Prisoner of Love(被造物の悲しみ)


http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080417/1208441715

はてなブックマーク - 「二次元だから」レイプ凌辱大好きなのですか、お姉さん? - E.L.H. Electric Lover Hinagiku

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080418/1208505134


有村悠さんの叫びに胸衝かれるところあったので、勝手に反応してみる。

三次元と二次元、現実とフィクションをぼくは区別しない、というのを前提として――


私の把握に拠るなら、むしろ区別している。端的には。「三次元」におけるモラルや倫理がフィクションにおいて反転するところにこそ原理的にもフィクションの醍醐味が所在する以上、倫理的反転はフィクションの意味と機能としての要諦。所謂フィクション論とはそうしたものであるけれども、なら、倫理道徳を「三次元」の範疇とし「二次元」をその彼岸とすることは、フィクション論において正当化しうるか。

その「萌える」って言葉、性欲が前景化してる? 萌えと性欲は不可分であるというのがぼくの見解だけど、この語を用いて表現する感情って性欲は後景化していると思っていたんだが……というのはさておき。


愛と萌えと性欲のトライアングルというか三位一体において、「萌え」の名のもと愛と性欲のいずれの天秤に片寄せるか、という命題はある。有村さんにとって愛とは倫理道徳の範疇としてあるのだろう。そして当たり前の話ではあるけれども、愛と萌えと性欲の三位一体のトライアングルは、べつだん「二次元」に限定される永遠の命題であるわけではない。「三次元」のことは存じ上げないが、記事を拝見する限り、「二次元」における愛と萌えと性欲の三位一体のトライアングルを、愛すなわちアガペーに片寄せることにおいて、有村さんは苦悩しておられるのではないか。


こういうことについて必ずしもWikipediaを引っ張るべきではないのだけれども。おおむねのことではあるので。


アガペー - Wikipedia

アガペー (ギリシア語:αγάπη) は、キリスト教における神学概念で、神の人間に対する「愛」を表す。神は無限の愛(アガペー)において人間を愛しているのであり、神が人間を愛することで、神は何かの利益を得る訳ではないので、「無償の愛」とされる。また、それは不変の愛なので、旧約聖書には、神の「不朽の愛」としてでてくる。新約聖書では、キリストの十字架での死において顕された愛として知られる。


またキリスト教においては、神が人間をアガペーの愛において愛するように、人間同士は、互いに愛し合うことが望ましいとされており、キリスト教徒のあいだでの相互の愛もまた、広い意味でアガペーの愛である。


有村さんが示しておられるのは、神の「被造物」たる人間に対する「愛」と相似を描くべき、人間の「被造物」たる「二次元のキャラクター」「フィクションの登場人物」に対する「愛」のことだろう。神が人間を愛したように、人間もまた自身の被造物としての「二次元のキャラクター」「フィクションの登場人物」に愛を与えるべきである、と。


有村さんのことではないと厳に断るが。自身の喪失した、あるいは欠損しているイノセンスを、他者的なる存在がそれを有するとして追い求めることは幾らでもあるし、無垢性を求めるがゆえに天秤が性欲から愛へと傾きそのとき無垢性の喪失/欠損の象徴たる性欲を有する自身の「汚濁」を嫌悪する、というのもよくあること、そして「萌え」のひとつの典型でもある。


私が個人的に不思議に思うのは。男にとって性欲こそ無垢性の象徴と私が考えているからであって、ゆえに男は去勢されて社会化される、という公式論自体が難しくなっているのだろう。


上記の「「萌え」のひとつの典型例」を裏返すと、本田透的な、自身がアガペーを与えるに「値しない」――無垢性を喪失/欠損し性欲を有する「三次元」女性に対する拒絶ともなる。「二次元」の被造物に対してこそ愛を与えるべきであると。


梶原一騎先生の名作『愛と誠』を引き合いに出すまでもなく、アガペーとしての愛はそれを持ち合わせる当人において倫理道徳の相似として規範的に機能するものであるから。教義に即することなく本田透氏のごとく一般化して言うなら、三位一体とは、神のイデアを指向してなお喪失と欠損と原罪を負う無垢ならざる人間存在の多面を指す概念でもある。愛と性欲を架橋するイデアルな概念をして「萌え」と言う。

