グッド・エデュケーション


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殴るな! - good2nd

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080712/p1

オースペのブログ 2棟目

あいかわらず「体罰は必要」とか言う人が多いけど、「必要」じゃなくて単に殴りたいんでしょ?それなら「ムカつくガキを殴りたい」ってハッキリ言えばいいのにね。だって体罰なしでちゃんと指導してる先生はいっぱいいるでしょ。殴るのは、それ以外にマトモな指導ができない「技能不足」だろ。情熱だけでは職業人としては不足だよ。知ってた?


自分が子どもの頃に殴られてよかった、と思ってる人は、会社で部下や後輩が遅刻してきたら殴ってみるといいよ。それが「正しい指導」なんでしょうから。それとも「大人は殴っちゃいけないけど子どもは殴っていい」と思ってるのかな。圧倒的に立場が弱くて、83人もいながらたった一人の教師に抵抗することもできない、そういう状況に置かれた子どもを一方的に殴るのはいいの?それが愛?

殴るな! - good2nd

大体、行儀の悪いお子さんなんてコンビニの前にたくさんいるだろうに。そんなに体罰がすばらしいならお前らも自分で体はって指導しろや。出来もしない、やりもしない、やったこともない、やればどうなるかもわからない、何の判断の根拠も持たない奴が擁護してるんじゃねーよ(怒)


もちろん、俺はやるよ。駅前のコンビニの前の灰皿んところでプカプカふかしてたむろしてる中学生グループ見たら喧嘩売るよ、ガン飛ばすよ。っていうか、3回ぐらい売ってみたら、コンビニの前から灰皿がなくなりました(笑)


もっと武勇伝聞かせてやろうか?お前ら俺も礼賛しろ。

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080712/p1


この手の話に「元気があっていい」以外の感想がないのだった。手が腫れるどころか私なら早々に骨折している。疲れないのかね。そして、そのような考え方こそ一番まずいし無責任ではないかと自分を省みて思う。私は「教師には」殴られたことがない。怒鳴られること理不尽な仕打を受けることは始終だったが。私が進んだ中学は宇和島の公立でなく都心の進学校で高校に上がって早々にばっくれて以降教師なる存在と出会うこともなかった。仏に逢うては仏を殺しとはよく言ったものである。


とはいえ結果的にも、共同体から切り離された都会の子供にとって教師とは「世の中いろんな大人がいる」ことを学習する最初の対象であることは違いない。その「いろんな大人」は多くネガティブを含意するが、そうでないことだってある。というか、ネガとポジが裏表であることを子供は教師のそのあまりに人間らしい姿に学ぶ。


流石に多く泰然自若たる年配教師におかれてはそういうことはないが(不意に帰ってしまうような人や自分の世界しかないような人は幾らもいた)、若い人なら、教壇で切れたり教壇を蹴っ飛ばしたり教壇で立ち往生したり教壇で泣き崩れて教室を飛び出したり教壇で授業そっちのけで滔々と我々の全然知らん作家の悪口を言い続けたり、あぁ最後の人は年寄だったけれども、様々な浮世離れした変わり者の大人を私は縁あった教師たちに見た。当たり前だが少年課の刑事とは佇まいもまた言うことも違った。


結果、むろん私は教師にはならなかったが、浮世離れした変わり者であっても何とか生きていけること、社会的摩擦と人間的摩擦の中悲鳴を上げつつ時に向精神薬をやりつつも懸命にであれ生きてはいけること、それを彼ら彼女らのチャップリンのごとく滑稽だったりそれでも格好良かったりする姿に学んだ気がする、結果的にも。彼らも大変なのだなということくらいは子供でもわかるものである。そのことに配慮できるかは別として。まして私はチャップリン好きだった。生き難さを持ち合わせる人間は同類を看破するに目ざとい。世間と混じりえない浮世離れの退避所と私は彼ら彼女らにとっての学校を考えていた。別にそれで構わないと思う。


