女を殴りたい男の気持ちを理解するために(あえて地雷原を踏む)


最初、増田で書こうかとも考えたのですが、私の文章には拭い難い癖があるし、腹を括って、ほのめかしメソッドを用いつつ、いささか放言します。真率な本音というものは、あまり人前に晒してよいものではない、という社会人の常識は重々承知しておりますが、sk-44はネット人格なので。というのも冗談ですと記さなければならない昨今。――ふざけていると受け取られても心外なので、追記。つまり、そのくらいに、(リスキーな話題にあえて踏み込もうとも)記しておかなければならない事柄であるとは、思ったということです。当該のエントリに登場する人物に対する第三者の反応として、単に侮蔑と嫌悪を表明して済む話では、あまりない。


http://column.chbox.jp/home/kiri/archives/blog/main/2007/01/24_004839.html

フェミとか女性尊重とかいう以前に、女を殴る行為って正当化するのが難しいように私は思う。一億歩譲って、男の頭の中の妄想として、女を殴る想像をするのは分からないでもない。レイプ志願とか、脳内彼女なんてのは誰しも経験し、ちんこ勃てるぐらいはすると思うから。でも、普通それを行動に移すか? 思っても行動しないのが慎みある社会人ってものなんじゃないのか?

そりゃ普通の女なら逃げますとも。私はそう思うんですけど。どうなんでしょうかね。だって好きになって情の移った人間から殴られるわけでしょ。個人的には百年の恋も一瞬で醒めると思うけど。(中略)私が女だったら速攻別れる。私が男でDV女と巡りあってしまったとしても速攻別れる。女が「今夜は殴ってくれないの」とか言い出したら途方に暮れる。それが通常のあるべき姿ではあるまいか。


切込隊長氏は理性の人だから、上記は率直な本音であると思います。理解できない、というのは理性の人として正しいです。しかしながら、隊長氏が準拠している「通常のあるべき姿」「慎みある社会人」という概念が瓦解、とまではいかなくとも有名無実化、というか外延としての形式残して内容空虚と相成っているのが、アメリカン・サイコアメリカン・ビューティーな現代の日本であったりもします。かかる現状に対する危惧が、見当外れの目隠しイノシシなバックラッシュとして一部で展開されているのもまた、世相。世を憂う論者の方々は処方箋を間違えている。


まず、混同していると思ったのですけれども、プレイとDVは定義としての前提において異なります。プレイなら御勝手です。合意のうえで密室において繰り広げてくれるなら。そして、隊長氏が描写している方は、明確にDVの範疇です。無自覚であるというのは困ったものですが(追記:「隊長氏が描写している方」のこと)、たとえば、隊長氏が記している「正当化するのが難しいように私は思う。」という見解は「思っても行動しないのが慎みある社会人ってもの」という、外的な社会機構と、成熟社会において構成員個々人の意識の枠組として内面化されるディシプリンとしての社会性とを、前提的な準拠枠としたうえでの非正当性の指摘であるのですが、そうした概念というか発想というか実感というかリアリティが、完全に、とは言いませんけれども、一部では御破産しているのが、アメリカンサイコでアメリカンビューティーな現代の「慎みある社会人」の情況であったりはします。あくまで、私の個人的な実感に過ぎませんが。


正社員の営業マンとして堅気の社会人を務めている私の友人は口癖のように、昔も今も言っています。頭の良い奴ではあるので、自己のリアリティを端的かつ的確に言語化し得るのですが、言語を用いて意識化し対象化することができなかろうとも、認識ないしリアリティにおいては、案外みな同じであるとも思います。曰く、社会性とは振舞いであって、振舞いでしかありません。


つまりは「対外的な体裁として外形的に形を繕う」ということ以外の「社会性」については、関知しない。留意すべきは一点、ボロを出さないこと。自己利益のために、制度と社会から制裁としてのペネルティを課されることのないよう、制度的な社会と敵対的に邂逅する局面を回避し外形において親和的な関係を築き、表面において融和すること。制度的な社会から、対立項としての列外性と逸脱性、すなわち「反社会性」を判断され明示的に認定されることのないように、外形において「振舞う」こと。以上。個人的な欲望と志向と嗜好と方向性については、外部に関知させるところではないし、関知させないためにこそ、「形を繕う」ための振舞いが現実的に要請される。


