半神

 
 昨日の話の続きのような。

 オタクという絶えざる情報摂取に中毒した連中。彼らは多く、ジャンクでデジタルな刺激剤としての情報を矮小なパラボラアンテナで切れ目なく受信し続けることに忙しく、自ら情報を発信し生産することに関してははなはだ吝嗇で怠惰である。クリシェではあるが、文化史における伝統的真実だ。その歴史的審判をまた逃れ得ない末席の私ではあるが、被告の弁明も聞いていただきたいものです、陪審員諸君。


 オリジナリティとは、既成のものに新しく何かを付け加えることによって成立する。新しい何かとは、意味かセンスか。既成のものへの周知という、オリジナリティ涵養のためのスノビッシュ十分条件とは、この原則に由来する。しかるに、世界は既成の意味とセンスで立錐の余地もないほどにひしめき合っている。それを文化と文明と呼ぶ。それは飽和し臨界に達している。


 表現とは、屈折によって成立する。その作為と無意識含む多種の要素が混交した幾重もの屈折を、明晰のメスで分解し理想的にはゼロ座標に到る営みをこそ、批評という。それは批評に要求される最低線の仕事に過ぎないが、しかし研修医だろうと解剖者は人体組織への周知を要求されることに変わりはない。ブラックジャックまがいのメス捌きなど、遥か遠方の話。


 幾重もの屈折を構成する多種の要素に対する文脈的周知徹底と、それに基づく白骨にまで及ぶ表現の解剖。むろん、それは表現という屍体を冒涜し、表現という生きているかに見える蝋の死物を再度、完全に殺す不遜で不謹慎で涜神的な行為にほかならない。彼らはむろん呪われ、魂は梅毒を病むだろう。髪は抜け眼は潰れ、やがて全身は膿に覆われ、壊れた明晰な頭でそれでも生き続ける。


 精緻に構築された、人体を模し魂を模したホムンクルスという蝋人形を、明晰な精神でもってよってたかってバラバラにする行為に、オリジナティが宿るはずも創造主(クリエーター)の恩寵が注がれるはずもない。屍体喰いはいつだって探し続ける、より新鮮で美味な人形を。新しい玩具。美しい人形の爪先に拝跪しながらその指を喰い太股を噛み砕き、模造品の子宮を引き裂き冷たい停止した心臓に到って明晰という汚い歯を立てる。そして高雅な文化と文明の、魔法を解かれた正体たる糞尿を撒き散らす。


 文化と文明とは、糞尿を格納する純白の便器であって、人間の尊厳とは、糞尿を純白の便器に格納する行動様式にこそあるのだと、悲しいかな文明病の精華たる梅毒患者たちは、知っている。だから自ら撒き散らした糞尿に、白い大理石の格納庫を自分で贖ってやる。そして世はこともなし。この種の貪婪な、よく調教された個性なき異常食欲者の群れをこそ、ディレッタントという。


 で、凡庸で貪欲なディレッタント達は、排出した糞尿を飾って隠すことしかできない、唇から宝石を零すことのかなわぬ我が身を嘆きつつ、次なる新鮮な獲物を探して、文化と文明という屍体投棄堀を自動人形のように、その母胎たる文化と文明に抱かれて眠って腐敗して吸収され、人為の細胞端末に還るという本懐を成就するまで徘徊し続けている。それが、人類が数千年にわたって代わり映えなく反復し続けてきた精神性の営為だ。


 だから、俗にスノッブたちのハイスコアな文脈ゲームと称される、頭の曲芸師の達者な名人芸の宙返りにうなってみせることも、あるいは精巧なカラクリ装置の洗練されたなめらかな作動に感嘆の賛辞を送る振る舞いにも、彼らは数千年前からほとほと飽きて倦み果てて、それでも紀元前以来の、退屈の反復と持続を反芻する儀式への歴史的忠誠から、やましい喝采とうらぶれた陰口をやめることはなく、そして次なる梅毒病みにして屍体嗜好者の新たな世代へと、その美しき儀式への忠誠と従順というバトンを順送りにして手渡していく。


 この壮大な輪廻に統制された不毛をこそ、伝統と言い、だから正しく文化と文明の真髄とは、伝統という、美しき秘密の儀式の滔々たる時間的連続性にこそ宿る。


 感心と感動とは違う。感心とは、ワインのテイスティングにうなって見せることで、今年の収穫が美味かろうが不味かろうが、それ以上でもそれ以下でもない。歴史と伝統ある名門のワイナリーが丹精込めて腕によりをかけて醸成した最高の美酒は、やましい喝采とうらぶれた陰口に捧げられた供犠に過ぎない。