以前も書いたが、私は殴られて育ってよかったと思っているが、他人にそれをやる気はない。その意味も意義もない。そもそも元気がない。私のような人間を再生産したいとも思わない。「子供に殺しを教えることだけはごめんだ。世界中の子供が正義だといって、殺しを教えられたら、いつか世界中の人間は絶滅するだろうな」と言ったのは『アドルフに告ぐ』のアドルフ・カウフマンだった。むろん、カウフマン自身は、自分が育ってきたようにしか生きられないのだが。


アドルフに告ぐ 1 (ビッグコミックススペシャル)

アドルフに告ぐ 1 (ビッグコミックススペシャル)


いつも思うことだが、教育現場における体罰肯定論ないし容認論とは、公教育において暴力を導入することの是非、ということか。それ無理だろう。「暴力の教育的効果」という議論はあってよいけれどもグロテスクな議論になることは違いない。統計とか出すのかね。統計は知らんがむろん暴力に教育的効果はある。ただその場合、教育の意図と意味と目的と効果が問われるとは思う。


フルメタルジャケットだって教育であることには違いないが、ハートマン軍曹を教育者と呼ぶには憚るだろう。世に言われる「教育者」とはそういうものではないことになっている。「身体に教え込む」ことを是とする教育を近代教育は確か否定しているはずだが。帝国陸軍のビンタでもあるまいし。少なくともそれは公共セクタにーおいてやることではない。


つまり。教育現場における体罰肯定論ないし容認論とは、公教育において暴力を導入することの是非や暴力の教育的効果について検討しているのではなくて、端的に教師の暗黙の裁量権を問う議論なのだろう。ところで近年はそうでもないらしいが(私は免許持ってない)昔よく言われていたように自動者教習所の教官が横柄なのはハンコ握っているからである。


2005-06-16


私の妹は公立中学のとき、担任に嫌われ内申書を人質に取られて反撥するにもきつかったらしい。無事進学して現在大手企業勤務だが、非対称の力関係は前提、ことに公立中学でまともに進学を考える堅気の生徒にとっては。「2年生の男女83人全員」に対して「指導」を行った件の先生は学年副主任だった。すべての中学生が猛り狂ってサカリ狂っている野獣であるわけではない、当たり前のことながら。


教育現場における教師の裁量問題として体罰論争を考えるとき。引用の話にはなる。

いや、学校教育法で体罰は違法になっているようなんだけどね。現場の教師たちに葵の御紋のごとく法律をひらけかしたところでどうなるって思うんだよ(そんなもん、宮崎知事がひっくり返しちゃうよって。)


せめてほら、「体罰なんてすんじゃねーよ!かわりにこれこれ、こーゆー解決方法があるだろ!」って提示するのが良識派ってもんだろうと思うんだよね。

オースペのブログ 2棟目


以下私見と断るが。「圧倒的に立場が弱くて、83人もいながらたった一人の教師に抵抗することもできない、そういう状況に置かれた子どもを一方的に殴るのはいいの?それが愛?」ということについては、たぶんそういうことではない。「殴るのが愛」ではなくて「愛があるから殴る」という話だろう。なぜか。


冒頭の話に戻るが、たとえば私はbuyobuyoさんの武勇伝を「元気があっていい」と思うし、よくそこまで「あっしにはかかわりあいのない」子どもに付き合えるなとも思う。素晴らしい公徳心と思う――むろん皮肉でなく。自分の商売が直接に絡むならまだしも、普通は得にもならんのに。私は行きつけのコンビニでも子どもは子どもでその世界というふうにしか思わない。子どもには子どもの世界がありそれは自分もかつて通過した場所でありいちおうの分別付いた年齢になってその閉じた世界にかかわる必要があるだろうか、と。


