報道は晩飯を美味しくさせるためにあるのではない&ナンシー関

 帰宅してTV付けたら「堂本兄弟」放送していて、ゲストは森三中村上知子&メグミ。
 稲垣吾郎主演のドラマに出ていて、その宣伝らしい。
 恒例の恋愛&男性観トーク。むろんネタだが、村上がレギュラー出演者のアルフィー高見沢俊彦に求愛していた。「俺、独身だよ」と応える高見沢。村上&高見沢のカップリング相合傘をめぐって、和気藹々とほがらかににぎやかに盛り上がる。
 そこにはいかなる不穏さもなく、一片の微妙な空気すらも流れ得なかった。
 いや、私はもちろん別にいいのだけれども。


 高見沢がいまだに独身なのは……


 「THE・ALFEE」のファンに年配の女性が圧倒的に多く、そして彼女達の大半が甚だ熱狂的であることも(彼女達は自らのことを「アルフィー中毒」略して「アル中」と呼ぶ。知人の女性にこの「アル中」がいて、私は最初彼女が「アル中」と自称したとき、一般的に使用される意味のほうかと思ってしまった。そーゆー要素のある人だったから)、そしてーーその知人もそうであったがーー彼女達がかなり高い蓋然性を有して「やおい」第一世代であることも、さらにそういったアルフィー受容の中心に、作詞作曲も務める高見沢の、その特異なたたずまいも含めた存在があったことは、全日本周知の事実のはずである。


 で、「堂本兄弟」に毎週出演している高見沢の一般メディアにおける受容とは、そういった独自の文脈込みでなされているのかと、てっきり私は思っていたが。
 いや、この場合、高見沢本人の実際のセクシュアリティなどどうでもいいのだ。詮索する気もない。
 「そーゆー人」として、TV等の一般メディアに受け取られていると、「みんな」がそう思って高見沢を見ていた、決して明文化されない「文脈」を各自飲み込んだうえで「カジュアル化」された高見沢を受容していたのだと、てっきりそう私は判断していたのだ。いわんや長年の共演者においておや。


 「アンタッチャブルな存在」だと言っている訳ではない。別にHGの存在など挙げずとも、実際に「ゲイ」であることをカミングアウトして「ゲイキャラ」としてブラウン管で活躍しているタレントは数多いる。
 もっとも、このTVバラエティーという「文脈の超単純化」を要請される媒体における、「特性」の必然的な「キャラ」化、というのも問題ではあるし、実際問題にしている人達もいる。
 だから私見だが、一時の「藤井隆問題」というのは「ホントはゲイじゃないのに」などということが問題なのではない。ならカバちゃんならピーコなら仮谷崎省吾ならいいのか、という話で。彼らがブラウン管で演っているのは「実際のセクシュアリティ」という「素顔」とは何の関係もない「オカマキャラ」である。「キャラ化」という「文脈の超単純化」を要請する「TVバラエティー」の構造的問題なのである。
 そしてそれはレイザーラモンHGの大ブレイクによって極まったが、もはや誰もHGに抗議するものなどいない。


 ちなみに私はTVに露出し始めたばかりの頃のHGを覚えているが、よもやこんな「ゲテモノ」が「幼児のアイドル」みたいな人気者になるとは思わなかった。あのカッコのまま、NHK教育の体操のお兄さんでもやったらどうか。
 HGもいまやどんどん「ただのマジメな、声と肉体とツラのいいつまらない男」であることがバレてきてるが、売り出し当初は「キャラ」の作り込みもかなり過剰で、江頭やハウス加賀谷以上の「アンタッチャブル」と思ったものだった。その「アンタッチャブル」がTVに許容され、やがて訓致されて無害な「お座敷タレント」と化していく。ビートたけしタモリ爆笑問題も辿ったお約束の道ではあるが、ここで特筆すべきは「テレビナイズ」されてさえいれば、よほどの「アンタッチャブル」も「キワモノ」も、TVは受け入れてそのまま全国に流す、ということである。