この場合、成熟した近代社会においてディシプリンとして形成され規定された善悪概念や倫理観は、個人の内部においては関数として機能しない。かかる規範意識の存在について、多少なりとも知恵のある人間は知るけれども。知らぬ人間が示す行動様式は時に理念型として、対外的にはDQNと名指される。知るとしても、友人のようには、その存在を借定して意識化/言語化することのない、すなわち対象化を実施したうえで自意識に組み込むという道程を経ていない、自覚なき人間は、およそ多い。多いけれども、認識と行動の方向計器においては、同型の外延を示している。内的な機構として対象化に至るか、すなわち括弧に括り意識のうえで相対的な位相に位置させるか否か、という分岐であるから。


更に放言します。生育云々の話は措くけれども、認識と行為に際する方向計器の原理において、暴力/暴力性を個人的に設定している人間は、成熟し安定した近代社会においても、それこそ教育の有無にかかわらず、一定数いる。うち大半の人間は、当たり前のことであるが、「慎みある社会人」として人生を送る。「慎みある社会」において、制度化されない暴力とは当然のごとくイリーガルであり、列外であり、反社会的行為である。であるなら、そうした人間にとって、あるいはそうした社会にとって、反社会的な志向を明示的に選択するのでなければ、制度化されない暴力とは、外部に提出されることなく、個人にあるいは密室に内向し、社会機構に保証された、社会機構の列外において密かに発露し発散される。その主たる舞台は、周知の通り、家庭であり家族であり配偶者間であり親子であり恋人であり制度化された愛である。社会制度として、既存の社会機構に拠って存在を保証された、プライベート(=私的領域)における親密な愛情という社会機構の列外。それはつまり、治外法権ということである。治外法権と思っている人間は、あまりに多い。


かような人間にとって、私的領域における親密な愛情という、物理的かつ感情的な密室は、「対外的な体裁として外形的に形を繕うための振舞い」を放棄する局面にほかならない。人生の息抜きという癒しは、慎みある社会人にとっては肝要である。自覚という、意識化と対象化としての認識の欠如した人間であるなら、酒席に際して生活実感としてのリアリティを率直にかつちょっと誇らしげに吐露したりはするでしょう。他人が引くことにも気が付かない、というか頓着しないでしょう。念の為に明記しておくと、私の友人は年上の恋人と同棲しているが、そうした志向もまた趣味も持ち合わせてはいない。自己拘束と自己規律が内的につね機能しているセルフコントロールマニアなので、というか性癖もない。


私にとっては、隊長氏が引いた話、というか相手は、珍しい話ではない、あまりに既知であったりする。あえて、メディアで見かけた事例を示す。以前「とくダネ!」を見ていたらDV特集をやっていた。隊長氏が描写しているような自覚なきDV男達の集団カウンセリング風景と彼らに対する取材が、VTRとして流されていた。むろんモザイクによって本人の特定はし得なくしてあるが、VTRに映る彼らはみな30代から40代、単なる事実というかメモとして記すのだけれども、若い男はあまりいなかった。集団カウンセリングを受けている彼らは一様に、いずれかの地点において自らの行為を制度的な社会機構から「問題」として判定されたあげく、社会機構から制度的な制裁を個別に課されるに至って、自らの傾向の「問題性」について、「問題性」として言挙げられることによって初めて、気が付くに至った人達である。以前は、彼らは自らの傾向を「問題」とはまったく認識していなかった、社会機構によって明示的な制裁を課される、その以前は。むろん、去っていった、あるいは一時的にも離れている連れ合いや子に対する未練もまた、あるのだけれども。


ひとりの、30代の男がレポーターに問われて語る。新婚旅行で連れ合いとUSAへ。ハネムーン先の米国にて連れ合いと喧嘩になって、いつものように頭に血が上って連れ合いを殴ったところ、警察が来て逮捕された。妻を殴っただけで逮捕されるとは、思ってもいなかった。認識不足だった。そう淡々と語る。彼の品行が今後「改善」されるのかはわかりかねるわけであるけれども、VTRを見ている限りにおいては、本当に萎縮し悄然と反省している、というか鳩が豆鉄砲を食らったかのごとく茫然自失しているように、思えた。当たり前のことがなぜ悪いとされるのか、異国での逮捕などという制裁を被り、カウンセリングの対象者と認定されることを、自身では想像することもなかったし、いまだに不可解なままのようであった。悪いとは思っていないオイタによって親からこっぴどく叱られてうなだれる子供のように。彼にとっての親とは、制度的な社会機構のことである。