「そんなに体罰がすばらしいならお前らも自分で体はって指導しろや。出来もしない、やりもしない、やったこともない、やればどうなるかもわからない、何の判断の根拠も持たない奴が擁護してるんじゃねーよ(怒)」――だから私は体罰を素晴らしいとは思わないけれども、buyobuyoさんの身体張った指導は素晴らしいと思いますよ。というのは、結局のところそういう「あっしにはかかわりあいのない」普通は得にもならんことを誰かがやらなければならないし引き受けなければならないのが大人の社会であり子どもを包摂する共同体であるから。


そして近代社会はそれを制度的に共同体からアウトソーシングすなわち外部化することによって成立している側面がある。それはたとえば地域間や階層間の教育格差を国家が敷設する制度的公教育において是正するためにも当然のことではあるけれども。そして親は「あっしにはかかわりあいのない」はずがない自分の子さえ制度的公教育に丸投げしている、というのが実情は措き現在の所謂モンスターペアレント問題の様相だろう。


金八先生における「腐ったミカン」とはそういうこと。本来なら『AKIRA』のごとく一括して「青少年高等職業訓練専門学校」にでもブチ込んでおけば宜しい出来損ないの子どもを誰かが全人格的に引き受けなければならない。腐ったミカンの隔離場所なく地域社会や家庭をそうするわけにもいかないとき、挙句コンビニ前で煙突立てて「野生動物が山から降りてきて農家の畑を荒らしています」な状態であるとき、あまつさえかつてのリオのようには警察と住民が銃を手にハンティング日和というわけにもいかないとき、彼は彼らはミカンではないとその人格を認めて向き合うべき人が必要である、ということ。


ライ麦畑のキャッチャーではないが、誰が腐ったミカンを社会からそのように見なされている存在を引き受けるかすなわち自身の人格をもって躾けるか、ということ。そして躾けるとは規律訓練を涵養するということ。たとえば少年院がそうであるように、そのとき空間的/時間的強制が伴うことは仕方がなくもある。むろん社会の誰も引き受けないなら代わりにキャッチャーとして裏社会がその器量をもって躾けるだけのこと。それがまずいから良きキャッチャーのその裁量権が問われている。良きキャッチャーとは相対問題であって社会にとって任侠よりは良きキャッチャーだろうと。 任侠道の方が社会にとっても良きキャッチャーと社会が言うならそれで構わない。


教師が「聖職者」と見なされたのはこと信仰なき戦後日本社会において道に外れんとする者に対するライ麦畑の「良きキャッチャー」としての倫理的使命を委託されて教師が配置されたということ。実態の問題ではない、構造的にそうなってしまうということ。そして誰もが知っていながらほっかむりしてもきた実態と構造の乖離が限界に達しているのが現在の教育崩壊とも言われる事態の意味だ。


戦後日本社会にとっての「良きキャッチャー」としての「聖職者」たる教師像が理想に過ぎないことを逆説として指摘してきたのが小山内美江子作の金八先生であった。それを見て真に受けて教師を志した人が多くあったことはあるいは皮肉であったのかも知れない。武田鉄矢本人が誰よりも真に受けていることは皮肉でも何でもなくシリーズ継続をもたらした僥倖である。


少なくとも義務教育段階における教師とは人格的な職責を負うべく期待されている。それは過大要求であるかも知れないが仕方がないことでもある。職責における人格性を要求しているのは社会の側である。腐ったミカンのキャッチを共同体から制度的公教育へと歴史的にもアウトソーシングしてきた社会の側だ。むろんそのこと自体は妥当と私は思う。御陰様で私は公教育においてキャッチされたことこそないが読み書きはできる。


では。そのような社会が職責において要求する個人の人格に基づいた躾すなわち規律訓練において偶発的にも暴力が介在したときそれを社会は「聖職者」たる腐ったミカンのキャッチャーの個人性に帰責して人格的な裁量として認めるか。すなわち、制度的公教育においてその外部を教師個人の人格的な裁量として認めるかという話。教師が「聖職者」であるがゆえに。