 たとえばかつて「ここがヘンだよ日本人」では、到底電波に乗せられないような「大暴言」がテロップ突きで散々流れていたが、それ言ってるのは大概、日本語の怪しい「粗野なアフリカの黒人」達である。あれ収録である。
 RIKAKOら「識者」の皆さんが発言したらもう局長謝罪モンの大問題だが「日本語もロクに喋れない無知無学無教養な粗暴な土人達」が放言するぶんには治外法権、OK!。あと北野武がやる気なさげな顔で座ってたまに茶化せば収まる。「TVタックル」も御同様だが「茶化す」ってことは(本人の真意はどうあれ)発言者の「存在」を「超大物」北野武が認めて肯定するってことだから。それわからないでやってる北野ではあるまい。
 で、以上が「報道のTBS」の裏見解らしい。


 重要なのは「と学会」の稗田おんまゆらが「ここヘン」収録参加体験のレポで書いてるが「ガイジン」達の発言に仕込みもあからさまなスタッフによる強制もなかったということである。野放し状態のもと「自由意志」で「自発的」に「土人達」はあれ発言していたらしい。
 むろん「キャラ化」という「消費」「消尽」のサイクルに入ってからは自分で意識し、あるいは「消費」とも気付かぬ営業的目的のもとに(悲しいかな「無知な愛すべき土人」として、あるいは「無知なヒールとしての土人」として「日本人」に受け入れられるように)自身の発言や振る舞いを彼らなりにコントロールし始めたであろうが、でそれは全然統御できてなかったが、しかし最初は決してそうではなかった。
 天然で「ありえない」発言をし、そしてそれは全国放送に、全国の視聴者に、受け入れられたのだ。(発音不明瞭のため)どぎついテロップ付きで。


 私がしたいのは「差別」の話ではない。「テレビナイズ」に「出演者」の「TV様の御意向に従います」という「自発的服従」は必ずしも必要でない、ということだ。
 「出演者」の意思・配慮なくとも「TV的文脈」に外側から填めこんでしまえれば、そしてその目算がTV局の側に立てば、どんな「アンタッチャブル」とされるような「ヤバイ」存在でも、電波に乗せてしまえる。その場合の「TV的文脈」とは多く「公共性」という大義名分を印籠にしている。


 たとえばーー不謹慎な例であるのは百も承知だが、というかこのトピック自体が不謹慎なのだがーーこの前フジテレビで、真面目でそれなりにジャーナリスティックな姿勢ではあったけれども、映像の内容そのものはかなり「グロい」身障者特番があった。
 TBSでもしばらく前に同類の「難病・奇病の子供」特番があった。いずれもゴールデンタイムである。
 当時私は実家に一時帰省しててみなで夕食中だったが、「その手の番組」が大好物な妹(そーゆー人は多くて、この手の特番は広告収入的な実際上はそーゆー人の「欲望」を当て込んで制作されている。ちなみに妹は高学歴の「健康体」で、別に「いい人」でもなんでもない。「こーゆードキュメンタリー見て、ああ可哀想だな、って感動するの好きなんだ」と、私の前とはいえ何の悪気もなく素で言ってしまえるくらいだから「悪い人」でもないのだが。で、その手の番組はその種の「半端にいい人」のニーズを当て込んで「公共的に」制作されている)でさえ「ゴハン美味しくないからチャンネル変えよう」といったくらいのモノだった。
 そのとき、午後7次台に映っていたのは、身体から皮膚が次々と鱗のように剥がれ落ちる奇病にかかった少年のルポ。当然、彼や親御さんが悪いのではない。凄惨だった。制作者が悪いのでもない。すくなくとも、現場はシリアスだったろうし、その「啓蒙的な」問題意識は正しい。ゴールデンでやる意味もある。
 NHK教育の、重度障害者特集を「愛好する」人の悪い「マニア」が多くいることを、知らないとは言わせない。


