの言う典型的な都市生活者であるけれども、ちなみに奥州藤原氏の末裔らしいが(父方の実家いわく。ちなみに江戸時代は百姓)、アイデンティティの問題が、個人の問題であるとして、任意の共同性に担保されるべきでないとは思わない。


私は勝手に、アイデンティティの二段階理論と呼んでいるが、任意の歴史的な共同性において個人のアイデンティティが形成され担保される、という構造なきとき、近代人の自己規定は「自分は自分であることにおいて自分である」という同語反復にして外部なき自同律でしかなく、すなわち末世はラスコリニコフの末裔ばかり、ということになる。かつての私のような。そしてイデアルなロマンでない「民族」という共同性は、固有の文化的/宗教的なコミュニティと、それを維持するための「土地に根差した」生活様式の保守なくして、存続するものではない。ひいてはそれに規定されたアイデンティティも。


むろんたとえば華僑がそうであるように、また日本含めた世界中の移民がそうであるように、共同性の依代たる文化的/宗教的なコミュニティと、その維持のための生活様式の保守は必ずしも土地に根差すことを前提するものではない。が、「先住民族」についてはそうではない。ゆえに「国際公約」としての国連宣言が採択される。批准されるべく。然りて。


政策化の是非と社会的なリソース投入の是非は、個別事例に即して問われる。岡田氏が言う「オタク」のアイデンティティ担保のために為される立法とかありえない。むろん問題は相違する。典型的にはハンセン病政策に顕著であったような、近代国家日本の政策的な問題がそのイデオロギーと共に問い直されているからこそ、現在における政策的な手当ての余地が生じる。近代日本の国語政策はその一例であった。


近代国家日本の政策的な問題に対して現在の構成員個々人に「責任」を問う類の言論には私は賛成しない。むろん「私たちの問題」であることは違いない。ゆえにこそいま論じられるべきだろう。


近代の原理において、個々人のアイデンティティとその危機に対する政策的措置が、近代国家日本の政策的な問題の所在を理由に示されることは妥当か、社会的な正義を構成しうるか。「政策的措置」が、「民族」という共同性の依代として、文化的/宗教的なコミュニティと、その維持のための「土地に根差した」固有の生活様式の、社会的かつ経済的な存続の保障を意味する限り、率直に言って、難しい。難しい、というのは、近代社会の原理において正義を調達し難いから。利権云々に関心はない。


国民国家の馴致と世界資本主義の浸透を経て、あらゆるコミュニティが崩壊し生活様式は標準化され共同性がイデアルなロマンとしてしか現れない、近代個人主義が自明の前提たる現代の日本において、個人は個人であって共同性に担保も規定もされることなく「民族」は常に個人の孤独な自己決定の問題としてある。任意の共同性の依代のための社会的かつ経済的なリソースを「法的に」調達する政策が、社会的な合意を得るかと問うなら、任意の共同性を特別に措置することに対する合意がまず必要だろう。靖国神社に公金は投入されていないことになっている。国民国家にとって不都合な共同性に政府は冷淡だろう。国民もまた冷淡であることが、馴致の輝かしい達成である。


「民族」アイデンティティのための政策的措置を、近代の原理は、現在の日本社会は是とするか。言うまでもないことであるが。法的/制度的/公的な扱いの不平等は不正義以外の何物でもなく徹底的に是正されるべきであり、一定のアファーマティブ・アクションも実施されて然るべきとは、実態を鑑みて私は思う。しかし。近代の原理の枠外にあり唯物論的な是正の枠外にあるアイデンティティ・ポリティクスは、つね議論される。


きわめて簡易に言って「マイノリティにとってのアイデンティティ」が「アイデンティティのためのマイノリティ」となりうることに対する指摘はある。ただし。マイノリティであることがアイデンティティたりうることを、そのことを必ずしも否定しえないことを、被害者性の問題と断じうるものでないことも、「知的には」切通理作の著作を通して私は知った。切通氏がある面において転回したように、あるいはそれが「文学的」な問題であり、政策的な措置の問題では必ずしもないとしても。


私の確定的な見解は。「文化的な虐殺」が、個人のアイデンティティの「虐殺」として為される限り、悪以外の何物でもない、ということ。たとえそれが世界の選択であろうとも。


現在の世界においてきわめて非人権的な文化が「文化的な虐殺」に遭うことが悪とは私は必ずしも思わない。現在の世界において拷問虐殺は国内問題の範疇にあることではなく、中国が大国であることを理由に、対する干渉と圧力を躊躇することは筋の通るものではない。言うまでもないが、これやってるのが国際政治の利害にほとんど絡まない弱小国でかくも世界配信されたら今頃えらいことである。大国であるから干渉と圧力を躊躇するならそれは不正義も甚だしい。人権という正義の旗幟に拠るなら。