経過観察的には、オースペさんが指摘する通りのことになっていると、統計は知らず私の印象では、思う。それが世界の選択なのだろう。いや日本社会だが。なお「あっしにはかかわりあいのない」腐ったミカンのキャッチを延々と制度的な外部へと委託し丸投げし続ける美しき日本国の伝統はこれもオースペさんが指摘する通り容易に東国原宮崎県知事の発想へと行き着く。ビバ徴兵制。

どうなんだろうねえ。。また世論が体罰容認に傾いてきてるなかで(http://www.rosetta.jp/yoron/05taibatu.html)*1説得力のある議論が求められてると思う。

オースペのブログ 2棟目


かくて「愛があるから殴る」というコンセンサスは日本社会において成立する。分別あるいい大人が、わざわざ殴るなどという手も痛い面倒な全人格的コミュニケーションをどこぞのろくでなしの子どもに対して行使するなんて、なんというパッション、しかもそれによって躾が成るなら喝采さるべき公徳心、あまつさえそれを制度的公教育にかかわる者に対して社会が要求する過大な職責において負う教師のなんと熱心で誠実あふるることか、と。分別あるいい大人であるはずの教師がむしろ未だにライ麦畑でキャッチされるべき側にある分別なき腐ったミカンで単なる躾のなってないDQNであるかも知れない、という発想はこのとき却下。


「聖職者」の像はメビウスの輪のごとくねじれている。熱心な教師と分別なきDQNは、ライ麦畑の受けとめ手とキャッチされる者は、腐ったミカンと向き合う者とその腐ったミカンは、表裏としての同じことであるかも知れない。それが悪いことか、さして公教育の恩恵を受けなかった私はよくわからない。「だから」ヤンキー先生GTOが、あまりに人間くさく弱さを持ち合わせる矮小な一介の中年男としての金八先生が、もてはやされるのだろう。水谷修氏は尊敬するが良く言って変わり者だろう。学校という教室というライ麦畑にはミカン箱には、特殊な磁場がはたらいてもいる。それに乗り切れなくて私はオサラバしたのだった。


少なくとも、誰かの恨みを憎しみを故意に買うことは全人格的に向き合っているということではある。構造において半ば必然として恨まれて憎まれるのが現在の教師である。それをして「聖職者」とすることに私は賛成しないものでもない。「聖職者」とはポジティブを引き受ける者ではない、ネガティブを引き受ける者だ。「全体の奉仕者」として神の名のもとでなく国民の社会の名のもとにおいてネガティブを彼は彼女は引き受ける。


少なくとも私は、規定された職務を逸脱して子供とその世界にわざわざ絡んでいく発想がよくわからない。子どもなんて一方的に殴ったら恨まれ憎まれるに決まっているのに。公教育における暴力導入の是非や暴力の教育的効果という一般論でなく社会が要求するところの教師の職責に基づいて人格的な裁量を問うとしても、関係性なき暴力はいわば一方通行の愛でありすなわち監禁王子である。躾としての規律訓練としての教育において関係性を前提して行使される暴力にこそ教育的効果がある。それは任侠道におかれても同じこと。関係性なくその涵養を前提ともせずに躾として行使される暴力はそれは虐待でしかない。現代の社会においては。そして私のように暴力の行使が結果的に関係性として涵養されてしまう人間がまずい。


大人には大人の社会があり仕事があり生計があり暗黙合意があり人間関係がありやるべきこと為すべきこと約束を果たすべき相手がある、なかったりもするが、だから、公共セクターへの外注は外部委託は結構であるし「あっしにはかかわりあいのないこと」もその通りだが自分の子どもがあるなら自分の子どもには、子どもがないなら偶々にせよ自分にかかわりある子どもには、向かい合えとも引き受けよとも言わないし私に言う資格もないが自分で接したらどうか、大人として、かつて子どもであり子どもの世界を持ち合わせていた自分のためにも、とは思う。子どもが持ち合わせる親への感情とは、その生々しさは、そしてそれを気にもしていないかのように恋人に対してさえ振舞う姿は、傍から見ていると新鮮なものだ。自分の子に対して自身の事情から屈託した感慨を抱く親は昔も今も多い。というか、それもまたそういうものなのだが。


