久米からみのへとバトンされる20年


長く引用させていただきます。引用部について誤解のないように。また「素人は黙ってろ」問題について、引用部に限定して言及したいので。


2008-04-13

僕自身は、ネットで聞ける「素人の意見」って、すごく貴重だと思っているのですよ。


医療という仕事って、実は、「患者さんが本当はどう感じているのか」というのが、内部にいると非常にわかりにくい面があるんです。なかなか患者さんは「本音」を医者には言ってくれない面がありますから。人にもよりますが、やっぱり「悪口言ったりすると不利益があるのでは……」って構えてしまう人も多いのでしょうね。生命がかかっていると思うとなおさらそうなってしまうのもわかります。


ただ、そういう状況に対して、医療側にも「本当にわれわれの言葉は患者さんたちに伝わっているのだろうか?」という不安はあるのです。だからこそ、ネットで聞ける「素人(患者さん)の考え」というのは、すごく参考になります。あまりにも偏った意見や誹謗中傷には悲しくなりますが、「そういうふうに考えている人もいるのだ」と知ることは大切なことです。


もちろん、「専門家」としては、「似非科学に基づいた危険(あるいは無効な)治療」を他の患者さんに薦めるような人や意見」に関しては看過できませんし、そういったものに関しては、誤解を解く(あるいは、周囲に被害が広がらないようにする)ための行動を起こす場合もあります。ただ、それは「素人は黙ってろ」じゃなくて、「その治療は有効性が学術的に証明されていないので、専門家としては推奨できません」という形が望ましいでしょう。


「最先端の分子生物学の論文の妥当性」について、まったく勉強していない人が、いきなり科学的根拠のない、自前の「トンデモ新説」を唱えはじめたら、それはもう、「素人は黙ってろ」と一喝されてもしょうがないとは思います。


 しかしながら、「病気と医学」いうのは、人類共通の「話題」であり「問題」なので、「病気の素人」なんていないはずですしね。


 ただ、その問題への対処法について、専門的な知識の差があるのは事実なので、そこは、お互いに共通の目的に対して「協力」していかなければなりませんし、患者さんは医療の専門家をうまく「利用」していただければ良いのです。


 「専門的な知識がない人」でも、ある種の問題に対して、その人なりに真摯に考えたり思ったりしたことを「発信」することには、けっこう意味があると思うんですよ。その発信の仕方が、不当に他者を誹謗中傷したり、「専門家のようにみせかけて、他者をミスリードしようとする」ものでなければ(※ここ重要です!試験に出ます!……って書かなければならないのは寂しい限りですが)。世論とか民意って、そういう「普通の人たちの感情の集積」みたいなものだと僕は思うので。


「医師が本当はどう感じているのか」医師に友人もない一介の患者としては「非常にわかりにくい面がある」ので、たとえば昨今の所謂医療崩壊問題について「医師の本音(に準じる見解)」を多く聞ける点、ネットの存在に私は感謝している。皮肉で言っているのではむろんない。残念ながら、患者は患者で、多く無知と無理解のゆえに、医師のことを時に病気治療に特化された職業的存在、すなわちマシーンのように見てしまう。


先日、10年来のかかりつけの先生が私に対して責任を感じていることを知って、私は素で驚いた。私が驚いたことに先生は困惑していた。むろん私は先生に対して信頼を持ち合わせている。代わりが想定しえないくらいには。しかし先方はそうではないと私は普通に考えていた。私の半生に生死に先生が責任あるはずもない。もっとも、私は習性として縁者を含めて誰に対してもそのように考えてしまうので、他人からおよそ私的な期待を持たれていることを知ったとき、常に困惑する。むろん先生が覚えている責任とは「職業上の責任」だろう。


患者にとって病気とは人生と生活から生死に及ぶ自身の一切のことであるが、医師というか職業的治療者にとっては第一義的に患部とその個別性のことであって、また第一義的にはそうあるべきだろう。このおよそ主観的な認識の相違が、常に本質的/根本的なディスコミュニケーションを孕む。そういうもの、と「賢明な」「物分かりのよい」患者は考えて自身の患部とその個別性について検討する職業的治療者について認知的に処理したうえ対応する。むろん私が賢明で物分かりのよい患者であったのでもそのような人格であるのでもなく単に私という人間の性分が引き起こした主観の擦れ違いではあったが。