地方出身の両親のもと東京の外れで生まれ育った都市生活者の私は、土地に根差した生活など知ったためしがなく、社会主義国的な公団を我が家に創価学会を除きコミュニティとしての共同性の依代などどこにも存在しない環境のもと育ち(両親もまた私も学会員ではない。付き合いはあった)、アイデンティティ形成せざるをえなかった。ガキの頃『パリ、テキサス』のトラヴィスのごとく存在の意味とアイデンティティを求めて当時物騒だった渋谷等を彷徨したが、いろいろなことがありはしたけれども、結局のところそれは自身にとってよそよそしい場所であり、いやよそよそしかったのは一貫して私であり、居場所はおろか存在の意味すらも見つかることはなかった。



そうした性分は現在に及び、両親は健在であるが、険悪ということはないが、私は帰る「場所」を持たない。そのことに諦める中で私の個人としての、都市生活者というよりは亡命者のような、徹底して個人主義的なアイデンティティが育まれていった。私が育った非宗教的で非文化的な世界は当時既にきわめてジャスコ的でありファスト風土的であった。そして。面白いことに、ジャスコ的なファスト風土に育った人間は、長じたとき、ジャスコ的なファスト風土に個人としてのアイデンティティの在処を、すなわち亡命者のノスタルジアを、少年時代のよすがのように抱くものであると知る。あの無機質な公団の棟々に。『耳をすませば』は先駆的であった。


個人のアイデンティティ依代たる記憶は風景は、自同律を制御する外部として、いかなるものであれ個人にとって価値あると私は知る。ハンニバル・レクターにとっての「記憶の宮殿」のようなものかも知れない。凡なる誰しもが抱く、貧困きわまる記憶の瓦礫として。その報われること少ない人生の中で「美しい」とひとり孤独に感じてきた記憶の蓄積の果てに人は現在の「美しい」を感じる、感じうる、対象が「客観的に」美しいか否かにかかわることなく、と指摘した人があった。



私たちは誰しも血統どころか文化的にも混血であって純血などありうべくもない。私はそう考える、が。「自己」もまた純血ではなく「個人」とは外的な単位でなくそのように考えるならまさに埴谷雄高な自同律であって、「集合的な共同性」において「自律した個人」のアイデンティティが形成される「二段階理論」は、近代を経てやむなきことである。私は、個人のアイデンティティを集合的な概念において規定し担保することにあまり賛成しないし、個人のアイデンティティが共同性とその具体的な依代において成立することは近代以後の原理的な解であるとしても、「私のアイデンティティ」と「私たちの文化」は近代の制度において区別さるべきと考える。が。「私たちの文化」の「虐殺」が、「私のアイデンティティ」の「虐殺」に直結することは、わかるし知っている。チベットの人にとってそうであるように、またアイヌの人にとってそうであるように。ゆえにこそ、民族の尊厳の蹂躙が許し難いことも。


http://www.nhk.or.jp/bscinema/actors_studio/


アクターズ・スタジオ・インタビュー』という著名な番組がある。日本でも放送されている。ゲストとして出演する映画スターたちは、みな、ホストのジェームズ・リプトンに促され、生い立ちから語り始める。すなわち、自身の「ルーツ」について。多民族の移民国家にして理念に対する合意ありきの人工国家アメリカゆえのことではあり、「日本はアメリカと比して」ということでは必ずしもない、が。個々人が自身の「ルーツ」について語ることがことさらに抑制される社会は、時に「出自」の問題とされてしまう、平等な戦後民主主義社会は、よいのかね、とは思う。


人は年齢を、特に無駄に重ねると、自身の「ルーツ」を、来たりし場所を、指し示したくなること、自身を鑑みてもあきらかであるらしい。小人閑居して不善を為すかも知れないが。それが個人のアイデンティティを構成する限り、亡命者が記憶する、失われたどこにもない故郷は保障されて然るべきだ。「帰るべき場所」として指し示すべきか、まして政策的に措置すべきか、私にはわからない。ハリー・ディーン・スタントン演じるトラヴィスが大切に愛しげに眺める、テキサスのパリという荒野の、擦り切れた一葉の写真のように。彼は息子と再会し、そして息子のない、しかしナスターシャ・キンスキーと永遠に別れた、21世紀の齢若いトラヴィスたちは。


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