 言い換えれば、想定範囲内の快や不快などという非時間的な一瞬の舌の刺激は、文化と文明の粋たる伝統という時間的連続性を到底凌駕し得るものでも、連続する堅牢な時間を消失させてくれるものでもない。だから稀有である機会を逃した一回性の流産はとめどない反復へと回収され、「歴史と伝統ある名門」に関する膨大な薀蓄を返礼に添えて、ディレッタントは緩慢なる退屈の持続と、大いなる時間の連続的存続に忠誠を証す。


 感動とは、一瞬が永遠に、はかない一回性が時間の堅固な連続に、刺激が機構に勝利することだ。想定範囲を逸脱した未知なる驚き。そのとき、やましい喝采とうらぶれた陰口は沈黙によって抹殺され、供犠は罪深き汚れた司祭に復讐する。決して空腹を覚えない廃人の貪欲は、永遠が敗北したその一瞬に、真っ白な澄み切った満ち足りなさを味わう。


 紀元前から営々と建築された荘厳な文化と文明は、その精髄たる反復性への回収をはねつける稀有な一回性の成就のためにこそ、跳躍台としての役目を数千年の金属の高層が果たし、そして跳躍のあとに一切は瓦解する。稀有な非時間の一瞬に、延々と持続した退屈は簒奪され、そのとき擦れっからしネクロフィリアは彼の内部の時間と歴史を失い、その魂は停止して、猿のような赤子に還る。たとえその赤子が、時間が連続性を奪い返した次の一瞬に死ぬことがわかっていようとも。


 ひらたく言えば、たとえ1ミリでも、そして次の一瞬には元の所在に定石通り格納されていようとも、魂の位置が刹那暴力的に動かされズラされる体験をこそ、感動という。しかし、その非歴史的非時間的な瞬間の一回性が成就するためには、自己の外部と内部における絶え間なき歴史と時間の綿々たる連続的持続こそが、落差を構成する跳躍台の機能として要請される。それはむろん、偶発的な事故の恩寵である。


 ひとたび阻害されようとも、大いなる反復と連続性は直ちに健常な機構を回復し、魂の事故は記憶と記録とその集積としての歴史に総括され、生き字引のような事務役人の名簿書類に掲載されて即席の凡庸で陳腐な名前を与えられ、住民票と戸籍を頂き公営団地の隣人として私となかよく年老いて小さな死亡記事が地方紙に載り住民登録は抹消される。


 そして硬く冷たく結晶していた魂は、生々しく生暖かい肉の塊として、溶解し自壊しながらも淡々と機能停止に到るまでキャッシュディスペンサーのように姑息に健常に反復作動し続ける。停止という消失と死の一瞬を、悟性と惰性の相愛の顧現たる不毛な自動作動機構は、偶然の恩寵の必然化というかなわぬ望みを抱いて、待ち呆ける。


 感動という暴力的な事故を引き起こす恩寵は、連続性から逸脱した畸形として出現する。そして畸形は連続性の意志によって祀り上げられ、あるいは処分される。伝統という連続の輪廻は逸脱という「法則性の例外」を許容しない。時間が連続し、過去と未来にわたって持続し続けるという自明をおびやかすものは、最悪の大逆者なのだ。


 時間という機構の秩序は、あらゆる空間的な機構の秩序を凌駕する。だから、凡庸で貪欲なディレッタントは、文明と文化という堅牢な暗黙の自明を知らぬがゆえに侵犯する、愚鈍で無垢な野蛮人を、許しはしない。規則と暗号に拘束された個性なき影達の陪審は、真にオリジナルな情報を生産し発信する恩寵の子の独創性というまばゆい光に、可哀想で崇高な風土的畸形と審判を下す。守護天使として祭壇に手厚く放置するか、瞼の周囲がヤニにまみれた悪臭放つ盲目の野犬のように棒で打って放逐するか、むろん彼らの気分次第である。


 どこまでも貪婪な光輝たる文明と文化は、闇と野蛮を簒奪し自らの内に食い尽くして手に入れるためなら、いかなる手段も辞さない。殺戮すらも。


 光と闇は双子に分かれた。光は闇が喉から手が出るほど欲しかった。光は闇を殺して闇になった。半神は片割れを殺して完成を夢見た。それは抱擁であり、光の闇に対する唯一の愛情表現だったーー