私が、彼の証言を聞いて脳裏に浮かんだ言葉とは何か、不謹慎と顰蹙を承知で書く。外国で、それもよりにもよってアメリカで女を殴る馬鹿がいるか、ワキと認識が甘すぎる、タガが緩みすぎている、自覚が足りない、よって、女を殴るなら、少なくとも連れ合いを殴るなら、日本国内でのみ殴れ。明確に付記するが、私が記している事柄はすさまじくアイロニカルな、しかしおよそ間違いのない現状認識の話である。私はごく個人的にも、そして過去にも事例を幾つも知る。女を殴る男についての話を世間話として耳に入れる。それも殴られている側の口から。心を病んでいる人もあった。端的に、欧米諸国と比して日本は配偶者間に代表される私的領域における暴力に対して相対的に寛容であり、公的機関や社会制度の介入的な干渉に際してはおよそ消極的である、そしてかかる事柄が、社会の構成員の意識にも直接的な影響を与えている、ということです。かかる現状を相対的にも改善しようと志向し行動することに、私は同意することやぶさかでない。


ではなぜ、かかる不謹慎かつ顰蹙モノの言を記したか、上記のような証言に触れ、かかる事例と当事者的な事態の存在を知ったとき、多くの「暴力の当事者」はこのようにしか考えないし「学習」しない、ということです。つまり隊長氏による例示も借りて端的に言うなら、植草元教授の身空にはならないように、「うまく」やらないとね、と。反省と学習の力点は、そこにのみ置かれる。賢明に、うまくやれ、という内的な定言命法の発動に際して、前提される事項ならびに勘案される事情とは、現存する外的かつ制度的な社会機構の存在に尽きている。私的領域における自由を、社会機構の干渉から独立させること。独立を守り抜くこと。むろん、当人にとっての「親密な愛情」の対象とは、あるいは制度によって存在を保証された配偶者とは、私的領域の範疇に全面的に所在している。言うまでもなく当人にとって、私的領域において、あるいは「親密な愛情」の対象においては「他者」という発想はない。DVとプレイは異なるというのは、そうした話。定義されたDVに際して当事者間の「合意」という発想は、字義本来の契約的な概念においては存在しないので。


そして、個人的なリファレンスを記すなら、当該VTRのナレーションを務めていたのは○○○○(伏字とする、以下の固有名詞についても同様)という人であった。J-WAVE『○○○○○○ ○○○○』のナビゲーター。私は年期の入った彼女のファンなのであるけれども、毎日○○○○○○と息の合ったやりとりを繰り広げている「○○○」が、DV特集、女を殴る男達についての原稿を、あの声で読んでいる。いやむろん本人にとっては仕事でしかなかろうが、原稿を読み上げる最中の彼女の心中など妄想たくましくして察すると、ファンであるだけにサムシングが付加される。引かないでください、石も投げないように。なぜかような事柄を記しているのかというと、プレイとはむろん異なるけれども、いやそれがゆえにこそ、つまりは同意の不在を前提してこそ、DV、すなわち男女間の暴力に際して性的なファクターが、多く一方的に介在することは、必須事項でもあるということ。いるのですよ、別段サディストでなかろうとも、好きな男が。それも結果的に好きであったことに後から気付く人が。


結局は、認識と行為に際する方向計器の原理において、暴力/暴力性を個人的に設定している人間と、そうでない人間との、認識におけるある種の切断、という問題に帰着すると私は思っている。かかる相違に、生物学的にもあるいはジェンダー概念においても、性別は関係ない。ないけれども、行為と認識に際するに方向計器の原理において暴力/暴力性を個人の内部に設定することを忌避する/排斥する人間というのは、かかる事項を個人的に設定している人間が、というよりも、暴力自体の現実的な存在が、信じられないようでもあったりするな、というのが個人的には率直な感想である。断っておくと、隊長氏のエントリのことでは全然ない。現実の人生と実生活に際しての個人的な一般論。


