「お前が言うな」という指摘の本質


追記:リンク追加しました。


阿部知子の最新人気記事 19件 - はてなブックマーク

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Kojii.net - Opinion : 社民党にだけはいわれたくない話 (2007/1/22)


幾つかの方面において、知らなかったというコメントが散見されたことに驚いたが、年若い方ならやむを得ないことであるとも、思う。12年前の出来事だ。私もまた東京の未成年の学生でしかなかったが、当該の発言をめぐって、現在各所から指摘されまくっている事柄は、当時すでに散々に取り沙汰されていた。時の首相の政治的な信条が判断に際して間接的に介在したのか、むろん最終的には保留するしかないのであるが、政府の対応は多くの批判を浴びた。被災地のみならず、時に無責任であった東京のメディアにおいても。


無知はそれ自体では咎とはならない、認識不足を指摘されることは恥とはならない、私はそう考えるが、とはいえ私よりもふたまわり以上も年上の、現職の国会議員である以上、所属政党にかかわらず、認識の不足から、恣意的かつ操作的な誤情報と受け取られてもやむを得ない事柄を記してしまいました、で済む話ではまったくなかろう。幾度かTVでも拝見していたけれども、この人は、無自覚ではあったのでしょう。であるなら、致命的な認識不足としか、言いようがない。あまつさえ、自らの御粗末な認識不足に基づく発言が、他者の感情を決定的に害する、という可能性に、少なくともWebにおいて発言するに際しては、想像もつかなかったものであるらしい、この現職の国会議員は。喚起された怒りは、あまりにも正しい。


「お前が言うな」というのは、べつだんいわゆるダブスタの指摘というよりは、発言者の端的な認識不足を指摘する言であろう。自らの準拠する文脈から発された言説が、他なる文脈から如何様に判断され得るか、想定自体が時には無であったりする。かかる想定を認識において前提するなら、自らの言説とその準拠する文脈の正当性/妥当性を担保するために、無知/認識不足に対する自己点検が常に為されなければならない。およそ操作的な誤情報と判断されてやむを得ない言論を公的に発信しその旨を指摘されたなら、かつ、かかる行為に対して恣意や悪意を疑われかねない状況/構図が発言者の責において存在する以上は、まして発言者が公人であるなら、事後の対処に際しては注意深い適切性こそが期されなければならない。べつだん、Web云々ではなくて、言論のルール。


阿部知子議員が証拠隠滅を図った模様 : 週刊オブイェクト


今回、阿部議員が示した対応はといえば、恣意と悪意と確信犯性を認定的に疑われてまったくやむを得ないものであったわけです。おそらく出発点においては、確信犯ではない、単なる無知と認識不足に大半の理由を帰し得るものであったと私は思うけれども、自ら弁明ないし釈明ないし開示的な説明を、放棄したと判断されて完全にやむを得ない。秘書の池田氏は、少なくとも、ブログ自体を削除するべきではなかった。あの1000に至ったコメントのログは、絶対に、後々まで残すべきであったと、私は強く思う。魚拓は残っているけれども。少なくとも――結局は最後の日付となったブログエントリに記されている通り、公的なJobに携わっているという意識があるのであるなら。ないというなら構いません、自由です。


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私ごときが言うことですらないけれども、証拠と記録を自らの意思において完全に消去し確認不可能/検証不能にしておいて、悪意に満ちた誹謗中傷の殺到によって炎上しましたという言は、もしもそうした言辞を以後、用いるのであるなら、ということですけれども、少なくとも対外的には、通るものではありません。私は1000に至る書き込みを削除以前に読んでいる。阿部氏においては、Webにおける言説の発信に際して無知とか、そういう問題でもない。自らの準拠する文脈から発された言説が、他なる文脈から如何様に判断され得るかという想定自体が時に無であるということは、つまりは、多くそうした認識が温存され得る状況の中で活動し言説を発信してきたということなのでしょうね、この政治家は。むろん、社民党に限った話ではないことであるし、この議員については、イデオロギーの問題でもないという気がするけれども。つまり、糸山先生とほぼ同様の話。かような認識を、夜郎自大と表したりもする。


内輪に向かってのみ言葉を紡いでいればよいというものではないというのは「ネット内輪」に対してのみ示し得る問題意識でもないし、支持者という贔屓筋に対してのみ政治家は言葉を発していればよいという状況に対して、相対化の一撃を加えるのが、Web2.0であったりもする。これもまた、政治家に限った話でもない。ないけれども、仮にも国会議員であるのなら、指摘を被った発言の具体部及び事後の対応に限ったことではなく、あらゆる意味において、認識の不足にも程があるとは言える、この社民党の所属議員は。認識における致命的な不足ないし欠落と、かかる認識不足が部分的にも許容されている状況というものが、今更ながら改めて、あまりにも典型的かつ類型的かつ代表的に露呈したということが、今回の一件の意味ではあったのであろう。


私は生まれも育ちも東京である。99年の3月に、神戸に滞在していた。須磨の海浜水族園や、神戸ポートピア、明石の天文科学館、宝塚の手塚治虫記念館、そして大水槽のジンベエザメで有名な大阪天保山海遊館と、要所要所、今でも鮮明に光景を思い出すことができる。傷跡も。当時、若さゆえの人生の困難に参っていたためであろう、風が冷たく陽が暖かい早春の、記憶の風景は今もってなお、何よりも鮮烈である。およそ数週間の通りすがりにとっては、素敵な人と風景の港街であった。神戸出身の友人とも、後に知り合う。当時は開館していたので、訪ねた。


阪神・淡路大震災復興支援館


昨年、連載終了した『神戸在住』は、連載当初からの愛読マンガである。西村しのぶも。私は当時の報道を、政府に対する批判を、そして東京のメディアの風景を、克明に覚えている。このような件は、追及されなければならない。「記憶と体験を語り継ぐ」という言葉は、戦争世代の専売特許としてしまうべきものではない、私のごとき若輩の世代にもまた等しく要請される、あるいは義務であり債務なのであると「エヴァ本放送当時の世相」等について実生活にて年少者に向かってしたり顔で解説していた私は、初めて真面目に思い至った。まずは、ファクトから、継承し啓蒙しなければならない。関係者のすっとぼけを許さないためにも。事実の僭称と、情報の操作というのはろくなものではない。無自覚になされたものであるなら、ましてやらかしたのが現職の議員先生であるなら、なおさらに。