これもなあ。でもあんたら、たとえば三次元の児童ポルノでしか抜けないとかだったら人非人扱いするんだろう? という不信感が拭えない。リアル死体に欲情するやつとかさ、匿名掲示板ですら「それはさすがに引くわ」「空気嫁」と言われるわけで。匿名ですらガチでキモいのは叩かれる。まるでよくない。


理念型として借定される「普通の人」は、愛と萌えと性欲の三位一体にむろん悩むけれども、ゆえにこそ「二次元」をフィクションを必要とする。「性欲」の「個人的な欲望」の処理装置として。フィクションとしてのポルノの本質はそういうもの。そして。「性欲」の「個人的な欲望」の処理装置として調達され用意されたフィクショナルなポルノのその内容や登場人物に対して「愛」が発生するとき、その感情的な機構を「萌え」と呼ぶ。


この場合、「被造物」に対する「愛」の発生なくして、すなわち単なる「性欲」にのみ即して「萌え」は構成されない。少なくとも本田透氏はそのような枠組において論じた。ゆえに。愛と萌えと性欲は、萌えにおいて架橋された性欲と愛のトライアングルとして三位一体を描く。ニーチェはどう見ても裏返しのプラトン主義者であった。

というか、現実のセックスと二次元のセックスをきっちり区別できているひとなんているんだろうか? みんな問題なくできているの? 現実と二次元の区別がどういうわけか自明のものとされているのが、非常に胡散臭い。



二次元と三次元は別、とおっしゃる?


「普通の人」は、性欲のためにポルノというフィクションを必要とする。そこに愛はない。「普通の人」あるいは「真っ当な男」であるなら、愛は「三次元」の範疇。ゆえに「被造物」に対する愛としての「萌え」などという厄介な概念を解しないし、そもそもアガペーとその何たるかを理解しない。もっとも、最近はAVで知ったこと全部実践しようとする男もいるらしい、というかいまくりのようであるが。あるいはエロマンガでエロゲで。むろん合意のうえなら御勝手である。

こういうことを言う人は本当に信用ならない。男女問わず。


なぜ二次元というだけで、人間をそんな風にネタ扱いできるのやら。その心性が理解しがたい。二次元の特権ってあなた、じゃあいったい誰が二次元の凌辱される女性の悲哀に思いを馳せればいいのか。彼女にはそうされる権利すら奪われているのだろうか? いったい、オタクが悲しまずして、三次元人の誰が二次元人の不幸を悲しむのだろうか?


有村さんは、「被造物」たる「二次元人」に対する愛すなわちアガペーを真剣に悩んでいるし、その愛とはおそらく無垢性とその不可能とかかわるものではあるのだろう。世の薄汚れた豚のごとき三次元人たちの個人的な「性欲」を処理するためにのみ創造された「被造物」としての二次元人が、ただ薄汚れた性欲の捌け口としてのみ扱われてよいか、彼女たちの二次元人としての人格は人権はどうなる。「誰が二次元の凌辱される女性の悲哀に思いを馳せればいいのか。彼女にはそうされる権利すら奪われているのだろうか?」 。


念の為に明記するけれども。きわめて重要な問題意識であって、気違い呼ばわりされてよい類ではまったくない。有村さんは明晰だ。


http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51278902.html

133 男性向け :2006/12/30(土) 22:07:27 id:mb74ulnY0
単にエロいだけならいいんだけど陵辱とかは本当に駄目だ
ここに来てる女の人を非難する気持ちはないけど、
リアルで強姦されて一生涯苦しみを抱えてる女性が多いのに
何で女の身で怒らないどころか楽しんでるのかマジ分からん・・


135 男性向け :2006/12/31(日) 10:24:54 id:nQJK7AZPO
男性向けは男女だけじゃなくて、男男も女女もそれぞれ女性向けとノリが違って面白い
猟奇強姦スカトロ何でも女性向けとでリアリティとファンタジーの出るポイントが違っていい
いかにも耽美な女性向けも好きだけど、別腹で男性向けを楽しんでる
強烈で変態なエログロは男性向けの方が多くて開き直ってるのも
汚いものは徹底して汚く描かれるのも嬉しい
二次元エロのバリエーションだなぁ

>>133
二次元ですから
以上

二次元に求めるものの違いだと思うよ
三次元じゃ色んな意味でありえないのを安全圏から楽しめるのが二次元の特権なんで
リアルどうこう言われても、私は正直失せろ三次元としか思わない

