葬送

 ええと、昨日のトピック、ナンシー関高見沢俊彦を接続する形で補足します。


 つまりTVであれ何であれ,あるメディアや媒体には、歴史的に積み上げられてきた固有の「文脈」があって、優先されるのは何よりもその、決して明文化されないインビジブルな「文脈」である。
 この「文脈」による拘束が、もっとも端的にかつ不条理な形で「執行」されているのが、例の「差別語」「放送禁止用語」の問題である。
 ここで優先され尊重されているのは、別にポリティカルコレクトではない。「TVの文脈」である。ある特定単語の使用それ自体が抵触するのはPCではない。「TVの文脈」に抵触しているだけなのだ。
 だから「特定単語の使用不可」に代表されるような「TVの文脈」に合致しさえしていれば、ま、要するに「可視化」されない形であれば、PCに抵触するような、あるいは視聴者を不快にさせるような発言や映像や番組だろうと、平気の平左で全国電波に乗せてしまう。


 この、放送屋連中が依拠する「TVの文脈」を「良心的な」当事者どもは「公共性」とすりかえ「開き直った」連中は「世間の空気」と強弁するが、どちらもズレていて、単に「TV村の掟」に過ぎない。
 そしてカフカじゃないが「掟」とはその「内実」や「理由」を問うものではなく、ただ「掟」がそこにあり、そして我々がそれに「自発的」に従うことによって構成され、その「自発的服従」それ自体が「掟」の所在とその「正統性」そして「掟のもとに参集する我々」を担保するのだ。
 これを「規律訓練型権力」のシステムと呼び、それが現在は「環境管理型権力」へと移行している、というような議論も含めて、現在もなお社会科学の重要命題とされている。


 で、「最小単位としての業界村の掟」と「最大化された公共性を前提として制定されたPC」が一致するはずもなくて、それなのに「村の掟」さえ守ってれば「公共性」にコミットすると思い込んでる、自覚すらなきブラインド連中は数多くいて、それゆえに名著「放送禁止歌」で森達也が怒り嘆いたような「こいつら何も考えてねえ」という事態・実態に繋がるのである。
 森は「メディア」の人間が「自分の頭で判断しない」ことを嘆いていたが、何のことはない、彼らは「自分の頭で判断している」つもりなのだ。


 「内心」からの「自発的服従」は、決して「強制的服従」とは違う。
 自らの「選択」の結果としての服従。そのとき自身の眼前に「可能世界」として広がっていた「選択肢」その選定自体に「外部」からのバイアスが働いてはいなかったか、「自発的」な「選択行為」それ自体に「外部」からのバイアスが機能していないか。そしてそのバイアスは、選択者にとって自覚された、可視的なものだったか。
 その「不可視的な外部からのバイアス」をこそカフカは「掟」と呼び、「外部」こそを「権力」とーー名指しこそしなかったがーー初めて概念確定したのではなかったか。


 いかなる「自由」もまた根源的な「不自由」の上に仮構された「装置」に過ぎず、「自由意志」と本人が思い込んでいるものもまた「意志」の外部にある「権力」によって拘束されている。そして「権力」とは「人間なるものの外部にある、人間が構築したシステム」のことである。
 「自分」が「自由意志」で「自発的」に「選んだ」ことは、実は何者かに「選ばされた」ことではなかったか。「選び得た」こと自体が「選び得なかった」ことの結果ではないか。
 「自由意志に基づく選択」は「歴史的に規定されたシステムとしての不自由性の文脈」の拘束下にある。そして「不自由性」の上に「操作・統御可能」な「管理対象」として規定され仮構された「自由意志」を楽観的に信じる者は、その「本源的な不自由性」を自覚せず懐疑すらせず、「自身の自由な選択」を無前提に肯定し「自由な選択行為の本質的な不自由性」には一切思い至らず、自分があるいは「自由な奴隷」であるかもしれないことにもまた、思い至りはしない。
 かくして彼らは「自発的服従」のカラクリにさえも気付かない。


 どうでもよろしいが、かつてのイラク人質問題もまた、「自己責任」という「文脈的概念」自体が以上のシステムに基づいて仮構された「権力の管理対象」としての「自由」「自発的意志」という「虚構の牢獄」にすぎず(ちなみに京極夏彦鉄鼠の檻」の主題は、コレである)、つまりカントの「自由意志」概念に基づく近代法の構成と同様、現代の人文科学的認識においては「回転するシステムとしての人工的なフィクション」と規定するほかなく、たとえば近代法の理念においても刑法39条の「責任能力」概念等に顕著なように、すでにフィクションとしての一貫性を維持し得なくなってきており、つまり「内心からの自発」「自由意志」を大原理としてきた近代の人間概念自体が組み換えられてきている現状を踏まえて、議論すべきだったと思うがそんなの望むべくもない。


