「正しさ」の真贋とプライオリティとは


4月初旬なのでネット自体放置していました。所謂聖火リレーは大変なことになっている。結構なことではないでしょうか、というのが傍観者的感想。やりすぎることはよいことである、と言っておられた革命家もあることであるし。ネットから離れている間に議論が交わされていた。直接の議論は既に「終結」したようであるけれど、個人的に考えていたこととリンクするので、少し思うところを。


今回のチベット問題に関する「左派の失策」は素直に認めてもいいんじゃないかなー。 - 想像力はベッドルームと路上から

そういう次元の話ではありません - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

価値否定論法 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか


チベットの問題に関して、日本の左翼は何やってんの、的な指摘というか言挙げというか囃し立てが一部で行われていたことについて、私は単純に不思議だった。為にしていることなら不思議ではなかったが。チベット問題とは今にはじまったことであるはずがないし、国家概念に基づく少数民族の抑圧という問題設定は日本の左翼も共有している。日本の戦後保守/右翼が米国に対して複雑であるように、日本の戦後左翼が中華人民共和国に対して複雑であることは周知のことだろう。そして、複雑であることは悪いことではない。複雑であるからこそ毛唐のようには単純でない批判精神が涵養される、私は愛国者なのでそのように考える。冷戦以来の利害の問題に限ることなく思想的な理路と近代の歴史的条件の問題でもある。日本の諸政党において利害の問題が所在することは事実であるが。保革を問わず。


日本は隣国であり日中戦争に限ることない長きに亘る歴史的な経緯が所在するため、歴史的に「中華」と別のリーグとしてあった欧米とは認識と思考の位相が相違する。簡単かつ率直に言うなら、ヨーロッパの左翼知識人はトルコやパレスチナの問題に対して、かつての日本赤軍の一部のようには安直に思考も行動もしないだろう。「他人事」ではないのであるから。インターナショナリズムの原理と地政学の事実命題は両立しうる。


「限ることなく」と記したが、冷戦以来の利害の問題は日本の戦後左右勢力において存在したし、いまなお存在するだろう。なお冷戦を前提する左右勢力とは通常の保革のことではない。日共よりよほど田中角栄をそして小沢一郎を国交回復後の中国は厚遇した。そして。冷戦以来の利害の問題を思想的な理路と近代の歴史的条件の問題に対して持ち出し、後者を貶める類の言論に対して、原理論に立つ側が、人違いと宛先違いを指摘することは、妥当だろう。


私はアクティビストであったことはないしそう名乗る予定もないので運動論には関心がないし、何かを言うべきでもない。聖火リレーの件については結構なことと傍観者として思う。ただし。原理論と段階論と状況論は違うので、三者を不用意に混同して論じるべきではないとは思う。ことに現実の現在進行形の事象に対して。


チベット問題に対して原理論に即して論じることは容易なことである。原理論にのみ拠って行動することも。むろんパレスチナは解放されるべきである。その信念のもとにイスラエルの空港で銃を乱射した日本人がいた。「パレスチナのためになった」かは知らない。段階論に即する限り悲観論以外ない。中華人民共和国は「先進国」になりえないまま終わるだろうし、チベットチベットとして解放される日は来ないだろう。共産主義国家において資本制の矛盾が極限化する事態が到来することを、マルクスは予見しなかったろうし、想定しえなかったろう。


むろん段階論に状況論は優先する。状況論に即するから「こそ」原理論的な見解の確認を私は採る、原理論に拠った行動を支持する、そのことは記事にもした。状況論とは3月以来のラサに始まる一連の事態に対する状況論であって、日本の戦後左翼の「テイタラク」についての状況論ではない。「この一件によって白日の下にさらされた」であるか知らないが、というかそのはずもないしテイタラクとも私は思わないが、仮にそうであるとしてそれは単なる国内問題である。チベットあるいは中国共産党の話をしているのか、それともそれらは国内政治問題のダシであるか、民主党の長島議員さえ嘆いていたことを、状況論に即して原理論を示すべきタイミングにおいて演じるべきではない。


この件について、中国政府とその巨大な利害のネットワークとその代弁的言論以外に批判さるべきがあるなら、それは、チベット騒乱や中国の人権問題を、すなわち他国における「普遍的」悲劇を、そのことと直接にはかかわりない何かや誰かを批判し非難し指弾し揶揄し糾弾する際の「ダシ」とする態度全般のことだろう。それは、戦後の世界的な左右の言論において、蓄積され前提とされてきた知識人の共通了解ではなかったか。「左右の」と書くのは、それがリベラリズムの専売特許でなかったことを右曲がりとして私は記しておきたいからである。