136 男性向け :2006/12/31(日) 10:40:30 id:ksGau9EI0
やらせだって分かってるレイプ物のAVに腹立たんのと同じだな
現実に起こってないことにそこまで真剣に考えないや
もしそのAVがガチのレイープだったとしたら腹立つなんてもんじゃないけど


私が。「こういうことを言う人は本当に信用ならない」かというと。全然。人間の意識的な、かつ公式見解的な処理としては、そういうものですとしか言いようがない。自他に対して嘘をついているということでもない。風に揺れる柳が幽霊に見えたらそれは貴方の性的なオブセッションとそれを形成した成育環境の為せる業です、というのがフロイト先生のテーゼであって。しかし。フロイト先生は重ねて言った。貴方の性的なオブセッションとそれを形成した成育環境の背景/前提としてある任意の社会とその歴史的かつ構造的な抑圧の問題であると。


有村さんの記事から。

これはまさしく腹立たしい。たかだか現実に起こってないという程度の理由でなぜそれほどあっさり態度を変えられるのか。現実ではなくとも、やらせであっても、作品世界の中の彼女はたしかにレイプされたのだ。心を痛めながら抜く――その姿に興奮する己の性を呪いながらペニスをしごく。そういう感受性はないのか。


よく「ヤンデレは二次元に限る。三次元はアウト」とか言うけどさあ、あれも失礼だとは思わないのか。二次元ヤンデレに。二次元だからって人を人とも思わぬ扱いしやがって。


「心を痛めながら抜く――その姿に興奮する己の性を呪いながらペニスをしごく。そういう感受性はないのか。」とのことであるけれども。「心を痛めながら抜」いている男は決して少なくはない、というか、大変多いはず。

またしてもぼくは理解に苦しむ。それは「萌える」って言うのか本当に、ってのは繰り返すしになるが余談。おそらく、先ほどのレスにもあったとおり現実のセックスときっちり区別がついているからこそ、こういうものをネタ化してストレートに楽しめるのだろうけど、その感覚がまるでわからない。


ぼくの場合、二次元のこうした性的嗜好はすべて、現実の性欲と完全につながっており、まったくネタ化できないのである。もう隠す意味もないほどバレバレなので表だって書くことにすると、スカトロはぼくも大好物だが、これは現実においてもそうで、たとえば万が一ソープへ行く機会があったとしても、放尿以外の一切のサービスが不要というレベルの好物なのだ。それも二十年以上前から(本当だ)。すでにここ数年、それ以外のネタでは抜けなくなっていて、大変困っている。


ぼくがエロ同人誌で描いたのは片っ端から放尿ネタ、しばしばロリであるが、それは完全に、現実における性的嗜好の反映、自分が女性に対してやりたいことなのである。なればこそ、レイプ凌辱も痴漢・肉便器化も好まない。女性にそんなことをする趣味はない。それがつまりネタ化できないということであって、だからこそ、なぜこの女性たちが同性に対する凌辱を大好物と表明できるのか理解できないのだ。


「二次元ですから。以上。」と言われたら、再び、先ほどのコメントを返すしかない。


なぜそんなにあっさりと、二次元だから問題なしと割り切れるのか。


「なぜ」かと問うなら。私見を述べるなら。男根すなわちファルスの問題です。ペニスでなく。ファルスとは生物学的な性差に基づく本質ではなく社会的な概念なので、女性にもファルスを有する人はある。昔、岡田斗司夫氏が「私の心の中のちんこが勃ってるんです」という表現を周囲の「オタク女子」から聞いて途方に暮れた、という話を笑い話として語っていたけれども。


性的主体として「ファルス」を有する女性はある。そして。「私の有するファルス」に対して反省的でありうるか、「私の有するファルス」に対して反省的たらんとする発想がなぜ他人において欠如しているのか、男女問わず、ということが有村さんの問題意識でしょう。


経験的な私見を述べるなら、「私の有するファルス」に対して反省的な男は多いですよ。ことに知識人的な「オタク」には。皮肉で言っているのではまったくない。私は、反省的であったことはないし必要を感じない。SEXとは分別の問題と私が考えているからだろうか。むろん、分別の問題であることが厄介で難しい。反省的であることと批判的であることは違うし、反省と批判は違う。批判的ではあるからこうして記事を書いているのだろう。