殴ることが最も直截に意味を持つ言語であるのが子どもとその世界だが、その言語は容易く引っ張り出すとろくなことにならないとは私は思っている。どうせ忘れかけていても、またどれほど忘れたく思っても、意識の奥底に仕舞い込んでいようとも、厭なことに、母語とは消えることなきふるさとである。buyobuyoさんのことを言っているのではないと厳に断るが、私はいいトシこいた男の直截な粗暴さや中途半端な激昂しやすさに心底萎える男である。萎えるうえに冷めているのですぐにかつ普通に謝ってしまう。自分を抑えることは分別のイロハであるし、それ以前に私は怒りという感情がわからなくなっている。もうずっとわからない。それでよいかはわからない。


アドルフ・カウフマンが言った通り、子どもに殺しを教えるのは御免だ。いやむろん比喩だが。子どもは犬コロと同じようなものだから犬のように躾ければ宜しい、というのはあるいはその通りであるが、犬のように躾けられた子どもは自分がかつて犬のように扱われたことを憶えている。それが憤怒に転化するならまだしも健全であるが、意識において自分と犬の相違がわからなくなる者もいる。人間社会の中で犬のように生きて犬のように死ぬと。


クッツェ―の小説ではないが、犬のように躾けられた結果自分の身体と犬の身体を自分の人生と犬の生と死を同じことのように考える者がいる。むろん飼主は犬に愛情を付与する。躾という暴力と愛情の連弾において育ったとき、長じてそれしかない自分に気が付いて愕然とすることがある。世界は躾と愛だけで構成されているのではない、もっともっと遙かに多様だ。本好き映画好きのTVっ子だった御陰で、頭であれそのことを子供の頃から知っていたことを私は幸と思う。そして何より皮肉なことに、理性の狡知と言うべきか、そのような人たちこそこの社会においてグッド・シェパードたりうる。私は厭だ、御免被る、自分の人生を楽しみたく思う。そして。

そんなの自分の暴力に酔っ払ってオナニーしてるだけじゃないのか? 正直、俺だって中学生を注意しているときに自分の暴力性によっていなかったかといえば、これは恥ずかしながらいなかったとは言い切れないだろう。俺自身が、「注意のつもりとうわべを取り繕ったとしても、粗暴で愚かでイライラしたバカが、イライラのブツケ先を見つけて襲い掛かってるに過ぎな」*1かったのではないかと、自問し続けなければならない。あの細い腕をつかんだときに我に返ったということは確かだ。だから俺は体罰を擁護しない。

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080712/p1


グッド・シェパードたりえているかは措き、虎の縞としての自分の柄の悪さを、自分の暴力性を恥じる人と恥じない人がある。私は、私を幾度も半殺しにした私の親父が恥じる人だったので、つまり私の中に自身がずっと恥じてきた柄の悪さと暴力性を見て改めて恥じて私を殺そうとした人でもあったので、恥じる人になった。恥じない人は恥じない。恥じる人のほうが少ないという気はする、だからどうということでもない。私の母親はあまり恥じる人でもない、他の部分では倫理的な人だったが。雄は知らんが男という存在の方が恥じるものかも知れないとは思う。ま、恥じない人は恥じない。そういう人が堅気の顔をして実際に堅気として堅気である自分を疑うこともなく暮らしているのが現代である。そりゃDVも頻発するだろう。