 撮影者が、あのヨルダンの空港で土産品(笑)の不発弾爆発させた五味宏基だったから覚えているのだが、毎日新聞の夕刊紙面丸々一杯に、爆撃を受けて病院に運び込まれた瀕死の少年(すぐ後に死んだ)の、最初一見それとわからないほどに原形を失った、焦げて指が飛び骨の露出した残骸のような掌の超アップ写真が掲載されていた。私は晩メシ食いながら新聞広げてたのだが。
 日航機墜落の現場写真を掲載した写真週刊誌はたしか、ボロクソに叩かれたはずだが。
 ああ、あれは「売らんかな」だったからか。大新聞は紙面を製作する記者が発行部数に責任を負わないから。「社会の木鐸」として。政府は宅配制度即刻廃止して流通を駅売りコンビニに限定しろ、っていつも私は思ってるし愚痴ってるけど。そうすりゃすこしは俗悪になって面白くなる。
 「商業主義」以外の価値の物差しが明確に設定してあって、それが機能し「公共的な」正しい責務を果たしていればいいんだけれど、機能してないんだもの。「紅白歌合戦」みたいな最悪の折衷主義に陥ってる。上品でない人間(この表現で留めておく)が「上品な紙面」を志向したって「上品モドキな紙面」になるだけです。この方程式「上品」の部分に「知的」「高踏的」といった単語を代入しても可。
 で、なぜ掲載許可が降りたかというとイラク戦争の「報道レポート」だったからだ。グロ写真を超特大に引き伸ばしたのも「戦場の悲劇とアメリカの非道を扇情的かつ迫真的に全国読者に伝えるため」である。で、その「ジャーナリスティックな」意図と意識も、正しいでしょう。報道は娯楽ではない。報道は晩メシを美味しくさせるためにあるのではない。


 「メディアの公共性」という「大義の印籠」とはそーゆーことだ。
 そしてその文脈=コードに合致しさえするのであれば、公衆への発表がためらわれるような(まあそれ自体が無意味な禁忌で心理規制ではあるが。養老孟司がしょっちゅう怒ってる。何で死体を骨を内臓を脳を胎児をホルマリン漬けの奇形児を見せちゃいけないんだ。俺は毎日見てるし、それこそが「自然」だろうが、と。先天異常がこの世に存在しないとでも思ってるのか、と。だから「五体不満足」の社会的功績は大きいが、しかしあの本もまた著者の顔立ちや経歴やパーソナリティによって「公共的文脈」において「イン」と判断されたから、メディアに乗ったのだ。むろん「文脈」の「イン」の「枠」をたったひとりで著しく拡大させ、人の意識における禁忌と心理規制の一部を「公的に」取り払った乙武ひろただ(下の名の漢字が変換で出ない)の驚嘆すべきエネルギッシュな「達成」に、私は敬服するし敬意を表するが。「もっと悲惨な実存とパーソナリティーを抱え込んでしまった障害者も大勢いる」という言葉は正論だが、彼に投げても仕方がない。現在「スポーツライター」の彼は「障害者達を代弁したい」などとは今まで一言も言っていない。「自分の人生をできるかぎり充全に生きる」と言っているだけだ。live your life.才あるものが「個人的幸福」をエゴイスティックに追求すること、そのために自身の「重度障害者」という「身体的特性」を看板として利用することは、なんらうしろめたいことでも恥ずべきことでもない)、どんなに非道で大半の公衆の生理的不快感を喚起する「グロい」映像だろうと写真だろうと、ためらわず発信する。
 「メディアの使命」としての「公共性」という「大義=印籠」の名のもとに。


 私はその是非を言挙げているのではない。そーゆー構造的な「事実」を認識し、せめて自覚的になってくれ、と言っているだけだ。送り手にも受け手にも。
 是非などどうでもいいし、論じても意味がない。「『意志と欲望』=『善意と悪意』の相互補完的な構造的循環」について「倫理」的検討を行ったところで、ただひたすら徒労でしかない。ただ「構造的循環」に関与している者が無自覚なら「自覚を促す」だけだし、せめて「構造」を把握してくれ、と願うだけ。
 というか、私の興味は万事「構造の認識と把握」にしかない。