そして。「何で女の身で」自身の有する「内なるファルス」に対して反省的になりえないか、という問い自体が、なんというか、ダブル・バインド的であるとは思う。有村さんは、男根の問題を男女の区別なく問うているのだろうけれども、順序において男根の問題は社会的な「男」の問題であって、「ペニスなき女の身であるにもかかわらず、なぜ貴方たちは自身の有する「内なるファルス」に対して反省的になりえないか、フィクションであれ「凌辱される女性の悲哀に」強姦される女性の苦しみに思いを馳せないのか」と問うことは、ましてペニスある男が問うことは、あまり筋の通ったことではないし、抑圧的に機能するうえ、「加害者性」と「被害者性」において、あたかも「内なるファルス」の有無に即するかのごとく、「女性」という存在それ自体を一方的に分裂させて取り扱う類の言辞ではある。


というのは。「加害者性」と「被害者性」において、ましてそれを「内なるファルス」の有無に即して、「女性」という他者的な存在それ自体を分裂させて取り扱うこと自体が、そもそも発想の罠であるから。「性的主体性に対するジェンダー規範の一方的な押し付け」という意味において。


ただし。女性にとって「内なるファルス」が外的かつ他者的な欲望であり自身のペニスと紐付けされないものである限り、有村さんのようには、あるいは多くの男のようには、実存としての「男の身」「男としての我が身」「ペニスと紐付けされたファルス」の問題とは、極端に言うなら「宿命的な業」の問題というふうには、考えないし、考えようがない、ということはあるだろう。


「内なるファルス」が「外なるペニス」として自身の身体に具現しかつ自らに自省を迫るものとして突きつけられているわけではない。そして、東浩紀氏が記した通り、欲望は裁けないし、規制しえない。また。内なる反省とは、倫理の問題であって、外なるペニスを持ち合わせない存在に対して、自身の内なるファルスに対する反省を、ことに性的な部分において迫ること自体が、自身の倫理規範に基づいた干渉行為と言わざるをえない。


「貴方は女性であるにもかかわらずレイピストの欲望に同調しあまつさえそれを持ち合わせているのか」と外なるペニスを持ち合わせる存在が言うのは、雑な物言いであるし、端的に言うなら、大きなお世話である。内なるファルスと外なるペニスの共犯関係というものがこの社会にはある。フロイト先生が喝破した通りに。

ひとつ気になったのは、「有り得ない爆乳」という単語やそれに類する表現がスレに出てくること。


きっとあまりに現実離れしていると、女性も自分と切り離しやすくなるのだろう。フィクションの快・不快など、所詮現実に近いか遠いかで判断されるのではないかと思えてくる。あとおそらく、現実に結びつく紐があるか否か。


フィクショナルな性的欲望は常に社会的な現実と密接な共犯関係にあり現実を模倣する。欲望の需要、その喚起と生成に際して先んじるのは常に現実である。――社会における内なるファルスと外なるペニスの共犯関係の一端。

「二次元ですから。以上」というひとには、ならばどこまでならばそう言えるのか問うてみたくなる。たとえば例の、女子高生コンクリート詰め殺人事件に酷似した筋書きの凌辱エロマンガを大好物と表明できるか? 氏賀Y太氏は一度ネタにしてたけど。ちなみにそういう実写映画が2004年に一度作られたが、「不謹慎だ!」「けしからん!」という抗議が殺到、公開中止に追い込まれている。いったい、現実の人間への配慮を欠いた、不謹慎なフィクションってなんなのだろう?謹慎だろうが不謹慎だろうが、フィクションは自由なのである。「失せろ三次元」という言葉を叫べるひとは、こういう抗議に対しても同様の台詞を放ち、フィクションを擁護していただけると期待しているのだが、さて。


一昨日の記事に引き続いてのリンクで申し訳ないけれども、buyobuyoさんの指摘から。


http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080415#p1


現実の凄惨な事件の公知を、私たちは性的な想像力の「引き出し」としてリファレンスとする。東浩紀氏がかつて用いた語彙を借りるなら「データベース」として。「データベース的想像力」の「引き出し」として。フィクショナルな性的欲望もまたその想像力の「引き出し」とリファレンスに依存する。換言するなら、「非現実的」な性的欲望もまた「現実」とその事象という参照項に規定される。


