「立川反戦ビラ配布事件」最高裁判断に関する所感


表現の自由を脅かすもの - good2nd


ブックマークでコメントした。続く諸反応に目を通して、少し要点をまとめてみる。


はてなブックマーク - 表現の自由を行使したために不当に拘束された事件の、もう一つの例 - good2nd

一番怖ろしいのは…。 - シートン俗物記

立川ビラ - 永字八法

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080414#p1

まずは約束通り - 永字八法

裁判所の使い方 - 永字八法


まず前提としての「世間の常識」から。ピザ屋のチラシだろうと投函者は通報されうる時世です。昔むかし、登録制のポスティングのアルバイトをしていたことがあるのでよく知っている。ピンクチラシを配布する業者ではなかったが、「住居侵入」に基づく「警察沙汰」は現場における最優先回避事項でありました。居住者と鉢合わせてわずかでも厭な顔をされたなら即刻引き上げるべし、と。マンション等については管理人が所在するならその許可を得ることなく無断で配布しては絶対にならない。


以上を極端に無視して警察沙汰となった場合、社としては必ずしも責任を負うところではない、法的に保障されている行為であるとは必ずしも言えない、否、保障されてはいない、グレーである(とはむろん言葉にしなかったが、暗黙に了解するもの)。居住者の不興著しく買ったなら居住者の意思において「住居侵入」として通報されかねないし、警察は対応しないものではない。


当該事件の検挙のはるか以前のことであるが、当時既にそのくらい「締め付けの厳しい」時世ではあった。各戸の前まで来て新聞受けにチラシを差し込んで行くならなおのこと。言うまでもなく防犯事情とその意識の変化もかかわる。ピザ屋のチラシなら無問題、ということであるわけではない。法的には。また社会通念的にも。最高裁判決を妥当と私は判断せざるをえない。然りて問題は――。


本件を公安事案と判断したのが警察/検察当局であった。完全黙秘に続く75日間の拘留。6ヵ所に及ぶ捜索。公安事案と当局が判断したならこのくらいのことはやる。というか茶飯。厳密に法的な問題に限定して議論するのでないなら、公安事案と当局が判断したことを捨象して論じうることではないだろう。私は公安警察の存在を否定するものではないが、本件を公安事案とする当局の判断に同意しうるかと問うなら、難しい、と言わざるをえない。


少なくとも、公安警察は活動内容の合法非合法を問わず「活動家」とそのネットワークを時に「超法規的」かつ「予防的」に監視摘発することが職務であり日の丸という国家を背負った使命であるから、そのような組織とその発想を私が贔屓する理由は必ずしもない。というか、buyobuyoさんも記しておられるが、公安警察とはどのような存在であり組織であり集団であるか、わかっておられるか。


警察と改めてかかわる気もないうえ警察官に個人的に借りがある私は「活動家」に直接の知己もない(はずである)が、だから「活動家」が「弾圧」と称して然るべき不当な法的措置を受けることに賛成するわけでも、仕方がないと考えているわけでもない。マーティン・ニーメラーはどうでも宜しい。周知のことを改めて記すなら、95年の事件を経た日本の公安警察の剛力たるや半端ではない。


法は必ずしも正義とその具現ではないが、一方、法は必ずしも交通法規(「左側通行」の類)であるわけでもない。任意の法制度とその運用の前提と背景として在る枠組とその文脈的な変容は問われるべきだろう。死刑は確定後半年以内に執行されるべきでありそのこと自体が問題であるなら法改正さるべきとか記すことにあまり意味はない。死刑制度の前提と背景として在る日本国内の枠組とその文脈的な変容において「半年以内の執行」の不履行が自明とされている。「人道的観点」において。


私は、原理的には死刑は廃止すべきと考え、かつ現状分析に基づき段階論的にその中長期的な達成が望ましいと考えるので、多くの国家において死刑廃止が執行の長期中断等の段階論的な措置を経て、法規範に厳格に拠るならあるいは玉虫色の筋道を辿ったように、我が国もそのような筋道を辿るべきと考える。急進的な死刑廃止論に立たないという意において私は相対的に死刑存置論者である。


端的に言うなら。前提と背景として在る枠組とその日本国内における文脈的な変容に即して任意の法制度の運用が個別に検討されることは、すなわち世論に諮られることは、それは当然のこと。