 つまり、TVという「もっとも大衆的で安全な」はずのメディアでさえ、「TVメディアの文脈」という「落としどころ」に填まりさえすれば、(多少の、ではない)どんなフリークスだって「映して流す」ことができるのである。大いなる語弊を承知で言えば、重度の「奇形」だろうとあからさまな「性的逸脱者」だろうと「元凶悪犯」だろうと「電波さん」だろうと。
 「犯罪報道」がそうであるように。
 ホーキング青山がいまだにTV出られないのに乙武が特番まで組まれるように。


 (ちなみに、ふと思い出したのだけれども、単行本化もされている立花隆の読書日記で「五体不満足」が取り上げられているのだが、立花が本題として取り上げているのは名著「図説奇形全書」であり、その内容紹介のあとに「日本の胴体人間、乙武くん」と続く……。もう乙武が「時の人」になってた頃である。
 別に立花に悪意はない。そのあとの短い記述も肯定的である。「奇形に生まれたことを逆手にとってポジティブに生きている」と……。
 立花はニュートラルに見ているだけだ、と言っても、その倫理観なきニュートラルさこそがマズいんだろ、とここ10年言われてきたまことに正しい批判に遭うのだが、でもホントに、それこそ「良識的」な心理規制を排して「ニュートラル」に見れば、立花の言ってるのは単なる事実の表明では、ある。
 つまり事実認定として、乙武は医学的に「奇形」とかつて分類されたような、先天的に特異な身体的特徴の所有者では、ある。しかしそのことは断じて何も意味しない、という見解をただちに付記しなければならないのだが、たしかにあまりに「科学的」な立花は、その辺の配慮と認識が足りない、というか端的に鈍感では、ある。
 現在「奇形」という単語が即座に指示する「人文的」な意味の文脈に対して、単に無感覚なのである。私は「スティグマ」という「概念」を公的に、あるいは一般論として前景化してはならないと考えている。「奇形に生まれたことを逆手にとってポジティブに生きている」という物言いの「マズさ」と「ヤバさ」に立花は気付いていない)


 ナンシー関は生前、この種の「微妙」で「リスキー」なブラウン管の事象に一種特異な興味を抱き、徹底して観察し、あらゆる角度から執拗に筆にして考察を重ねていった。
 それは「TVに映ったヘンなものと、それを観た自身の心のざわめき」への考察と解剖と分析として、ナンシーの生涯のテーマとなっていく。


 たとえば本人が公言しているが、彼女が「大食い選手権」にハマったのは、あきらかに摂食障害を病んでいる、個性的というよりもフリーキーな「大食い」達と、そのシリアスな事実を「ないもの」として捨象しインビジブルな領域に押しやり(むろんその試みは失敗しているし、その蓋然性も不作為として織り込み済み、つまり二枚腰なのだ)「オモシロい大食いさん」達の番組として成立させようとする制作者サイドの思惑、そしてただ単にひたすら黙々と猛烈に食い続けるだけの殺伐とした番組風景、その三位一体の、全然一体でない各々のズレと亀裂(「相克」ではない。拡散的でディスコミュニケーションの連鎖と反復としての「ズレ」の運動とは、弁証法的な「対立」の様相とは異なる。大昔の流行言葉を使えばスキゾとパラノ)、その位相から噴出する「言語化不可能なヘンな直接性」を、彼女は一貫して凝視し続けてきたのだ。


 それは「アウラ」などというシャラクサイ概念とは違う。なぜならばその「ヘンな直接性」とは「物自体」に宿るのではなく、もっとも受動的で融通無碍なメディアであるTVであるからこそ「観察者」と「物自体」の間のズレや亀裂、「物自体」の内部におけるズレや亀裂、「観察者」自身のズレや亀裂といった、不断のメタレベルの連続性において宿り得るからだ。それはつまり、統一性や一貫性の中に認識を回収させないという「宙吊り状態を維持し続ける」態度でもある。


