誰かどついてこい問題あるいは正しさと感情の均衡あるいは資本主義下の映画館と公教育について


馬鹿なクレーマーは他の客を不幸にする。 - 想像力はベッドルームと路上から

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渋谷


自分の感情に忠実に行動している人間あるいは人間たちの姿に周囲の他人の感情が害されるということはあって、しかも自身の感情に忠実であることを是とする当人は気持ちよくなっているから自粛も自重も期待できないとき、誰かどついてこい、な空気が当人気付かぬうち立ち込めることはよくある。誰かがどつきに行く前に空気を緩和すべく暗黙にも介入するのがその場に責任持つ者のあるいは商売の務めではある。自分の感情に忠実に行動した結果他人の感情を害するということは幾らもあって、その時どつきあいになることを回避するべくすなわち場の緊張と摩擦を緩和するべく現在の社会は傾いている。


なぜ電車内で携帯で通話してはいけないのか、電車内は会話禁止でないしペースメーカーなら操作全般が禁止だろう、という話題が以前にあったが、回答は簡単で、電車内における緊張と摩擦の累乗的上昇を回避するため。普通は走行中に車掌のフォローはさして期待できない。世の中いろんな人がいる。ただでさえ朝晩など摩擦係数と緊張がMAXに達しているところに地雷を投げ込んでどうするか。しかしながらここで問題は反転する。皆様周知の通り、電車内携帯通話禁止という「正しさ」のもとに若者や女性を怒鳴りつけているオサーンが量産されもするのだった。むろん「悪い」のは電車内通話禁止にもかかわらず着信ONにしていた者に決まっているのだった。なお貴方が公然喧嘩上等であることと公共交通機関の人間に刃傷沙汰を未然に阻止する職業的責務が存することは別の話。付け加えると中島義道先生が五体満足で生きているのは彼が背負う星の力に拠る。


「話せばわかる」世間はない、というのは別に露悪で言っているのではなくて、己の感情と他人の感情という感情の不均衡を端的に言語で補正しうるものではないということ。感情の不均衡は感情のレベルにおいてしか補正しうるものでなく、それは「話す」こととじつのところ直接には関係がない。中島先生の背負う星の力というのも冗談ではなくてそういうこと。人は言葉で話すのではなく心意気で話すというのはあながち嘘でも欺瞞でもない。だから意見が相違しても心意気において通じると相互に誤解できるならそれで宜しい。心意気は別名を誠意と言い、誠意を金銭において要請する人もある。公共性を有する企業であるなら「社会的責務」として。山本夏彦師が言ってきたことでありしかしながらそれなんて総会屋ということでもあって成程夏彦師は世間通であった。


言うまでもなく払い戻しは妥当であるしまともな映画館ならやっていること。そして、映画館が禁止事項を並べ上映前しきりにアナウンスするようになってきたのもそういうこと。上映中に誰かの誰かに対する怒鳴り声を聞いて少なからず気が散ることは違いないし、心を逸らされる人もある。たとえ怒鳴られた者が菓子をバリバリ音立てて食っていたとしても携帯延々弄っていたとしても私語交わしていたとしても。


映画に対して敬虔になることとサービスの提供を対価に基づいて受けることは違うもので、また映画館もその相違において商売しているところがあるので、すなわち「映画に対して敬虔になる」云々は一部のシネフィルの自己満に過ぎず映画館の問題ではないとはことに映画好きを対象とするような映画館では必ずしも言えることでないので(むろん単なる映画好きの問題ではない、私も単なる映画好きに過ぎない)、率直な印象としてはそのような観客があることを承知でそういう事態においてうまく裁けない映画館側もなんだかな、ではある。「誰かどついてこい」の空気高まる前にそうならないよう対処するのが映画館の務めというか責務ではある。


私の感情と私の隣の誰かの感情の相違と不均衡がある空間において摩擦と緊張を蓋然的にも孕みそして実際に形成し容易に沸騰しかねないとき、ましてJRのように乗客を目的地に時間通り運ぶ商売でなく観客を楽しませ感情的に満足させることを目的とする空間を維持しなければならない商売において、そしてそれが夜の商売の類でないなら、禁止事項が列記され事前にアナウンスされることは妥当解ではある。個々の観客の感情的な不均衡に対して手当しなければならないときに外形的な対応しか取りえないということ。効率論としても。個々の感情の不均衡に対して一律対応する以外ないとき外形的要請として禁止事項を列記する以外ない。それでもなお「他のお客様の不快となる行為」云々と禁止事項の結語に付け加えられるのだった。


