たまにはタイムリーな話題について書いてみるの巻

 ペット飼う趣味も小動物殺す趣味もないけれども。

 我が親父の実家は北関東の県庁所在地外れで、昔はかなりの田舎だったらしい。長らく訪ねてないが、変わらぬ名残は消えていまい。

 昔から猫飼ってたらしい。すぐにさかって子猫がワンサカ。避妊だの去勢だのという概念が、当時あろうはずもない。どうしてたか?いまでもあるが、実家のすぐ裏が滔々と流れる川で、次から次と産まれるたびに、片端から水面に放り込んで処分していたと。それはおよそ二十数年前まで延々と続いていたと。断腸の思いも何もなく、当然の処置として。飼ってる猫自体は自然死するまで可愛がってる。

当時小学生の私に、親父は世間話の延長のように、この話をした。私も世間話の延長として聞いていた。


 ちなみに現在でも、親父の実家ではチャボというニワトリを裏庭に何匹も飼っていて、頃合になると自分達で絞めて皆で食う。脚くくって逆さに吊るして首切って血を抜く。地元猟友会と消防団のメンバーである父の弟(つまり私の叔父)は、冬になると車を駆って近場の山で鳥や獣を撃ち、収穫は実家で調理して食う。ガキの頃の私は狩りにも同行したし、殺したての獣の鍋は熱く美味かった。


 親父の実家は僻地にあるわけではない。スーパーも近場だ。かつて小地主だった彼らは農地解放後の貧困を農業と畜産でやり過ごしていたけれども、私が生まれる以前から生計はむろん別途の商売で確保していて、親父の帰省にガキの私が手を引かれて行った頃にはそれなりに裕福だった。チャボも猟も昔名残の趣味に過ぎない。


 断っておくが、彼らはべつだん土俗的な人種ではない。いまでも好感のみをもって懐かしく思い出す、良くも悪しくも平凡な田舎の人達である。私が顔を出さないのは、少年時代の懐旧を失望で塗り潰したくないからだ。自分があまりにも東京育ちであることを、今の私は自覚している。

 親父よりは年少で町育ちの母は、親父の貧しい育ちと泥臭さを嫌っていたが、はたしてその親父の話す、北関東の一民家での、当時ありふれた「子猫の始末」話にドン引き、軽蔑していた。ガキの私はなぜだかわからなかった。


 後年、中学か高校の頃だったか、同い年の女と話していてなぜか捨て猫の話題が出たので、何の他意も悪気もなくこの話をしたところ、ドン引きどころの反応ではなかった。なるほど私は悪いしバカだった。が、以来、リアルカマトト女は好きになれんようになった。そのときも、私は何がまずいのかわからなかった。

 坂東眞砂子という件の作家は、バカな中学生のまま40の坂を越えたのだろう。悪意がないというのも困ったものだ。実は、私は今でも親父の実家での「猫の始末」話の何がやましいのかよくわからない。現場に立ち会ったわけでもないし、動物への思い入れがないせいでもあるが。


 全国紙で毒電波な宣誓をするなとかナルシーな陶酔はやめろとかオマエの超個人的な問題意識に一般的な汎用性があるとでもまさか思ったのか等々と坂東に呆れたくはなるし、その言と行を一致させるくらいの分別を、いまの私は持ち合わせているというだけだが、しかしべつだんキチガイ沙汰とも思わない。


 ああいうロジカルには破綻した文章を私も含めて人はまま書くし、全国紙に載ったのがけしからんというなら、たかがいち出入りライターの器量も徳目も見極められず作家という詐欺的な肩書きのみに欺かれて発注したメクラ記者とデスクの視覚障害こそまったく気の毒である。

 ただ、かつて親父がつぶやいた言葉はよく覚えている。思春期の頃、雨で川が増水したときに片端から投げ込んでいくのだが、流れにたちまち飲み込まれていく、乳児からだいぶん成長してしまった子猫達のニャーニャーという鳴き声が、雨の音川の音と混じって耳から離れなかった、と。だから、問題は、その一点にのみ、ある。

 なので、今回の騒ぎは、私には彼我の感がある。人間の赤子の間引きすらこの地上ではとうてい根絶されていない。いわんや畜生においてをや。いかなる経済生産ももたらさない愛玩家畜の、避妊だの去勢だのが全国的に「文明人のルール」として一般化したのは、せいぜいが近年の話。その「文明人の欺瞞」を、撃ったつもりだったんでしょうな坂東は。


 文明の偽善は撃てばいいってものじゃない。私もそうだが新聞なんて飯食いながら広げるんだよ。猫殺しの話は飯を酒を美味くするか?もちろんそれは欺瞞で偽善だが、タヒチで暮らすうちに彼女は欺瞞と偽善への畏れを失ったらしい。だから彼女は文明の欺瞞と偽善による罰を受けた。ま、順当な結末である。

 
 念のために書くが、親父の実家は今でも猫飼ってるが、私が物心付いた頃には避妊と去勢の対策を済ませていた、そして、ほんの20数年前には、日本各地のあらゆる田舎民家で子猫は獣たちは家の者によって始末されていた。むろんそれは当時でもひとにおおっぴらに語れることではなかったが、決して、親父の実家が特殊だったわけではない。それは日本中で行われていた。


 子供をふたり以上作った親は人でなしの悪人だ、とことあるごとに公言していた百姓作家がおりまして。理由は人類が増えるからです。全地球上で500人くらいでちょうどいいと、真剣に言っておられました。もちろんその500人に御本人は必ずしも含まれません。深沢七郎という方ですが。坂東などと比べるのも犯罪的な、素晴らしい文学者です。

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 ↑本件に関する、的確かつしごく常識的でまっとうな、見事な見解。この常識的でまっとうであるがゆえの卓見さえ誰かが押さえておけば、本来付け加えることは何もない。醜く浅ましき事柄には視線を向けつつも沈黙するべきだと思うが、しかしパァパァと語ってしまった私はまだまだ修行が足りない。 


 追記:上記URL、先方にはトラバ届いているのだが、なぜかこちらから飛べない。いまだに不慣れでわからぬ。だからブログ名をーー「未映子の純粋悲性批判」2006年8月23日付日記。