紋切型辞典

 ブログ初めておよそ20日、トピックとアクセスカウンターの伸びとの相関関係は、いまだによくわからない。ただ、今日(もう昨日だが)はかなり伸びていた。で。
 火の粉が飛んできかねない問題系についてばかり書くのも、まあ端的に品がないし芸もないし、私の趣味でもない。私は文章でも対面でも能弁なほうだが、本質的にはディスコミュニケーション志向で「お気に入り」以外でははてなの巡回も特にしない。ミクシ招待してもらったがいまだ参加コミュゼロである。
 腹括って好き勝手に分析して考察して絵空事描いてるだけなのだが、ことさら過激を志向しているわけでもない。


 原理主義者に、エルサレムなんてただの地面じゃないか、と言ったって殺されるだけだ、とは養老孟司の言葉だが、他人の切実な「思い入れ」に、無感情無感動の私が半畳入れて「切断」するのは、上等な趣味じゃないのは知ってたが「性癖だから」で済むのかどうかわからん。


 今号の「ユリイカ」で佐藤亜紀が徹底考察している「ロリータ」のハンバート・ハンバートの語りのような、冗談とシリアスが、悲愴と哄笑が、偉大と矮小が、凡庸と愚鈍が、代わる代わる立ち現れては消え、複雑な位相が幾重にも層を成していく人工的な大ボラ、そんなテクストが、現状における遙か彼方の目的地なのだが。
 「自己言及」と「スタンス語り」は何よりも本人の精神に悪い、というのが私のモットーなのでこの辺で。ま、曲がった棒をすこし「良識」のほうに曲げなおそうかと(笑)。
 できることならいつも大笑いして生きていきたい、と言ったのは故ナンシー関だった。


 で、そもそもなぜ大月隆寛の話がこんなに続いたかというと、ホントは単なる前フリで、大月が「民主と愛国」の「議論されている内容」ではなく著者小熊英二の「人間的姿勢」についてのみアヤ付けていたので、私も同じデンで文句付けたいコラムがあったな、と。
 その前フリのはずが「大月」という祝詞的な単語を打った瞬間、何かが決壊して(笑)あの始末に。それだけいつも頭の片隅に、あの太っちょの存在が引っ掛かっていたのだろうか。まことにアドリブ的な執筆風景。
 で、本来なら3日前に書いてた「本題」。


 扶桑社刊行の「en−taxi」という雑誌がある。「俺はイキとでなけりゃ仕事はしない!」と男気あふれる啖呵を切って「SPA!」の「罰当たりパラダイス」を降板した福田和也が(坪内祐三との対談連載として、その後復活)その編集イキとともに、坪内やリリー・フランキー柳美里を誘って始めた雑誌。
 元「東京人」編集の坪内が発刊時の打ち合わせで「さ!イキさん、台割りどうする?」と訊いたら、イキ「台割りってなんすか?」絶句して天を仰ぐ坪内。
 イキはずっと見開きページ担当の編集だったため、雑誌まるまる一冊分の「台割り」を、やったことがなかったそうな。
 ちなみに私は福田&坪内のトークショーでイキを見かけたが、ダンディで仕事できそうなナイスガイでした。


 で、その「エンタク」最新号。杉田俊介という男がコラム書いてる。75年生まれ、フリーター・ニート問題の若手の論客らしい。今度ジュンク堂でも鼎談やるそうだが。
 私は杉田の研究について何も知らない。杉田が出したらしい本も読んでない。たぶん読まない。で、そのコラム読んで思ったが。


 フリーターだのニートだのといった「社会的弱者」の「若者」の問題についてイデオローグを任じる人間は、世間の通念に抵抗すべきでしょう。「ナイーブで善良な甘ちゃんがこの手のヨタを率先して訴えたがる」という通念に。
 問題提起そのものが「ヨタ」なのではない。提起する「語り口」そのものが「ヨタ」という印象を与えるケースがあり得るのだ。
 「若者」が「若者の問題」を語るというのは、かくもリスキーな行為なのである。だからたとえば鈴木謙介や茶髪時代の宮台真司などは、この手の「ナイーブな甘ちゃん」的印象を決して年長世代に与えぬよう、エッセイ的な雑文に至るまで、注意深く「客観的分析的記述」を心がけている。決して感情を見せぬよう。
 たとえば「若者問題」を語る論者が実際「若者」だろうと、いや「若者」であればなおのこと、記述において決して分析対象に感情移入してはならない。対象が「弱者」であればさらになおのことである。
 そもそも鈴木も宮台も「ナイーブな甘ちゃん」でも「善良」でも何でもないのだが。そうでなきゃ社会システム論などやれません。
 しかし杉田はどうやら、根っからのいい人で、しかもそのことに無自覚らしい。