無から創造される虚構としてのポルノは、それが「非現実的」な内容であればあるほど、事実としての現実というリファレンスに頼ることなくして、認識としての「リアリティ」を喚起することは難しい――東浩紀氏の現在の議論を措くなら。現実というマトリックスなくして私たちは性的な仮想現実の夢を見ない。マトリックスと夢の回路が乖離の果てに切り離された状況を、「オタク的な想像力」としての「萌え」と呼ぶのだろう。


事実としてのリファレンスに裏打ちされた現実というマトリックスの意味と強度に、私たちの性的欲望は想像力の基底において担保され補完されている。繰り返すが。この補完関係が瓦解し、現実というマトリックスと性的な仮想現実が、見えるものと見えないものが、切り離された状況における後者を「萌え」と言う。


現実というマトリックスと、見えるものと、「三次元」と、切り離された性的な仮想現実、否、性的なもうひとつの現実としての「萌え」には「萌え」の愛があり、それは造物主の被造物に対する愛の相似を描くのだろう。だから、有村さんが「二次元の凌辱される女性の悲哀」に「二次元人の不幸」に思いを馳せることは、妥当だ。


「女子高生コンクリート詰め殺人事件」もまた、事実としての現実というリファレンスとして私たちの(性的な)想像力の「データベース」に加えられ再三の改稿を経て、私たちの社会における「データベース的想像力」の「引き出し」として重宝されている。私は悪質な冗談を言っているのではない。愛と性欲の架橋において、「リアルで強姦されて一生涯苦しみを抱えてる女性」に対して、あるいは「一生涯苦しみを抱える」こともかなわず殺された「三次元の陵辱される女性の悲哀」に「三次元人の不幸」に対して、「思いを馳せる」ことによって。


フィクションの「二次元人」の話ならまだしも結構なことと私などは思う。公知された現実の「レイプ陵辱」を「引き出し」としてリファレンスとしてデータベースとして増殖し続ける性的想像力とその二次三次創作は、ひいては内なるファルスを有する存在の愛と性欲の架橋点たる「萌え」は、既に私たちの性的な想像力の前提として在る。


欲望の需要は生成された。そして「現実」を裏書する類の「レイプ陵辱」フィクションが延々と調達される。性欲/支配欲処理の道具として陵辱されるためだけに存在する女性に対する愛=アガペーとしての「萌え」に応えるべく。このとき「女性」はデータベース的なキャラクターだろうか、それとも現実の女性(=「生身の女の子」)という存在であろうか。結論すると。綾瀬の事件の被害者は、性的に、かつ存在において、未来永劫「消費」され収奪され続ける、陵辱され続ける、死後も永遠に殺され続ける、人々の想像力の中で。


陵辱される生贄の子羊を、すなわち無垢性を、内なるファルスは性的な想像力において求める、いたわり思いやり哀れみ悼んでやるために。収奪され欠損した無垢な生/性を、悲しんでやるために。「思いを馳せる」「不幸を悲しむ」ために。「心を痛めながら抜く――その姿に興奮する己の性を呪いながらペニスをしごく」ために。「男」としての我が身を省みるために。だから。私は「心を痛め」たことがないし、己の性を呪ったこともない。


フィクションは現実を模倣する。性的なフィクションは性的な現実を模倣する。「萌え」に限定するとき、明示的なリファレンスなくして人はフィクションについて現実と接続する性的なチャンネルを持ち合わせない。然りてAVを現実に実践する類の「普通の人」の実情はもう少し悩ましい。その意において、むろん現実とフィクションは、三次元と二次元は、見えるものと見えないものは、ペニスとファルスは、無関係であるわけではないし、そのはずがない。欲望は裁けないが、想像力の罪は、たぶんあるだろう。その現実(=三次元)との共犯関係も。


ファルスの反映として。身体/肉体の回路を通すことなくイデアルな想像力において性的に自足する社会的存在としての人間の本質的な倒錯もまた指し示しうる。ゆえに「外なるペニス」の有無における男女差もまた必ずしも問題とはならない。身体/肉体の回路を通すことないイデアルな想像力が、すなわち「萌え」が、現実と回路を切り結びはしないと考えるなら、それは批判さるべきことだろうが、実際にはファルスとは社会的な概念であるがゆえに現実と回路を切り結びまくっている。


人類の歴史上の、無数の虐待と虐殺と収奪と陵辱を、私たちは想像力のリファレンスとしてデータベースとして「引き出し」として、集合的記憶のごとく保持している。性的な想像力のリファレンスにしてデータベースにして「引き出し」としても。