個別的な当事者性の主観的な絶対が常にかつ即時的に果てしなく相対化されうる、そのようなネットの特性を私は愛する。むろん、個別的な当事者性の主観的な絶対は個を単位としたときあくまで絶対であり、一般論の問題へと容易に回収されるものでもない。


re: 中立 ≠ 無知 - ls@usada’s Backyard


先日、『通販生活』の特集記事で落合恵子と対談していた久米宏が言っていた。現在の久米宏が折に触れ語る十八番であり改めてのことであるが。『ニュースステーション』のメインキャスターに就くと発表されたとき、散々言われた。有能なタレント司会者かも知らんが、報道のジャーナリズムの素人がテレビ朝日の看板報道番組のメインキャスターなど務まるか。「大型ニュースショー番組」と衣を替えようとも。そのような声を横目に、久米は当時、確たる信念を持ち合わせていたという。


報道のジャーナリズムの社会問題の素人であるからこそ、務めるべきであり、「啓蒙的」な意義においても、やってみせるべきだ。素人が自らの言葉と知見と経験において堂々とジャーナリスティックな社会問題を語りうる時代が来るべきだ。久米は確信していた。ゆえにこそ物議を醸し反響を呼ぶことを承知で「これまでにない新しい趣向の」テレビ朝日の看板報道番組、否、「大型ニュースショー番組」のメインキャスターを引き受けた。そして真実、久米宏はやってのけた。


久米宏は報道を変え既存の報道番組を変え80年代の大衆社会と「朝日的な」ジャーナリズムを直截に接続し(久米宏的な、と断るが)リベラリズムの大衆化(別名浸透拡散雨散霧消)を果たし、「大衆の意識」を変えた、とは断言しえないが、古館伊知郎がみのもんたが報道番組あるいは「大型ニュースショー番組」の顔として登坂し活躍する時代を用意した、立役者であり、その「業績」は功罪合わせて計り知れない。久米宏の、圧倒的なタレントとしての才と司会者としての技量と個人としての政治的な平衡感覚(自ら称する無節操)に裏打ちされた個人的な確信は、正しかったし、久米はその正しさを日本社会において証明した。


そして。久米宏が報道番組を退き総じて18年半の長きに亘りメインキャスターを務めた『ニュースステーション』が終了して4年が経つ現在、むろん久米宏の「責任」ではないが、インターネットにおいては周知の通り、問題は、古館伊知郎でありみのもんたである。私は『ニュースステーション』以前の久米宏をリアルタイムではさほど記憶していないが、報道番組の「大型ニュースショー番組」の顔として在る古館伊知郎にみのもんたにいたく失望した数多の人間のひとりである。つまり、それまではファンであったということだが。


私はいまなお久米宏のファンであり『ニュースステーション』を今となってはその末期さえも懐かしく思う者であるが(TV点けっ放し人間にとって『報道ステーション』はしんどい)、ゆえに、ということか、『ニュースステーション』に臨んだ久米宏の現状分析と確信と信念とその(原理論と段階論の両面における)正しさに全面的に同意するし、そして賭けに勝利したこと、その明察と機知と腕力、尊敬する。久米はTVを変え報道を変えジャーナリズムを変え日本社会を変え、一時代を牽引し、80年代以降の日本の大衆社会の多くを変容させた。あるいは変容の潮流に意志的に加担した。あらゆる変化が不可逆である世の習いの通り、取り返しの付かないほどに。


私が自身のブログにおいて趣味的な話柄に留まることなく所謂真面目な社会問題について発言することを躊躇しなくなったのは、大衆社会の全面化の過程において注入された久米宏イズムに拠るところ大きい。素人であるから「こそ」自身の言葉と知見と経験において堂々とジャーナリスティックな社会問題を語ることに、意義がある。そこまで言わずとも、素人が自身の言葉と知見と経験において堂々とジャーナリスティックかつ深刻な社会問題を語ることには意味があり、意義がある、と。然るに。現在における一般的な「素人は黙ってろ問題」の、大いなる原因のひとつに、毎朝御尊顔を拝むみのもんたがあること、否定し難い、というか大いに同意する。いや率先してそのように主張したい。念の為に明記するが、これは2chの問題ではない。