誰かどついてこい問題の多くが幸いにも誰もどつきに行くことないのは、どつきに行くことが結果としてその場の誰も幸せにしないことをみな知っているから。ひとりの感情的忠実のためにその場の多くが感情的負債感を抱くことの不公平が我慢ならんと誰かがどついた結果全員が感情的負債を背負って不均衡も解消だやったね!――という話には朝晩の通勤電車ならともかく通勤の合間にみなささやかな楽しみのため訪れる映画館ではならない。だから、映画館は場を預かる者としてその一切に責任を負う。資本主義において幾許かの金を払ってサービスを買うとはそういうことでもある、それを含む。当事者として他の観客が対応すれば宜しいと言うがそのオサーンをどついてゴキゲンな映画を楽しむ気分がいっそう台無しになること請け合いなのを単なる映画好きは知っている。念の為に書いておくとどついてというのはダメ出しのことであって暴力を含意しているのではない。


聖書に基づく原義としての「隣人」対応における日本人のお上頼みというような話を見かけるが、私もアウトソーシングが云々とは書くが、お上頼みというよりは、日本人は自身の揺らめく繊細な感情を大事にするのだろうし大事にするのはその根拠を持たない民族だからだろう。たとえば信仰のような形でも、そして任意の「正しさ」としても。それを私は掛値なしに日本人の美点と思っている。その時その場所での繊細な感情を大事にするがゆえにそれに細波立つことを日本人は忌避したいと考えるのだろう。私にもその気配があることを認める。気分とは虫の居所とはそういうことだろう。付け加えるが固有の歴史を負うことが民族であるということ。

フィレンツェ


個々の感情を空間において一括して補填するために外形的に対処することはあくまで前提条件に基づいた最適解に過ぎないのだが、それを「正しさ」と考える人がいる。あまつさえそれを盾に取って自身の感情の補填を「責任者」や時に当事者に迫る。「道徳的潔癖症」と言われもする昨今の事態とはそういうことだろうと私は思っている。自分が恥ずかしいと感じることと事実恥ずかしいことと貴方も恥ずかしいと感じて謝罪せよと他人に迫ることは違うのだが。「日本人として」と言うなら自らが謝罪して消しに行ったらよいとは思った。尚更先方は困惑したろうが(罪とは罪を犯した者に帰属する)。大聖堂落書事件については塩野七生先生が文芸春秋の連載でどうコメントするかという以外の興味がない。


そして当該のオサーンについても写メールで現場を撮られて「こいつクレーマー」とネットで晒し者にされるかも知れないというのになんと不用意な、とは思ったのだった。いや『Hot Fuzz』を観に行く人にそんな姑息な輩がいるとは思わないが、大水木しげる展の会場で胸倉掴み合ってる人らもいたからなぁ。けんかはよせ腹がへるぞと横目で呟いたのだった。


誰かが誰かの顰蹙行為を自身の負った不快すなわち感情的負債感において自力救済のため隠し撮りし匿名でネットで晒して私刑を加える。規律訓練型権力にも環境管理型権力にも代わって、インターネット監視型権力が私たちの日常の行動に及びそれは私たちにおいて私刑の蓋然として公共の場ないし公衆の面前での言行に際して内面化されていくのであった、我を律する権力として。そのような新世界は来るかしら。


モンスターペアレントの相手してたけど何か質問ある?【働くモノニュース : 人生VIP職人ブログwww】

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モンペと略されるらしきモンスターペアレント問題の現代的な新しさとは、「正しさ」を人質に「正しさ」において自身の感情の補填を公共機関にひいては他者に要求する点だろう。かつてはてなで侃々諤々された「少しは考えろ」問題というのがあったが、「正しさ」において「少しは考えろ」が発動したとき公共機関は(あるいは医療機関も)そして多くの他者は弱い。


子を生み育てることがまた子ども自身が「正しさ」を構成することに私は疑問なきものでもないが、いや少子化対策は喫緊の課題と思うが私は移民政策に原則賛成なので血統主義を採らない国家としては繁殖のため他なる血を入れて混ぜればよいと思うが(ハンバート・ハンバートの家系のごとき「人種の遺伝子のカクテル」も生じるだろう)、とまれ子を生み育てることが正しいとして公共機関に対して義務教育現場の人間に対して「少しは考えろ」と個人の感情の補填を「正しさ」を盾にして要求するとき「正しさ」においてそれを通さざるをえない結果として全体に及ぶ外形的な影響はその一環として暗黙ならざる明示された禁止事項が数為すことは教育現場医療現場に留まらずまた日本に限らず資本主義に規定された民主主義社会の傾きの一類型である。それが行政にこと総務警察行政に及ぶことは言うまでもない。