私たちはとうに身体/肉体の回路と切り離されたイデアルな想像力を性的に弄んでいるが、然るに身体/肉体の回路は死の瞬間まで存在し続け、自明の事実として存在を主張し続ける、内なるファルスの有無にかかわらず、他者との肉体的な交渉において、自身の身体/肉体とのデッドロックの挙句の交渉において、そして外なるペニスの有無という事実と社会的な現実として。


つまりは、私が押井守作品の世界観に乗り切れず、「ゲーム的リアリズム」に乗り切れないことの理由であるかも知れないが。私たちは「萌え」というイデアルな想像力のもと性的にすら自身の身体/肉体から疎外されているのかも知れないが、養老先生ではないがそれこそが脳の見せる錯誤ではある。結局のところ私たちは風に揺れる柳を幽霊と見間違えるのだ。社会的な前提に規定されて。人間の存在の条件として。むろん帰るべき身体/肉体のあるはずもない。


イノセンス スタンダード版 [DVD]

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もうひとつ。『はだしのゲン』のアニメ映画の、原子爆弾が炸裂するシーンがニコニコ動画にアップされているが、まあみなさんプリミティヴな怒りの感情をぶちまけていらっしゃる。それもアメリカ許せねえ! とかそういう方向の。史実を基にしているとはいえ思いっきりフィクションなんだけど、なぜ『ガンダムSEED』のように楽しめないのか? そこにある差は何だろう?


「そこにある差」というのは、そういうこと。参照項としての共同体的な集合的記憶が明示されかつ模倣が直接的であったり直截であったり現実の似姿であったりきわめて感情喚起的であったり「リアル」であったりすればするほど、私たちの想像力は直接的に喚起され感情反応もまた直接的となる。


単なる「陵辱エロマンガ」よりは氏賀Y太氏の作品の方が私たちの想像力は直接的に喚起され感情反応もまた直接的となるだろうし、結局のところ誰かが考え創り出したフィクションとそのキャラクターより、現実の虐待や虐殺や収奪や陵辱と、現実に存在した人間としてのその被害者/犠牲者たちの方が、よりいっそう私たちの想像力は直接的に喚起され感情反応もまた直接的となる。


そうした、共同体的な集合的記憶を、トラウマと言う。それをフィクションに「利用」することの意味と是非は、たとえばスピルバーグの『シンドラーのリスト』を引くまでもなく無数に議論されてきた。いやそれ以前に「犠牲者」に対する共同体の集合的記憶と社会的な追悼の相関あるいは共犯関係について、膨大な議論が所在する。確かに。日本社会は綾瀬の事件の被害者に対する社会的な追悼において、失敗しているのだろう。私的な追悼に留まることない社会的な追悼が、必要であろうとなかろうと。


「犠牲者」は「犠牲者」であることにおいて結果的にも無闇に「利用」してよいものであるわけではない。「犠牲者」を「犠牲者」であることにおいて消費する、時に性的な想像力において消費する、あるいは直截に性的に消費する、そうした営為が人間の社会的な想像力の前提としてあり、かつ社会的に意味を持ち機能しているとしても。またそれを欺瞞であり罪であると必ずしも告発しうるものではないとしても。それが「スティグマ」と呼ばれる概念の人類史的な問題であることは違いない。


残虐記 (新潮文庫)

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それは『ガンダムSEED』のようには、楽しめないだろうし、つまり竹田Pはその点において、失敗しているというよりほかない。私はひたすら楽しんでいるのだから。コードギアスR2も。ユダヤ人でない私が『戦場のピアニスト』に気が滅入ることと相違して。


人間の想像力は、現実に規定される。仔細は省くがそのことを前提として虚構構築の方法論を意識的に設定し名実ともに稀有の成功を収めているのが桐野夏生だ。むろん桐野作品のことではないが、個々人の性的なトラウマに訴求することを企図したフィクションには、それがポルノであろうとなかろうと、事欠かない。『羊たちの沈黙』もまた、そのような作品ではあった。


結局のところ。二次元であろうがなかろうがレイプ陵辱大好きなお兄さんたちの大半が、自らが現実に誰かに犯されたいと考えているわけでも、犯されて無問題と考えているわけでもない。例外を除き。自身の都合で弄ぶ性的な仮想現実に過ぎない。それをファルスの反映と言い男根主義と言う。