たとえば女性解放運動において、一部の人が向こう傷を恐れず牽引した運動の成果に「タダ乗り」する公共意識と政治意識の希薄な一部の現代女性、という議論はあり、それは正しい。



機会あって久しぶりに観直したのだが、南アフリカのすべての「有色人種」がデンゼル・ワシントン演じるビコであったなら「ヨハネスブルグガイドライン」などと他国から言われる現在にはならなかっただろう、と思いはした。むろんアパルトヘイトの現在に至る問題である。が。危険な議論である、として危険性においてかつて進歩思想は批判された。スターリンを時にはポルポトを引き合いに。


女性解放運動の成果に「タダ乗り」する公共意識と政治意識の希薄な現代女性、という問題設定に対して、「公共意識と政治意識の希薄な現代女性」のスイーツな「タダ乗り」こそが「正しく」「人間の普遍であり」、前衛党的な大衆指導の発想こそがその遊離性において「間違っている」「普遍的でない」とした、それが吉本隆明の一貫した議論の枠組。「ブルジョア」的な知識人が知識人であることにおいて「自己批判」のうえ人民に「寄り添う」ことを理念としたのがかつての新左翼であったし、文革と期を一にした、マオイズムと名指された思潮でもあった。むろん吉本隆明はそのような新左翼の発想に同意したことはなかった。事態は思想的な理路においてねじれている。しかし、吉本隆明は知識人でありそのことが最重要事項である。知識人の、ひいては知識の思想の自己疎外と普遍概念の逆立を摘出的かつ激越に指摘したのが吉本隆明であり、その後継者たちであった。



普遍概念の逆立とは、受容の問題ということ。D_Amonさんの記事から。

  • 「正しさ」と「支持」は別問題
  • にも関わらず「正しさ」と「支持」を絡めて「正しさ」の価値否定
    • 当人が「現実への回路を無視した「正しさ」に意味があるのか?」と発言していることも「正しさ」に「支持」を絡めての価値否定を裏付けている
  • にも関わらず何度指摘されても当人がそれを認めない

「「正しさ」と「支持」は別問題」「にも関わらず「正しさ」と「支持」を絡めて「正しさ」の価値否定」というのは、私の言葉で簡易かつ端的に言い換えるならこういうこと。


「「正しさ」と「支持」は別問題」とは「正しいから支持されるとは限らない」「正しいがゆえに支持されるわけではない」ということに過ぎない。しかし。その事実命題を擬似当為命題として言い換える言葉がある。「正しいから支持されない」「支持されない正しさは本当に正しいか、あるいは妥当か」と。「人は正しさを支持するのではなく正しくないからこそ支持するのだ、さて、そのとき「正しさ」とはいったいなんであるか」とも。


放言として断言するが、吉本隆明はそう言った。私はそう指摘した吉本隆明を支持する、が、吉本思想はその指摘に続いて「正しさ」の真偽や真なる「正しさ」を個人として模索するということをしなかったし、またそうしないことが吉本氏の思想の本丸であった。吉本氏は政治的にもまた個人としても倫理命題とアクティビズムを一貫して拒否した。その拒否には理由も歴史的経緯も意味もあった。言ってしまえばそれが吉本隆明という人の倫理であった。が。付け加えるなら、吉本氏は「正しさ」の無価値を指摘し続けた。


その後の歴史的なあるいは言説史的な経緯は措く。オマエはどう考えるか、と問われるなら、複雑である、としか言いようがない。たとえば吉本氏ならチベット騒乱を問題ともしないだろう。それが吉本思想の凄みでも怖さでもあるが。なら現在進行形の一党独裁国家による国内少数民族に対する虐殺は問題とはならないか。そのようにしてしまってよいか。国家は、暴力の直接的かつ専制的な行使において、最大に可視となりその存在を主張する。19年前の六四のように。


ゆえにこそ、インターナショナルな批判と非難が肝要であり、掣肘として機能しうると、以前の記事でも書いた。見解に変化はない。虐待を悪と考えることも。国家による少数民族に対する継続的かつ苛酷な虐待と「絶滅」政策を悪とする国際的な合意に対して「正しさ」の真贋を問うことは無意味と私は考える。反国家のインターナショナリズムがそのことを悪とすることは当然として、国家が(「国民」としての、とは敢えて記さない)個人に対して身体的な虐待を加えることは、首肯しうることか。価値的な命題である。その価値的な命題を中国政府は共有しない。対する顰蹙が世界中から示されているし、示すべきだろう。価値的な命題は利害と世界システムの問題とは相違する。利害とシステムに一切が包含され隷属する世界は、当為以前に事実命題として、存在しなかったし、今後も存在しない。


