補記として(都筑てんがさんへ)


都筑てんがさんへ - 地を這う難破船


都筑てんがさん、大変お待たせしました。またしてもレスが遅れてしまい、申し訳ありません。また、当方の長大なエントリについては、困惑させてしまったようで、お詫びいたします。


私の書き方に問題があったと思いますが、都筑さんに対して喧嘩腰であるかのように取られたなら、当方にその意図はありません。私なりに、真面目に答えたつもりです。以下については、レスを求めるものではむろんありません。都筑さんをこれ以上困惑させてしまうのは、私の本意とするところではありません。反省もしています。


ただ。どうしても書いておきたいことが、お伝えしておきたいことが、ありました。

今回の事件で、「他人は当てにならない、当てに出来ない」という事を再認識しました。


自分が誰かに助けを求めて、その人が殺されたら、自分は責任を取れるのか。


その人に妻や子供などの家族がいるかもしれない。
自分のせいで、その人たちを悲しませるかもしれない。
そういう事が起きたら、自分は責任を取れるのか。


都筑さん。そういうのは、「責任」とは言わないのです。だって。もし、被害女性が「誰かに助けを求めて、その人が殺され」ていたら、被害女性は「責任を取れるのか。」とか、言わないし思わないでしょう。社会が、被害女性に「責任」を負わせると思いますか。被害女性を責めると。


私は、あるいは多くの人は、そのような社会に対して否と思うからこそ、連帯と友愛を市民社会の基盤として、それを寿ごうと、時には言行によって示しています。それは別に正義漢面でも英雄面でもない。私達自身の、精神衛生のためです。そのような殺伐とした社会に、少なくとも自らの所属し生活する社会におかれては、私達は暮らしたくないと、エゴイスティックにも思うためです。宮台真司の言を拝借して言うなら、エコロジストの自己満足と所詮は同様です。「魂」の問題。


宮台節をさらに拝借するなら――自らの視界にゴミが落ちていたら、たとえ自らのゴミでなくとも拾って捨てたくなる。私達が私達自身の精神衛生のためにもゴミまみれの社会に暮らしたくないのであるなら、個人におけるゴミ拾いというエゴイズムは社会の合意とそれに基づく制度において担保されてしかるべきです。むろん、エントリにおいて記した通り、何をゴミと見なすかという問いとその合意が私達の社会において前提として問われます。


都筑さんがそのような「責任」なるものを、「自分は責任を取れるのか」などと、前提的に考えてしまうことが私にはわからない。都筑さんを批判しているのではまったくありません。糞のごとき「自己責任論」の蔓延ゆえのこととしか私には思えない。私の辞書には「自業自得」や「覚悟」あるいは「手前の尻は手前で拭け」「手前の始末は手前で付けろ」という語句は記載されていますが、「自己責任」という言葉は存在しません。


都筑さん。宇多田ヒカルの『誰かの願いが叶うころ』ではないけれども、私達は、こう言ってよいなら、必然的に、誰かを、あるいは誰かの妻や子供を悲しませて生きているのです。生きている限りは。それは端的な事実性です。いわゆる南北問題や搾取構造のことではない、顔を知る誰かや誰かの妻や子供のことです。


そして。法的に問われない「責任」なるものに、履行義務など誰にも存在しないのです。しかるに。履行義務なき「責任」らしき何かに対して、如何に向き合うかということが、その人の倫理的なる生き方であり、私達の社会における合意の在り方です。


端的な事実性として、私達は、必然的に、誰かを、あるいは誰かの妻や子供を悲しませて生きている。そのときに「他人は当てにならない、当てに出来ない」として割り切ってしまうか、あるいは、誰かの妻や子供を必然的に悲しませている私達の生のその無数の集合において、永劫に発生し生成され続ける誰かの悲しみを、私達が、幾らかばかりの個々の持てるリソースを主体的に調達し行使して、わずかであれシェアせんと志向していくか。