そして、ペニスの有無は社会化されたファルスとかかわりないので、欲望する主体がお兄さんだろうとお姉さんだろうと、ファルスが自明の前提とされる社会においてはなんら問題ない。むろん問題なくはない、が、問題として言挙げるなら、「女の身で」とか「なぜこの女性たちが」とか余計な枕詞は必要ないし、他意を含む。


社会的なファルスの問題は必ずしもペニスと紐付けされた問題ではないし、外なるペニスを有する者が責を負うべきことであるか、たとえば有村さんが責を負うべきことであるか、わかりかねるけれども、ファルスが自明の前提とされる社会の責は歴史的にも「男」の側にあるだろう。そもそも、ペニスとファルスをイコールとして考える人間が未だゴマンと在る世の中ではある。


追加記事の結語から。

ただ、あまりに多くのひとがその自由さを無反省に享受しているのを見ると、冷や水を浴びせたくなる。


「人それぞれ」で何でも片付けられてしまうことの気持ち悪さってないのだろうか。世の中のひとたちには。


怖いと言うか少し悲しい話。
高校の頃Aと言う友人がいました。
彼は一人でいる事が多く大勢でいてもあまり話さない子でしたが、何故か気があって二人でよく遊んでました。
Aは結構モテて告白されたりしていましたが、いつも断っていました。
よく俺と一緒にいたからホモなんじゃねーかとか冗談で言われてましたよ、俺が全くモテなかったからなぁ。
ある日有名なコンクリ殺人がテレビで話題になった頃「女をボコボコにして殺すって信じられないよなぁ」と言った俺に彼が見て欲しい物があると言いました。
彼の家に行きビデオをつけるとギニ−ピッグとか言うのがはじまりました、女の人に煮えた油をかけたりする今で言うスナッフなホラービデオです。
俺は気持ち悪くなって冗談は止めろと言うと、彼はビデオを止め「ゴメン、やっぱり気持ち悪いよな」と言い昔話をはじめました。
彼が幼稚園児ぐらいの頃、目の前で女性の飛び降り自殺があったそうです。
高さが足りずにしばらくもがいて絶命した彼女を見た彼は、死体や暴行され泣き叫ぶ女性にしか性的興奮を感じなくなってしまったそうです。
「だから誰とも付き合わないんだよ、俺っておかしいかな」と聞かれたけど、俺には何も答えられませんでした


昔、このコピペを初めて目にしたとき、私は呻いた。事実かネタかむろん知らないが、「お前は俺か」と笑う気にもならなかった。私は「彼」のような直接の「契機」すらなく気が付いたら当たり前のこととしてそうなっていた。また私は「彼」の年齢の頃には彼ほどの「自覚」を持ち合わせていなかった。「普通の人」の真似事をしてしばらくのち無理であると気が付いた。そのことの確認作業に10代を費やした。「普通の人」になることは諦めた。


現在の私は女に触れることすら自他のために厭うので、相も変わらず相手の他人との関係が困ったことになっている。「その気がない」ことはあるいは酷いことなのだろう。どう言ったらよいのだろう。たぶん、私にとっても貴方が必要なのだが。


キスは快であるらしい、恋愛関係において親密な肉体的交渉は欠かせないらしい、私はいまもってなおそのことがわからない。乞われるままに応えて何が楽しくなぜ必要かまったくわからず、杉本彩ではないが「セックスの不一致」を理由に別れたりしてきたが、そして長らく植物的な性生活を送っているが、というか性生活が物理的に失われたのだが、さすがに上のような「事情」を直接の知人に対して開陳する気には、あまりならない。


「気違い」扱いされる以前に、また引かれるのでもなく、単純に他人はわからない。そういう人間があることが。そういう人間にとっての個人的な倫理原則が。そしてそういう人間が「普通の人」の顔をして市井を生きていることが。他人を野獣の鬼畜のと表現する人間が私は素でわからない。「何も答えられませんでした」それはそうだろうと思う。高校生でなくとも。百万言を費やそうとも。またわかってもらいたいと私は考えたことがない。自分自身にとって必要な人であればあるほど。


他人のことは最終的に分かち合えないからこそ、分かち合えない一線において「人それぞれ」が換え難く貴重なのだろうと、私は思う。分別の問題とは、自他の分別と同時に、社会的な自己と性的な自己の相違、冷静と情熱のあいだということ。分別のない人間を私は好かない。むろん、有村さんのことではなく。