悩ましきは世論に諮るたび段階論的な達成の不可能を知ることなり、というふうには私は考えない。そして。居住権等の個々人の私的生活にかかわる権利の重視という文脈において法制度の運用の枠組が変容してもいる。そのこと自体は、段階論的なひとつの帰結であろう。刑法に及ぶことであれ。


本件について、厳密に法的な議論を措くなら、最初から二つの要点が輻輳し錯綜している。本件を公安事案と当局が判断したことの是非と、個々人の私的生活にかかわる権利の重視という文脈において刑法の運用の枠組が変容したことの是非。


そして、有罪確定後の現在の百家争鳴を一覧すれば瞭然の通り、二つの要点をおそらくは意図的に輻輳させて公知し錯綜したまま議論されることを歓迎したのは、当局である。本件を公安事案と当局が判断したことの是非、ひいては現在の公安警察の存在の是非を、一般的な論点において退けたのだから。二つの要点は分別において混乱したまま議論された。導き出された一般的な結論は「被告が駄目」。


率直に言って、駄目であるかは知らないが(一般的に、事後において賢明を問うだけならいくらでも問える)、私個人は被告に対して芳しい印象は一切持ち合わせない。「「活動家」だから」ではむろんない。私が持ち合わせる印象の理由を記すことはできるが、そのことは本件において問題ではない。措く。私が被告に対して芳しい印象を一切持ち合わせない「から」本件を公安事案と当局が判断してやむなし、とか、意味がわからない。本件を「表現の自由」の問題と私が強く考えることには、そうした理由がある。被告に対して芳しい印象を一切持ち合わせない私にとって、ヴォルテールの著名な言葉の問題であるのだ。


外形的事実としての経緯を見る限り、日本国内における枠組の文脈的な変容に即して、すなわち時代の変化に即して、通報から被害届の提出を経てパクられることはありうることではある。住民の意思に基づき管理権者が住居侵入を申し立てた以上は。自衛隊イラク派兵が国内において政治的に紛糾し、そのことと直接にかかわることであったがため、警察当局は被害届を提出した管理権者に鑑み事案内容に即して「適切に」対応したのだろう。公安警察が動いたことも、コンテクストに即して見るなら「順当なこと」ではある。問われるべきはこの「順当な展開」の是非であり妥当不当であろう。


なお。私の発想においては住民として「思想的な内容のビラ」の投函者に出くわしたなら(気乗りすれば)小一時間問い詰めて議論するかあるいは本人が非礼であったりビラが侮辱的な内容であるならそれなりに「因果を含める」が、そして通報を選択しはしないだろうが、それは私の無役と性分と政治問題に対するアンビバレンスゆえのことであって、「軍人」たる自衛官とその家族がそのように「個人」として対応するわけにもいかない事情もわかる。イッツノットマイビジネス、とすることも。そのことの是非も「事情」の是非も含めて「順当な展開」の是非が、本件について厳密な法的議論を措いたうえ問うなら問われるべき事柄である。


「確信犯的な」政治的活動において違法性を有すると見なしうる行動がともなうとき公安事案と警察/検察当局が判断すること。そのこと自体は、問題どころか大問題と、私は考えるし、「だから」「確信犯的な」政治的活動を行う者は行動においてつね自重せよ、という物言いがそもそも転倒していると考えるが、「確信犯的な」政治的活動と無縁な人は多くそのようには考えないだろう。「確信犯的な」政治的活動はすべて「活動家」の行うところであり、反国家的な「活動家」の物理的掣肘を使命とする公安。それが公安警察の組織的な発想である。お断りするが中国でなく日本の話である。


およそ公安的な発想においては合法非合法、すなわち市民としての公的活動と地下活動の区別はさしたる問題ではない、境界が曖昧であるから。いずれにせよ、「確信犯的な」政治的活動と無縁な人は「活動家」と公安から認定されることも穿たれることもなく、人的ネットワークの一員と予断を含めて推定されることもなく、微罪逮捕とも別件逮捕ともそのうえの長期拘留とも大規模家宅捜索とも無縁である。中国の「一般市民」がみなそうであるように。「確信犯的な」政治活動家が、政治的活動が、現在進行形でどれほど弾圧されていようとも。だから。good2ndさんのチベット問題の例示は、正しいし文脈的にも妥当だ。


