いじめの件

報道は目にしたが、つくづく嫌な話だ。


私は小学校の6年は近所の公立で、中高の6年は有名私立進学校に通って、5年目で完全に行かなくなった。その理由が「いじめ」であったわけでは事実としてないが、人間関係のもつれではあったろう。


高い学費の私立校が、教師生徒ともに公立より「品がよい」ことは間違いない。それがそのまま「質的な高さ」を意味しないことは当然だが、露骨な粗野さ野蛮さは排除されている。桐野夏生の「グロテスク」の世界を想起していただきたい。中学まで近所の公立にいた妹は、高校で有名進学校に入って初めて人生が始まったようだった。だから、我が子を私学に入れようと必死になる世の親の気持ちは、現状の陰惨さを考えればわからないでもない。ま、私は卒業させてはもらったわけだが。


小中高と公立私学の様々な教師達を見てきて、感じたのは「人間いろいろ」ということだった。いい奴もいればろくでもない奴もいる。V・H・フランクル先生ではないが、誠実な人間もまた不誠実な人間もいる。意欲にあふれ鬱陶しがられる教師もいれば、意欲のなさが愛される教師もいた。また意欲にあふれる痛い教師のズレてはいるが真率な意欲に打たれ、何かを受け取った生徒も確かにいた。情緒不安定な言動を好意悪意取り混ぜ喝采される若き教師もいた。旧制一高まがいのエリート男子校で生徒からのセクハラ攻撃に新任早々泣かされ、たった1年でそれを涼しい顔で受け流すようになり、一目置かれるとともにからかい混じりに愛されたお嬢さん大学出身の教師もいた。


「死刑制度の是非」について小学6年生にディベートさせる熱血教師もいれば、戦前に自分の村で起きた飢饉について小3相手に授業中とうとうと克明な描写で語り出す老教師もいた。彼の幼少期の体験によると、水を飲むため山間の川まで這いずって来て力尽きた腐乱死体がそこらに転がっていて餓死者の屍体食いまであったってそれどんな反戦教育だよ。後年「アシュラ」の冒頭を読んだとき、デジャビュばりばりだったことは言うまでもない。そして上記の困った熱血教師や耄碌老教師のことを、私は今でも懐かしく思い出したりしてしまうのだった。


浮世離れした環境の中で奇妙な職業を生きる彼ら幾多の変わった大人達を見てきて唯一学習したのは「人間いろいろ」「オトナもいろいろ」ということに尽きていて、決してそれを「教師」という属性に対応させて考えることはなかった。もっとも現在問われている「プロフェッショナリズムの欠如」はなるほどここにも如実に現れていて、それは「国家に従属することを是としない公務員」という、日教組が主導してきた、彼らのねじれた立場に拠るところが大きいのだろう。


だからその意味で構造的問題だが、個人的な話をすれば、結局ティーン時代の私にとって、教師とはひとりの人間でしかなく、ひとりの人間とはいろいろであり、ひとりの人間がいろいろであることにオトナもコドモも関係なく、それでもコドモよりはオトナのほうがマシだよな、という認識を学習した意義は大きかった。そして、ひとりのオトナはひとりのコドモの対処に常に困難を感じ戸惑いまくるものだから、それゆえ最良の対処はノータッチという処世を悟るものなのだ、という人の世の常識を自分もまた学ばされたことを、夜回り先生水谷修の「限界なき善意」の異形性に戦慄して知るのだった。


オトナもコドモもいろいろであることは一緒だが、オトナは自分のいろいろな感情や言動に対して、1枚クッションを噛ませることができる。その加齢とともに獲得する技術を礼儀といい処世といい保身といいあるいは品性ともソフィスティケイションともいうが、その「クッションを噛ませる技術」、否、クッション自体の存在を知らないのがコドモであり、いわば広義の厨房という。彼らはクッションの必要性自体がわからない。だからこそ厨房なのであり、クッションが存在しないからあちらこちらで野蛮な衝突を引き起こす。クッションの存在とその必要性を知ることがオトナになることであり、それは「自分と異なる人間がいる」ことに敬意を払うことである。


だからたかがクッション1枚の有無だろうと、私はオトナよりコドモのほうがマシ、とは断じて思わない。クッションが存在しない以上、ネガティブな感情や言動の噴出とその衝突にブレーキはかけられないし、そもそも自身のネガティブな感情への畏れと、それを言動に移すことへの禁欲をコドモは学んでいない。だから、コドモ達のネガティブな感情や言動の噴出とその衝突に対して人為的なクッションを噛ませてブレーキをかけ、緊張を緩和し暴力を抑制することこそが、教師以前にコドモ(の集団)に対するオトナの役回りで、それができたらもう上出来だと思う。ティーン時代の体験は、そう私にアンサーしている。


岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』という映画があって「田園と電波」と監督自身が的確に内容を要約している本作は、上述した「無邪気なコドモ達のネガティブな感情の暴力としての噴出の連鎖」と「そのすさまじい緊張を緩和し得ない無力なオトナ達」の姿を、美しい旋律と共にイノセンスを偽装して美的に処理した、まことにタチの悪い傑作、否、怪作である。むろんコドモ達の剥き出しの暴力性の背景には、思春期の性欲の問題がある。


この作品でオトナ達が無力な所以は、コドモの社会とオトナの社会のレイヤーが完全に分離していて、両者は一切接触も交錯もしない点にある。作品世界で両者の世界にコミットする唯一のオトナである若い女教師は、自分のクラスで起こる凄惨な暴力と虐待を解決しようと彼女なりに奮闘してはいるのだが、結局彼女はすべてが終わるまで状況には一切介入し得ず知ることすらできない傍観者のままだ。彼女は彼女なりに奮闘する善人であって、しかし知恵なき善人は無力だ。そんな責める点なき無力な善人が、日本中の学校にどれだけいるだろう。それは蔓延するコドモ達の暴力性に対する、クッションとなり得るものではない。当然だが体罰や統制や徳育の強化は問題の解決になんら寄与しない。岩井俊二がグロテスクに美しく描いた出口なしが、現在の状況なのだろうか。


誤解なきように。「罪なき者のみ石もて打て」とは私は言っていない。「傍観者もいじめグループと同じ」とは私は思わない。率先して暴力や虐待に参加することと、暴力や虐待を傍観しつつもそれに手を貸さなかったことは、倫理的には同等の咎ではない。暴力を行使し得る暴力的な状況下で、暴力を行使するか否かを自ら選択しての行為は、結果責任は同じでも倫理的には同義ではない。倫理とはそれを計る者によって存在する。フランクルの「誠実な人間も不誠実な人間もいる」との言葉は、収容所のナチスの看守を指したものだった。


とはいえ暴力と虐待の被害者から傍観者が許されることは決してない。そして率先的に参加した者は、決して被害者から許されることはない。現代における復讐の暴力とは直接的肉体的なもののみを意味しないし、復讐者の矛先は直接自己と関係する当事者にのみ向けられるものではない。世の人の多くが私のように忘れっぽいわけではない。そのことは肝に銘じるべきだし、つまりこれは倫理の問題である。制度は変更されるべきだが、問題はそこにのみ縮減されない。他人を許すの許さないの許されるの許されないのは、決して報道される遠い誰かの悲劇の話ではなく、「私」の思い出したくもない過去が問われる問題である。