信じられない、わからない、理解できない、と真顔で言われても、いや、現実に存在しているのだからさ、それも異国の大規模な、私達の多くにとっての非日常としての戦場でのことではなくて、今日も、成熟しているはずの社会のあちらこちらの(物理的/感情的な)密室において、個人単位に頻繁に発生しているミニマルな日常的暴力、私の隣の日常的暴力、あるいは私の日常的暴力であるのだから、存在とその蓋然を認めたうえで対処をせめて個人の内的な問題としては考えようよ、芥川龍之介の「侏儒の言葉」ではないけれども、土壌としての大地が存在する以上は、いくら樹を伐っても芽は次から次と出るのだから――「一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。無数の種子を宿している、大きい地面が存在する限りは」、とは直に言いたくなる人も、たまにいる。そして、ことそうした相手に対しては、直に言える話ではまずないから、こうしてエントリとして起こしている。


むろん、直接携わっている当事者ないし専門家にとっては当然の前提として共有されている認識であることは知っているし、敬意を払っている。とはいえしかしながら、たとえば、ボクシングや格闘技のTV中継(それもキー局のゴールデンタイム)についてすら、殴り合いの見世物なんて野蛮で嫌、そんなものは視界に入れたくもない、好きで観る人間の気が知れないと、べつだん格闘技ファンでもない私に面と向かって堂々とかつ平然と言った人に遭遇したこと、ひとりふたりではない。そして私の個人的な体験においては、そう公言した相手は皆、女性であった。なるほど免疫はないし存在自体を否定したいわけね、自らの視界に限っては、そしてそのことを言明したいわけね、文明人の証として、と私は思いはしました。


明記しておかなければならない。私は人生において女を殴ったことはない。頭に血が上ってつい殴るとか、そういう短慮な発想は昔からない。というか、殴る機会もモチベーションも必然も、ことに現在は持ち合わせない。かつ、腕もすっかり、それこそ女のように細くなった。べつだん非モテでもないとは思うが、好きでやっている単身歴はもう長い。最後にSEXしたのは何年前であろうか。しまいには、秋頃にはそれなりに悩んでいたので幾度も当ブログにおいて記してはいるのだが、20代にして勃たなくなった。現在もあまり変わらない。別に不自由はない。そもそも殴るも殴らないも、現在の私には、そのような体力も元気も性欲もない、相手が男であれ女であれ。肉体的かつ性的に強健であった頃から10年、すっかり青白い顔をしたうらなりと相成ってしまった。結局のところ、私は性的にも肉体的にも自らが枯れて衰弱したことを僥倖と考えている。物理的な限界とは、最大の安全装置であり、齢の功とは、欲望の安全弁を複合的かつ精妙に開発する、あるいはクロソウスキー的に。


自らの内包する恒常的なリスクに対して、意思的な制御棒を常に差し込む、そのことに拠ってのみ暴発を防ぐ、長年に渡る切実かつ持続的な要請からは、何年も以前に解放された。つまらないことで刑務所に行くつもりも絞首台に上る気もない、そうでなくとも、社会的な制裁を被りたくはない、(村上春樹の『アフターダーク』ではないけれども)その断片を知るからこそイリーガルな私的暴力の領域に率先して接触したくはない、つまりは、処世と精神のバランスに鑑みて、10年を超える試行錯誤と葛藤の末に、ベターかつ穏当な選択へとなんとか辿り着き、退嬰的で安全で植物的でスタティックな生の精妙なる味わい、すなわちFlavor Of Lifeを、それなりに堪能して日々淡々と地味に暮らしております。以上。なお。

そりゃ普通の女なら逃げますとも。私はそう思うんですけど。どうなんでしょうかね。だって好きになって情の移った人間から殴られるわけでしょ。個人的には百年の恋も一瞬で醒めると思うけど。


殴っている当事者にそうした発想は存在しません。私的領域に属する事項において他者との立場の置換性などといった問題設定は捨象されています。捨象しスルーするために用意されている私的領域です。そして、認識において魚心あれば水心というのは、悲しいかな時に現実として存在します。それを共依存とも、あるいは根本敬的にトリコ仕掛けの明け暮れとも、呼んだりしますけれども。精神医学に準拠した命名というのは、現実的な機能と効果において肝要です、本当に。