公安警察とその組織的/原理的な発想に対して、一般市民と日の丸から認定され難い「思想的」な不良市民は警戒的かつ時に掣肘的であってありすぎることはない。私はそう考えるけれども。「思想犯」という概念と存在を私は認めないので。公安警察はその活動内容において「誰の為にしていることか」が常に問われる。原理的に。国民の為と日の丸の為は異なるし、公共と体制は異なる。そして、原理的にも公安警察は公共という日の丸において一般の国民と不良国民(否、反体制分子か)を、羊と虎として区別する。政治とは最も端的にはそういうものだ。


むろん自衛官はその家族は国民である。そして自衛隊は日の丸である。この相違が、本件に対する百家争鳴を複雑にしている。


理念的には、被告は自衛官とその家族の個々人に対して、国民として日の丸と切り離された個人として思考し行動するよう促すべく行動したのだろう。然りて公安警察が動いた。自衛隊に所属する国民の私的生活にかかわる権利において住居侵入の刑法犯として管理権者による被害届の提出を経て立件した。立件したのは日の丸である。


本件について「ビラの内容」が問われるのは、また問われるべき点は、文面と修辞は措き、趣旨と意図において、自衛官とその家族の個々人に対して、国民として日の丸=国家と切り離された個人として思考し行動するべく促すものであったからであり、そのことである。文面の修辞において侮辱的であったことでもアレゲであったことでも、そもそもその発想が甚だしくブラインドな「大きなお世話」であったことでもなく。


外形的かつ政治的に正しい行為であるから正しいとか私はまったく考えない。同様に、外形的に違法行為であるから有罪確定してやむなしともまして外形的に違法行為であるから悪いとも正しくないともまったく考えない。政治的な行為が違法性の軽重にかかわらず公安事案として当局に常にかつ恣意的に立件されるならとんでもないことである。二つの問題を混同してはならない。


経緯の構造をバラしてコンテクストに即して見るなら、なるほど公安警察が動くことは「順当」だ。当局が本件を公安事案と見なしたことも「原理的に」間違っていない。ゆえにこそ、本件は、国家意思の発動に対する原理的掣肘としての憲法に記された「表現の自由」の問題である。


ブックマークコメントにおいて記したことを改めて記すなら。住居侵入の成立に同意しうるとしても、公安事案としての当局の立件が国家意思の発動に基づき「確信犯的な」政治的活動を――すなわち「活動家」を――「弾圧」するスターリニズム的な国家主義の類であるとき、国民が憲法に拠って国家意思の発動に対して掣肘的に関与しないなら、公共を廃棄する体制順応的な一般市民が今後も量産されるに相違ない。よって「表現の自由」は脅かされる。恣意的であれ例外なく。


法は、必ずしも正義とその具現でもまた交通法規でもないが、少なくとも国家の暴力装置を背景とする強制力であり権力の源泉でもある。ゆえにこそ、法の為すべき正義と果たされるべき機能に対して、個々の国民が自発的に関与しその権力を主体的に操縦しないことには、法の権力の執行者/代行者の専横に対して危うく、覚束無い。幾度も記している通り私は裁判員制度に賛成であり、万一任命されたらイイなと今から楽しみにしている。死刑相当事件であるならなおのこと。


本件を公安事案と当局が判断したことの是非と、居住権等の個々人の私的生活にかかわる権利の重視という文脈において刑法の運用の枠組が変容したことの是非。両要点が意図含みのもと輻輳し錯綜したこと。それが本件における百家争鳴の要点である。輻輳し錯綜したことにより「得した」のは公安的な発想そのものである。輻輳と錯綜こそが、最大の問題であり、トラップであった。


「人に対して「死ね」って絶対言っちゃいけない」と、著名なブロガーがブックマークコメントにおいて記していた。その通りです。そして、個人の快不快に尽きる問題ではまったくない。しかし。あくまで本件と絡めての私見と断るけれども。


「死ね」と言われてばかりの社会と、「死ね」と言わせない社会。前者が素晴らしいとは私の好みは措き他に示しうるはずもないが、また天国の貧困より地獄の絢爛とかそういう問題でないことは言うまでもないが、後者の社会だけは御免である。


人に対して「死ね」と絶対に言ってはいけない、しかし、人に対して「死ね」と言わせないことは、少なくとも「言わせない」主体と方法論的な実装が問われる。「言わせない」主体が国家であり方法論的な実装が刑法であるなら、憲法に「表現の自由」が明記される国家において、そのことは十二分に議論の対象となりうる。