 だからこそ「TV(そのもの)がつまらない」などというたわけた言説に彼女は一貫して反発して来た。「TV受容」の過程において顧現する偶然性の「ヘンなもの」の面白さは「TVそのもの」にあるのではない、「TVそのもの」と観察者の、「TVそのもの」自身の、観察者自身の、統一性や一貫性に回収されない、不断の揺れやズレの複数的な位相、すなわち「中間領域」においてのみ、確率的に存在し、偶然性として不意に現れる。誰もそれをコントロールすることはできない。


 その「中間領域」に宙吊りにされた動的な認識を精緻に分析し考察し言語化することによって、彼女はTVというメディアに特異な受容態度とそこから生じる非統一的で非一貫的な、ブラウン管と自身の中間を漂う「宙吊りにされた認識」に言葉を与え普遍化することができた。
 もっとも大衆的で「安全な」メディアにおいて、複数化する意図せざるズレの結果として不意に確率的に顧現する、インビジブルでリスキーな違和感。彼女は生涯を通じてそこにこだわり続け、それを見つめ続け、そして言葉を与え続けた。


 そして、その鮮やかな分析と言語化の手腕もむろんブリリアントだったが、何よりも私達は「ヘンな直接性」にどうしようもなく惹きつけられてしまう「変わり者」のナンシーが好きだった。
 彼女のこうした独自の志向性は、TV以外のメディアに対する批評においても存分に発揮されていた。
 つまりその「視線布置」におけるトリッキーな「志向性」とは、本人自身の、体質的で生理的なファニーな「嗜好性」でもあったのである。


 ちなみにひとつ言わせてもらえば、北田暁大が「笑う日本のナショナリズム」で大幅にページを割いたナンシー関論の片手落ちは、この点に対する視線の欠如に拠る。
 精緻な分析と言語化、それを要請する彼女の認識の視座と方法論。北田の考察はこの一点に尽きていて、それ自体は明察なのだが、しかしそれは問題設定を故意に縮減させた結果としての、ナンシー関という重戦車のキャタピラの片輪に過ぎない。


 「ヘンな直接性」に惹かれそれをじっと「凝視」してしまう、そんなナンシーのいささかパラノイアックな「体質」と「モチベーション」にこそ、むしろ私達星の数のナンシーユーザーは惚れていたのだ。
 知性以前の「体質」とそれに裏打ちされた知的な「方法論」。パラノによって採用され運用されたスキゾ。それこそがナンシー関の車の両輪だった。北田はおそらく意図的にナンシーの「体質」を論じず捨象している。「80年代を通過した90年代的なメタコミュニケーション」という同書の問題設定に合致した部分、上のデンで言えばいわば「学問的文脈」と合致した部分だけを摘出し「つまみ食い」している。
 だから北田も書いてないし当然のことだが、あれは正統的なナンシー関論ではない。
 ナンシー関という「消しゴム版画家」を「80年代、90年代的な諧謔的思考の最良の原型」として「歴史意識」「時代的文脈」との相関関係において描出した、その視座と手際はまことに卓見で、本格的な「時代精神と常に緊張関係にあったアクチュアルな思想家・批評家」としてのナンシー読解としては、当然先駆的なのだが。


 しかし、やはりその大胆な「文脈整理」は言ってみれば「大食い」の赤坂尊子を論じるナンシーの「手付き」にだけ注目して、そもそも赤坂尊子を食い入るように見入ってしまうナンシーの「視線」すなわち「志向性」については触れないものだ。むろん「メタコミュニケーション」を論じる本筋の議論に関係ないから捨象したのだろうが。


 しかしそれなら、北田の意図は純粋な「認識の視座と方法論」のベストサンプルの摘出に過ぎず、「ヘンなもの」としての「赤坂尊子」はおろか「ナンシー関」に至るまで一切の固有名も固有性さえも捨象され剥奪された「思考の雛形」をめぐる純然たる抽象議論に帰結する。
 おそらく北田的な社会学ではそれが常識なのだろうが。