そのためにこそ、公共財として社会が形成され、近代化の過程において、歩み続け成熟してきました。「誰かの願いが叶うころ」――に泣いている、あの子の涙を、誰かの、あるいは私の「叶った願い」のひとかけらによって、わずかばかり拭って、物質的/制度的に贖うために。むろん、それは希望であって、現実は宇多田ヒカルが歌った通りです。ことにリリックの結部の1行。日本においてさえも、都筑さんの認識する通りであるかも知れない。だから、それはエコロジストのエゴイスティックな自己満足でしかない。


行為の蓋然する事柄について、因果論のもとに予見的かつ恣意的に召喚される「責任」概念とは、言挙げるなら犯罪的な暴力としか私には思えない。私ならそのような発想は即刻棄却します。繰り返しますが、私は都筑さんを批判しているのではありません。違う。そうではない。なぜ、都筑さんはそのような詐欺まがいの「責任」概念のもとに、「そういう事が起きたら、自分は責任を取れるのか。」などと、起きてもいない事柄について、自らを責めさいなむのですか。


それは「責任」とは言いません。まして「責任を取れるのか」などという問題設定はありえない。現実の暴力にさらされている人間が他に助けを求めることに前提的に「責任」が付随するのですか。法的な「緊急避難」とは何のためにあるのですか。助けを求めるという行為の結果的な蓋然を事前に前提せよ、と要求し得るのですか。それは、とんでもない暴力であり抑圧です。典型的な「自己責任論」です。「責任」を問う者があることはあるいは構わない。しかし、助けを求める当事者がそのようなことを考える必要はまったくない。


自らが助けを求めて結果他人が死んだ、そのことに負い目を感じるとするならそれは自由です。個人の倫理的な範疇に属することであるなら。ただし、そのことについて非当事者としての他人が社会が「責任」の名のもとに社会的な「負い目」を刻印しようとすることは、とんでもない暴力であり抑圧であり、私はそのような社会を是とはしません。


私は――臓器移植をめぐる問題に、行きがかりから言論において関わったことがあり、また関わった理由も存在するので、そうした問題については見解があるのです。


現実の暴力にさらされた者、死んだ者の妻や子供、助けを求めたばかりに人を「死なせてしまった」と自らを責めさいなむ「生き残った」者。そのような、暴力に傷ついた人達の涙を等しくわずかに拭い物質的/制度的に贖うためにこそ、構造的に暴力を育む、連帯と友愛を基盤とする私達の社会は存在している。


「他人は当てにならない、当てに出来ない」と都筑さんが思い、かつ言明することに対して、私は何も言えない。全面的にではありませんが、認識的に、同意します。


ただ。そこから先の価値的な方向において、分岐するようです。私は、リベラルとは言い難いけれども、ごくざっくりと言うなら、現行の社会を複雑精緻化した相互互助機能/機構と捉えるのです。「他人は当てにならない、当てに出来ない」なら、現実の暴力とその脅威に接して、「「力なき正義」「弱者」であり「被害者予備軍」である弱者」が、相互的に「他人を当てにし得る」余地を、社会的かつ制度的に担保するべき、と私は考えます。『アンダーグラウンド』が描いた、地下鉄における凶行を、私は憶えているのです。


構成員間における連帯と友愛の社会的な合意なき社会において、法治は機能することなく、ゆえに端的な自己責任論と弱肉強食へと帰結する。市民主義を原則とする立場においては、それを是とすることはできません。


他なる誰かの個別的な痛みと悲しみを知りそのことに思いをめぐらせ、その涙をわずかにでも拭い物質的/制度的に贖うためにこそ集団的なリソースを調達し行使する、言葉は悪いけれども、物心両面から。たとえ理想論であったとしても、それが市民社会の機能であり、孤立し弱く脆く傷みやすく壊れやすい私達の、意味も価値すらもなき小さな生が、実際的にかつ価値的に、それを要請した所以であったと思うのです。


過酷な環境において、人は群れによってしか生存することのかなわなかった。群れることによって、互助されシェアされ調達され相互に補填されたものとは、衣食住に限ることのなかったはずです。他人の尻を拭くためだけでなく、他人の涙を拭うためにも、私達の掌はあって、他人の尻と涙を拭うために、掌を用いんとする者に「責任」という価値的概念が付随する。