ゆえに。価値的な命題が「「支持」を得られない」ことを「「正しさ」の真贋」の問題とするべきでは、少なくともこの場合はない。むろん「「正しさ」の真贋」の問題ではなかった。価値的な命題は、利害と世界システムの問題を措くとき、日本において十分に支持されている。無関心を措き暗黙なそれを含めるなら。このことに対する戦後60年を経た日本人の「民度」を私は信じる。そして。人権団体に対する批判は、多く、価値的な命題に対するプライオリティの設定として示される。批判者の多くは中国政府に同意して人権概念それ自体を否定しているのではない(レイシズムの問題は措く。倫理問題を排する限り別個の議論)。


すなわち。「「正しさ」の真贋」の問題ではなく、「正しさ」にプライオリティを設定することに対する批判。「正しさ」とは原理論と換言しうる。仮に、と断るが、プライオリティの設定が利害と世界システムの問題とかかわるとしても、そのことが一部人権団体や日本の左翼に対する「「支持」を得られない」ことの理由であるなら、あるいはそのように「認定して」しまうなら、それは単純に間違っている。


第一に、人文学的な原理論に需要ある現代の世界か知らない。第二に、状況論に即してなお「正しさ」としての原理論に段階論を前提してプライオリティが設定されることは、倫理的にも不当な行為ではない。倫理の問題ではないし、段階論を捨象してインターナショナリズムは実現しない。第三に、任意の価値的な命題が支持されるとき一部人権団体や日本の左翼が「「支持」を得られない」として、それは任意の価値的な命題とインターナショナリズムが一致しない限り順当な理路である。任意の価値的な命題とインターナショナリズムが一致するなら無問題であるし私個人はそう考えるが。


任意の価値的な命題を一部人権団体や日本の左翼が「裏切っている」ということではない。左翼と限定される存在が「人権を最優先」しているのではないし解放の思想に同意するのでもない。ジョージ・W・ブッシュだって同様のことは言うし、たぶん本気で思っている。インターナショナリストでなくまた信仰ゆえに国家主義者ですらないので米国人が治外法権的に最優先されるだけのことである。彼が信じるところの彼のイラク政策は段階論を全面的に捨象したものだった。放言を重ねるなら、それをしてネオコンと言う。


最後に。一部人権団体や日本の左翼が「「支持」を得られない」ことは「FREE TIBET」に象徴され代表される価値的な命題を貶めるものではないし、人権団体や日本の左翼が前提する価値的な命題を貶めるものでもない。「FREE TIBET」に象徴され代表される価値的な命題を人権団体や日本の左翼が共有しないところであるはずもない。もし、インターナショナリズムが要諦であるとき、貴方は同意するか。「FREE TIBET」を共有する日本のすべての人に内なる自己検討を求めたくも思う。「冷や水をぶっかける」意味で。


レイシズムの問題を措いても、インターナショナリズムに同意するか、日本左翼どころか日本国の「テイタラク」が「白日の下にさらされた」ことに対して「日本国民」が考えるべきと行動すべきを、決まり文句であるが「既成の左右の発想を排して」検討する機会であるとは思う。最低限綱領を模索する機会としても。これもまた「国内政治問題のダシ」以外の何物でもないが。日本には日本の戦後の事情がある。原理論に即してその一切を捨象しうるものではない。インターナショナリズムに同意せざるをえなくなった愛国者として思う。「国際主義」の「敗北」ということ。グローバリゼーションの徹底においてとうに雌雄は決していたのだが。


支持不支持は正しさの問題でない。ゆえに。正しさが支持される、あるいは、正しさが支持されるべき、という発想自体が間違っている。任意の価値的な命題の支持不支持については論じうるし、考察しうるが。そして。任意の価値的な命題の正誤は支持不支持の問題でないがゆえに、支持不支持の事実命題を擬似当為命題とする類の左翼批判は、間違っている。根本的に、原理的に。結論するなら。「「正しさ」のプライオリティ」という批判的な発想自体が端的に錯誤であって、時にゲスの勘繰りの類でもある。