20年を経て久米宏みのもんたへと至ってしまうこと。それが不可逆なる時代の変容の実相か。パイオニアの先駆者の理念と成果は常に形だけの踏襲者に横領され簒奪され意義なきものとされるお定まりか。桁外れに有能なアナウンサー上がりの司会者であった同年生まれの久米宏みのもんたは、先駆者と踏襲者は、その「報道番組における」「ジャーナリスティックな」「社会的な」発言の内容と、それ以上に姿勢において、何が決定的に相違したか。するか。


私は、久米宏が打ち立て言行一致させたマニフェストに同意するがゆえに今現在もブログを更新している。久米宏イズムの実践として。むろん、私に久米のような「タレント」はあらゆる意味でない。その必要もないだろう。そして。ゆえにこそ、久米宏と現在のみのもんたに一線が引かれるべきだ。一線とは何か。


精神論は基本的に性に合わない。「高慢と偏見」ということかも知れない、とは思う。無知と無理解に基づいた高慢と偏見は顰蹙される。あまつさえその高慢と偏見が「衆を頼む」ものであるなら。個として発言することと暗黙にも衆を頼むことは違う。私が運動論の類に関心がない理由だろうし、運動論と言うなら『我が闘争』において開陳された大衆社会における運動論はいまなお圧倒的に正しい。それを是とはあまりしたくない。大衆社会において「大衆」として借定される人間存在の単位はいつの世も変わるところなく「女」であり「オバサン」である。「オバサン」に親密に囁く職業的天才がジャーナリスティックかつ深刻な社会問題を、筋金入りのプロ意識のもと自ら培ってきたスキル全開で語るなら。


無知と無理解に基づいた高慢と偏見が大衆的な俗悪と結託することを煽る言説は、掣肘されるべきだろう。ゆえに『きっこの日記』とみのもんたは言説の指向性において変わらない。掣肘されたとしてその言説は構造的に衆を頼んでいるから、はてなならあるいは現在のインターネットならまだしも他の「大衆的な」場所なら処置もなかろう。久米宏の発言はそのスタンスは彼なりにリベラルであったが、みのもんたは違う。両者の個性もスタンスもまた時代の相違もかかわる以上「劣化」の二文字で片付けられることでない。ただし。無知と無理解に基づいた高慢と偏見が衆を頼んで中庸の徳とされるなら、衆におもねる点なくとも、孔子はおろか小林秀雄も卒倒するだろう。


「素人は黙ってろ」と言われてなお久米宏は「ひとりの素人として」「個として」黙ることはない。自身が発言すべきとする事柄について口を噤みはしない。「空気を読む」ことはむろん時にしてきたが。「素人は黙ってろ」と言われたとき、みのもんたは「世間」「常識」を持ち出すこと確実だろう。ニュースにコメントするみのもんたは「ひとりの素人として」「個として」発言しているのでなく単に彼が考える「大衆」の「代弁」をしているだけだ。そして希代の司会者の勘は常に外すことなく軸線をずらしはしない。まことに「大衆」は「女」であり「オバサン」である。ゆえにこそ困る。久米宏は「個人」ならざる概念的な単位としての「大衆」を軽蔑してもいたのだろう。芥川が説いたレーニンのように。


みのもんたが「代弁」する「ひとりの素人」とは「大衆」と借定される集合的な概念であり単位であり存在であり筋金入りのTV人が経験の裏打ちにおいて信じる一般性の別名である。久米宏にとっての「ひとりの素人」は、このように言ってよいならカント的な、理念であり信念であり、第一義的に久米宏という個人のことであった。


無知と無理解に裏打ちされた高慢と偏見が、個としての「ひとりの素人」としてのものでなく徒に衆を頼むものであるなら、専門家は知らず「個」として物言う者たちから「黙ってろ」と抑圧的に対応されて然るべきものであるかも知れない。知と理解は、人を高慢にすることはなく謙虚にする。知と理解ある高慢な人間は、それが仕様である。久米宏がそうであるように。以上が些か為にする対比であることを承知のうえで比喩的に述べるなら、私は、みのもんたでなく久米宏でありたい。むろん、fujiponさんはみのもんたではない。