暴力の教育的効果と言うとき私は性犯罪のことを思う。非対称関係における暴力の教育的効果というのは覿面であるからして、聖職者ならざる性職者の事件がしきりに報じられる。そのような状況において体罰をおおっぴらに肯定ないし容認するとき、指導の名のもと女子を狙い撃つ発想は大いにあるだろうとは思う。ま、今更の話ではあるが。だから今更体罰是非論ですかとも思うのだった。引用部から、buyobuyoさんもまた恥じる人か、と改めて思った次第。最後に。


http://www.excite.co.jp/News/society/20080712/Kyodo_OT_CO2008071201000679.html

 石川県珠洲市の市民課長補佐(54)が、勤務中に元部下の男性職員(22)の後ろ髪にライターで火をつけ、髪の一部を焼いていたことが12日、市の説明でわかった。課長補佐は「職員の髪が長すぎるので、注意を促そうとして火を近づけすぎてしまった。軽率だったと反省している」と話しているという。

http://www.asahi.com/national/update/0712/OSK200807120026.html


「注意を促そうとして火を近づけすぎてしまった」こういうのをゆとりと言うのだったか。「注意のつもりで」人前で火を振り回すな馬鹿、という感想なのだが、こういう事例を見聞するだに体罰の必要性を痛感する次第。火の怖さを火傷の怖さを身体を故意に焼かれることの怖さを教えるために根性焼きとか。首筋等上半身に根性焼きされた人は火を近づけられるどころかライターの火を見るだけで脅えたりもする。これも人によるが。殴られないと痛さがわからないように、火傷しないと火の怖さはわからんのかも知れんね。この人54歳の市民課長補佐なんだけど。皮肉は措き、無分別で非常識な人ということでもたぶんないとして、こういうのは何だろうとは素で思う。人前で火を振り回すな人に火を故意に近付けるな馬鹿、という基本をこの人は教わらなかった、ということか。だから「教わる」ものではないのだけれども、そういうことは。


痛さとか痛みとは「教わる」べきものではないよ。他人の痛さがわからない子どもに痛さを「教える」べきだ、という話には私は乗れない。痛さに痛みに慣れてしまった挙句ある種の不感症になる人間もいる、私のように。それは結構人生の致命傷でもあるのだ。アドルフ・カウフマンがそう思ったように、私は不感症を増やしたいとは自分では思わない。どうせ増えるとしても。


「ムカつくガキを殴りたい」なんて人が本当に多いのなら、あるいは慶賀すべきことかも知れない。子どもをその世界を自分の生きる大人の社会から切断していないということであるから。「教師でもないのに」子どもとその世界相手にかくも全人格的にムキになれるなら。


痛さや痛みを、まして直截な身体的苦痛において「教える」「教わる」という発想は、SとMの合意のうえの話でないなら、グロテスクだ。それは公共セクターにおける教育の話とはまったく接続しない。あまつさえ性的な意が「教える」側において介在しうる余地については先述した通り。現在の社会が要求するところの教師の職責に基づく暗黙の人格的な裁量を問うならそういう話をするべきであって無前提に暴力の教育的効果といった無理筋な一般論を並べたところで詮無いとしか言いようがない。


「殴るのが愛」の10割は「愛があるから殴る」の9割は欺瞞でできている。欺瞞で悪いとも私は思わないが、また1割が無視できないことは事実であるが、原理原則に立ち返るならそれは公教育の議論ではない。制度的公教育という前提はそのようなイレギュラーを扱わない。それが日本社会における歴史的なアウトソーシングの帰結であって対するに「自分も幾許かでもキャッチャーとして腐ったミカンを引き受ける」ではなくて公教育に相も変わらず腐ったミカンを引き受けることの一切を教師の人格的裁量に及んで要求する、そして実態において外部委託がまるで妥当に機能していないことを知っていながら、この期に及んでまだそのような無理な要求を申し立てますかと、やれ徴兵制だの体罰容認という声を聞くたび思う。


「自分で殴っとけ」という突っ込みは確かに正しい。「体罰」という躾としての教育の話をしているのであるなら。躾けることくらい難しいことはないのだが、ただ殴って適当に飴与えておけば犬程度には躾けておけるだろうと高を括る人がある。べつだん動物好きではないが犬に謝れとは思う。むろん私にはまったく荷が重い。