 しかし私はーー「私達ナインティーズは」と言ってもよいがーー「80年代の洗礼を受けた90年代的な認識の視座と方法論」の「雛形」としてナンシー関をーー北田のフレームはまことに興味深く目から鱗だったがーー読んでいたわけではない。
 まず何よりも「ナンシー関」という固有名・固有性、さらに言うなら身体性や「体臭」にこそ惹かれて読み漁ったのだ。一応念のため記すが、外見や性別的なことではない。脳味噌の細胞的な独自性のことだ。同じことの繰り返しになるが、固有的で身体的な認識の視座に精緻な分析と考察の方法論が規定されていたからこそ、あれほど彼女はブリリアントな存在になり得た。前者と後者のいずれが欠落しても「ナンシー関」という唯一無二の固有名は、成立しない。


 「心情的読解」と言われても仕方がないが、大月隆寛のトピックですでに言明したように、結局「思想」だの「批評」だの「言論」だのは、固有名・固有性に帰着し規定され拘束され呪縛されるモノだ。「だから」身体性を剥き出しにしてよいわけでは決してなく、だからこそ、よりいっそう形式性・交通性・開放性を意識し志向しなければならないのだが、それでも最後には墓碑のように固有名が残る。それは日本に限った現象ではない。
 「ナンシー関」という固有名の墓碑に、花束を捧げる者は後を絶たない。


 さらに言うなら「合理的で明晰な認識のメタ志向」への動機が「不合理でパラノイアックな『ヘンなもの』への情熱」によって支えられている、というのは北田の認識はともかく、論の構成において都合が悪いのだろう。
 しかし、ナンシー関くらい「非言語的で感覚的な違和感を認識によって精緻に分節し言語化する」ことのみに特化し、それを徹底してストイックに貫徹した認識家は、日本の全「批評家」を見渡しても空前絶後的にいないのだ。


 その「違和感」は「物自体」にも「自分」にも所属しない、言語も含めたあらゆるものの中間そして隙間に宙吊りにされたものとしてインビジブルに存在する。ナンシー関は不可視なそれを可視化し、無数の「TV好き」達にロジックと言語によって分節された「認識」を「フレーム」を与え得た。
 「受動的な視聴者」に認識という「主体性」を与えたのだ。


 「認識」を「フレーム」を与えることによって「鑑賞」という主体性を鑑賞者の側に取り戻し奪い返す。それこそが「批評」の本義だと「批評家」の正しい仕事の筋だと、私は考えている。そしてそのような「批評の本義」「批評家の正しい仕事」は「TV」という「鑑賞」に認識と言葉が与えられずにいた「もっともメジャーな」「受動的媒体」においてこそ正しく機能し、筋を果たし得たのだった。
 もはやクリシェで定型文となってるが、ナンシーの前にナンシーはなく、ナンシーの後にナンシーはない。


 北田が分析したナンシー関の「認識」は「フレーム」は、今後も機能し作動し続けるだろう。しかしパイオニアの「固有名」亡き後の方法論の通俗化と堕落と失墜そして形骸化への懸念を、北田も指摘している。私もそう思う。
 「認識」という「メタ」は、危うい綱渡りの道だ。ナンシーのパーソナリティに由来した「体質的動機」こそが、つまり「固有性」こそが、その強靭な「認識」の緊張を維持し得た。しかしそれが強いた負担ゆえか、彼女は早世した。「自称批評家」どもは、まだのうのうと生きてるのだが。
 「批評家」ナンシー関の「認識」の学統を、正しく継承するのは誰なのか。


(迂回して高見沢に戻るはずがナンシーへの脱線で力尽きました。続くようなら続編をやるでしょう。しかしこの種の話ばかりしてるとキツいので、バークにならって「臨機応変」に。ええと、28日の記述にリンク張ってコメントくださった方、ありがとうございます、レスはします。どうも個人宛に見解綴るのに、まだイマイチ慣れない)