他人の尻と涙を拭う要のない社会において「責任」概念とは機能しません、というより、要りません。自らの尻と涙を拭うことは「責任」とは名指されない。そして、そのような社会は、端的な事実性として、未来永劫存在することのない。だから私達は「責任」に追われ続ける。自らの尻と涙は、誰も掌を差し出すことのないなら自ら拭う意外にない。


自らの尻と涙を拭うために緊急に他人の掌を借りようとすることは、結果の如何にかかわらず、「責任」を召喚するものではありません。「責任」とは社会的な概念であるからです。


言葉の話を私はしているのではありません。社会の機能に対して期待することのない人が、なぜ法的に問われることのない社会的な概念を気に病むのですか、ということです。それは転倒であるし、絶望しきってはいない、割り切っていない、ということです。


私達の掌が、自らの尻と涙に限ることなく、他人のそれを拭うためにもあって、誰かが他なる掌を希望し、対して誰かが自らのそれをわずかにでも差し出し、社会において合意の形成された公共的なリソースとして、社会の合意を経た任意の誰かの尻と涙を拭う掌が担保される。そのような社会を、私は是とするし、いまなお世の人の多くはそれを望むであろうし、そしてそれが全壊しているなら、社会オワタ、ということです。――終わっていませんよ。


もし本当に社会が終わっているなら、この程度の荒廃で済むはずがない。そのことだけは、私は言いきれる。他人に期待しない者が、社会に期待することはできないし、法とその執行に期待することはできない。こう言ってよいなら、日本社会の民度と成熟度を、私は十二分に信用しているのですよ。時に楽天的なまでに。


――はっきりと言うなら、私自身はまごうかたなく『ミスティック・リバー』に描かれたような世界観と価値観のもとに生きています。これはもう昔からの習い性なので仕方がない。


だから、ステーキフランチャイズの事件に接しても思うことはない。そして、であるからこそ、公的には「あるべき論」をことさらに言挙げているところがあるのです。それが「端的な事実性」を時に括弧に入れた書生論に過ぎないことを、私自身がよくわかっていながら。


有志の方の作成した、東浩紀氏の講演録からの引用です。質疑応答より。


2007-02-19

「他者への共感可能性は持たなくてもいいのでは。なぜ必要なのか」
「人間は生物的に増えるから。
 世代的連続性、親からの遺産があるやつ、悲惨なやつ、本人には理由が無い
 特定の児童がランダムに虐待されている
 人は平等でスタートしていない
 この歪みを戻すために共感が必要
 虐待は正義じゃない
 親であるから引き受けていることなどは合理性で動くことではない
 この歪みのなかで不幸な人たちになっている人に対する共感がなかったら
 経済的な保証をするシステムを作るだろうけど
 人生の歪み、ランダムで起こる何かに対しては保証できない
 そういうものを埋め合わせるために共感や身体的連続性が必要
 もしみんながアトムな主体であれば共感は必要ない
 まだあまり考えていないけどもうちょっと巧く言えるのではないか」
「偏差を認識しなければ埋めようとする意識も働かない
 埋めて欲しいという意識も働かないのではないか」
「他者への共感は個人レヴェルでは必要ないけど
 種のレヴェルでは必要なんじゃないかな
 群になって生きていってずるずる続いていく
 これが安定して生きていくために必要なのかなあ
 まだよくわからない
 親は誰にでもいるから身体的連続性は持たざるを得ない
 これが徹底したリバタリアニズムへの抵抗点になるのではないか」


特定の児童がランダムに虐待されているとき、されてきたとき、歴史的に、され続けてきたとき、その「端的な事実性」と向き合うことなくして、社会の在る意味はありません。そして、言いきりますが、私達は、社会を必要としているし、法や制度の外部に所在しそれらを支える、基盤としての連帯と友愛を志向している。


誰かの願いが叶うころ」に泣いている、あの子の涙を、幾らかでも、社会の見えざる掌によって、拭うために。包摂するために。ランダムで非合理な、生身の人の、歪みと痛みと憎しみと悲しみを。


再三の非礼にして直截な言、大変失礼しました。



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