義務教育は資本主義下の対価に基づくサービスではない。「少しは考えろ」と人が言わなかった時代また言わずとも配慮し合えた時代はとうに終わったのだった。人は自分の幸福を語り自分の不幸を語る。おおっぴらに。それがどれほど危険なことか知らぬまま。商売でなければ誰が感情の補填に努めるだろう。義務教育現場の人間は感情補填に務めるべきサービス業ではない、良くも悪くも。教育の大義は資本主義と時にそぐわない。その「正しさ」において自身の感情の補填を公式に要求すること。それは筋の相違する話なのだが気付いていないのかそれとも確信犯なのか、という人は教育現場に限ることなく多いのだった。

洞爺湖


2008-07-06

2008-07-08

2008-07-12


一連のきわめて刺激的な議論を拝見していて思ったことを少しく書き付けるに、「自由」という「正しさ」において自身の感情の補填を公的に要求することあるいはその可能を主張することと、「自由」という「正しさ」において自身の感情に即することを倫理的判断の可能として説くことは相違する。狼藉を結果する自由と狼藉を選ばないこととして存する自由は相違する。そしてlever_buildingさんは後者を説いている。しかしながら狼藉の何たるかを括弧に括って論ずるとすれ違うだろう。


狼藉を結果する公務という話に私は乗れないのだが、公務は公務である限りにおいて狼藉ではなくそして公務執行妨害は狼藉である、という発想に対して問うべきは狼藉の何たるかであった。私が答えるなら、公務は公務である限りにおいて狼藉ではなくそして公務執行妨害公務執行妨害である、それはそういうものである、と大屋雄裕氏のごとく限定的にかつ官僚的に答えてしまうが、そのことは措き、公務に対してその執行の妨害に対してそれが狼藉であるか否かの判断を下す余地を自由と記していると思う――lever_buildingさんは。


公務の執行に際して公務の妥当性を自ら判断することの自由。むろん妥当でなくとも公務ゆえに自らの判断において執行することの自由、という話にもなってしまう。いずれにせよ自己の判断において公務を執行することが自由であるならそれは強者の自由である。その点については示された指摘としての批判はまったくその通りと思った。


公務は公務であることそれ自体が民主制国家において妥当性を構成している。ゆえに公務は公務である限りにおいて狼藉でなく公務執行妨害公務執行妨害である。公務が公務であることそれ自体の妥当性を民主制国家において問うとき議論は遡及することなくアドホックなものになるだろう。むろん自ら判断することは自由である。「全体の奉仕者」であることにおいてその自由を主体において規制するのが公務の公務たる所以であり意義である。民主制国家日本においてスターリニズムを問うことには明確な出口がない。アドホックにそれどーよ、な事態が散見されることは疑いえないとしても、原理的にはそういうことになる。


国家とその機構において全体の奉仕者が公共の歯車であることと公務を超えて主体的に判断する人格的存在であることとどちらがマシか、あるいはどちらがヤバいか、前者がスターリンに後者がナチスドイツに帰結しうることは違いない。国家とその機構において法を超えて主体的に判断する人格的存在としての全体の奉仕者がどれほどヤバいか。強者の自由とはそういうことだ。


個々の倫理的判断において公共が形成されることと自身の倫理的判断において公共を妄想することは違う。ルソーの陥穽とはそういうこと。私は倫理の共有地平とは身体まで退却してしか成立しないと認識しているが、ゆえに社会通念が要請されると考えるが、それはまた別の話、たぶん。「私たちの倫理」は後退戦を戦い続けている。交わされた明晰な議論については改めて咀嚼のうえ書くかも知れない。あまりに短い拙文の補足としても。

シネマGAGA!


ところで。『Hot Fuzz』やはり観に行こうかな。かくも最高にゴキゲンな映画なら。最近まったくゴキゲンでないのだった。いやいつもか。傍からはゴキゲンにしか見えないらしいこともそれで結構なことも。inumashさんに感謝!


ぼくは偏食人間 (ラッコブックス)

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