 「エンタク」のコラム、今日びこんな、ジェームス・ディーンばりに美しく純粋でかつ大笑いな「若者の叫び」を読まされるとは思ってなかった。「オトナの成熟」を若造に説く福田が主宰する雑誌で。頼むから「僕ら」とか書かんでくれ。元全共闘セブンティーズか。


 お題はむろんフリーター・ニートといった「若者問題」で、本文の目玉は書評で自著を論難した大塚英志への「果敢な」批判なのだが、たぶんホントに真面目に怒ってるのだけれど、自覚あるのかないのか、反論の構図がモロに「汚れた老獪なオトナ」vs「純真でまっすぐな怒れる若者」という超古典的図式に還元されてしまっている。
 で、事実たしかに大塚は「汚れて」いて老獪で、杉田は情緒的正論むき出しの「まっすぐさ」なのだから、コントか、というくらいにハマってはいる。
 しかしこんな紋切型にあえて紋切型で指摘するなら、以上の構図が成立したとき、それはもう100%「まっすぐな若者」が「老獪なオトナ」への「甘え」を当て込んで「対決」しているのだ。それは、人類始まって以来の恒例行事なのである。
 違う、と杉田は言うだろうか。実際「甘えて」いるかどうかの問題ではない。現実の言説的・価値的対立をそーゆー超紋切型のフレームに自ら填め込んでしまったとき、紋切型の「文脈」で読解処理されてしまっても、仕方がないということである。


 しかし紋切型を続けるが、「ナイーブな語り口」私の言葉で言えば「心情言語」は常に聴衆読者という「語る相手」への「甘え」を帯びている。
 しかるに杉田の「論敵」大塚もまた「ナイーブ」な「心情言語」の使い手だが、しかし大塚の操る「心情言語」には決して「甘え」がない。大塚の「ナイーブな語り口」は、決して聴衆読者の「部分的な感情転移」を当て込んだものではない。それは大塚の身体的固有性に由来した、厳格さによって裏打ちされている。大塚は聴衆読者の「共感」「共鳴」に呼びかけない、特異で稀有な「心情言語」の使い手なのだ。


 しかし杉田のそれは「共感」「共鳴」に裏打ちされた、まるで自分の背後で見えない大応援団が喝采を送っていることを確信しているかのような、単なる生理的共有感からくる「心情言語」だ。「大応援団」とは「僕ら世代」のことか?


 大塚の言葉は単独的だ。杉田の言葉は集団的で集合的だ。
 杉田はどこか「正義」を背負った気分で書いている。大塚は自分の側にいかなる「正義」があるとも思っていない。
 不思議なもので、現実には大塚は業界の大権力者で、杉田こそが駆け出しの若造で、杉田もそのつもりで威勢よく書いているのだが。しかしパフォーマンスの自覚もナシにやるパフォーマンスだけは、やめてもらいたい。


 結局のところ、大塚は言葉が通じないという前提のもとに「他人」に向かって語っているのだし、杉田は言葉が通じそうな「身内」だけを当て込んで書いている。自覚もなく。
 だから大塚への反撥の内容も、自分のーーあるいは「僕たち」のーー言葉をロジックを価値観を文脈を、共有も理解もせず、そのそぶりすら見せてくれない相手への、戸惑いと苛立ちと不可解に貫かれている。
 相手は一回り以上年長の、まったく世界の違う人間で、しかもよりによって大塚英志なのだが。
 言葉がロジックが価値観が文脈が通じない相手に語ることをデフォルトとするか、そもそも通じないことを前提とするか。その認否こそが、他者概念の有無に繋がり「甘え」の有無へと帰結する。
 そして「他者概念」とは「世間に向けて情報を発信する」イデオローグ、現代の言論人には必須の大前提のはずなのだが。


 「ナイーブで甘ちゃんな若者」それもまあよい。しかし30過ぎてそれやるのはちと厳しい。もっともサリンジャーが「キャッチャー・イン・ザ・ライ」書いたのも30前後だが。 ちなみに「ナイーブな若者」につきものの「甘え」「甘ちゃん性」を自覚的に括弧に入れて、括弧で括った自己の「甘え」を「オトナの視線」という「悪意」でもって摘出し観察し解剖し、一編の知的な戯画として構成した稀有な青春小説こそが、かの「赤頭巾ちゃん気をつけて」である。このとき庄司薫はとうに30歳を過ぎていた。


 「過剰な自意識に自覚的であること」を望遠的な距離感とともに知的に形式化したとき「オトナのための青春小説」が生まれる。実は古谷実の「行け!稲中卓球部」などもこの線だ。「ライ麦畑」より「赤頭巾ちゃん」のほうがお気に入り、という人が多いのは、そーゆーことである。
 若者の魂を叫びたいなら、年寄りになってから、ということだろうか。
 何事も距離感が大事。そして時の刻みが距離を育む。