 そして「人質」当人らへの批判もまた、この観点からなされるべきだったと思っている。彼らもまた「自由意志」に基づく「自発的な行動」という虚妄を信じていたに違いないからである。
 「文脈的不自由」を強制する「権力」とは「政府」「国家」「日本社会」などという可視的な「敵」のことではない。インビジブルな「歴史的文脈」による「内面的規制」を強制し、「文脈的規制下における本源的不自由」の上に仮構された「自由」「自由意志」の「不自由性」を隠蔽し、「歴史的文脈による内面的規制」=「文脈的規制」という「掟」への「自発的服従」を促す、自己の内部に埋め込まれインストールされた「不可視の法」のことである。
 それら「不可視の権力」を「政府」「国家」「社会」という可視的な「権力」に代理表象することによって問題設定そのものを可視化させ、自覚の喚起を促すフィクションは、カフカ以来、SF等で散々発表されている。


 私達の自由とは、不可視的な不自由性によって規定されていて、誰もそのことに気付かず、そこから逃げることもできない。それこそが、フランツ・カフカが生涯を通して、おそらくそれと気付かず追い続けた問題意識だった。
 そしてその問題設定は後にフーコーらによって言説化され、現代に至るまで人文科学の最重要課題として貫かれている。


 自分が自由だと、あるいは自分の自由を阻害する不自由性が自分の外部からやってくる物理的条件によってのみ規定されていると、それさえリジェクトすれば自分は「自由」になり得ると、無邪気に能天気に思い込んでる人間って、実に多いのである。


 人間は「人工性」という「装置」の「牢獄」の中を生きる「奴隷」に過ぎない。しかもその事実への自覚はなく、自覚したところで「牢獄」から「自由」になり得るわけでもない。「人間の尊厳」とは「人工性の牢獄の中の奴隷」であることでしかなく、誰もその「牢獄」「奴隷性」から逃げることも降りることもできない。
 「歴史的文脈による内面的規制」=「文脈的規制」という「文化装置」。その「牢獄」の掌中に「奴隷」としての「自由」も「意志」も「尊厳」も握られている。それが「人間」という「人工的存在」の、幸と不幸の、歓びと悲しみのすべてなのだ。


 ナンシー関の話に戻るなら、こーゆー「文脈的規制」という「掟」への「自発的服従」は「TV村」だけでなくどんな世界にもあって、ただし日本の面妖な独特性は、その「文脈」が「公共性」に回収されず、各々のゲットー的な「共同体」の「共同性」に個別的に宿るところにある。
 その「共同体の文脈」を遵守していれば、自動的に「公共性」にコネクトすると思い込んでる連中が「パブリックな仕事」に就いている人達に、まことに多いということなのである。森達也の愚痴の構造的問題もすべてそこに帰結する。


 典型例がかの森喜朗。あの人は自民党が全世界で全世界が自民党なので「自民党という共同体の文脈」しか頭になく「パブリック」という概念が、まったくない。というか「自民党文脈」がパブリックだと思っている。
 だから自民党の中だけで「世話焼きオジサン」やってるぶんには「チャーミング」(笑・山本一太)で人望厚く憎めず無害なんだろうが、しかしそーゆー人が「内閣総理大臣」になった暁にはどうなるか。だから「在職中」も今でもそうだけれど、あの人には徹頭徹尾「自民党文脈」しかないのです。発言マスコミに乗ってるんだけどね。


 で、そういった「TVの文脈」の、融通無碍でありながら偏狭な、「事後的」に「歴史的」に構成され更新され続けてきた、その面妖ないびつさ、という「文脈の独自性」を、定点観測的に観察し分節化して書き換え続け、それと同時に、ブラウン管上の時間的な持続の渦中において不意に突発事故的に訪れる、その「文脈」からの予期せぬ「逸脱(=バグ)」を見極めるーーそれこそがナンシー関の稀有な仕事の本質であり、彼女がブラウン管上の時間的な持続を執拗に凝視し続けることによって執着してきた「本丸」だった。
 「文脈」からの偶然的で不作為的な「逸脱(=バグ)」の訪れを待ち続け、その不可視的な「到来」の瞬間を言語によって分節し可視化すること。それが、ナンシー関の生涯を通じた営みだった。


 で、前項で挙げた高見沢俊彦のケースもまた、不可視的な「文脈」からのバグ的な「逸脱」の訪れか?と一瞬思ったけれども、それはこちらの、日々事後的に高速で更新されていく「文脈」の読解ミスという「認識錯誤」=すなわち鑑賞者の側の「バグ」で、それは「TV」と「自分の認識」という「表象」と「受容」の中間に発生した「バグ」でもあり、この「バグ」と名指される「微妙な不穏さ」を、TVに負けない高速度で日々更新し続けていくという「ナンシー的営為」を、模倣してみた、本家と比べりゃ格落ち甚だしいけど、とゆーことなんですよ。


 その「特異な個性」そして「健康問題」のゆえか、ナンシー関は人間の不自由性、人間の生の有限性、否、限定性をよく心得ていた。
 その「運命の死神」からの「ささやかな逃避」(そう自覚してたと思う)として「バグ」という「認識錯誤」の「強靭な認識による追求」を、その死まで継続させ果たし得たのだ。
 それは彼女個人に帰属し得ない、私達の直面している、大きな課題である。


 その偉大な精神の時代的葬送を、私達は果たし得たのだろうか?